飲食業者の食料難時代

澤井 ふさ (大正3年生まれ、豊島区高田在住)

昭和十二年から目白で「たにし亭」を開業。近年まで営業を続け、店には多くの文士や出版業界の人が通った。戦中戦後は食糧難の中、多くの学生の面倒をみ、昭和の世を生き抜いてきた。

配給制と人々の生活

 昭和十二年から目白で「たにし亭」というおでんやをしていたのですが、酒が配給制になりまして。それまでの酒は度数が二十二度とか二十七度とかっていろいろあったんですが、配給制になったとき、度数を下げて十四度と十六度の二種類にして薄くし、量を増やして配給したんです。酒が薄くなったのはこの時からです。配給の酒は全部「理研酒」。上富士にあった理化学研究所で作った合成酒で、美味しかったです。都内で作るから輸送が容易だということでした。当時は、ビールもありましたが、ほとんど飲まなかったですね。理研酒は「新進」という名で、戦後もしばらく売っていました。

 配給量は、配給制度が実施される前の実績を問屋が証明してくれ、それを基に決められました。目白の飲食組合では、うちが一番配給量が多かったと思います。その頃一般家庭には一世帯一ヶ月二合の配給。それ以上飲みたい人はうちのようなところへ来るか、国民酒場へ行くかでした。

国民酒場;昭和19年5月5日からはじまり、夕方になると客が行列した。

 国民酒場は公営の酒場で、私たち業者がそれぞれの実績にしたがって酒を出し合い、そこで営業するんです。そして、売り上げの中から配当をもらう、そんな仕組みでした。だが、業者はそれぞれ自分の店に帰ると、大事なお客さまがいるわけですから、酒をだしたがらなくて。だから、国民酒場はビールばかりって、よくいわれました。

 私の店は配給量が多い方でしたが、それでも月に十日位しか営業できなかったですね。配給のある日は馬力(荷馬車)を頼んで、業者が一緒になって取りに行くんです。そうすると、酒だるの来るのがみなさんに分かっちゃうでしょう。お客さまが店の前にずらーっと並ぶんです。だけど、みそ、しょう油、砂糖、それに野菜も魚もみんな配給でしょう。それらがうまく揃わないと店を開けられないんです。

 お客さま一人にお酒一本と百匁(375グラム)以上の肴一皿と決められていたんです。肴といっても野菜と魚。野菜は一メートル以上にものびたホーレン草とか鬆(す)の入った大根、魚は見たこともないようなものばかり。調味料だってほとんどない。それを一生懸命に工夫して料理し、なんとか食べられるようにしてだすんです。それでもお客さまはみんな目の色を変えて……。

 お客さまが入ってこられるでしょう。酒一本と一皿だす、お客さまは弁当箱を持ってきていて、皿に盛ったのを弁当箱にサッとあけ、酒をグイグイと飲んで出ていく。そして、列の後の方に並んでいる奥さんとか子供さんに替わって、また並ぶんです。二回並ぶと二皿、それで四、五人の家族のおかずに十分なるんです。値段は一円しなかったと思います。酒には二割の税金がかかりました。遊興飲食税はこの時できたんです。税務署から複写式の伝票が配られていて、売り上げごとに伝票を一枚ずつ渡しました。そのころは妹が嫁入りし、私ひとりでやっていましたから、大変でしたね。

 徴用でいっている人には、徴用先で特配があり、そういう方は帰りに寄って飲んでいかれるんです。だから、その人たちの分を別にとっておくんです。片道二、三時間もかかるようなところへ徴用されて行っている人が大勢いましたから、店へこられるのは夜八時とか九時とか。そんな方には一人二本ずつとっておくんです。朝早くから一日中働かされて、疲れて帰ってこられるわけで、『ご苦労さま』って。そのうちに「あの店は酒をとっておいてくれる」と評判になりましてね。戦後、そういう人からずいぶん感謝されました。

 召集されて、戦地へ行くお客様もどんどん増えていきましてね。召集がくると入隊まで二、三日の余裕しかない。田舎へ帰れない人や独身者に、送別会をよくやってあげました。業務用の配給の中から、酒や米を少しずつとっておきましてね。毎日だれかが応召されて行く、そんな感じでした。その人たちが応召されていって一週間ぐらいすると、無事入隊しましたって礼状をくださるんです。三ヶ月ぐらい経つと、「あいつは死んだよ」ってお客さまの口から……(しばらく沈黙)

 空襲で店が焼けてしまうまで、そんな日が続きました。

 東京オリンピック候補だった早大の体操選手がよくみえてましてね。召集がきたっておっしゃるんで、送別会をしてあげたんです。そうしたら「オレの最後の体操をみてくれ」って、カウンターの端に両手をついてやってみせて下さった。ほんとうにすばらしかった。目からあふれでそうになる涙をこらえて、みせていただきました。戦後その方、「帰ってきたよ」って元気な顔をみせて下さったんですが、右手親指がなくなっていました。「もう体操はできないんだ」って。

 私は、『東京のおふくろさん』て呼ばれてたんです、学生のお客さんが多くて。そんな人たち、あれよあれよという間に、みんな戦地に駆り立てられましたね。特に、九月に繰り上げ卒業で召集されていった学生さんは、たいてい亡くなりましたね。ほんとうに思い出したくないです。思い出したいことは何もないです。なるべく忘れてしまいたい。

