心と健康
認知神経科学部門 医師 田中茂樹
『子供の楽観さを大切に』
知人の女性から次のような相談を受けた。「小学4年生の長男(Aくん)がやる気が無くて困っている。朝は何度起こしてもなかなか起きない。ようやく起きてもなかなか着替えない。ご飯はなかなか食べない。何度もうるさく言わないとなかなか家を出られない。夜も何度も注意しないと宿題をしない。生活全体にやる気がみられない。週末も家の中でゴロゴロしていることが多く『遊びにでも行けば』と言うと『休みの日ぐらいのんびりさせて』などと答える。どう思います?」
いつも元気な彼女は元気のない息子に不満が大ありのようだ。
まるで疲れた大人のようなAくんの言葉、「休みの日ぐらい…」ユーモラスな受け答えともとれるが、意外に切実な心情なのかもしれない。お母さんにはAくんがいつでものんびりだらだらしているようにみえる。しかし、Aくんにしてみれば、かなり頑張って今の状態を維持しているのかもしれない。小さい頃は「ちょっと、少しぐらいじっとしてなさい」と言わずにおれないほど元気でやんちゃだったというAくん。子どもの元気・やる気はなぜなくなってしまうのだろう。
まず気をつけたいのは、子どもの楽観さを大事にするということ。Aくんは4年生になってから塾に通い始めたとのことだった。素直な子どもほど「勉強しておかないと大人になって大変よ」などの親のアドバイスを真に受けてしまう。またお母さんは僕に塾に行ってもらいたそうだなぁと感じたら、自分から「僕、塾に行きたい」なんて言い出すかもしれない。しかし、子どもにまず必要なのは「この世は楽しいところだ。いいところだ!」という実感だ。人と会うのは楽しい。友だちと遊ぶのは楽しい。ご飯はおいしい。彼らを取り巻く世界が楽しいものだということをまず分かること。それは、生きていたい、という気持ちのもとになる。
もちろんこの世は楽しいだけじゃない。大変なこともたくさんある。大人なら誰でも知っている。しかし、そのような生きていくことの大変さについては、子どもがこの世界を好きになったその後で、伝えていけばよい。その場合も「まじめにコツコツやるといいことがあるよ」のような肯定的なニュアンスで伝えることが大事であろう。「〜しないと大変なことになる」のような″脅し″は極力避けるべきだ。
失敗の大切さも見直されるべきだと思う。親が先回りしていろいろやってしまうために、子どもが適度な失敗をする機会が奪われている。適度な失敗とは、子どもが自分の判断で何かをやる。うまくいかない。自分が困る、今度はうまくやろうと自分で工夫し頑張る。いろいろなことに気をつける。次はうまくいった。嬉しい!と、このような体験である。次のような場面はよく見かけるだろう。公園で小さな子がうれしそうに駆け出す。と、すぐさま母親の声が追いかける。「走ったら転ぶよ!」。車にひかれそうならいざしらず、安全な土の上で走って転ぶそして痛くて泣く、それは子どもに体験させてやるべき失敗だろう。親がすべきことは「大けがせずに安全に失敗できるように見守ること」「失敗してもまた挑戦できるように励ますこと」であって、「失敗させないこと」ではないはず。近ごろますます話題の″お受験″も、後で受験で子どもに苦労させたくない、とか変な先生にあたったらかわいそう、など子どもの苦労を前もって取り除こうという親の先回りが根っこにあるような気がしてならない。
不登校やひきこもりに関する相談を受けていて強く感じることがある。そういう子どもたちは小さいころから「必死で頑張らないとこの世の中で生きていくのはすごく大変だ」というメッセージばかりを親から受けとってしまっている。親は子を思ってのことなのだが、子どもには脅しが効きすぎてしまっている。世の中が大変なことは脅されなくても彼らはうすうす気がついていく。ときにくじけそうになる子どもたち。彼らに勇気を与えられるのは親だ。それが親の役割だ。子どもを幸せにしようと思えば、彼らの楽観さを失わせないことだ。それが何にも増して大事である。脅されなければ、子どもはいつでも明るく元気、まさに世の中の光。
『役に立たないことの効用』
ペットを飼っている人は、飼っていない人に比べて心臓病にかかりにくいという調査結果がある有名な医学雑誌に出ていた。どれほど科学的に信頼できるかどうか、熱心に記事を読まなかったので詳細は覚えていないのだが、その論文では理由として犬を飼っていれば散歩が習慣になること、ペットの存在が気持ちを和ませてくれること(いわゆる癒し効果ですね)、などが理由なのではないかと考察していた。
この記事を読みながら数年前にN医師から聞いた話を思い出した。不眠症でN医師の診察を受けていたAさんは一人暮らしの70代の女性である。不安症の症状もあり、夜になると物音などが気になる。いったん気になり出すと怖くて怖くてしかたがなくなる。「ウチには盗られるものなんか何もない」と思ってはみても胸がドキドキしてくる。一人で家にいられないような気がしてくるのだった。他にも悩みがあった。隣の人が猫にエサをやるので、自分の家の庭を猫がしょっちゅう通る。生ゴミを荒らされたりもする。そもそもAさんは「何の役にも立たないので」動物はきらいである。それで隣の人が猫をかわいがるのが気に入らない。あるとき種を蒔いて出てきたばかりだった花の芽が猫に踏まれてだめになった。Aさんは、隣の人に苦情を言いに行った。相手も言い返してきて口論になった。隣の人も一人暮らしの高齢の女性であった。Aさんは「そんだけ猫が可愛いんやったら、自分が寝込んだとき、猫に水の一杯でも汲んできてもろたらええわ!」と口論のなかで言ったそうな。
N先生の話によると、Aさんは頑張り屋さんである。夫に先立たれたあと二人の子供を立派に育て上げた。それがAさんの誇りである。息子も娘もそれぞれ家庭を持ち立派に暮らしている。しかしAさんは彼らに不満がある。子供たちはAさんから見たら「努力が足りない」というのである。自分がした苦労と比べたらなんと努力をしていないことか。なぜもっと頑張らないのか、歯がゆくて仕方がない。前年にも孫の受験のことでAさんは娘と何度も口論した。なぜもっとハッパをかけて頑張らさないのか、と。その前の年には、息子がリストラになりそうだというのがAさんの診察のたびに訴える悩みであった。息子は気が優しいからなめられて損ばかりする、とふがいなさを診察室で嘆いていた。自分の育て方が甘かった、と。
ところが「どういう風の吹き回しか」とN先生は思ったと。あるとき、そんなAさんが犬を飼うことになったのだ。誕生日にお孫さんから犬をプレゼントされた。動物嫌いのAさんは困った!と思ったが、旅行に行くときとか病気の時は自分が犬の面倒を看るからという孫に「根負け」して、彼女は(犬の写真を見たN先生曰く“ウナギのような”)犬を飼い始めた(ミニチュアダックスでしょうね、多分)。まもなくAさんの変化にN先生は気がついた。不眠のお薬がいらなくなり余るようになってきたのである。さらに血圧が正常になってきたので十数年飲み続けていた血圧の薬を飲まなくてもよくなってしまった。そしてあんなに怖かった夜の物音が気にならなくなったのである。「あんなウナギみたいな犬でも、犬は犬ですから頼りに思えるのでしょうね」とN先生は笑う(犬には失礼な話だ)。犬の効果はまだつづいた。Aさんと息子や娘との仲がよくなった。実用第一、役に立たないことは無駄なこと、という一貫した態度で子供たちを育て、その後もそうやって暮らしてきたAさんの態度が変わってきたことが原因ではないかとN先生は言う。
あるとき診察に一緒に来た息子さんは言ったそうだ。「子供の時、友人たちが持っていたウルトラマンの筆箱が欲しくてしかたなかった。けど、母は『あんなもの絵がついているから高いだけや!』と絶対に買ってくれなかった。それは家計のこともあっただろうし、子供のことを考えてのことだったと今では分かる。けれど、子供としては寂しかった。その母が先週なんて犬にブランドものの服をよろこんで買ってやってるんですよ!参りましたよ...」。診察室でも身体のいろいろな不調を不安な表情で話すばかりだったAさんが、毎回毎回愛犬のドジな話をニコニコして話すようになった。看護師さんたちもいつしかそれを楽しみにするようにさえなっていった。
犬が番犬だった頃、猫がネズミを捕っていた頃は遙か昔のこと。今では犬も猫も役に立たない。しかし何の役にも立たない彼らを大事にするという暮らし方が「役に立たなくてもいいんだよ、大事にしてもらっていいんだよ」というメッセージを、いつしか自分自身にむけても送り始める。頑張り屋の人は往々にして頑張らないと受け入れてもらえないと子供の頃から感じているものだ。また頑張らない自分をいつも批判している傾向がある。Aさんは全く何の役に立たない犬を飼い始めて、自分や子供たちに対しても「いつも何かの役に立たなくてもいいのだ」、「頑張らなくてもいいんだよ」、という思いを持てるようになったのであろう。ある日、いつものように犬の話を聞いた後でN先生がAさんに、そんな話をするとAさんは笑顔でこう言ったという。「いや犬にはホンマに手がかかって、金がかかってしょうがない。しょうがないけど“あの子”がいるせいでうっとおしい猫が来んようになった。せやから気分がちょっとはええんかも知れません」Aさんたら意地っ張りなんだからと思いつつ、犬を「あの子」といったAさんの幸せそうな表情が全てを物語っていたよとN先生は笑って話したのであった。
