なぜに増えない、なぜに広まらない・・
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日本の多くの人は、心の支えを欲している。
いやしと安心を探し求めている・・・。
あまりにも混沌とした、
現代社会の急速な流れの中にあって・・・、
心と身体を労することなく静かに休みたいのだ・・・・。
安息を求めているのだ・・・。
なぜに、日本のキリスト教は、
感動を呼びおこすメッセージを語らないのか・・・・。
・・語っている・・と、お叱りを受けもする。
安息と感動とは矛盾しているように見えるが、
感動こそが安息への道筋なのだから。
信仰というものは、いったい何なのか、
いったい、どういうものなのか・・・。
信仰というものは、
人間の生きる過程において、
人間の存在と共にあるものである。
日々の営みと共に存在しているものなのだ。
生きて行く力そのもののはずである。
心のよりどころであるはずだ、
心を支え、それが無くなれば、
満たされず自分自身の成立が危うくもなる。
生きて行く上で、必要不可欠なものなのだから。
多くの日本人は、心の支えを求めている・・・・。
いったい誰が、あなたを支えてくださるのか・・・・。
あなたは、寄りかかれる存在を持っていますか。
「 父がその子供をあわれむように、
主はおのれを恐れる者をあわれまれる。」
(旧約聖書・詩篇・103篇13節・口語訳聖書)
苦しみや痛みに見舞われたときこそ、
安息の場こそが、心の支えとなり得るものなのだから。
キリストは十字架に死なれた、
キリストの十字架の死という究極的な苦難の中にこそ、
私たちすべての人間の安息が隠されていることを、
見出さなければならない。
その時こそ感動の瞬間なのだから。
なぜなら、ひとりの人がすべて人のために死なれたのだから。
北白川 スー
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Wrote up on November 21, 2019.