目白界隈の四月十三日

 四月十三日の空襲のときは、店に火がつくのもみていました。この辺りは、高田の方に比べて一段と高いんですが、その高田の方から火が燃え上がってきました。目白通りにある私の店の奥の家に火が入って燃え上がり、その直後に、道路を隔てた真ん前の薬屋さんに飛び火して。燃えるというのは、火がついて徐々に燃え出すさけですが、空気も建物もみんな熱くなっていますから、火の粉が飛んでくるとガソリンに火がついたように、バッと燃え出すんです。すごいですよ。生木が燃え出すときなんて、ゴーッと地鳴りのような音がするんです。きっと木が苦しんでいるんでしょうね。そして急にバッと一気に火が吹きだすんです。

 その頃、私の店の並びには十二軒のいえがあったんですが、みんな疎開していて、住んでいるのは私の家ともう一軒だけ。火を消すなんてとんでもない。こりゃ逃げなきゃと思って、今のおとめ山公園(JR目白駅のすぐ南。新宿区下落合二丁目)の方に逃げました。真っ赤に燃える学習院の火の粉を避けながら。翌朝、火がおさまったようだし、夜も明けてきたので戻ろうとしたのですが、道路のアスファルトが熱くて歩けないんです。それに煙いのと空気がいがらっぽくて、目とのどが痛くて。

 家も店も焼け、高田南町(現在の高田一丁目〜高田三丁目)で焼け残った家の一部屋を借りて住みました。五月二十五日の空襲の時は、そこから千登世橋の下に避難しようとしたのですが、ちょうどそのときB29が落ちてきて、大正製薬のところへ墜落したんです。頭からのしかかってこられるような感じで、恐怖で足が動かなかったです。一瞬のうちに震動でふっとばされ、気がついたときには路上にたたきつけられていました。

 疎開はしなかったです。疎開地に荷物を先に送ったところ、送り先の人が勝手に荷物をあけて使ったり売り払ったりしているのを知ったんです。そんなところへ疎開しても、一悶着あるだけですから。

 終戦の放送を聞いた時は、ホッとしました。やっと解放された、そんな感じでした。うちの店は出版社関係や学校の先生方が多くおみえでしたので、かなり前から、戦争は負けるだろうって情報が入っていました。


電柱をほりおこして建材に

 終戦後は、まず住むところをと思って、四畳半と三畳、それに小さな店、計八坪ぐらいのバラックを建てました。建物疎開で壊された家を、薪にするからといって持っている人がいて、それを品物と交換で柱一本とか板一枚とか役立ちそうなのを買い集め、知り合いの大工さんに頼んで、建ててもらったんです。だから、柱も板もまちまち。次ページの写真の囲い板は焼け残った電柱を掘り起こし、製材所で板にしてもらい、それを削ったものです。物のない時代に生きた人は、みんな工夫し、智恵を働かせました。

 昭和二十一年の正月は、もうこの写真の家で迎えました。その頃には、闇屋さんがアルコールを売りにきましてね。それを度数を計って買うんです。何度だからいくらって。それを薬局にもっていき、エチールかメチールか検査してもらうんです。メチールだったら大変ですから。エチールに酒石酸、サッカリン、それにウィスキーを少し入れてよく混ぜ、度数を計って、これは何度だからいくらって売るんです。あまり美味しくはなかったけれど、それでも売ってほしいって。その上ガソリンくさかった。アルコールは軍隊からの流れものだと聞きました。飛行場からだって言っていましたね。ガソリン用のドラム缶にアルコールを詰めたらしくって。

 そのうちにカストリ(本来は酒粕を蒸留してつくった上等の焼酎だが、戦後、アルコールにそれらしいにおいをつけただけの密造酒がはびこり、粗悪品の代名詞となった。)が出回ってきました。米を発酵させて絞っただけの、白っぽくてカスがそのまま入っている焼酎、味はよかったです。避けが出回ってくるまで、カストリ時代が続きました。作る人は罰せられたんですけど、売る方はおとがめなしでした。

 食べるものもなければ家もない、世の中どううなるのかわからない、そんな世相でしたから、酒でも飲まなきゃ……。そんな感じだったんでしょうね。飲めるものでさえあれば、なんでも売れた時代です。

 そのころでした、六十万円もの増加所得税がかかってきたのは。戦後のインフレで、所得が急増しただろうとの想定で、税務署がドサッと課税してきたんです。六十万円ですよ!今だって大金ですよ。税務署へ日参しました。高すぎる、ひどすぎるって。税務署の入口にはヤクザみたいな人がいて「姐ちゃん、オレが話をつけてやろうか」……。私はひとりでほんとうに毎日毎日通いました。そしたら、六千円にまけてくれました。いかにでたらめな課税だったかということですよね。だけど、その六千円も、払うのが大変でした。椅子にまで赤紙をべたべた張られて。一生懸命払いました。税金を払うために働いているって感じでした。朝早く起きて山手線各駅の闇市を歩き回って仕入れをしましたが、しまいには過労でとり目になりました。

 皆さん、食べること生きることに精一杯の毎日でしたが、私の場合はようやく手には入った材料を、なけなしの調味料を使って、どう工夫して、少しでも美味しいものをお客さまに提供しようか、毎日そればかり考えていました。いま振りかえってみると、よく働いたものです。毎日が真剣勝負でしたね。



東京都豊島区企画部広報課 荻原 美智子課長のご好意により豊島区役所発行『五十年目の祈り』所収「飲食業者の食糧難時代」より引用させていただきました。

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