「明日の友」1980年冬号(32号)婦人之友社刊より

一人暮らしもたのし
『たにし亭』のおばさん 沢井ふささん



 東京・目白の『たにし亭』といえば、昔から安くておいしいおでん屋として知られたところだった。品のいい老婦人が一人できりもり。ここへ来る人は誰もがその家庭的な味と、おどろくような安さと、おばさん──又はおばちゃんと、皆は親しみをこめてこう呼んでいた─、の人柄がかもしだす温かなこの店の雰囲気を大切にしていた。

 おばさんの名は沢井ふささん、六十六歳。たにし亭の話を過去形で書いたのは、やむをえない事情で閉店して、もう二年以上もたっているからである。

 記者もかつてはたにし亭の味に惹かれ、しばしばおでんや茶めしを食べに行った一人だったが、おばさんと話しらしい話しをしたのは、もう店をやめられてから。婦人之友社から発行の『べんりな常備菜』に、たにし亭の、あのいかの塩辛や、らっきょう漬けを、どうしてものせたいと、おそるおそるつくり方を伺いに行ったときであった。

 婦人之友社へも何度か足を運んで、煮豆や魚の干ものなど、気軽に手ほどきして下さった。こうして何度かお会いしているうちに、沢井さんは、過去のこと今のことなどをぽつぽつ話されるようになり、時には、こちらの胸が痛くなるような身の上話に、感動をもってきき入ったのが、この記事のきっかけである。

娘時代

 豊島区高田町、目白通りに面したガラスの格子戸はよく拭きこまれ、まるで今も営業中であるかのように清潔だ。お勝手に入ると、白髪をひとつにまとめ、渋い茶の縞のきもの姿の沢井さんが、大きな柿の実を袋に詰めているところだった。

「持って帰って頂こうと思って、今落としたところ。カラスの分は二個、枝に残してあるんですよ、ほら」と奥の庭にある柿の木をふり仰ぐ。

「ここは陽当りはいいし、狭いながらも庭はあるし、つましくしていればなんとか食べていけるし、できたらこのまんまがいいですけど……」とつぶやくふささん。

「このまんまが」という言葉の理由(わけ)は次のようなこと。ここにマンションが建つ話がもち上がったのを機に、四十年以上もしていた店を、思いきりよく閉じたところ、その後の着工が遅れて、未だ元の店兼住居での生活が続いているからである。

「私の過去は父親が入院するまでは、ほんとに明るいことなんて一つもなかったし、思い出したくないことがいっぱいなんですよ」といいながらも、六十余年の歩みを実に淡々と語りだす。

 大正三年大阪に生まれた。三姉妹の長女。父は独学で中学を出、関西電燈に勤めた後、独立。電気工事の請負をし始めたが失敗。母が新開地で始めた菓子屋が成功して大繁盛となったが、どうも父親はそれがおもしろくないらしく、けんかが絶えない毎日だった。そのうち、妹が伝染病にかかって商売がだめになり、母は妹の一人を連れて家を出てしまった。

 父と共に上京、小学校三年のとき関東大震災に遭う。九歳のときに母と一緒にいた妹も父にひきとられ、長女のふささんは母親がわり。家事一切をまかされ、ちょっと位の熱では寝ていられないという日々であった。小学校は、三年と四年は殆ど欠席、六年生は四分の一しかいけなかったし、卒業すると、待っていたように女中奉公に出された。

 手先が器用なので、裁縫は叔母に三カ月間特訓を受けてひと通り覚え、小学校を終える頃には自分の着るものも縫うことができるようになっていた。だから小さいときのふささんの憧れは、仕立て屋さんか髪結いさんになることだったという。あちこちの家で奉公した給料の殆どは、定職をもたない父への仕送りに消えた。当時お茶の水にあった髪結い学校へ行こうと、わずかずつやっと蓄えたお金も父にみつかってとり上げられてしまい、折角ふくらみかけた夢は無残にふみにじられてしまった。二十歳の頃のことだった。

