(1)「名号のいわれ」

 ようこそお参りくださいました。皆様とは初めてお目にかかりますが、私は、こちらの田畑先生のお招きを頂きまして、京都の紫雲寺からまいりました伴戸昇空と申します。「昇空」というのは、「空に昇る」と書きます。「名は体を表す」と申しますが、「空に昇る」というのは、いかにも地に足のつかない名前でして、自己紹介をさせて頂くたびに、いささか恥ずかしい思いをいたしておりますが、どうぞ宜しくお願いいたします。

 本日は、こちらの円徳寺様で毎月お開きになっておられる「歎異抄に聞く会」の十周年記念のお集まりとうかがっております。一口に十年と申しますけれど、十年ものあいだ毎月、聞法を重ねてこられたということは、大変なことですね。

 俗にも、「継続は力なり」と申しますように、この「続ける」ということは非常に大切なことですが、私どもの生活を顧みましても、なかなか「善いこと」は続けられないものです。

 欲と道連れですることですとか、生活のためにどうしても必要なことなら、そこそこ続きもしますけれど、仏法は生活の技術ではありませんから、仏法がなかったら生活できないというものではない。となると、いきおい仏法は、後回し、後回しになって、ついには出会えないということになりがちです。

 真宗では「聞法」ということを大切にいたしますが、「聞法」の「聞」という字は、門がまえに耳と書きます。昔は、この「門」はお寺の門のことだと申しました。つまりは、お寺の門をくぐって、自分の耳で仏法を聞くことが「聞法」だというわけですが、まずはこの「お寺へ行こう」という「聞法の縁」が開けることからして、なかなか得難いことです。

 ところが、皆様は、その得難いご縁に、すでに出会われている。そして、十年にもわたって聞法を重ねてこられた。これは、よほどのご縁かと存じます。そのような皆様方の記念すべきお集まりに、お招き頂きましたことは、はなはだ光栄なことと存じております。

 とは申しましても、私のような若い者がさほど立派な話をさせて頂けるわけではございません。歳相応に未熟な点は、どうぞご寛容を頂きまして、しばらくの間おつき合い下さいますよう、お願い申し上げます。

 さて、本日は、先にご案内申し上げましたように、「念仏の道、浄土への道」という題でお話しさせて頂きます。私たち真宗門徒は、互いに「同行」と呼び合っておりますが、「同行」とは、「行を同じくする者、行く所を同じくする者」という意味です。「行」とは「お念仏」、「行く所」とは「お浄土」ですね。

 これからお話し申し上げますことは、いわば私自身の「浄土への旅日記」のようなものでございます。浄土への旅は、「日暮れて、道遠し」の観がありますが、迷い迷い、足を引きずりながら「念仏の道」を旅してきた同行の一人といたしまして、道中で日々感じましたことをお話し申し上げますのも、また何かのご参考になるかと思うわけでございます。

 本日は、都合三時間も頂戴しながら、とても十分な話はさせて頂けませんけれど、浄土の教えを、少しでも身近にお感じ頂くことができればと、願っております。

 さて、真宗の教えの要は、「名号のいわれ」を聞きひらき、疑いなく信ずるところにある。皆様も、何度もお聞きになって、よくよくご承知のことかと存じます。「名号」とは、「南無阿弥陀仏」という六字の名号を申します。この名号ひとつで浄土に往生できる。それが真宗の教え、浄土の教えですね。

 では、どうして名号ひとつで往生できるのか。それは「名号のいわれ」による。「名号のいわれ」というのは、どうして名号ひとつで往生できるのかという、その理由のことです。具体的に申しますと、その理由となっているのは、『大無量寿経』に出てまいります法蔵菩薩の第十八願のことです。

 これもまた、ご承知のことかとは存じますが、「名号のいわれ」とされる、『大無量寿経』の教えの核心を、私なりにまとめてみましたのが、これでございます。皆様のお手元にお配りいたしました資料にも、書かせて頂いておりますが、まずは一度読んでみます。

 「昔々、法蔵菩薩という名前の修行者が、五劫のあいだ思惟し、衆生済度のために四十八の誓願を立て、その誓願を成就して、阿弥陀という名前の仏様となられた。そして今から十刧の昔に、西方十万億仏土の彼方に仏の世界を建立された。この仏の世界を『西方極楽浄土』という。

