 
人生をいかに生きるべきかについて・・・悔い改めよ
 
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人は、日々を、さまざまな出来事の体験の中に生きています。
 苦しみ、喜び、悲しみ、怒り・・・。
 あわただしく、さわがしく、危険と危機と紙一重のところに生きまた働き・・・・。
 今日が終われば、また明日がやってきます。
 明日への希望があれば、明日への不安もあることでしょう。
 でも、何も思わず、考えず、明日をむかえます。
 そのくりかえしなのです。
 
 ただ自然に生きるだけだと信じて・・・。
 人はどこから来て、どこへ行こうとしているかを考えず、また気づかずに。
 
 そんな難しいことはどうでもよい・・・。
 今日を、無事に過ごせばそれでいい・・・と。
 いやいや、自分の持てる能力や可能性を信じて、
 自分を生かしきっていく生き方こそ人生なのだと・・・と。
 いやいや、それは実にめんどうなものなのだ・・・。
 
 と、いろいろと議論はあるけれど、
 人間は、いつかは死ぬのです。
 つまり人生とは、
 生きることと、死ぬことに尽きるのです。
 永遠に死なないことはなく、いつかは人間には人生の終焉がやってきます。
 ・・・・必ず。
 生きることだけ考えるのではなく、
 死ぬことも考えなければならないのです。
 そんなこと考えないでも生きていける・・・・。
 暮らしていける・・・・。
 その通りですが・・・・。
 
 ・・必ずやってくる神の怒りからのがれるために、
 悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結びなさい・・・
 
 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
 (新約聖書・マタイによる福音書・3章2節・新改訳聖書)
 
 自分の死を考えることは恐ろしいことであるけれど、
 なにもクヨクヨせずに生きて行きなさいよ・・・。
 死ぬときが来れば、いやでも死ぬんだから・・・。
 現実の世界に生きている私たちは、
 実に目に見えるものばかりの中で生きています。
 明日のことなど分かりません。
 目に見える世界がすべてだからです。
 
 「わたしたちは見えるものではなく、
 見えないものに目を注ぎます。
 見えるものは過ぎ去りますが、
 見えないものは永遠に存続するからです。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・4章18節・新共同訳聖書)
 
 キリスト教の信仰とは、いったいどういうものなのでしょうか。
 日本に住む私たちは、
 実は、何も知らされていないと言ってもいいのです。
 キリスト教の信仰とは、どういうものなのかを。
 
 この世界を造られた神の裁きが、
 いずれ、必ずやってくることを。
 私たちは何も知らされてはいません。
 北白川 スー
 
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Wrote up on November 22, 2010.