 あまりの無理がたたって、とうとう身体をこわし家に戻ったが、結核と知った父は家にいれてくれず、仕方なく又、奉公先を求めて訪ね歩かなければならなかった。

『たにし亭』の誕生

 その頃には妹ももう奉公に出ていて、そこで貯めたお金をもとに、昭和十年三河島でおでんの屋台を始めた。ふささんともう一人の妹も手伝った。美しい三姉妹の屋台は評判になり「うんとはやったので、ここ(目白)に店をもつお金ができ、二年後に移ってきたんです。でも翌年看板娘だった上の妹が嫁ぎ、つづいて下の妹もお嫁にいってしまいました」爾来ふささんは父の命名した『たにし亭』ののれんを一人で守り通し、“たにしのおばさん”として巾広い層の人々に愛され、親しまれてきたのだった。

「住宅街の真只中にたった一軒、ぽつんと出来たおでん屋、しかも女三人でしているということで、十年間ぐらいはずいぶん冷たい目でみられたものでした。すぐこの近所(雑司ヶ谷)に菊池寛先生がいらして、文芸春秋の編集の皆さんもひいきにして下さったし、この辺の下宿暮らしの学生さんも大勢きました」

 昭和十八、十九年頃になると統制が厳しくなったが、それでも業務用の配給はほかに比べると多かったので、夕方六時に店を開けると、百人以上の待ちかねたお客の列。「お酒一合におかず何匁つかなくてはいけない」という規則があり、そのおかずがけっこう量があったので、持ってきたどか弁に放りこんでお酒をぐいと呑みほし、又行列の後につく人もいたし、家族総動員で並ぶ人たちもいた。二度めまでは見すごすが、三度めには「あなたはもう駄目よ」とつまみ出す。しかし心やさしいおばさんは、仕事があって行列もできない人のために少しとり分けておいては、夜遅く内緒でごはんを食べさせてあげていた。「もう三十年もたっているのに、今は重役さんの一人が、この間、“あの時は助かったよ”とわざわざ言いにこられ、嬉しかったけど、その後すぐ亡くなられてしまって……」と、誰もが食べることにさえ事欠いた当時を思い返す。

 昭和二十年三月十三日の空襲でたにし亭は焼失。再建はその年の暮。強制疎開で壊された家の古材、砂糖や米と交換してもらって建てた、カウンター三坪、お勝手一坪に、四畳と三畳があるだけの小じんまりした家屋だった。「新宿まで一面の焼け野原。ここへくると皆風が当たらないから、ほっとひと息つくという感じでした」終戦後の混乱期の荒波も、おばさん漕ぐところの堅牢なたにし亭丸は懸命に乗りきった。物資の乏しい時代でも、ちょっとひと工夫あるたにし亭の味の、その着想のよさと、常に良心的で、頑固なまでに薄利に徹するおばさんの真正直な態度がお客の心をとらえたのであった。

おでんと茶めし

 この辺で二年前までの活気に満ちたたにし亭の風景をふり返ってみよう。白に赤い字でおでんと染めぬいた(とみえるが、実はおばさんが切り抜いた文字をミシンで縫いつけた、と今回初めて知った)のれんがなければ見過ごしてしまうような、目立たないしもた屋風の造り。夕方六時、開店早々の格子戸をあけると、十人ほど座れるカウンターはもう満席。くつくつと湯気をたてているおでん鍋の中では、おばさんの考案で、若ものに人気のある特製ロールキャベツやふくろ(油揚げの中に銀杏・椎茸・うずら卵・しらたき・葱・挽肉をつめたもの)や、大ぶりに切った季節の野菜──大根・筍・石川芋など──が煮え、割烹着姿のおばさんがお客の注文に「はいはい」と答えながら、店をお勝手を忙しく往き来している。今日のメニューは古ぼけた小さな黒板に書いてある、おさしみ、くるみ豆腐、おひたし、塩辛、らっきょうなど、数品。その他におでんにはつきものの茶めしと味噌汁とお新香。これまた店主創案の焼酎のお茶割り。特筆すべきはお勘定には入らないお通しで、ちょっと気の利いたしゃれた一皿(例えば小魚の揚げびたしや海老のしんじょなど)が出る。このただのお通し,のお代りを要求されると「ああ、今日は成功したわ」と嬉しくなったものだという。

