生まれながらに負っている罪について



キリスト教は、いつも、「罪、罪」と言うから嫌いだ・・・・、
と言われたのは過去のことかもしれません。

最近の教会は、罪について説教しなくなったように見えます。

聖書・バイブルが物語る、
罪を認めない神のひとり子イエス・キリストが、
罪人として十字架で処刑されたという出来事は、

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。

「 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。
私たちはこう考えました。
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・新改訳聖書)

「 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23~24節・新改訳聖書)

日本の社会は、原則として性善説に立っていますから、
すべての人間には、もともと良識と良心とが備わっていると考えます。
良識と良心とを働かせば、何事も良くなると。

人間はもともと善なのですが、
社会の悪によって、人は悪くもなるのだと。

聖書・バイブルが、私たち人間に突き付けるテーマは、
”生まれながらに負っている罪”なのです。
人間が本来持っている性質のことです。

そうでなければイエス・キリストが十字架に死ぬことの意味が失われてしまいます。

私たち個々人の、考えや思い、言葉、行為行動といったものは、
すべて”生まれながらに負っている罪”に支配されていると考えます。
なにごとも的外れなのです。
クリスチャンであっても例外ではありません。
教会は、罪人の共同体なのですから。

2020年はコロナ・ウイルスの時代です。
指定感染症に指定され、感染した人は隔離されることになります。
私権が制限されることになったわけですが、
しかし、自粛要請という、
個々人の良識と良心に期待するという政策が取られています。
個々人の良識と良心に期待することと私権の制限とは異質のものなのですが・・・。

現実は、
政府であれ東京都であれ、的外れなことばかりやっているように見受けます・・・・・。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on July 15, 2020.