『カジュアルな存在』
私は北陸のある私立大学で心理学を教えている。先日、友人の心理学者Nくんに招待講義に来てもらった。授業が終わったあと、大学から車で5分、隣町の今立町にある「勘助」という蕎麦屋に行った。地元では“おろしそば”と呼んでいる、辛い大根おろしと鰹節、そばつゆをそばにぶっかけて食べる冷たいそばが美味い店である。小さな町の小さな店であるが名店。Nくんはそば好きだ。
一口食べて「うまいですね」と彼が言った後は、二人して黙って食べた。昼時が終わって他に客のいない狭く古い店。一人前500円。食べ終わってNくんが言った。「そばってこういうふうに気楽に食べるもんですよね」。そのとおりと思った。そばの価値の核心をついていた。
カジュアル(casual)という言葉がある。服装でカジュアルといえば「気取らない」「くだけた」といった感じ。英語のcasualの本来の意味は「偶然の」。取り繕うのでなく、何気なく選んだらそうなった、のようなニュアンスのある言葉のようである。昼に何か食べようか、と思ったとき、さっと行ってさっと食べる。遠くまで出かけていって仰々しく食べるものとは違う。たいしたものではないけれど、いつもそこにあって、存在感のあるもの。
それをカジュアルな存在と(ちと変な呼び方だが)呼ぶとしよう。新そばの時期があり、その意味でそばは旬もある。しかし、地元では生活の空間にいつでもあるもの、身近で気軽で確かなものだ。こういう意味での名物はそこに暮らす人には大きな価値と存在感がある。しかし、(言い方は悪いが)よそ者がわざわざ出かけていって一回だけで、もしくは、数日でその価値を味わうことは難しいであろう。遠くからたどりついても、うどんは所詮うどんであり、そばはそばに過ぎない。目新しさ、強烈なインパクト、というような価値はもともと持っていないのである。そうではなく、むしろ長年連れ添ったパートナーのような(空気のような?)存在感。それこそが名物のパワー、カジュアルな価値ではないか。これは風景、街並みや祭りも同じであろう。『ヨーロッパ10日間の旅』で名所旧跡をグルグルと回っても、せいぜい、「ああこれがTVで見たあれか...」となるだけで“名前だおれ”の感想しか得られまい。それは多くの名所が、そこで暮らす人にとってカジュアルな価値を持っているからであろう。カジュアルな価値は短い旅では味わえない。
先日、職場の歓送迎会の後、奈良町を歩いて駅に向かった。狭い路地を話をしながら通る。猿沢池を回り道する。五重塔が夜空に浮かぶ、仲麻呂の月が出ている。観光バスで見に来たのではない。駅に向かう道すがら、カジュアルに名所に出会っている、この贅沢さ。この町に住めばこれらの存在は生活の場にいつもある(カジュアルな)名脇役。その価値はわざわざ見に来た人には分からない。まるで彗星のしっぽのようだ。数年前、当直の夜、前のおかたに病院ビルの屋上から仲間たちと見たヘール・ホッブ彗星。しっかり見ようと視野の真ん中でとらえようとすれば、シッポは見えなくなる。しかし、目をそらすと視野の端のほうではしっかり尾を引いていた。
しばらくその街に住んで何度か季節がめぐる。人と知り合い行き来し、衝突したり別れる。そうしてようやく気に入った場所や時間となる。そんな街並み風景、そして人々。それらはその人にとって名物であり、それに出会うことが旅であるならば私たちはみな旅の中にある。
学生だった頃、通っていた銭湯でときどき会ったイギリス人のサイモンさん。会えば風呂の二階で蕎麦を食べながら映画や本の話などした。桜咲く頃の或る夜、今度イタリアに行くことになった、もうここで飲むのも最後だね、と彼が言った。何とも言えない喪失感が私を襲った。
I will miss our relation here.(ここで会えなくなるのが寂しいね)
と私が言うと、サイモンは真顔になって「僕を信じろよ、向こうに行ってもずっと連絡するよ!君とはずっと友達でいたいから」のようなことを言った。が、そんなことは僕は望んでいなかった(と、自分で気がついて不思議だった)。僕がmissしたのは、そういう関係ではなかった。手紙で近況を知らせ会ったり、約束して会ったりすることではない。たまたま風呂に来たら会って、どちらも時間があればビールを飲んで、どうでもいいことを話す。そういう偶然の(casualな)関係だ。そのうち僕が学生でなくなったらどうせ終わるはずだった関係だ。その関係が終わることへの感想をちょっとセンチに口にしただけだった。引っ越した後、文通したってしょうがない(男同士で...いやそういう問題ではないか...)。僕も書く気はなかったし彼からも手紙は来なかった。
この喪失感に一番似ていたのは、高校3年の秋頃の体育の授業。クラスで毎回白熱したサッカーが出来なくなる。それがなんとも残念だと、僕が口にしたら、誰かが「卒業しても、夏休みや正月に定期戦をやろう、同窓会のように」と言った。が、それは全く見当外れだった。そんなことをしても、このとてつもない喪失感は埋められない、もう戻れない、終わりなのだから。この種の喪失の感じは死に一番近いものだ。二度と戻らない、終わってしまったというこの感じ。
今立町の勘助でおろし蕎麦を食べながら、私の頭のなかに浮かんでいたのはそんなことでありました。いつにもまして大根おろしが辛かった。武生に来たら皆さん、おろしそばを食べてください、カジュアルに。
(JR武生駅前なら「たかせや」、「御清水庵(おしょうずあん)」がお奨め)
『オジサンを目指せ!S君』
数年前のある秋の日のできごと。ある心理学教員の研究室に四年生のS君が相談にやってきた。背中に届く金髪長髪、いつもニヤニヤ、明るい彼だったのに、丸刈りになっていて表情も暗い。
「本当は○〇先生に相談しようと思って来たンすけど、いなかったんで、先生でもいいかって…」彼らしい率直さ。代役は望むところ。勧められるままに彼は椅子に後ろ前に(背もたれを抱くように)座った。彼に教員がまず聞いた(髪、どうしちゃっったの?)。S君は髪のあったあたりをかき上げる仕草をしながら切り出した。「いろいろ悩んでいまして…髪どころじゃなくなって…実は12週なんですよ」。S君の彼女は知っている。(そりゃおめでとう、学生結婚、それとも事実婚?)「妊娠したのはカノジョじゃないっスよ、妹なんですよ」
S君の話によると、妹は18歳の大学1年生、妹のカレシは23歳の社会人。先週、妹が両親に妊娠を打ち明け、S君いわく、一家は混乱しているとのこと。「カレシも妹もオロす気がないんですよ」。″カレシ″の抑湯が若者風で心地よい。(2人が産む気で相手は社会人、それほど問題ないやろ?)ところが、
・妹はまだ18歳、子どもが子どもを産むようなものだ。20歳を越えてからならデキチャッタ婚でも親戚への言い訳もなんとかつくが、こんなのでは結婚式も出来ない。
・生活力が無く子どもなんか育てられるわけがない。子どもを育てることがどういうことか分かってない。
・どうしても産むなら妹は勘当、盆も正月も帰ってくるな・・・などと、親やそして親戚のご意見番も一同して怒っている、と。
今のところ、親や親戚のご意見番たちからの有力な妥協案は『今回はとにかくオロす。20歳を越えたらきちんと結婚式をして親戚に披露して、(気に入らないけれど)今のカレシと結婚させてやる』というもの。ところが妹もカレシもオロすのは絶対にイヤだ、と主張している。妹は家を出ると言い張っている。優しい兄のS君は、どうやったら妹の考えを″現実的に″改めさせられるか、悩んでいるという。このままでは親戚を招いての結婚式も出来ないし、親戚づきあいも妹は出来なくなっちゃいますから、と。
その教員のS君への(無責任な)アドバイスは以下のようなものであったらしい。
(1)18歳でも20歳でもたいして変わりはないのとちゃう? 子どもが子どもを産む、という状況は妹が20歳になってもおそらく同じ。(30代の″子ども″が子どもを産んでいる世の中なんだし)
(2)結婚式なんて親戚や親が来なくても自分たちで勝手にやったらええのとちゃう?(S君は親戚に来てもらいたいの?自分の結婚式。『ん−、どちらかというと会いたくない人たちですね』そらぁそやろ。赤ん坊よりも、子どもを産む年齢のほうが大事な人たちやろ、会って楽しいわけないわなぁ)
(3)とりあえず今回はオロす、″とりあえず″って串カツの注文みたいに簡単に言うてるけど、体も心も傷つくもんやで。まして妹本人が産みたいって思てるのに。
(4)まあ、心配な点をあえて言えば、カレシやろな。なんせ大学1年のカノジョ、あっさり妊娠させてしまうような無計画なのと、違うた、情熱的なカレシやろ。多分数年のうちに浮気するやろな。妹が育児でダンナに構ってられへんようになってくる。言葉も顔もスタイルもオネエチャンからオカアチャンにかわる。そしたら他の女性と恋に落ちるやろうな…あー辛い、寒い…。オイ、S君、妹にそんなことオレが言ったって言うなよ。「言わないっすよ、しかし先生読みが深いですね」当たり前やろ、心理学、だてに長いことやってるんやないで!