「適量飲ませて適当なときに帰すのがこつ。お客さんの顔をみて、今日は何かあったなと思ったら黙ってもう一本つける。そうしないとどっかで梯子するでしょ。私が断ったために、一本ですまなくなり、どっかお世話になるだろうから。そこを見分けるのが商売」とお客思いのおばさんである。開店以来のお客は延べ百万人以上といわれているが、なぜそんなに人気があるのか、長続きしているのか。「とにかく一生懸命してたのがよかったんでしょうね」加えて、「お客さんは十年きても、二十年きてもみな一緒に扱う。そうでないと初めての人が気を遣うでしょ。お馴じみさんだからといって、席を無理にあけてあげるようなこともしなかった」という、さばさばしたおばさんの気性と公平な接客態度も、この店の居心地のよさを生み出していた。

「食べもしないのに沢山注文してつつき廻す人はいやでしたね。心をこめてつくったものを食べちらかされるのがいちばんくやしいもの。

 戸を開けて“帰って!”とひきずり出した人は何人もいます。でもそういう人って又来るですよ。そして大人しくなる。私は猛獣つかいなの」

閉店まで

 ふささんが四十六歳のとき、父が入院し、「やっと自由になったので、初めて調理師学校へ入学して免状をとった。「それまでは手さぐりでやっていて、誰でも知っている基礎を知らなかったんですよ」店の片付けがすむのが午前三時。七時には起きて買い出し。十時から十二時まで学校。とんで帰って大急ぎで仕度し、五時に開店。起きたら最後、下駄に足がくっついているような毎日。過労で何回も病気をした。その間にも、地所を騙しとられたり、買い戻したり、と次々にふりかかる苦難は絶えなかった。

 昭和三十九年、父が八十三歳の高齢で亡くなった。ふささん五十歳。いつも心の片隅に重くひっかかっていたものがとれた。

 マンション建設話しがもち上がったとき、おばさんは正直なところ未練が断ち切れず、しばらくは葛藤がつづいた。しかし丁度その頃微熱がとれず、身体も不調、体力も限界にきた。ここで思いきってやめなければやめられない。「あんまり年とって、お客さんの前にきたない格好をさらしたくない。少し元気なうち、威勢のいいうちに引こう」おばさんはそう決心した。二〜三年前からぜんぜん値上げもしていなかったのに、最後の一年間はまったくの儲けなしで、自分の気ままに商売をした。「すごく楽しかった! でもそしたら赤字になっちゃった」と今屈託なく笑うふささんだ。たにし亭を誰かについでほしいとは思わなかったとの質問には「私と同じ気持でやれる人はいないから、最初から毛頭考えてません。おでんの商売なんて気持のものだから」ときっぱり。

 しかし、おばさんは、何もしていないと身体がなまるし、何かやっていないと気がすまない性質(タチ)なので、健康法の一つとして、こんどは製菓学校へ通い始めた。洋菓子をひと通り終え、今は週三回、夕方六時から和菓子の実習を受けている。

「夜間部は、現職の若い人や職人さんが必要にせまられてきているから皆熱心。私一人失敗して、しょっ中追いまくられているんです」がらんとしてお店のカウンターに、真新しいオーブンがでんと置かれているのが、ほほえましく印象的だ。いつでも、何にでも探求心旺盛なおばさんらしい。

猫とお芝居

      




 おばさんの好きなもの、お芝居、猫、針仕事、食べること。

 お芝居は歌舞伎に始まり、新劇、文楽、この頃はアングラに近いものも観る。映画も行く。「芝居好きの仲間がいて、気が合うから大抵一緒に行く」お芝居や映画のこととなるとおばさん詳しい、詳しい。東山千栄子の『桜の園』から、近くは桃井かおりの『もう頬づえはつかない』まで、とめどなく、楽しいおしゃべりがつづく。