 法蔵菩薩の誓願の眼目は、仏の名号を念ずる者を、もらさずこの『西方極楽浄土』に往生させ、悟りに導くというものだった。この誓願が成就できないうちは仏にならないと誓っておられた法蔵菩薩が仏様になられたのだから、この誓願は既に成就されているということである。したがって、この仏様の名号を念ずる者はみな、この浄土に往生できるのである。」

 さて、皆様はどうお感じになっておられるか分かりませんけれど、私は、かつて、この『大無量寿経』を初めて読みました時には、正直申しまして、唖然といたしました。はなはだ不遜なことですが、「こんなお伽話を信じているのが門徒か」と、心底ガッカリしたことを憶えております。

 実際、「弥陀の誓願」とか、「西方浄土」とか申しましても、考えようによっては、とりとめもない話です。御聖教に書かれていると言っても、そんなことは何の証拠にもなりません。疑いだしたら切りがない。おそらく、現代社会で、この「名号のいわれ」を聞いて、「はい、そうですか」と、素直に信じられる人は、ごく希ではないかと思います。

 それでどうしたかと申しますと、どうにもなりません。やはり、考えても、考えても、分からないのです。どう読んでみても、信じられない。これを信じることが信心だとすれば、これはもう、紫雲寺も父の代で終わりだな、と思い詰めました。

 もしもこのとき、教えに背を向けておりましたら、皆様にお目にかかるご縁もなかったわけですが、疑惑の方が腹にどっしり腰を据えてしまいまして、離れないのです。いわば、どうしても信じられないという思いが、禅宗で言う公案のようなものになってしまったわけです。

 そんな思いを腹に抱いて鬱々としておりましたとき、どこでだったか忘れましたけれど、「名号のいわれを信じられるのも、また他力による」という言葉を目にいたしました。この言葉を見たとたんに、目の前がぱっと明るくなりまして、心の底がはじけたように、愉快な気分が沸々と湧いてくる。もう、可笑しくて可笑しくてしかたがない。何もかも分かったという気分です。そのときの体験を、正確にお伝えすることはできませんが、ともかく、何もかも分かったという不思議な気分なのですね。

 そんな気分が半日ほど続きました。今になって思えば、禅宗で言う小悟というのも、あんな体験を言うのかもしれませんね。ただ、何もかも分かったと言いましても、では何が分かったのかと言われると、別に何も分かっていないわけです。しいて言えば、分からないことが不安でなくなったということでしょうか。

 まあ、そんな体験がありましてから、少し考えが変わり、経典の読み方も変わりました。考えが変わったと申しますのは、ひとつには、信じるということは、感じるということではないかと、考えるようになったことです。たとえば、弥陀の誓願を信じるとは、弥陀の誓願を感じることだと言えば、お分かり頂けるのではないかと思いますが、これに関しましては、また後ほど、お話し申しあげます。

 では、読み方が変わったというのは、どう変わったのかと申しますと、先入観を捨てて、素直に読むようになったということです。素直な目で、「法蔵菩薩の物語」を読んでみれば、これが歴史的事実について書かれたものでないことは、誰にでも分かることです。では、これは何かと申しますと、これは一種の神話です。

 神話として読み直しますと、「法蔵菩薩の物語」は実に壮大なロマンですが、念のために申しあげておきますと、神話というのは、荒唐無稽なお伽話ではありません。神話というのは、目に見えない精神世界の出来事を、目に見える現象世界の出来事に仮に託して、ひとつの物語に仕立てたものなのです。

 大乗経典が伝えようとしているのは、目にも見えない、言葉でも説明できない「悟りの境地」や「命の真実」ですね。『大無量寿経』は、そんな不可称・不可説・不可思議な世界を、「たとえ」や「象徴」を用いて、ひとつの物語に仕立てたものなのです。つまりは、哲学的神話です。ですが、神話というものは、それを読み解いて、言葉の裏に秘められた意味を汲み取らねばならないものでもあるのです。

 そこで、ご参考までに、「法蔵菩薩の物語」は、こう読み解くこともできるという、私自身の解釈を、ご紹介申しあげたいと思います。教学にお詳しい方には、あるいはご異論もおありかと存じますが、人類共通の宗教的伝統をベースに考えれば、こうも読めるということです。多少、退屈な話かもしれませんが、ご寛容を願っておきます。