ここで教員は立ち上がり窓を開けた。中庭の銀杏の見事な黄葉。部屋に風が入ってきた。
「あのな、S君、妊娠やらオロすやら言うてるけど、生まれたら赤ん坊やで。君の甥か姪や」
この″甥″や″姪″の言葉を聞いた瞬間、S君の顔つきがさっと変わった。心理のプロである教員はそれを見逃すはずもない。
「かわいいぞ〜!3年ぐらいしたらもう十分立派なちびっ子や。なんでも喋って走り回って。S君のこと、○○おじちゃん! とか呼んで、腕にぶら下がったりするぞ。あっというまに小学生になる、もう頼りになる存在やで。そのときになってみいな『オレはこんな可愛い子を″オロせ!″なんて言ってた悪党の一味やったんや!』と愕然となるぞ、絶対。今、妹さん、家の中では四面楚歌やろ。兄貴として応援したりいな。苦しいときに助けてくれたこと人間死ぬまで忘れへんで。『お兄ちゃんにまかせとけ!心配すんな、オレはお前の味方や!』言うたったらええねん。えっ、甲斐性ないからって? ええねんて、口先だけの応援で。30年ぐらいしたら妹さん、子どもに言うやろうなぁ。『アンタが生まれて来れたんは伯父ちゃんのおかげやで』って。そのころになったらな、″オロせ、オロせ″と今言ってる悪党一味はほとんどがこの世にはおらんようになってるわ(カレシもどっか行ってるかもしれへんけどな)」
無責任きわまりないアドバイス?を聞いているうちに初めは″オロす″という言葉で事能を捉えていたS君が、甥っ子という一人の人間を頭に描くように変わってきた。もともと乗せられやすいS君なのだ。「先生、オレ、妹を応捜してやります!」。意気揚々と引き揚げていった。彼の単純さが心配になったが、教員はもうそれっきり忘れていた。いちいち気にしていたら仕事なんかできやしない。
その秋から4年たった先日、同じ銀杏の黄葉のころ、S君が突然やってきた。可愛い男の子を背中にしょって。一瞬で状況を見て取った教員がにんまりして開口一番、「オレの言ったとおりやったろ?」。それを聞いてすっかり社会人らしくなった、おとなしい髪型のS君がニコっと素敵に笑った。「両親も完全なジジバカ、パパバカに成り下がってます」(そうやろそうやろ)。そして付け足した。「妹とダンナも、今のところは、仲はいいようです、先生!」
『その馬が私の目の前にいるからだ!』
『酷使され、息絶え絶えの馬を目にした孔子が弟子に「あの馬を買い取り、救いなさい」と命じる。
弟子は聞く。「この国には何十万もの馬がいます。なぜあの馬だけ助けるのですか?」孔子は答えた。「この馬が私の目の前にいるからだ」』
* * *
ある患者さんが貸して下さった本『さらば小泉純一郎』(天木直人著)に引用されていた孔子と弟子のやりとりである(天木氏はイラク戦争に反対してクビになった元レバノン大使)。
人間は合理的に考え行動する。もしくは″自分は合理的に考え行動している″と信じたいものである。イラク支援活動に行く民間人について、そこまでいかずとも国内にもやることはあるのでは、という″合理的な″批判をする人がいる。移植医療などにしても類似の議論がしばしばなされる。巨額の費用、設備、人材をつぎ込む目的が、移植を待つ″人の命″を救うため、なのであれば、同じ費用を途上国の乳児の栄養改善やワクチン摂取などの事業にあてたほうが、ずっと多くの(おそらく何万倍の数の)″人の命″を救うことが出来るではないか。私も一面ではそう考えていた。
しかし、上の孔子の言葉を知った後では物事の見え方が変わってきた。苦しんで息も絶え絶えの人を目にした孔子が、弟子に「あらゆる手段を使ってあの人を、救いなさい」と命じる。
弟子は聞く。「この国には苦しんでいる人は何十万人もいます。なぜあの人だけ助けるのですか?」 孔子は答える。「この人が私の目の前にいるからだ」
* * *
同じような例はいくらでも考えられる。
(例1)世界中に困っている人は何億人といる。何人かだけ助けようとしたって、所詮はやらないのとおなじことだ。
(例2)道路を歩いていて空き缶が捨てられているのを目にする。世界中には無数の缶が捨てられているのだから、目の前の缶を拾っても拾わなくても同じことだ。
(例3)タバコを吸うのは健康に良くないのは知っている。しかしこれまでに何千本も吸ってきた、今更禁煙しても同じことだ。
(例4)優先座席に座っていると妊婦さんが乗ってきた。世界中に電車の中で座れない妊婦さんは何万人もいる。目の前の人に席を譲るのは自己満足に過ぎない。
こういう行動基準が間違っているとは孔子は言わないであろう。そもそも問題はそこではない。問題なのは、自分が神か王であるかのように判断していること。
あたかも世界全部の事情を考慮したかのような、そういう言い訳をして、なすべきことをなさない。
「今見えているのが世界の全てなのだ、行動せよ」
というのが孔子の言葉の神髄であろう。
イラクで人質になった人たちに対する、国内にも困っている人たちはいる、なぜイラクなのか、という批判。しかし、それは情を軽んじた考えである。人の行動は全ての事情を考慮した上でなされるものではそもそもないからだ。
著書の中で天木氏は書いている、『外務省時代外交は感情に溺れて行うものではない、とよく言われた。しかし私はそう言われるたびに、それは違うのではないかと、反発を覚えていた。理性を働かして判断し行動することはもちろん必要である。しかし、理性だけでは行動に踏み切れない状況に、身を置かねばならないことがある。いや、最後の決断に踏み切らせる決め手となるのは、やはり感情であるはずなのだ』
難しいのは、彼が批判する小泉氏もまた従来の自民首相と比べて格段に情にまかせた判断・発言をする政治家であり、それによって国民の支持を得ていたという点であろう。その理性よりも情を重んじた行動が今回はレバノン大使であった天木氏の理性的な判断を完全に無視し、今のような事態を招いた。
さしあたっては、以下のようなことしか思いつかない。世界全体では・・・と諦めず、勇気と元気をもって目の前の行動をする。それが自分にもとめられていることだ。「どうせ私の一票なんか、入れたところで世界は変わりはしない・・・」などと悩む必要は少なくともなくなるはず。
『痛みをとること』
冬の或る日、親しい友人の一人から久しぶりに電話があった。しばらく互いの状況など話した後、彼が切り出したのは以下のような相談であった。彼の奥さん(S子さん)が、半年ほど前から首が痛くなった。運動不足を解消しようとフィットネスクラブに入り、しばらくして症状は出始めたらしい。首の痛みから、手もしびれ、足もだるいことがある、と症状は多い。近所の病院に始まって大病院、大学病院まで行ったが、骨や筋肉、神経には異常がないと言われたとのこと。血液検査でも異常はなく、首のヘルニア、癌の転移、なども含めて「何も異常は見つからない」との結果だった。「検査して異常がないのであれば、痛いときだけ痛み止めを飲んだらいいのでは?」と私は聞いた。しかし、痛み止めは効果がない、と。鍼治療やいくつかの健康法なども試したが効果がなく「仕方なく」私に電話をかけた、と(仕方なくでも結構であります)。
さらに話を聞いていくと、最近S子さんは知人からある”高級そうな?”歯医者さんを紹介され、顎関節症と診断された。”噛み合わせが悪いことから首の痛みが起きているかも知れない。治療は100万円ほどかかるが、そうすれば首の痛みも治るかも知れない。”「かもしれない」という言葉が何度も出てくるし金額がかなりすごいので、医師の端くれの私に聞いてからにしようと、夫は考えた。その診断をされてからS子さんはものを食べるときなどに顎の違和感が強くなってきて、今では顎関節症の治療に”すべてをかける”という感じになっているらしい。
私はS子さんに、(1)顎関節症と診断される人は多いが、首の痛みに特に関係するわけではない、(2)百歩譲って顎関節症のために首の痛みが出ているとしても、痛み止めの薬を飲んで効かないというのはおかしいこと、などを説明した。せっかくお金と時間をかけても治るとは思えない。この治療にかけていたS子さんはかなり落胆していた。「この痛みさえ消えるのならどんな犠牲でも払うつもり」と言う。
この悲愴さが問題を解くカギのように思えた。首が痛い人や肩がこる人、頭が痛い人、はたくさんいる。私自身も頸椎のヘルニアがあり、パソコンを長く使う日が続くと手指が痺れる。しかし、だからといって、痛みのために何もできない、痛みが取れるなら何でもする、というほど切羽詰まらない。S子さんは、翌日診察を受けに来た。痛みに対する不安が強いので、不安をやわらげる薬を使ってみましょうと説明し、1週間分処方した。
ここまでお読みの方が予想されるとおり、翌日、半年来のS子さんの首の痛みは「今までは何だったのか?」とあきれるほど、完全に消えてしまった。そう友人から電話があった。しかし電話に出たS子さんは、痛みが消えたことに本当に驚いていたし感謝の言葉も口にしたが、うれしそうではなく何か不安そうですらあった。翌週外来では、その不安の一部をS子さんはこう表現した。「あんなにとれなかった痛みがこれだけすっきり消えてしまうと言うことは、この薬はよほどキツイ薬なの?」ずっとこの薬なしでは生きていけなくなるのでないか、だんだん量を増やさなくてはならないのではないか、といろいろ心配している。しかし使用したのは一番軽い安定剤を最小量である。心配ないことを説明したが、その後、2ヶ月ほどで、結局S子さんは薬を飲むのを止めてしまった。そしてまた痛みが現れるようになった。