「一人で暮らしてたって、淋しいとか退屈とか思ったことなんて一度もありません。ともかく無駄な時間はいっときもない。私一日中テレビの前に座ってるなんて我慢できない。お掃除は一週間の予定があって、何曜はどの部屋と順番にしてる。ここは私がごはんを食べさせてもらった場所だから汚したくないんです。食べものでも“あそこがおいしい”ときくと全国どこへでもすっとんでいっちゃうし、あ今日は一人でごはん食べたくないなと思うと、朝お弁当つくって、お友だちを誘って近くの護国寺辺りへ行って食べる。くさくさしたときは、朝早く上野動物園へ行く。動物の目をみてると気持が和むんですよね。私ジャイアントパンダよりレッサーパンダの方が可愛い」

 動物といえば、ふささんは無類の猫好き。ひろってきたり、貰ってきたり、勝手に住みついたり、今迄にのら公も含めて百匹は飼った。家の中に四匹、表に五〜六匹いることもしばしば。十六年間そばにいた三毛のジロー(牝猫)が、店をやめたあと行方不明になってしまった。「あんまり悲しくて」もう猫は飼わないことにしたというが、芝居と同じく、猫の話になると又、おばさんは饒舌になる。そのかわり、つい最近文鳥を飼い始めた。

 自称無類の食いしん坊で、たにし亭であれだけ美味い肴をととのえていたおばさんだが、意外に苦手なものが多い。青魚だめ、おでんは四十年間毎日炊きつづけたのでもうみるのもいや、名物だった茶めしも食べたことない。きいているとなんだか可笑しくなる。けれどもふだんの食事は手をぬくことなくきちんと食べているというので、ある日の昼餉どきに訪問してみた。

糠みその味

「朝はパン食で野菜をたっぷり、昼は重く、フルコースで、夜は昼の残りやおじやですます」と健康によい、理想的な食べ方だ。「ときどきレストランで好物のお肉を食べるのもお昼。ちょっと多くできてしまったときは、“今日はご馳走あるわよ”って電話すると喜んで来る人がいるから、ときには三人位で夕飯を食べることもあるんですよ」

 ところで本日の献立は? 「朝は茹でじゃが芋と人参、胡瓜、レタスをマヨネーズ(これは必ず自家製)で。それに動物性の蛋白質もちょっと、ハムかささみもそえます。あとは紅茶」

 昼のメニューは写真の通り。ほかほかの炊きたてご飯。小いかと竹輪といんげんの煮つけは先刻煮たもの。大好きなポテトコロッケは、外出のときちょっと足をのばして、おいしいお店のを買ってきた。ソースをたっぷりかけて。「今日は特別でこれはおまけ」という芝海老と鯵の黄味和え(すだち酢)は、海老の赤と裏ごした卵の黄味がきれいな一品。小松菜と油揚げの煮びたし。「菜っぱは小鳥の上前をちょいとはねて、おかかとお醤油だけでさっと煮るんです」それに古漬けは、胡瓜と蕪の葉、うすい塩かげんが丁度いい。「うちの糠みそはもう五十歳以上よ。戦時中もこれだけはもって歩きましたから。ええ、一人でもちゃんと毎日かきまぜてますよ。私お漬けもの好きですから、けっこうなくなるんです」デザートは梨。そして一人用のポットでわかした番茶! 三畳間の小さなお膳に並んだ心あたたまるお昼だった。

「でもね、工事が延びるごとに、あれもしたいこれもしたいと描いていた夢が一つずつこわれていくんですよ。早くなにか仕事をしたくて仕様がないんです。なにもしていないと頭がパァになってしまいそう。理想でいけばお店をやりたいけれど………」ちらっと本音ものぞかせながら、おばさんが視線を遠くへ走らせた。おばさんの穏やかな表情からは、苦難の五十年を想像することはできない。いつでも若々しい気持を失うことなく、今生きているこの時を、宝もののように大切にしている姿こそ、不遇であった日々を乗りこえてきた源泉ではないだろうか。(T記者)






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