 さて、まずは、この「西方極楽浄土」という言葉ですが、昔は、この「西方」という言葉を、目に見える方角のことだと考えて、讃岐の源大夫のように、西へ西へと歩き続けた人や、難波の港から西に向かって船を漕ぎだした人もあったそうです。

 それほど真剣に浄土を求めたということでしょうけれど、まあ、大阪から四国へ、四国から九州へと、西へ西へと進めば「極楽浄土」に近付くというものではありませんね。現代人の感覚で言えば、どんどん西へ進めば、地球を一回りして、もとに戻ってしまいます。これは、決してそういうことを言っているのではないのですね。

 昔も、これが方角のことではないということに気づいていた人たちもいました。そういった人たちは、この「西方」という言葉を、「西に日が沈めば一日が終わる」のだから、「西の彼方というのは一生が終わった次の世界」のことを言っているのだと理解しておりました。つまりは、「来世に往生する世界」だということですね。

 この「西方」というのは、もともとのインドの言葉では「パシュチマ」と申します。「パシュチマ」というのは、東西南北の方角では「西」、時間や順序では「あと」、前後の位置では「うしろ」を意味する言葉です。

 ですから、確かに、方角で言えば「西」ですし、今生での人生が終わった「あと」という意味では「来世」のことになります。ですが、これを精神世界のこととして見ますと、もうひとつの、「うしろ」という意味が大切になってまいります。

 と申しますのは、私たちの意識の目は、常に外の世界に向けられておりますが、その外の世界が、私たちの「まえ」にある世界だとすれば、「うしろ」というのは、私たちの内面世界のことになるからです。ですから、私は、「西方」というのは、単に来世のことを言ったものではなく、この現に生きている私たちの、内面世界をさす言葉だと考えております。

 確かに、「西方」とは日没の方向です。では、日が沈めばどうなるのか。日が沈めば、騒がしく、慌ただしかった一日が終わるのです。これを心の内側での出来事として見れば、「西方へ行く」というのは、心のなかの騒ぎが鎮まっていく状態を言っていることになります。

 心の中で騒いでいるのは「煩悩」ですね。「西方」に行けば「極楽浄土」に到達する。これはつまり、心のなかの騒ぎが鎮まったなら、「極楽浄土」という世界が開けてくる、ということを言っているのです。

 心の中の騒ぎが鎮まれば、開けてくる世界がある。これは、世界中の宗教が、等しく説いているところでして、いわば宗教を理解する上でのキーワードです。本来は、ここに「お念仏」が関わってくるわけですが、それはまた後にいたしまして、ともかく、私たちの頂いております「浄土の教え」では、そこに開かれてくる世界を、「極楽浄土」と呼んでいるわけですね。

 経典には、「極楽」というと、宝石で飾られた宮殿があったり、美しい花が咲いていたり、鳥がさわやかな声で囀っていたり、欲しいものがあれば、欲しいと思うだけで手に入る世界のように描かれています。ですが、本当はそうではありません。

 「極楽」というのは、インドの言葉では「スクハーヴァティー」といいます。「スクハーヴァティー」というのは、「本当の幸せが得られるところ」(幸いあるところ)という意味ですが、仏教で言う「本当の幸せ」とは、「悟りの境地」のことです。つまり「極楽」というのは、煩悩が完全に無くなってしまった「悟りの境地」のことを言っているのです。

 ですが、私たち凡夫は、欲望が無くなってしまった世界など、想像もできませんね。私たちは、その反対に、欲望の満足を、幸せだと考えています。そこで経典では、欲望が無くなってしまった世界の代わりに、欲望が完全に満たされる世界を描くことで、「極楽」の素晴らしさを表現しようとしたのですね。

 ちなみに、『大無量寿経』では、さきほど申しました「スクハーヴァティー」という言葉が、「極楽」ではなく、「安楽」と訳されております。「極楽」も「安楽」も、意味は同じです。ともに、「煩悩の無くなった、清らかな世界」のことをさしているわけです。