言葉では上手く言えないのだが、痛みが取れたときのS子さんと向き合って話をしていて私は彼女の中のもう一人の彼女の声を聞いたような気がした。「余計なことをするな!」。
頭と心は違うという。頭は意識、心は気分、と言い換えてもよい。例えば、頭ではタバコはよくないと思っていても心は禁煙をする気はない、頭ではダイエットをしようとしても心はもっと食べたいと思う、そういう食い違いがだれでも多かれ少なかれあるものだ。あの痛みはS子さんの心がS子さんの頭に向かって送ったメッセージであったのかも知れない。ただ薬で小賢しく症状を消したところで、深いところで苦しんでいる心には届かない。不安を取る薬がS子さんに結局役に立たなかったのは、痛み止めが効かなかったのと同じぐらい表面的な対応だったからだと、今は思っている。はてどうしたものか。
『子供と家事』
私は徳島で高校卒業まですごした。小学校のとき少しの間だけ塾に通った。塾の名前は吉田塾。元船乗りの吉田博先生は自宅の二階で近所の小学生に勉強を教えておられた。当時先生は40歳ぐらいであったろうか。先生の授業は楽しかったが、一番面白かったのは船乗り時代のいろいろな思い出話だった。中学に入ってからは吉田先生にお会いする機会はなかった。以来20年、あるとき家族で徳島の実家に帰省し、散歩の途中で懐かしの″吉田塾″の近くをとおった。先生に会いたくなり、まだ赤ん坊であった長男と家内と私の三人で先生のお宅を訪問した。吉田先生もご家族の方たちもかつてと変わりなくお元気で突然の訪問にもかかわらず歓迎してくださった。
それから数年後、ある日突然、吉田先生から手紙を頂いた。『田中君、いつぞやは突然の来訪、楽しかった。あの時のお子さんはそろそろ小学生か。おそらく君に似てやんちゃであろう。子育ては大変だろう?でも楽しいだろう?子育てで一番大事なことを君に教えてあげよう。』
先生らしい、ごつごつした大きな文字、そして率直な文面である。手紙は以下のように続いていた。
『子供には彼らの能力にあわせて家事をやらせなさい。4〜5歳でもできることはたくさんある。新聞を取ってくるとか、食べた食器を流しに運ぶとか、そんなことでもよい。それがこの家での君の仕事だよ、と納得させて毎日やらせなさい』『小学生になれば掃除や洗濯、料理もどんどんやらせなさい。親がすることの補助ではなく、簡単でも彼らが一人で全部できるようなことを毎日決まった仕事としてやらせるのがいい。それは親が楽をするためではない。子供が将来しっかり生きていくために親がしてやれる一番大事なことだ。それをやったら何かを買ってあげる、とか、お小遣いをあげる、などと″ご褒美″で彼らを釣ってはいけない。家の仕事は家族で暮らしていく上でみんながやるべきものなのだと、小さい子にも分かるようにきちんと説明すること。』
先生のありがたいアドバイスに従い子供にはできることをどんどんやらせた。兄がやっているのを見てきた弟たちは割り振られる仕事をすんなり受け入れた。
どういうふうに納得しているのか分からないが、子供たちは「〜くんのうちでは布団を敷かされたりしないって...。」のような″あさはかな″不満は言わなかった。今年3人兄弟は10、7、5歳になった。夏休みを前にして家事分担の計画を立てた。彼らは、床を掃除し、布団を上げ下ろし、洗濯物をたたみ、食器をならべ片づける。
上の二人には料理も教え始めている。作り方券メモし、買い物の計画を立て、必要なものをそろえて、作り始めたらさっさと体を動かす。火、鍋、フライパン、油に塩に砂糖に酢。家庭科だけじぁない。国語で社会で理科で算数で体育だ。
料理、自転車修理や、鋸引き、釘打ち、子供に教えながらつくづく感じる。「どれだけ根気よく待てるか」が勝負だと。親がやってしまえばきれいで早くて簡単なのは当然である。しかし、彼らはいつかどこかで無様な姿をさらさなければならない。それが″今ここ″なのだ。いい加減なことをしようとしたら思いっきり叱りながら、困難に立ち向かう彼らを敬意を持って見守っている。
ぎこちない指先を見ながら考える。自分もかつてなんと多くの人に辛抱強く見守ってもらったことか、と(いや、今もそうだ)。そして子供たちも、やがては辛抱して見守る立場になるのだ、と。
『脳を鍛える』
「大人が”脳を鍛える”にはどうしたらよいか」というテーマで取材を受けた。最近、『声に出して読む...』や計算ドリルのようなものなど、脳を鍛える本がよく売れている。そういう本のような内容で簡単に実践できるようなのをお願いします、とのこと。そういう本は読んだことがないので知りませんが「脳科学の(一応)専門家として」脳を鍛える(というか使う)ために私が実践していることは、以下のようなことです、と話した。
(1)TVを見ない。
もともとほとんどTVは見なかった。日本代表のサッカーと”試してガッテン”をみるぐらいだった。居間にテレビがあると子供達は(そして親も)何を見るでもなくすぐスイッチをつける。コマーシャルや看板を見てタバコを吸いたくなったりパチンコをしたくなるとの同じである。見たい番組があるのではなく、スイッチをまずつけると何かやっている、のである。試しにテレビを物置に入れてしまうと、よほど見たい番組があるときでない限り「あれ?テレビはどこ?」と聞かなくなった。しばらく物置に仕舞い込んでおいたら、見ようと思っても運んできていろいろ線をつなぐのが面倒でほとんど見なくなった。昨年の秋に、ついにテレビを知人に譲って家からなくしてしまった。
しばらくすると子供達がCMのフレーズを口ずさむことがなくなった。今では(子供も大人も)どうしてもみたい番組がある場合には近所のスーパー銭湯に行きサウナの中で見る(チャンネルを変えられなくてあきらめることも勿論ある)。
テレビを見なくなると眠るまでの時間が長い。ゆっくりご飯を食べる。テレビがない食卓は食べ物を噛む音や飲み込む音が聞こえる。本を読みジョギングをする。家族で話しケンカし笑う。
(2)ケータイを持たない。
電車を降りると(電車の中でも)、店を出ると、通勤通学の途中に、うつむきながら小さな画面を見ている人々。普及し始めの頃に感じた悪い印象が消えないので、私は今もケータイを持っていない。「そんなんで仕事やっていけますか?」とよく聞かれる。待ち合わせの約束や予定変更の場合など、ケータイを使わないとなると、まさに”頭を使う”事態になる。持っていればそんなことはない、
「あ、もしもし、オレ。あのな電車一つ乗り遅れた、それで次のに乗った。で、今つくところ、ほら前から2両目、おー見えた見えた(互いに手を振る)」。
そもそも遅れないように早めに出ればよい。しょっちゅう遅れるのであれば、遅れたらどうするか、あらかじめ決めておけばよい。事故など不測の事態で遅れる場合、これはどうするか。あきらめる、のである。待たされている方は、”何かあったんやろか?”と相手を思って待つのである。 会えないとき、声が聞けないときこそ、頭を使って相手のことを考える。”待ちぼうけ”という趣深い言葉はケータイを使う人には無縁のものとなっていく。
先日も互いに名前は知っているが直接は会ったことのない二人の青年(AさんとBさん)がある駅の改札口で待ち合わせをした。少し遅れて待ち合わせ場所についたAさんは、人混みの中からBさんらしき男性を見つけたが、”念のため”Bさんにケータイをかけた。Bさんがケータイをとったので、”安心して”まず、電話で「今つきました、遅れてすみません」と誤り、近づいて、「はじめまして、Aです」と挨拶した。私がケータイを使わないと言うと、例えばこういうときに役に立つとAさんが挙げてくれた例である。Aさんは話し方の丁寧な好青年である。でも、と私は考える。少し勇気を出して(いや勇気もいるまい、気楽に)、「すみません、もしかしてBさんですか?」と話しかければよいではないか。いちいちケータイで確認してからでないと近づけないのなら、「あのぉどこかでお会いしませんでしたか?」などと初対面の女性に接近することなんてできまい。
雪山で遭難したときなど、たしかにあれば便利なこともあろう。しかし、便利さの裏で失っているものがあることに多くの人は気がついていないのではないだろうか。雪山に行くときには私もケータイを持つつもりですが。
(3)料理を作る。
女性と男性の脳の働きの違いか(俗っぽい言い方ですが)、男にとって(少なくとも私にとって)料理は、かなり頭を使う。二つのものを同時に作るときの段取りなど、紙に書いて計画しないと到底できない。頭はかなり鍛えられる。
料理を作ることは手を動かすだけではない。何を食べるか食べたいか自分に問う。買い物の計画を立てる、そして実際に買いに行くと高いもの安いもの、予定していたものがなかったり予定外のものがあったり、迷うので頭を使う。朝に夜の、夜には朝のご飯をセットする(量は?時間は?)という先のことを考える必要もある。前に作ったときの失敗や改善点を次回に活かす。新聞で読んだレシピ、人から聞いたレシピに挑戦する。見ること聞くこと触れること味わうこと、道具の使用、記憶。さまざまな脳の機能を使う。
このほか、家事は何でも頭を使う。子供とふれあう、スポーツをする、旅行に行く、なども脳を鍛えるでしょう...
