福音って何ですか



キリスト教について質問してみましょう。

福音って何ですか。
救いって何ですか。
罪って何ですか。
罪の赦し(ゆるし)って何ですか。
イエス・キリストって何ですか・・・・・・・。

・・・・キリストって聞いたことはありますが、他は知りません・・・・

正直な反応だと思います。

イエス・キリストとは、メシア・救世主・救い主のことです。

では、何から救われるのですか。
戦争や紛争からですか。
病気からですか。
経済的なことからですか。
家庭の不和からですか。
苦しめられている人間関係からですか。

救世主キリストがこの世界に生まれたということは、
キリストとは、神のひとり子イエス・キリストであるわけですから、
この世界に、救い主イエス・キリストが生まれ来たということは、
この世界を造られた神の目から見て、
この世界が堕落していることをあらわしているわけです。

全世界のすべての人間が、
苦しい立場に追いつめられ逃げることも救われることもできない状態でなかったなら、
救世主・メシアがこの世界に来る必要などないわけです。

つまり、だれ1人の例外もなく、
人間は愚かで弱い存在であり、苦境の中に迷いの中にあるということをあらわしているわけです。
つまり、子供も大人も、すべての人間は、
生まれながらに負っている性質が、
創造主にたいする負い目というものがあるのです。
人間の持つ愚かさ弱さが、
思いとなって言葉となって、態度や行為となって、
自分に対して、人に対して、神に対して、過ちを犯し続けているのです。

その現われが、
生活の規律を乱し、品性を卑しくし、欲に満ちた生活をするようになっているのです。

だれ1人の例外もなく共通した、生まれながら負っている性質というものがあるのです。
社会の悪い環境や構造によって、人は道を誤るのではありません。
生まれながらに危険性を背負っているのです。
すべての人間は常に過ちを犯す危険性を、問題となる何かをその生に含み持っています。
人間はことごとく、つまり、罪の性質を持って生まれてくるのです。

この罪深い人間たちを救うには、
この罪を赦すためには、どのような救いを必要とするのでしょうか。
罪人を救うにはどうすればいいのでしょうか。
環境でしょうか、教育でしょうか。

聖書・バイブルは、
創造主なる神と、その被造物・作品としての人間との関係において説いています。

「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章19節・新共同訳聖書)

聖書は、アダムとイブが創造主なる神に背いて、
取って食べることを禁じられていたエデンの園の禁断の木の実を食べたという、
神にたいする背きの出来事が起源となって、すべての人間の苦境が始まったと語っています。

神にたいする背きには、裁きが待っていると聖書は語ります。
神の裁きからの救いというテーマこそが、キリスト教の信仰における最も大きなテーマなのです。

その裁きから救われるには、
すべての人間は、神に対してことごとく罪深い存在なのですから、
罪を認めない者が、罪人の身代わりとなって、
その罪の代価を支払うより方法は他にありません。

この出来事こそ、ひとりの人がすべての人のために死んだという。
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)という出来事なのです。

ひとりの人がすべての人の罪をその身に背負い、死罪として、
すべての人の罪を、イエスの命を代価として購われた(あがなわれた)のです。

イエス・キリストは、死をもって私たちの罪の代価を支払ってくださったのです。
そのイエス・キリストを信じる信仰によって救いを得ることができるのです。

「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、
悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。
しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、
御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。
この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、
この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。
こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、
希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」

(新約聖書・使徒パウロからテトスへの手紙・3章4~7節・新共同訳聖書)

個人的な不幸からの救いを、救いだと考えているのなら、
メシア・救い主を通して神の国が確立されることによって来るものは
いったい何だと考えているのでしょうか。
個人的な不幸からの救いは、結果としてやって来るものであって全てではありません。
創造主なる父なる神に背いてしまった人間たち、
導き手を失ってしまった人間たち、
その関係を回復することが救いなのです。
私たち人間には、本来的に導き手が必要な存在なのですから。

被造物は創造主に栄光を帰すために創造されたのですから。


北白川 スー

関連記事・「キリストへのプロローグ」

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Wrote up on April 26, 2009.