 実際、阿弥陀仏の世界は、「極楽」というより、まさしく「清らかな世界」、「浄土」ですね。この「浄土」という言葉は中国でできたものでして、インドでは「仏国土」(ブッダ・クシェートラ)と申しました。この「仏国土」の「国土」(クシェートラ)というのは、物理学でいう重力場や電磁場の「場」に相当する言葉です。

 この「場」というのは、簡単に言えば、何らかの力が働いていて、そこに入ればその力の影響を受けるような空間のことです。たとえて言えば、こういうことです。ちょっと、こちらの図をご覧になってください。

 ここに磁石の絵が描いてありますが、たとえば磁場というのは、磁力が働いていて、そこに鉄片を入れると磁気をおびるようになる空間のことです。ただの鉄の釘が、磁石の力の影響で磁石になってしまう。そんな力が働いている空間が磁場です。

 それと同じように、「仏国土」つまり「浄土」というのは、仏の力が働いていて、そこに入ればその仏の力の影響を受けて「仏性」が目覚めるようになる場所のことです。「仏の力」によって「仏」になれる場所。それが、「浄土」です。

 「仏性」というのは「悟りの種」のことです。この「悟りの種」は誰の心のなかにもあります。そのことを仏教では、「一切衆生、悉有仏性」と申します。とは申しましても、私たちの心の中は、煩悩の雲でおおわれて、暗くて冷たいものですから、この種はまだ芽をふいてはおりません。

 ですが、智慧の「念仏」によって、心の奥底まで慈悲の光が差し込むと、この「悟りの種」は芽をふきます。「悟りの種」は、ひとたび芽をふくと、二度と再び、もとの種には戻りません。これを「正定聚不退の位に入った」というわけです。また、この、仏の光を浴びて仏性が芽をふく体験を、「廻心」と申します。

 では、そんな「浄土」が「十万億仏土の彼方にある」というのはどういう意味なのか。「十万億仏土の彼方にある」というのは、無数の宇宙を通りすぎた遠い彼方にあるということですが、これは距離を表わしたものではありません。

 「西方極楽浄土」が「十万億仏土の彼方にある」というのは、煩悩に支配されている私たち凡夫が、いくら努力しても到底到達できないほど遠くにあるということです。つまりは、私たち「凡夫の心」と「悟りの境地」との間にある大きな隔たりを、距離の隔たりにたとえて表現したものなのです。

 大乗仏典に書かれている「距離」や「時間」などは、まず、あてにはなりません。たいていは、誇張であったり、違う意味を持っていたりするものです。そこで、読み解くという手続きが必要になってくるわけですね。

 では、この「念仏によって往生できる西方極楽浄土」が「十刧の昔に建立された」というのはどういう意味なのでしょうか。「刧」というのは、インドの時間の単位です。もちろん、さきほどから申し上げておりますように、これは時間のことを言っているのではありませんが、事のついでに、この「刧」という時間について見ておきます。

 「一刧」というのは、とてつもない長い時間です。「一刧」というのはどのくらいの長さなのかと申しますと、『雑阿含経』という御経に、この「刧」という時間の説明がでてまいります。それを見ますと、「縦横高さがそれぞれ一ヨージャナの舛を作って、そのなかに芥子の実を満たす。そして百年に一度づつ鳥が飛んできて、芥子の実を一粒くわえて飛んでいくとして、この舛のなかの芥子の実が全部無くなったとしても、まだ一刧には足りない」と書かれております。

 一ヨージャナというのは、二頭の牡牛が、満載の荷車を引いて、一日に進める距離のことでして、古代のインドでは、たいてい約十五キロのことですが、仏教では、その半分の約八キロくらいに考えております。

 八キロというと、このお近くの鉄道の駅で申しますと、「あまつ」から「ぶぜんながす」までが、ほぼ八キロです。ですから、「縦横高さがそれぞれ一ヨージャナの舛」というのは、大変な大きさのものです。そこに芥子の実を一杯にする。さて、この舛のなかに芥子の実は一体何粒あるのか。考えるだけでも気の遠くなるような話です。

 普通なら、ここで考えるのを諦めてしまうのですが、私は数えてみました。「まあ、そんな芥子粒の数を数えるとは、坊さんて、よっぽど暇なんやな」と思われるかもしれませんが、まあ、これも愛敬です。坊さんは金は無くとも、暇はある。

