福音を阻む二つの理由



依然として、広まらない増えない、
聖書・バイブルの思想が広まらない、クリスチャンが増えない。
日本でのキリスト教の布教が進まない理由を考えてみますと。

キリスト教の信仰のスタイルに信仰するのではなくて、
聖書・バイブルの記述・言葉を受け入れることが、
キリスト教への回心・改宗と考えて・・・。

この日本において、日本人において、
聖書・バイブルで明らかにされている福音が、
イエス・キリストの十字架の出来事が理解されない理由が。
すなわち福音が理解されない二つの理由があるのではないかと。

聖書・バイブルは、
すべての人は罪の下にあると語ります。
正しい人は、ひとりもいないと。

「 では、どうなのか。
わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。
既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章9~10節・新共同訳聖書)

聖書・バイブルは、
人間とは、生まれたときから罪深い存在なのだと指摘します。
すべての人間は、罪の性質を持って生まれてくるのです。
そうでなければイエス・キリストの十字架の出来事は意味を失います。

しかし日本では、人は、もともと善なる存在として生まれ、
社会の悪によって悪くなるのだと、
人は社会のせいで悪くなるのだと。

人間は、もともとから良心を持っていて、
良心が良識を育むものだと考えます。
良心良識が人を育てるのだと。

自分が正しいと信じるところに従って行動すれば、
健全な判断力が育つのだと。

聖書・バイブルの記述は、
イエス・キリストは、罪人として十字架にはりつけられたわけです。
十字架に死ぬことによって罪をつぐなったわけです。
人間の罪を、その身に負って、
すべての人間に代わって、死して罪を償ってくださったのです。

ムチ打ちであったり、十字架刑の死であったり、
肉体的苦痛を与えることによって、
苦痛の度合い・強さによって罪を償わせるという思想なのです。

日本では、懲罰を罪の償いとは考えない思想があります。
人が犯した不正にたいしては、
制裁を与え制裁を加えることによって償わせるのではなくて、
本人が心を再生産することによって、
心を入れ替え出直すことによって許すと。
人間とは、もともと悪人ではないのだから、
過失に対しては、教育と言うチャンスを与えて出直させるのだと。

過ちにたいして反省しているのだから、
情状を酌量して罪を減じると、刑の執行を猶予すると。

この日本において、罪について、
罪にたいする償いについての考え方が思想が価値観が、
聖書・バイブルの思想や価値観から、
その方向性が異なるのです。
正反対の方向に向いていると言っていいでしょう。

それが、福音にたいする理解を、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業・
(あがないのわざ)という出来事にたいする理解を阻んでいるのではないかと。

「 罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、
わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章23節・新共同訳聖書)

日本では、人間はもともと善なのですから、
偽りを言わず、自分の感情を正直に言えば正しのです。

神を前提に置けば、
すべて人は、ひとしく神の前では無力です。
ですから共有すべき共通する価値観も生まれてきます。


北白川 スー

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Wrote up on March 17, 2019.