 
人間の本性を考えたとき
 
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人間が生まれながらに持っている性質について考えたとき。
 キリスト教では、人間が生まれながらに負っている性質と考えます。
 
 現実の日々に、愚かで悲しく苦痛に満ちた人間の姿を、
 さまざまに見聞きする機会に向き合わされている。
 また、それも悲しむべきことかもしれない。
 この世界、この地球・・・さてどこへ行こうとしているのだろうか。
 
 聖書・バイブルは、
 私たち人間は、最初、この世界を創造された神の形に似せて造られたと語っている。
 
 「神はまた言われた、
 『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、
 これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、
 地のすべての這うものとを治めさせよう。』
 神は自分のかたちに人を創造された。
 すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」
 (旧約聖書・創世記・1章26~27節・口語訳聖書)
 
 神に似せて造られたということは、
 神の、尊く高く輝く品位・・・に似せて。
 神の作品としての人間は、被造物としての人間は、
 自分の造り主に栄光を帰す存在として造られたのです。
 
 作品とは、作者に目的があって、
 作者の意図を持って創られるものです。
 
 しかしながら現実の人間の姿は・・・・。
 神の創造の目的というものを聖書・バイブルから知ることができるのですが、
 現実の人間の姿は、その目的や意図としたものに縛られてはいません。
 
 人間は、自分の創造主から離れて、
 自分を高い存在だと誇っているのです。
 生物の中で最も進化した存在だから・・・・と。
 見方を変えれば、それほど愚かな姿は他にないのです。
 現実の人間の姿に表れている。思いといい、言葉といい、行為や行動といい・・
 
 種の多様性に危機をもたらしたのはいったいだれなのか。
 私たち人間をとりまく環境の悪化や破壊は、
 すべて人間のなせるわざなのですから。
 
 神の似姿として創造された人間・・・。
 しかし、創造主なる神に背いてしまった最初の人間アダム・・。
 神を知っていながら、
 すべてにおいて守られ、育てられ、すべてに恵まれた存在であった神の作品としての人間・・・。
 しかしながら、神を知っているという神の作品としての栄誉を、
 ことごとく無くしてしまった人間・・・。
 忘れ無にしてしまった人間たち・・・・。
 
 「肉から生まれる者は肉であり、
 霊から生まれる者は霊である。」
 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章6節・口語訳聖書)
 
 神に形に似せて造られた人間。
 つまり、”肉と霊 ”とによって造られた神の作品。
 しかし、神に背くことにより、
 神の目的、意図といったものから遠く離れてしまい、
 ただ、肉としてだけ、作品という物としてだけ存在することになったのです。
 
 作者としての神の意思に逆らい続ける人間の姿・・・・。
 それが現実の人間の姿なのです。
 目的を持って造られたにもかかわらず、
 その目的から遠く離れてしまった作品たち・・・。
 作品としての人間の心が、
 あまりにも作者としての神の心から離れたものになってしまった・・・・。
 その作品の行き先は・・・・。
 
 「あなたをほかの者たちよりも、
 優れた者としたのは、だれです。
 いったいあなたの持っているもので、
 いただかなかったものがあるでしょうか。
 もしいただいたのなら、
 なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・4章7節・新共同訳聖書)
 
 創造主なる神に背いてしまった人間たち、
 待っているのは、
 創造主なる神による裁きだけなのです。
 北白川 スー
 
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Wrote up on December 13, 2010.