このような、話をしていると、記者の方は、「なんか普通の生活のなかのことなんですね。数字をたくさん覚えたり、計算を速く次々とやったり、そんなトレーニングはしなくていいのですか?」と聞かれた。取材のために”脳を活性化するのは○○だ!”のような内容の本をたくさん読まれたとのこと。そこで私は説明した。
大事なことは続けること、続けられること。毎日の生活のなかで、五感を使って手や身体を動かして、そして周りの人と関わり合いながらやっていくこと。計算したり数字を暗記したりするよりも、ずっと深くはるかに多彩に脳のいろいろな場所を使う。脳にも心にもこれでいいのです。
どんなものでも使わないでいると、やがて使えなくなりますよ。
自律神経
手は曲げようと思えば曲がる。このとき筋肉に命令を伝える神経は、「意のままに動く」ということで随意神経と呼ばれる。汗はかこうとしてもかけない。運動したら結果として汗をかく。汗や涙、胃液を出したり、腸を動かしたりといった自動的な働き、これらを調節している神経は「自律神経」と呼ばれる。自律神経は「交感神経」と「副交感神経」という二つの相反する働きをするシステムからなっている。この二つの神経が体のいろいろな働きを調節をする仕組みはネズミでも犬でも人間でも同じである。「交感神経=戦い・逃避の神経」「副交感神経=休息・憩いの神経」と言われる。
餌を求めて相手を襲う、餌食にならないために必死で逃げる。そんなときは全身がその目的のためにまさに一丸となる。こんな「命の危機」には交感神経が優位になる。オオカミに追われる鹿を考えてみよう。最高のスピードで駆けるために筋肉にたくさん血液が送られる。酸素がたくさんとりこめるように気管支は拡がり呼吸は荒くなる。筋肉や脳で使うため血糖値は高くなる。敵に噛みつかれるかも知れない、イバラのなかを駆け抜けてケガをするかも知れない。出血してもすぐ止まるように血液は粘っこくなり、血管はぎゅっと細くなる。ゴルフではグリーンの上で心筋梗塞が起きやすいのもこのためだ。心臓は脈を増やし血圧を上げてどんどん血液を送り出す。粘っこくなった血液が縮んだ血管を通って送り届けられるためには高い血圧が必要だ。また傷口からバイ菌が入ってくることに備えて白血球のなかでも好中球とよばれるタイプの細胞がグッと増える。こんなとき食べたものの消化は必要ない。胃液も唾液も出なくなる。緊張して口がカラカラになるのは交感神経が興奮しているからだ。ケガの痛みや虫さされの痒みも感じなくなる。そんなことにかまっている場合ではない。ケガをしたところが赤くなり腫れてくる現象は炎症とい呼ばれるが、これは痛んだところを修復する働きだ。炎症も逃げるときにやることではないので抑えられている。
さて、なんとかオオカミを振りはらい鹿はねぐらにたどり着いた。今度は副交感神経が優位になる。およそすべてが逆になる。筋肉に行く血液は減少し、胃や腸に行く血液は増加する。気管支は狭くなり呼吸はゆっくりになる。心臓もゆっくりと脈をうつ。休息は将来への備えのときでもある。食べたものをしっかり消化吸収し栄養を蓄える。痛んだ体を修復する。ケガしたところは炎症を起こして赤く腫れて痛みがでてくる。痛いところは動かせないので安静がとれて早く回復する。痒みにも敏感になり、ノミやダニが見つけやすくなってとりのぞかれる。
と、ここまで説明したところでアトピー性皮膚炎や喘息の症状がでるときを考えてみよう。これらの症状がひどくなるのは休息モードにはいったとき、副交感神経が優位になったときだ。家に帰ったとき、ご飯を食べた後、お風呂に入った後、寝床に入ってから。それまで痒くなかった体が痒くなってくる。なんだか息苦しくなって咳が出始める。緊張していたときは気にならなかった喉のホコリを、リラックスして敏感になったカラダが咳で追い出そうとし始める。
ステロイドは交感神経の働きを優位にするときに命令を伝える物質(ホルモン)だ。だから気管支は拡がり呼吸がしやすくなる。痒みを感じにくくなる。その代わり体を修復するような働きは押さえられる。たとえば絶えず胃酸にさらされている胃の粘膜の修復の働きも悪くなり胃潰瘍ができたりする。生物の本質に深く関わっているステロイド。使い方のもっとも難しい薬と言われるのも当然である。
「情けは人のためならず」の心理学
情けをかけるのは相手のためにならない、と誤解されていることわざとして有名である。辞書の意味は「なさけを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る」となっている。聞けばなるほどと思う。しかし、めぐりめぐって果たしてよい報いが来るのかどうかは、不確実ではないか。必ずといいきるのは難しいのではないか。以前から疑問に思っていた。
この疑問に ずばっ と答えが見つかった。あるとき見に行った芝居の中の会話である。
「ある人は悪いことをしても罰されず、またある人は良いことをしても報われない、神様の報いはないのですか?」
と子供が聞く。それに対してシスターが答えた。
「報いはたちどころにあります。良い行いは良い行いのその中に、悪い行いは悪い行いのそのなかに、すでに神の報いは含まれています。」
稲妻が心の中で何かを打ち抜く感じであった。
電車で席を譲ったことのある人は知っているはず。立ったとたんに座っているよりもずっと幸せな気分になる。これは相手が喜んでくれたからか?そうではなかろう。誰も見ていないところであっても同じことである。例えば公園に捨てられている空き缶を拾っただけで、誰が喜んでくれたわけでもないのに幸せな気分になる、そんな経験は誰にもあるものだ。いいことをすると、相手に親切にすると、そのとたんに自分に幸せが訪れる。逆の場合も、すなわち他人が誰かにひどいことをしているのを見ると、自分に直接の害がなくてもいやな気持ちになる。これはなぜか。心理学的な説明はおそらく次のようなものであろう。
人は自分の住んでいる世界、そこに暮らす人々について心の中にモデルをもっている。そのモデルはこんなことをしたら他人はどう思うであろうか、というようにその人の行動をコントロールしているであろう。自分の服装や髪型を気にするとき、人は心の中の他人の目を想定しているはず。他人の目を気にしない行動はしばしば「傍若無人」と非難される。心の中の他人の目は、いわゆる「世間様」である。「世間」がどのようなものであるかは、それぞれの人がどのような他人のイメージをもっているかによって様々であろう。
心の中の他人は、実はその人自身の感じ方や考え方をもとに作られているではないか。それだからこ、人に親切にすると、自分の心の中の他人も親切な人になる。世間は親切な人々のたくさんいる世間に変化するであろう、住みやすい快適な世界。反対に他人に冷たくしたらすると心の中の世間も冷たい人たちがぐっと増える。簡単に言うと他人に親切にすると、その人にとって世界は親切な人がたくさんいる世界になる。人に冷たくするとその人からは世界は冷たい人がたくさんいるように見える。これは国のレベルでもあてはまる。武器をたくさん持っている、他国を侵略しようとしている、そんな国は他国から攻撃されることを強く怖れるものだ。疑心暗鬼である。
他人に親切にしようとする気持ちは人間が生まれながらに持っている性質のようだ。小さな子供でも他の人に喜んでもらおうとしていろいろな行動をする。私の祖母が亡くなる前、痴呆がでていたが会いに行くたびにいつも私に何かを呉れようとしていた。人は本来はどうすれば幸せになれるか、知っている生き物なのだ。
良い行いは良い行いの中に、すでに報いが含まれている。
ある患者さんとの診察室での会話です。軽い糖尿病があり、食餌療法をされているかたです。
患者さん:「私はサウナによく行くのでなんとか体重が増えずにすんでいます。一回サウナにいくと1kgぐらい減らして帰ってきます。そのあとビールを500ccのを一缶飲んで寝ますから、差し引き500g減ってます...」
この話の中にいろいろ間違いがあること、気づかれる方も多いと思います。近頃は『ためしてがってん』など健康に関するいいTV番組がたくさんありますし(『おもいきりテレビ』は私は×だと思ってます)。サウナで汗をかいて体重が減っても、それは水分が減っただけで、脂肪はとれていません。水を飲んだらまたすぐ元どおりです。そしてもとに戻さないといけないのです。汗は皮膚にある汗腺で血液をこしてつくられています。汗をたくさんかいたら血は濃くなります。血が濃くなると血管の中でつまりやすくなり、危険です。
さらにビール。ビールはカロリーがあるので体重は増えます。しかし、それよりもずっといけないのはビールの利尿作用です。ビールに限らずアルコールは腎臓に流れる血液の量を増やすので、結果的におしっこが増えます。ビールの場合も飲んで体にはいった水分よりも後からでるおしっこが増える量のほうが最終的には多いそうです。
つまりサウナで1kg(=1リットル)も水分を減らし、ビールの効果でいつもより多めにおしっこでて、体はますます水が足りない、脱水、の状態になるでしょう。血は濃くなって血栓や梗塞の危険が高まります。
ではサウナは健康には役に立たないのか、というとそうではありません。私はサウナによくいきます。患者さんともよくお会いしサウナの中でいっしょに阪神を応援することもしばしば。いろいろあるサウナの効用でわかりやすいのは減塩です。血液検査でナトリウム(Na)150 mEqなどと書かれているのをごらんになったことがある方おられるでしょう。血液の中にナトリウムが0.15モルはいっている、ということです。塩1モルは約60gですので、血液1リットルの中には60g×0.15=約9グラムの塩が溶けていることになります(0.9%の食塩水を生理食塩水といいます、病院で点滴している食塩水はこれ)。これは大昔の海の塩の濃度とほぼ同じだそうです。今は2.5%と塩分濃度が昔より高くなっています。この理由は塩鮭がたくさん泳いでいるからではなく、川から陸地の塩が少しずつ少しずつ流れ込んでいくからだそうです。
さて、血がしょっぱいから汗もしょっぱい。普通の場合、汗の塩分濃度は0.65%程度です。コップ1杯の水200ccに1.3g(小さじ半分ぐらい)。血液をこして汗が作られるとき塩が出ていかないように汗腺は塩を再吸収しているそうです。塩は体にとって大切なので体はなるべく塩を失わないような仕組みがあるんですね。私の場合、計ってみるとサウナに入りながら合計2リットルほど水を飲んでいるようです。5−10分サウナに入り、水風呂に頭までつかる、を多いときで10回、ナイターが延長戦になったらもっとたくさん、やっています。そして出たときに体重は変わっていません。ということは2リットル汗をかいている。汗と一緒に出ていった塩の量を(単純に)計算すると2000cc × 0.65% = 13g!!実際には汗をかいて塩分を失っていくと汗の塩分濃度は0.3%程度まで下がるそうです。それでも2リットル汗をかいたら6gも塩が出ていくのです。あとできちんと水分を補充したら塩がでていったことになりますね。ラーメンを食べに行ってしまってスープも全部飲み干してしまったら(私はこれをよくやってしまうのですが)また10gぐらい塩が体に入ってくる、するとまたサウナに...いつまでも家に帰れません。
塩は体に大事なものです。塩がなくなりすぎると(電解質以上といわれる状態)脱力や眠気など異常が出てきます。なんでもやりすぎは危険です。ご注意ください。ではナイターのある日にサウナでお会いしましょう!
