なぜ神は許したのか



東日本大震災から早いもので2年が過ぎてしまった。
多くの人たちがその命を断たれた・・・。
震災以来、私のもとには多くのメールをいただいた。
なぜ神は許したのかと・・・・。
なぜ罪のない人たちが犠牲となったのかと・・・。
神は恵みの神ではないのかと・・・・。

ネット上にホームページを開いて10年、
小論を公開し続けていますが、
それらの小論は、すべて、その答えなのです。

”人間のものではない神の知恵 ”を少しでも明らかにしたいと。
節度を知らない思いあがった企てかもしれません。

私たち人間の人生には、
苦しみや悲しみや苦難や困難・・・・などなど、
さまざまに山あり谷ありと・・・。

その人間のすべての生が、
神の存在の光を明らかにしているのです。
ただ、闇の中を歩んでいる私たちは、
気付いていないだけなのです。

「彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。
彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。
彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。
彼らはキリストの僕なのか。
わたしは気が狂ったようになって言う、
わたしは彼ら以上にそうである。
苦労したことはもっと多く、
投獄されたことももっと多く、
むち打たれたことは、はるかにおびただしく、
死に面したこともしばしばあった。
ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
ローマ人にむちで打たれたことが三度、
石で打たれたことが一度、
難船したことが三度、
そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。
幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、
異邦人の難、都会の難、荒野の難、
海上の難、にせ兄弟の難に会い、
労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、
飢えかわき、しばしば食物がなく、
寒さに凍え、裸でいたこともあった。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第二の手紙・11章22~27節・口語訳聖書)

コリントの教会の信徒へのパウロの手紙の部分ですが、
キリストの弟子であっても苦難の連続でした。

明確です。
キリストのために働いたとしても、
主なる神は、与えもすれば取られもする。

キリストの福音とは、まぎれもなく、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)という出来事です。

神のひとり子キリスト・イエスの生と死と葬りと復活によって備えられた、
神の怒りの裁きからの救いという出来事です。

私たち人間は、ひとりの例外もなく、
神の前では罪人です。
愚かな存在なのです。
神によって裁かれる存在なのです。

素晴らしい存在として創造されたにもかかわらず、
アダムとイブが神に背いてエデンの園の禁断の木の実を食べたという・・。
アダムに続く人類は、神に聞き従わず背き続けているのです。
その結果が私たちの生のすべてなのです。

だから、神のひとり子キリスト・イエスは十字架に死なれた。
私たちのために・・・・・。


北白川 スー

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Wrote up on March 25, 2013.