キリスト教は不自由か
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クリスチャンがノンクリスチャンとの結婚へと話がすすんでいく中で、
必ずと言っていいほど、話題に上ってくることがあります。
クリスチャンは、あれはしない、これはしない・・・・と、
なんともキリスト教とは不便で不自由なものだと。
よく問題にされるのは、
冠婚葬祭などの人と人との付き合いにおける作法の違いなのです。
キリスト教は、作法の違いを問題にしているのではありません。
キリスト教における礼拝の対象は、
この世界を造られた創造主なる神です。
唯一絶対無二の存在の神を礼拝しているのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新共同訳聖書)
その神を礼拝するわけですから、
その他のすべてのものに対して礼拝の行為はしません。
ですから、葬式で死者に香をたむけたり、
死者を拝んだりしないわけです。
神社やお寺や法事などでも同じです。
年末年始の決まりごとであっても同じです。
日本の一般の暮らしは、
特に冠婚葬祭での作法では、
誕生・成人・結婚・病気・死亡・法事といった行事においても、
守ることが望まれる決まりごとは、伝統的な制約を守っています。
その伝統的な制約こそが、共同体の秩序を維持するための知恵として、
また道具として作用しているからです。
キリスト教の考えは、
私たち人間には創造主がいます。
この世界を造られ、さらに人間をも創造された創造主なる神の存在を信じて、
その神にたいして、
被造物として、
神の作品として、
自分たち人間を造られた神を礼拝するのです。
しかし、こと日本において問題にされるのは、
宗教の違いを問題にしているかのように見えて、
その実、
宗教の違いによる作法の違いを問題にしているのではなく。
共同体の秩序の維持を問題にしているのです。
共同体の秩序を乱されては困るからです。
キリスト教においては、結婚とは、
神と神の教会の前での神との契約と考えます。
「・・・男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
(旧約聖書・創世記・2章24節・新共同訳聖書)
決して、ある共同体へ加わるための契約ではありません。
○○家と○○家との結婚ではありません。
決して、共同体内部の団結を強固なものにするためのものではありません。
あくまで新たな家庭の創造なのです。
日本で、世間で広く執り行われている結婚とは、
そこには、まず家があります。
親戚があります。
一族があります。
世間にたいする体裁があります。
ですから、共同体の中で、
ひとりだけ別行動をとられては共同体全体の秩序に悪影響を与えられては困るのです。
しかし、キリスト教の考えは、
この世界は、この世界を造られた神が治めている広がりのあるもので、
その中に家庭も含まれている・・・。
横にそれぞれ互いに結び合った、
強い共同体意識を持った、
日本の家族制度の考え方とは、まったく正反対なのです。
「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、
また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、
あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。
天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」
(新約聖書・マタイによる福音書・5章11〜12節・新改訳聖書)
信仰は人間を縛るものでもなく、
何かをガマンして生きていくことではありません。
自由とは、真理以外の何ものにもとらわれないことではないでしょうか。
キリスト教の信仰とは、人と人とを縛る縄目から解き放つことを意味しているのです。
北白川 スー
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Wrote up on November 15, 2010.