水不足でが続いていました。我が家での節水方法は基本的なものばかりです。まず風呂の残りを洗濯に使う。15リットルのバケツで4回汲みます。浴槽と洗濯機は2mほどしか離れていないので楽なもんです(といいながら奥さんが主にやっているので偉そうに言えません)。途中で脱衣場に水かこぼれないように浴槽からすくい上げた時点で浴槽の縁に2−3秒バケツの底を載せて待ちます。そして、これは筋トレだ!と思いながら洗濯機に注ぎ込む。毎日約50リットル。冬の間は我が家では2−3日に一回しか風呂に入らないので年間だと風呂を使うのは250回ぐらいでしょうか。すると50リットル×250日 = 12500リットル(12.5トン)再利用していることになります。未だに多くの国では女性や子供が毎日長い時間をかけて生活に使うための水をときには数キロも運んでいる。そんなことも頭に浮かびます。それを思えばこれぐらい。昔は日本でも手押しポンプの井戸で水を汲んでいた頃もあったでしょう。すぐ近くの環境で不便さを考えるのではなく、昔のことや外国のこと、時間的にも空間的にも広い(文字通り”グローバル”な)視点で考えれば、多くのことは悩むことでもないことに気がつきます。余談ですが、5人家族で80平米の家は狭い、と最近の感覚からは思うかも知れません。しかし、昭和30年代には60平米弱の風呂付きの団地に入ること庶民の夢だった、毎回抽選に応募した、なんて頃があったことを思えば、今、感じる不満が多分にコマーシャルなどによって作られたものであることに気づかされます。
さて、シャワーではなく風呂、ということも節水になります。我が家のシャワーで調べたところ普通に使う強さで大体1分間に20−25リットルほど水が出ていました。一人4−5分の使用で100リットル、4人家族で400リットル。風呂なら浴槽のサイズにもよりますが標準サイズの我が家の浴槽なら55cm×90cmで深さ40cmにして200リットル弱です。しかも風呂の場合には洗濯にリサイクルできます。一人暮らしでなければ風呂の方が節水になるようです。また阪神大震災以来、風呂に残り湯が貯まっている状態にはなんとなく安心感を覚えます。もしも夜中に地震が来て水が止まっても200リットルはここにあるぞ。
この他、わりと効果的なのがバスタオルの洗濯に関することです。うちは3人子供がいるので、もしも毎回家族各自の使ったバスタオルを洗濯しようとすれば、風呂に入るたびにバスタオルだけで一回洗濯機をまわさねばなりません。しかし、湯上がりの水気を拭いただけのバスタオルは干しておけば十分きれいなはずです。脱衣場にかけておくのではなく外に、できれば日の当たるところに干しておけば日光消毒にもなっていいでしょう。夏など干した後のバスタオルはぱりぱりで太陽の香りです。使って干して使って干して使って干して...で長いこと洗っていないことがよくあります。不思議と次第にバスタオルから懐かしい香りがするようになってきます。お客さんに使ってもらうわけじゃなし、これでいいのだ、と私は考えています。
この他、同僚の某Drが実施しているという方法、毎回トイレでは尿瓶を使い、尿は貯めておいて畑の肥料にする、というのはすごい方法です。我が家で男の子3人と私が毎日各自3−4回ずつオシッコするとしてそのたびに流す水数リットル、合計一日で50−60リットルの節水になります。が、長続きしていません。今後の課題です。家内は絶対協力しないといっております。
せこい、と言われることもありますが、お金の節約のためにやっているのではないのです。毎朝髪を洗わないとだめ、毎日シャワーじゃないとだめ、他人の入った風呂には入れない、干しただけのバスタオルは気持ち悪い、なんて子供はたくましい優しい大人になれないのではないか、と危惧しているからこそ、世界を視野に入れた教育をしているのです。世界を視野に入れるとなぜ、トイレでペットボトルにオシッコを貯めるのか。それはまた次の機会に。
春である。カラスノエンドウやホトケノザ、タンポポなど空き地の野草も花盛りである。野菜が体にいいというのなら、これら自然の草はさらにいいだろうが、残念ながら道ばたの草をサラダで食べられる人は少ない。しかし鶏に食べさせてその卵をいただくことはできる。鶏たちは小さいからだでものすごい量の草を食べ、そして体の割にすごく大きな卵を産む。1.5kgぐらいの体で毎日200g弱の餌を食べ60gの卵を産む(人間だったら毎日お産しているようなもの!)。かちかちに乾いたパンでも腐った納豆でも畑のナメクジも何でも食べる。暑さ寒さも平気。偉い生き物である。先日、庭で鶏に草をやっていたら60歳ぐらいの男の人が近づいてきた。自分も鶏を飼っているという。その人曰く。病気をしてから健康に気を使うようになり野菜を自分で作り鶏も飼うようになった。初めは鶏の飼料は市販のものを使っていたが輸入のエサには殺虫剤がたくさん使われていることを知って怖くなり、今は日本酒を作るために使われたお米の残り物など、いろいろ工夫して国内のエサを集めている。と、いうような話が弾んできたところでその人はおもむろに胸のポケットからタバコを取り出して吸い始めた、私にも勧めながら。天気もいいしタバコが美味いでしょう、なんて感心している場合じゃない。そんなにこだわりの養鶏をしているのになぜ(発ガン物質がはいっている)タバコを吸うのですか?と聞くと、これは止められないから、と苦笑いをされていた。苦笑い、だけですか?!
同じようなことは外来でもよくある。先日も、ある女性患者さんから「血圧が高いと言われて薬を出されたが何が入っているのか心配で、できれば飲みたくない」との相談を受けた。明らかな高血圧のある方であった。確かに副作用のない薬はないが、飲まないよりも飲んだ方がいいことのほうが多いという判断で出しているのです、などと説明をしたあとでふと気がつくとその人のバッグからライターがのぞいている。タバコを一日一箱吸うとのこと。薬の副作用を気にされるどころではない、タバコには明らかに発ガン作用のある毒が入っているのですよ、と言っても「分かってるんですけどね」と苦笑いされるのみ。また苦笑いですか!
脳梗塞など脳の損傷によって起きる特殊な病気に「病態失認」というものがある。左半身が麻痺しているのに患者さんはその事実を頑なに認めない。本人にしてみたらなぜ医者が自分にそんな嫌なウソをいうのか、という感じであるようだ。目の前にその方の動かない左手を持ち上げて見せて、これは誰の手か?問うと「知らないが、自分の手では絶対ない!」などと答える。患者さんの家族の方は「頭がおかしくなってしまった!」と動転されるが、患者さんは他のことに関しては知能・記憶など正常である。自分の体の麻痺についてだけ合理的な判断ができなくなってしまっている。ほとんどの場合このような症状は脳梗塞などの発症後一過性に起こり間もなく回復して消失する。自分の体への重大な変化を受け入れるのに時間がかかるからだと考えられている。わざわざこのような稀な症状の病気について書いたのは、タバコを吸う人についても似たような現象が起きていると考えられるからである。タバコ以外では健康に気を使っている(ようにみえる)、しかし、体に悪いことがあまりに明らかなタバコについては、あたかもそれが全く分からないかのようである。風邪がなかなか治らず咳が続く、喘息でたいへん苦しい発作を起こしている、子供がタバコを飲み込んで救急車で運ばれた、など悲惨な状況が続いてもタバコに伸びる手は止まらない。
ではどうしたらよいのか?これは今もいつでも考えている。理屈で説明してもダメなことは分かってきた。タバコを止めたいのに止められないという人の中には、二人の人がいると思った方がよい。合理的な判断ができる人と、理屈の通じないスモーカー、この二人が同居していることを念頭に置いて接していかないと説得は全然効果がない。花粉症は治ったが、この春も煙が目にしみる。
タバコについて。
環境ホルモンに関して書くようにとのことだったが、結局は日々の暮らしの中でどのようにして自分にとってまた社会全体にとっての危険を減らしていけばよいか、を考えた方が有益であると思い、今まで書いてきた。今回はこれまで扱ったどれよりも切実で被害も最大の悪者、タバコ、について書いてみよう。
昨年、アメリカの巨大タバコ会社がいくつかの州政府との裁判で破れて総額数十兆円の罰金を今後30年間にわたって払い続けることになった。裁判での双方の主張は以下のようなものである。
州政府:「タバコを吸う人たちは肺ガンや肺気腫など病気になりやすい。その人達の医療費の一部を州政府は負担している。これはタバコ会社が払うべきものである。」
タバコ会社:「タバコは体に悪いと知っていてみんな吸っている。長生きしたいかどうかは個人の自由であって、タバコ会社の責任でない。また、タバコのせいで病気になる人は結局平均より若く亡くなるので、長生きしている人よりも一生の間に使う医療費の総額は安くなる。医療費の減額に貢献しているのである。」
冗談のような本当の話である。タバコ会社側は実際の試算(肺ガン患者とそうでない人の平均医療費の比較)データまで提出した。アメリカでの裁判は陪審員制度になっており、このタバコ会社側の開き直りは、当然好感されず、懲罰的賠償(懲らしめる意味も込めて要求よりも多い額を被告側に支払わせる決定)という判断が下されることになった。今、アメリカのタバコ会社は広告はもちろん許されず、反対に子供向けの禁煙教育の莫大な費用を負担させられている。ただし外国での活動は禁止されていないので日本では電車や街頭に今でもたくさん広告がでている。新聞などによると巨大な中国市場などアジアでの売上高倍増を目指しているとのことである。
さて、直木賞作家の出久根達郎氏の小説の中で、ある老人が必ずマッチでタバコに火をつける話が出てくる。その老人曰く「ガスライターのガスが癌の原因だ。マッチの頃には癌なんて無かった。」無論、これは思いこみであろう。しかし喫煙率は大きく変わらないのに肺ガンが増えているのは確かに奇妙である。今年、ディーゼルの排ガスが肺ガンの原因物質のひとつである可能性が実験で示され話題になったが、このような大気汚染全般の影響で肺ガンは増えているとも考えられる。他の理由としては農薬。いくつかの研究によるとタバコの煙の中のダイオキシンが含まれている。これはどこから来たものか?二つある。一つは大気中のダイオキシン。葉から取り込まれる空気には場所によって濃度の差はあるがダイオキシンが含まれている。これはタバコの燃焼によって再び煙になって大気へまたは肺の中へと移動する。植物は光合成のため空気を気孔から取り込む。無消毒の野菜でもダイオキシンが検出されるのはこのためである。もう一つはタバコの消毒に使われる多くの農薬である。1000度以上の高温ならダイオキシンは発生しにくいというのは皆さんご存じであろう。しかし、タバコの燃焼のようなくすぶる温度(400〜700度)はダイオキシンの発生にぴったりの温度である。葉に残っている農薬が低温で燃やされてダイオキシンになるのであろう。同じ理由で消毒した街路樹の葉を燃やすのも危険である。発生するダイオキシンの量は膨大であろう。
