 
見えないものをわきまえ知ること
 
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先の東日本大震災について、あれやこれやと、ネット上に小論を公開していますと、
 その小論についての反響があまりにも大きく、
 キーをたたいたわたし自身が、
 小論が多くの人の目にとまり、
 はね返って聞こえてきた、反響の大きさにおどろいています。
 
 未曾有の大震災と原発事故・・・。
 私たち人間をとりまくすべての出来事には、
 ことの大小にかかわらず、
 この世界を造られた創造主なる神とのかかわりのない出来事などひとつもありません。
 あらためて神の意志について考えさせられます。
 まず浮かんできたのは、
 旧約聖書で記述されている「ノアの方舟」の出来事です。
 
 その記述の中に・・・。
 「 主は、地上に人の悪が増し、
 常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
 主は言われた。
 わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
 人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。
 わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
 (旧約聖書・創世記・6章5~7節・新共同訳聖書)
 
 神によって創められた地球の営みのワンシーンですが、
 被造物としての人間にとって、
 実に、創造主なる神の恐ろしさを物語っています。
 神は、私たちに与えもすれば、
 取られもするお方なのです。
 クリスチャンであろうがなかろうかその差はありません。
 その当事者である私たち人間は、
 何事においても、頭に浮かんだ考えなり感情なりを、
 そのまま素直に受け入れようとします。
 それがもっとも適切な判断なのだと。
 ですから、神は、愛の神のはずなのに、
 なぜ私たちに苦しみを味あわせるのか・・・・と、
 神はどこにいる・・・・と、
 神にたいする疑問という形であらわれてくるのです。
 
 「 この世と調子を合わせてはいけません。
 いや、むしろ、神のみこころは何か、
 すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、
 完全であるのかをわきまえ知るために、
 心の一新によって自分を変えなさい。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・12章2節・新改訳聖書)
 
 神にたいする疑問という形であらわれてくる私たちの感情は、
 人々の見えないもの、
 人々の知らないもの・・・から起きてきます。
 私たち人間をとりまくあらゆる出来事や現象には、
 その背後にある見えない部分が原因となって起きてくるのです。
 
 聖書・バイブルは、
 人々の知らない部分を、見えない部分を明らかにしています。
 知らない部分ではなく、見えない部分ではなく、
 知らなければならない部分と言っていいでしょう。
 見なければならない部分と言っていいでしょう。
 
 キリスト教の教会が発する、
 聖書の言葉に神の言葉・意思を見ることができるのです。
 
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事にこそ、
 神の、私たち人間にたいする意思というものが明確にあらわされているのです。
 
 地球環境は、創造主なる神が、私たち被造物としての人間に与えられたものです。
 私たちの望むままに営むのではなく、
 神の摂理のもとに営まれるべきものなのです。
 神の意思のもとに、
 私たちの暮らしは営まれなければならないものなのです。
 
 「 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、
 つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、
 これを通して神を知ることができます。
 従って、彼らには弁解の余地がありません。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章20節・新共同訳聖書)
 
 万物を創造された創造主なる神の摂理のもとに、
 私たち被造物としての人間は、
 最終的に人間を善へと導く神の意志の下に生きています。
 ですから、人間が勝手に神の創造物に手をつけることは、
 創造主なる神の意思に反しているのです。
 神に聞き従って行動することこそ神が求められていることなのです。
 神に聞かず、地上のものに手をつけてしまった結果は、
 言うには及びません。
 北白川 スー
 
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Wrote up on November 07, 2011.