結婚について考える



結婚について、それも、
当事者のどちらかがクリスチャンの結婚についての小論をネットに公開すれば、
その反響の多さにいつもおどろかされます。
結婚について、避けることのできない困難な事態に出会っているクリスチャンの多さを
物語っているのかもしれません。

日本の社会の中でクリスチャンは少数派なのですから、
結婚相手を見つけることの難しさをあらわしています。
クリスチャンであっても、ノンクリスチャンであっても、
結婚という言葉を用いながら、
また結婚を夢見ながら、
実は、お互いに、まったく異なった世界を、状態を、形態を思い描いているはずです。
当然なのです。

人は、
人の思いや言葉や行為などの主体として、
他者と区別される意識を持っているのですから。
その意識に縛られて支配されているのです。
だからこそ聖書・バイブルの言葉が生きてくるのです。

「・・・こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
(旧約聖書・創世記・2章24節・新共同訳聖書)

結婚とは、新たな創造なのです。
結婚相手同士が、この認識に立つことこそ、
この世界を造られ、私たち人間をも造られた神の求めておられることであり、
人間を造られた目的なのです。

しかし日本では、
結婚とは、人と人との人間関係における、
ヨコとヨコとの関係を強固なものとする目的を持っています。
日本の社会をかたち作ってきた知恵なのです。

聖書・バイブルの価値観は、
この世界を造られた神を前提として、
私たち人間は、神によって創られ活かされているのです。
その神を前に置けば、
人は、ひとしく神の前では無力です。
そうだからこそ、共通した倫理観が生まれてくるのです。
神の前では、有限な人間は謙虚にならざるをえません。
自我を主張することなどできないのです。

キリスト教の教えは、
私たち人間は ” 何者なのか ”を明らかにするものです。
しかし、私たち人間は、
” 何をするべきか ”ということに心を砕きます。

こと結婚においてもそうなのです。
結婚は新たな創造であり、
決して人間関係の秩序維持のための道具ではないのです。
こと結婚についても、
問題があわただしくなればなるほど、
短い時間内にいろいろなことが重なり合って、
次から次へといろいろなことが起きてきますと、
本性的な人間の弱さ愚かさを、
私たちの見せたくないものや、
かくされているものをさらけ出してしまいます。

そのような中にあっても、キリストへの信仰に生きる者は、
落ち着いてまわりを見わたすことができるはずです。

イエス・キリストは、すべての人のために十字架にかけられ、
死して、私たちの罪を贖って(あがなって)くださったのです。
私たち人間が共通して持っている、
生まれながらに持っている性質・・・。
そこからの救いと赦しとを、
すべての人の前に明らかにするために。

「私は福音を恥とは思いません。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、
信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章16節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on November 10, 2010.