ただ実際には、タバコの煙の中のダイオキシンを考えることはあまり意味がないと私は思う。なぜか。タバコの煙の中にはベンツピレンなど明らかな発ガン物質が含まれている。病気との関係が未だ明らかでない環境ホルモンと違って、これらの物質は癌を引き起こすことが医学的に明らかなのである。
先日、ある自治体から依頼されてダイオキシンに関する講演をしてきた。意外といっては失礼だが、年輩の議員さんたちも2時間近く真剣に聞いておられた。質問もたくさん出た。「問題の深刻さがよく分かりました」と何人もから礼を言われた。終わって会議室から廊下に出るとほとんどの人がソファーに座っていた、みんなの手には当然のことだが、タバコがあった。
始末について
私は始末に暮らしている。始末というのは物の始めから終わりまでをきっちりする、ということである。無駄にしない、ということであって、けちんぼうとは違う(と自分では思っている)。今回は「ゴミを出さない私の暮らし」、(ビニール袋)の巻。
1)買い物袋 よく言われることであるが買い物には袋を持っていこう。私は忘れっぽいので、買い物に行く前には袋を持たずに家を出てしまい、レジに並んで初めて袋を持たずに来たことに気づく。つらい気持ちで買い物袋をもらってしまうというつらい日々が続いたこともあった。しかし、これはビニール袋を畳んで財布に入れる、ことで解決した。コンビニなどのビニール袋はうまく畳めばぺっちゃんこになりお札と一緒に財布に入る。入れたすぐだと空気が残っていて財布が少しかさばるが一晩もすれば本当にぺっちゃんこになる。買い物したときレジで財布からおもむろに袋をとりだして拡げる、後ろに並んでいる人とかに聞こえるように「袋は、持ってきてますので結構です」と宣言するときの心地よさ。はじめに小さめの声で言って、店員さんに聞き返されると大声で2回目に言う、なんてのもいい。また、外食などのときも、役に立つ。残り物はがっさり袋に入れる。私の家では鶏を3羽飼っている。彼女たちへのおみやげの残飯はいつも財布の中のビニール袋に入れることになっている。こうやってよく使った袋の、最後のおつとめは犬の糞入れ。「こんなにも尽くした私への最後のしうちがコレですかー」と袋の絶叫が聞こえてきそう。
2)傘の袋 数年前のあるとき、人と待ち合わせてしばらくスーパーの前で待っていた。その日は雨で、入り口に傘の袋が置かれていた(縦長のやつです)。100人ほど見ていたと思う。2人だけ(若い女性と男子高校生)使用されて捨てられた袋を迷い無くとって傘を入れた。「傘を入れるだけなんだし、どうせ濡れるんだから人が使った袋で全然困らない」そういいたげな毅然とした態度。立派な素敵な人に見えた。私の「始末」へのライバル意識がメラと燃えかかった。先にやられて悔しいけれど、始めるのに遅いことはない。この日以後、新しい傘の袋を使ったことはない。
3)パンの袋 近所のパン屋さんへ休日の朝はパンを買いに行く。店員さんは必ずひとつひとつを小さな袋に入れてくれようとする。私はこれを拒否する運動をしている。紙袋をもっていき、ひとつひとつ包まずに全部一緒にそのまま入れてください、と頼んでいる。中には上にクリームが付いているやつやカレーパンなどのあげパン類もあり、店員さんは「これだけはお入れしときますね」などと言いながら小さな袋に入れようとする。それも拒否する。「すぐ近くですし、すぐ食べますからそのまま一緒に入れてください」と毅然と言い放つ。先日など、何も言わずにクリームデニッシュだけ小さな袋に入れようとした店員さんに「あっ、コラ!」と思わず言ってしまった。その声に驚いて後ろでこっそりパンに触っていた次男(4才)が手に持っていたのを床に落とした。それでも父の戦いは続くのであった。
今は昔、私は月曜日と木曜日に外来を担当していた。ある年の春頃、月曜日にだけ発作を起こすという少し変わった喘息患者さんが来られていたことがあった。30代後半の主婦の方である。普通、大人の喘息の方は子供の頃にも喘息を患っていた、とか喘息はなくてもアレルギー性鼻炎がある、風邪の後はしばらく喘息のような咳が止まらない、といった喘息の方に特徴的な「過去」をもっておられることが多い。この方にはそれがなかった。また喘息の方は呼吸機能検査という肺の働きを調べる検査をすると肺の中の空気の通り道(気管支)が痛んでいることが数字に表れてくることが多いのにそれが全くなかった。また、喘息以外に咳を起こすような病気、肺ガンや結核、特殊な肺炎なども調べてみたが異常なしであった。また、月曜日には必ず出る訳ではなく、なんともない日もあることが分かってきた。この方の喘息の発作は咳込みが止まらなくなる咳発作と呼ばれるタイプのものだった。
ある月曜日の夜、発作を起こして来られたその方が「昨日、頑張りすぎたかなー」と。聞けばマンションを買ったため近々引っ越しをする予定で、昨日は掃除などに行っていたという。「!(心の中で おおっ と叫ぶ感じ)」と思い調べてみると、はたして発作の出た月曜日はいつもその前日にマンションに行っていた。日曜日の夜から咳が出始め月曜日には病院に来る、というパターンを繰り返している。マンションは築5−6年の新しいものだったが絨毯やクロスは入居に向けて改装していた。この絨毯の防虫加工など薬品やクロスの接着剤が揮発して閉じきったマンションに充満している可能性があった。
アレルギーに詳しいW医師に相談したところベイクト・アウトという方法でやってみなさい。と言われた。石油ストーブを丸一日たきっぱなし部屋の温度をサウナのように上げ乾ききっていない接着剤や揮発性の薬品などをどんどん蒸発させる。同時に換気扇をまわして(数日間回しっぱなしにする)それらを外に出してしまうという方法である。この方法を行った後、その患者さんの咳はうそのように治まった。
W医師によると、絨毯やクロス以外にも、カーテンや合板でできた家具などからでる揮発性の薬品でアレルギーや体調不良を来す人は多いとのことだった。このごろのマンションは気密がよい。クローゼットに防虫剤を多めにつるしていると、そのガスは知らぬ間に室内に充満し低いところによどんでいることがあるらしい。はいはいしている赤ちゃんはそれをすべて吸い込んでいるわけだ。また、電気掃除機の紙パックにも「防虫防ダニ」と書いてある。キトサンなど天然の防虫成分を使っているものもあるが、農薬をしみ込ませてあるものも多い。掃除機をかけると室内の農薬濃度は一気に上昇する。我が家ではよほど換気の良い状態でしか掃除機はかけない。
このような話は「シックハウス(病気の家)症候群」と呼ばれる状態で今ではよく知られるようになった。しかし、つい数年前まではほとんど知られていなかった。
その次の年、秋頃に法事に出た。そこである人が「梅雨前に引っ越したら家族の皆が目が痛くなったり咳が出たり気分が悪くなったり、と体調が悪くなりどこの病院に行っても原因不明...」と話していた。その方は引っ越した方角が悪いのだと考え方位学の権威の方に相談に行き、なぜか印鑑を作ったという。「そしたらぐっと具合が良くなりましたわ」と喜んでおられた。アフリカ象の牙でできた印鑑のせいではないかもしれない。夏の間に気温が高くなり薬品が蒸発したのと、暑くてよく窓を開けたので空気が入れ替わったのかもしれない。新築のシックハウス症候群は夏を越すと良くなることが多い。もちろん、そんなことは口に出さなかった。
印鑑はかなり高価だったし、ただでさえ親族の集まりでは若造の医者たちは健康相談ばかりやらされているのだから。
基本的に菜食主義の私ですが餃子を作るときだけは別です。粉を水で練って皮から作ります。全粒粉といって、ふすまも入っている粉を使っています(去年は自分で小麦を作り15kgほど収穫しました、くわしくはhttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/shigekit参照)。精麦や漂白してある小麦粉は使わないのでできあがりは少々うす茶色の餃子になります。中身にはむきえびも入れますが普通に売られているエビはたいてい漂白してあります。身を白くしたほうがよく売れるからでしょうか。漂白していないむきエビは土色をしています。はんぺんや竹輪なども白いほうがよく売れるので白くしているのでは?とすこし気になります。ちょうどトイレットペーパーが白くないと売れないのと同じ原理なのでしょう。再生紙も白くするために大量の塩素系薬品を使用せねばならず環境破壊になるしコストアップでリサイクルを難しくしているそうです。
ハムやソーセージは赤く着色してあります。最近はときどき無着色と表示されたものが売られていることがあります。これらはやっぱり土色をしています。エビもそうですが生きているときと死んだ後では色が違うのです。死んだら土に帰る、茶色になるのです。いつまでも赤い肉はなにかおかしいのではないかと私は勘ぐってしまいます。先日も肉の色を赤くするために一酸化炭素を使用していた業者が指導を受けた、と新聞に出ていました。一酸化炭素は血液の赤血球と結びついて鮮紅色になります。一酸化炭素中毒の患者さんの血液は鮮やかな赤色をしている医学部時代の内科の教科書に載っていました。一酸化炭素はなかなか赤血球から離れないので酸素が運べなくなって中毒を起こすのです。それを利用して肉の色を鮮やかにする、それを口にしても何ともないのだろうか?と一応、私は医師ですがすぐには判断つきかねます。が、大事なことはそのような見掛けの色につられて買う消費者が多いので業者もそのような「細工」をするということです。
