クリスチャンの結婚・罪のゆるし
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ここで未信者にとって聞きなれない言葉を紹介しなければならない処にやって来たようです。
それは「罪の赦し」という聞きなれない言葉です。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、
罪によって死が入り込んだように、
死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」
(新約聖書・ローマ人への手紙・5章12節・新共同訳聖書)
「ひとりの人に(アダム)よって罪が世界に入り・・」と聖書が語るように、
人間の始祖が神に対して反抗したため、
人間すべて神の前では罪人だということが前提であることに留意してください。
そうでなければ、イエス・キリストの十字架の出来事は意味をなしません。
クリスチャンは、イエス・キリストが十字架の上で、私たちの罪を背負って、
私たちの身代わりとなって死んくださったことにより、
罪の代価が支払われ罪の中からあがない出されたのです。
ですから、私たちが犯した過去の人間的な罪、これから犯すであろう罪、
そして神に対して犯した罪の赦しを得ています。
赦しを得ることによって心に平安を持っているのです。
これは何を意味するかと言えば、
すべての世にあるもの、肉の欲や目の欲、暮らし向きの自慢なとどいうこの世から出たものから、
クリスチャンは自由であり解放されているということなのです。
これらのことは、未信者にとって、まさしく理解しがたいことです。
一番大切だと思っていることを否定しているように聞こえるからです。
ここでクリスチャンと結婚しようとしている未信者の立場を考えてみましょう。
またその家族や一門一族など同じ利害関係にある人たちのことを考えてみましょう。
この結婚に際して問題にされるであろう事柄は、つまり、
クリスチャンであることが「困った存在」であるなら、
素性というもの、家柄や育ち、経歴がどうであるかということ、
過去の生い立ちや出来事が「困った理由」であるなら、
またそれらが「困らされる原因」であっては困るのです。
それらによって、一家一族一門の存在や存続に影響を与えることになるのは困るのです。
今の状態を壊されたくないと思っているのですから。
困るということは、例えて言えば、
それはその人をゆるしていないということではないでしょうか。
ゆるしているならば、クリスチャンであることも、どのような素性であっても、
仮にさまざまに影響を与えられても問題としないということでなければなりません。
しかし人間というものは、人が犯した罪を、決してゆるさないものなのです。
キリストに信仰を持っていない人は、人をゆるすということは非常に難しいことなのです。
しかし、神ご自身はその罪を赦してくださったのです。ですからクリスチャンはゆるします。
このことも、未信者にとっては、まさしく理解しがたいことです。
クリスチャンというものは、罪の赦しによって、
さまざまな世俗の世間のしがらみや縄目から解き放たれています。
ですからクリスチャン同士の結婚なら、聖書の語る、
「それゆえ、人はその父と母と離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
(新約聖書・エペソ人への手紙・5章31節・新改訳聖書)・は完成されます。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
(旧約聖書・創世記・2章24節・新共同訳聖書)
しかし、一方が、世俗のしがらみや世間体というようなものを盾にして生きているならば、
家柄や一族、経済や商売柄、人脈などを最も大切なものとして考えているということは、
世間体を大事にして、それを盾に生きているということです。
すなわち、タテにつながりヨコにつながり、お互いの足首を結わえ合って、
その範囲内の限られたところで小さな集団を維持しようと、
互いに監視しあい、その存続を守ろうとしているわけです。
つまり、現在の日本の社会では、世間体というものを、最も大切にしているということです。
一方、キリスト教の教会というものは、神によって罪ゆるされた人たちの共同体です。
ですから、そこには家柄や収入の格差や性別、職業による身分の高さや低さというものも存在しません。
クリスチャンはすべて、キリストを頭とする神の家族なのです。
ですから教会には世間体という考えかたは存在しません。
未信者とクリスチャンの結婚というものは、
罪をゆるされた者と、いまだに罪を問題にし、かつその中に在る人との結婚を意味します。
その結婚によって、罪をゆるされた者が、再び罪の奴隷になるということは、大きな問題なのです。
再び罪の奴隷に引きずり込まれることになりかねないのですから。
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。
だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」
(新約聖書・ガラテヤ人への手紙5章1節・口語訳聖書)
イエス・キリストは、「互いに愛しなさい」「お互いに重荷を負い合いなさい。」と語ります。
つまり互いの罪をゆるし合いなさいと言っています。
お互いに素性というものを問題にしないのならいいのですが、
時として、よくある話しですが、結婚後のいさかいというものは、
たいてい過去の問題のぶり返しがその焦点になりがちですから。
北白川 スー
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Wrote up on January 25, 2005.