福音という情報の共有



この日本ではクリスチャンは少数派に属します。
毎日曜日に行われている礼拝に出席している信徒の数は、人口比にして1パーセント未満です。
礼拝には出席せず、教会に属していなかったり、自称クリスチャンを含めれば、
信頼できる統計調査では6パーセントという数字もあります。

しかし、考え方など他に比べるものがあって、その間の違いが明らかであり、
それが広く一般に受け入れられないためマイノリティーに甘んじているわけではないようです。

キリスト教のものの見方や考え方とでも言うべきものが、
広く一般に知られていれば、
多数派との違いも説明できますし、
少数派になっている理由も分かることでしょう。

しかし、日本では、イエス・キリストが誰なのかさえ、
何をした人なのかさえ知られてはいません。

罪人として十字架にかけられ死刑となり、
葬られ、三日の後に死人からよみがえり、
弟子たちの前にその姿をあらわし、
そして天に上られたという・・・・。
その内容と意味というものが、
つまり ” 福音 ” というものが広く一般に知られていないのです。

難しく言えば、
福音と言う情報が、広く共有されていないということなのです。

ですから、比べるものがあっての少数派ではないのです。
教会から、キリストの福音という情報が広く発信されていないからなのかもしれません。

「 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章14節・新改訳聖書)

福音という情報が教会から発信されていないなら、
だれも福音の内容と意味について聞くことはできません。
福音の内容と意味とを知らなければキリスト教の信仰は生まれてはきません。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、
聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新改訳聖書)

信仰は、イエス・キリストの十字架の出来事を聞くことによって始まるのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)という
出来事を聞くことによって始まるのです。

信仰を持つだけの精神性を持ち合わせていなければ、信仰など生まれてはきません。
イエス・キリストの十字架の出来事を聞いて初めて、
信仰を生み出す精神性というものを身につけることができるのです。

福音と言う情報の共有があってこそ、初めて、
それが広く受け入れられなくて、初めてマイノリティーが生まれてくるのです。

現在の日本のクリスチャンが置かれている状況というものは、
決して少数派と多数派という性質のものではありません。
ただ、福音と言う情報の共有がないだけの話しなのです。

福音とは、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
ひとりの人とは、神のひとり子イエス・キリストのことです。

混乱と迷いの中にある世界のために、
その世界を救うために、救世主としてこの世界に生まれ、
その命をもって、すべての人の罪をあがなったという出来事なのです。
福音とは、すべての人に向けられた情報なのです。
決して少数派のためだけの情報ではありません。


北白川 スー

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Wrote up on May 07, 2009.