お風呂で使う石鹸やシャンプーにも強烈な匂いがついています。汚れを落とすのが主眼のはずですが強い匂いがつくために汚れがあっても匂いで発見することが難しくなるのではないかと心配になるほどです。この他、シャンプーやリンスには泡を立てるための界面活性剤という成分が入っています。これは台所洗剤や洗濯洗剤にも入っています。「キャップいっぱいでもこんなにきれい」と言っているのは強力な界面活性剤が入っているからです。この界面活性剤は排水溝から下水道に行ってもなかなかその効力が消えずおそらく川や海を汚しているでしょう。埃やごみといっしょになって微生物に食べられそれを小魚が食べ大きな魚やエビが食べ...我が家の餃子に帰ってくるのです。強力な洗剤が売れるのも「真っ白なシャツ」でなくっちゃ...という考え方が浸透しているからでしょう。しかし、生き物は生きているがゆえに黄ばんでいくのです。偽りの白さに引かれるのはよそう!僕らはみんな生きている、生きているから黄ばむんだー♪
アメリカでは現在ブーマー世代と呼ばれる50歳代の人々に難聴が増えているそうです。原因はこの世代は若いころからカーステレオやTVなどで大きな音量にさらされる時間がそれ以前の世代と比べてぐっと増えたからだと考えられています。実際に何が起こっているか、についても解明されています。耳の鼓膜の奥にあって脳に音信号を伝える有毛細胞という細胞が年齢の割に早く働かなくなってしまい全体の数が少なくなっているのです。考えてみれば大昔は大きな音といえば雷かおやじぐらいしかなかったのです。人の耳はその程度の音の環境で50−100年持つように作られているのでしょう。私も含めたウォークマン世代ではどうなるのか心配です。が、ここの医学雑誌の記事を見て以来、大音量でステレオをかけたあんちゃんの車が割り込んできても以前よりずっと寛大に道を譲ってあげられるようになりました、お大事に、と。振りが長くなりましたが、この難聴の問題と同じように匂いでも問題が起きてくるでしょう。香水、コロン、シャンプー、ヘアースプレーの非常に強い匂いを毎日かいでいる人の鼻では予定より早く匂いの神経細胞(嗅細胞といいます)が死に絶えて予定より早くにおいがなくなってしまうでしょう。お気をつけて。
体から出るにおいをあまり嫌わず、偽りの香りは身にまとわず、食べ物の本当の色を楽しみながら暮らす、これが私の防衛策です。
前回の記事にたくさんの反響いただきましてありがとうございました。読者の方の関心の高さに驚きました。この記載は私が個人でどうしているか、について書いております。けっして積極的に勧めているわけではありませんし、どのような方法が安全かについてはおそらく誰にも予見できないと思います。環境ホルモンに関しては新聞や週刊誌の記事は専門家の意見があたりさわりなく出ているだけでその人たちがどうしているか?についてはほとんど記載されていません。そこで自分はこうしています、というスタンスで考えていることなどを記載していこうと思っております。あくまでご参考程度にしてください。
宗教的な理由ではないが我が家では準菜食主義である。そのため肉や魚はほとんど買わないし外食もめったにしない。つまり食費は少ない。それだけに野菜やお米にはしょうしょうこだわっている。米は私の実家のある徳島市のNさんから毎年購入している。Nさんは二十年来周囲の農家の人になんと言われても自然農法(耕さず肥料をやらず消毒せず除草もしない)で米を作り続けてきた方である。Nさんが自然農法を始めた理由は、稲の消毒中にご主人が農薬の急性中毒で亡くなったからである。現在ではNさんの周囲の田んぼは住宅になったり休耕していたりで周りから農薬が流れ込んでくることもない。取れ高は普通の6割ほどだそうである。またヒエがコンバインに詰まって大変だと話しておられる。草抜きやその他の農作業が大変だろうなあとは思う。しかし実際に消毒している場面をみたらそのお米を食べようとはなかなか思えないし、まして子供がそんなお米を食べると思うとぞっとする。だから毎年Nさんのお米を買っている。ちなみにそのNさんのお米の値段は10kgで2500円と普通のお米と変わらない。味も普通のお米と変わらない(私には分からない?)が、もちもちしている。ひやごはんになってもおいしい。Nさんによれば肥料をやると稲は甘やかされてあまり根を伸ばさない。伸ばさなくても養分(体を作る最小必要な窒素・リン・カリ)が吸収できるから。肥料がないと稲は「仕方なく」深いところまで根を伸ばし成長するのに必要な養分を吸い上げようとする。このときいろいろな微量元素(カルシウム、鉄、亜鉛、マンガン...)も吸収し味が良くなり病気にも強くなるとのことである。医師としてはこの説明はよく分かる。冷暖房完備の部屋で完全栄養食だけを与えられて育った「見かけ上体格のいい子」と、暑さ寒さに鍛えられ自分で食べ物を探して育った「やせた野生児」と、どちらがおいしいか(子どもを食べるわけではないですが)。また勉強で考えたら、塾に家庭教師、必要な科目の勉強だけを親が与えて詰め込んだ子どもと、手伝いなどで忙しくて勉強時間を必死でやりくりして参考書も買えず借りて書き写して頑張ったような子ども(そんな子ども今はいないでしょうね)、どちらがおいしいでしょう(子どもを食べないで!!)?
さて患者さんで玄米食にしているというかたが時々おられる。玄米で食べた方が栄養的に優れているのは明らかだが、農薬の多くは水より油に溶ける、つまり米糠に多く残留する。したがって玄米食をする場合は米を慎重に選ぶ必要がある。数年前に稲作農家に配布されたある農協の肥料農薬申込書に出ていた農薬を以下に示す。
種もみ消毒・床土消毒--ダコレート水和剤、タチガレン液剤、ベンレートT水和剤。苗のいもち病対策---キタジンP水和剤。田植え期---アドバンテージ乳剤(ハモグリバエ・ドロオイムシ対策)。分けつ期(稲の苗の株が分かれる時期)---バサジット粒(イネミズゾウムシ・ハモグリバエ・ドロオイムシなど対象)。幼穂形成期---フジワン粒剤、キタジンP粉、ラブサイドバリダシン(葉イモチ病・紋枯れ病防除)。出穂期---キタバッサ粉(穂イモチ病・ウンカ類防除)
ちょっと冷静に考えるとわざわざ「省農薬米」などと表示して高い値段で販売するぐらいですから、何も表示していないディスカウントの銘柄米がこれらの農薬を使っていない可能性は残念ながら低い。農家の人にしてももし病気が出て取れ高が減ったら収入も減少してしまうのだから危険を冒してまで慣行に反する作り方はしないでしょう。無添加食品を選んで買ったりしている人はまずお米に注意するべきだ。一番たくさん摂取するものだから。現在年間で平均一人70-80kgほどお米を食べている。
私はお米の値段はもっともっと高くても安全ならばかならずそれを買うだろう。少しでも多くの農家の方がより安全な方法で米を作って欲しい。そうすることで取れ高が5分の1になれば5倍の値段で買いたいと思う。食はずべての基本であって米はその中心にあるものである。ビタミン剤や健康食品を高いお金を出して買っている人がたくさんいる。私なら無農薬で育てられたお米(袋にそう書いてあるのではなく本当にそうであることが確認できるもの)を玄米か5分づきなどで食べるほうを選ぶ。あくまでも個人的な意見です。
最近、環境ホルモン問題は私の趣味になっている。
今回は飲料水について述べてみたい。人間は一日2リットルの水を飲む。私はジョギングなどで大量に汗をかくので3リットルは飲むので1年間で1000リットル(1トン)近くなる。近頃、毎日1-2本のペースでミネラルウォーター(1.5リットル)を飲んでいる。コーヒーを煎れるのも、おみそ汁の水も。それもヨーロッパから輸入されたものである。なぜか?日本のものはいくつか問題があるからである。まず、日本のものはペットボトルの周りにべったりとプラスチックの包装がしてある。この包装をするためには200度近い高温にする必要があるそうだが、ペットボトルはそんな温度には耐えられない。しかし溶けずに包装できるのは中に水が入っているからである。中の水は冷却水!その水は消費者が飲む水である。おそらくメーカーは「溶け出すペットボトルの成分は微量で問題ない」と言うだろう。私は決して信じないが...。また日本のこういう商品はすべて加熱殺菌されている。結局、浄水器で濾した水道水と大差ない。残念ながらヨーロッパの基準は日本と比べて格段に優れている。水源地から採取された水は加熱や濾過はしてはいけない(してもいいがその場合はナチュラルミネラルウォーターと言ってはいけない)ことになっている。有名な水ブランドのメーカーのほとんどが水源地よりも上流の土地、山の広大な土地を所有し厳重な森林管理をして水質を保つ努力をしている。またペットボトルの包装にしてもプラスチックは使っていない。熱を加えなくてもいいように紙のラベルを糊付けしてある。またリサイクルしやすいためにもプラスチックによる包装はしていないのである。
このような企業レベルの差以外にも、水の成分の違いも大きい。日本は火山国のため土壌中のカルシウムが少ない。多くの日本のミネラルウォーターのカルシウム濃度は10mg/L以下である。一方、フランスなどの水は100mg/L前後のものが多い。2リットル飲めば200mgのカルシウム、つまり牛乳瓶1本のカルシウムが摂取できることになる(吸収のされ方なども考慮する必要があるため数値は参考)。ペットボトルにはゴミの問題があるのは確かであるが、すべてリサイクルのための収集場所にきちんと持っていくというところで勘弁してもらおう、と考えている。なお、アルカリイオン製水機というものもあるが、どの業者の製品にもどのぐらいのミネラル濃度が作り出せるのか?に関してはカタログに載っておらず、また電話で質問してみたが解答がなかった。
毎日ミネラルウォーターを飲むのはお金がかかる、と言う人も多い。私は「たばこ戦法」と呼ぶ方法で解決している。たばこを1-2箱買っているつもりで水を買っているのである。たばこを吸わない人は近くへの用事に車を使わず歩く(または自転車)のでも良いと思う。町中だと20分も乗ればそのぐらいのガソリン代は使う。また高いお金を出してカルシウム剤など買っている人はミネラルウォーターにすればよいと思う。休日に渋滞の中を、大きな四輪駆動車に乗ってファミリーレストランに出かけていってあやしい食材を使った料理を家族で食べてたばこをがんがん吸っている貴方、それを一回休めばミネラルウォーターは50本は買えますよ。家で自分で選んだ安全高級食材で自分で料理するほうが贅沢ではないですか?余計なお世話せしたね、すみませんでした。
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