 ですが、数えたと申しましても、この舛のなかの芥子粒を全部数えたわけではありません。いくら坊さんでも、そこまで暇ではない。全部ではなくて、私たちのこの宇宙が始まってから、一体、幾粒くらい減ったかを数えてみたのです。

 私たちの宇宙が始まってから、だいたい200億年ほどたっている、と言われておりますが、この200億年の間に、芥子粒はどのくらい減ったのか。実はですね、一升ビンで、たった6本半なんですね。これでは、「縦横高さがそれぞれ一ヨージャナの舛」から考えましたら、何も減っていないのに等しいくらいですね。

 まあ、ここまで数えて、まだこの話が時間のことを言っていると思われる方は、まず、おられないと思いますが、これは具体的な時間のことを言っているのではありません。

 そうではなくて、これは、「念仏によって往生できる」という能力は、わたしたちが生まれる遙か昔に与えられた力、生まれたときには既に備わっている「天与の力」だと言っているのです。「天の与えた力」と言おうと「仏の与えた力」と言おうと、結局は同じことです。つまりは、「生れ付き備わっている能力だ」ということです。

 ですから、「念仏によって往生できる西方極楽浄土」が「十刧の昔に建立された」というのは、つまりは、「念仏によって浄土に入れるという心的能力が、私たちには、生まれ付き備わっている」ということを、言おうとしたものなのです。

 さて、どうも話が長くなりましたけれど、まだ、肝心の、「法蔵菩薩」と「阿弥陀如来」が、残っておりますので、もう少しだけ、お付き合いください。

 まず、「法蔵菩薩」ですが、「法蔵菩薩」という人が、実際におられたわけではありません。「法蔵」というのは、インドの言葉では「ダルマーカラ」と申します。「ダルマ」が「法」、「アーカラ」が「蔵」にあたるわけです。

 「ダルマ」というのは、不可称・不可説・不可思議な「宇宙の真理」そのものをいう言葉でして、何とも訳しようのない言葉です。そこで、ひとまず、「ダルマ」は「ダルマ」のままにしておきます。

 「アーカラ」というのは、何かがいっぱい「詰まっている所」を申します。そこから、「蔵」と訳されているわけです。もちろん、その「蔵」に収まっているのは「ダルマ」です。

 「法蔵」というのは、その「ダルマ」が「蔵」に収まったまま、まだ外には現われていない状態を言うのです。「菩薩」というのは「仏」になる前の段階を言います。この「法」つまり「ダルマ」が外に現われると「仏」になるのです。

 「仏」というのは「目覚めた人」という意味ですから、目覚めるには、その前の段階として「目覚めていない段階」があったわけです。それが「法蔵」なのです。その「法蔵」が目覚めて、「阿弥陀仏」となったわけです。  「阿弥陀」というのは、「アミターバ」と「アミターユス」というインドの言葉の発音を漢字にあてはめたものです。「アミターバ」というのは、遮るもののない無限の光ということです。これはどこまでも光が届くということですから、空間的な制限が無いということです。

 また、「アミターユス」というのは寿命が無限にあるということです。寿命が無限にあるということは、時間的な制限が無いということです。そして「仏」とは「悟りの境地」のことです。ですから、「阿弥陀仏」とは、時間も空間も超えた「悟りの境地」を象徴した言葉なのです。

 さて、これで、ひとまず「法蔵菩薩の物語」を、私なりに読み解いたわけですが、あんまり長い話で、お分りにくかったかと思いますので、もう一度、簡単にまとめておきます。お手元の資料にも、書かせて頂いております。

 「『西方極楽浄土』というのは、心が鎮まったときに開けてくる本当の幸せに満ちた精神的世界のことです。この世界に入れば、自然に、時間も空間も超えた『悟りの境地』に到達できます。私たちには、念仏によってこの世界に入れる能力が、生れ付き備わっているのです。これが私たちの『命の真実』です。」

 これが、私の理解する「浄土の教え」の核心、「名号のいわれ」でございます。こういうふうに読み解いてみると、「法蔵菩薩の物語」は、決して荒唐無稽なお伽話ではないことが、お分かり頂けるのではないかと思います。

 「西方極楽浄土」というのは、どこか遠くにある理想郷のことではなく、私たちの心のなかで眠っている「仏性」が「念仏」によって目覚めたときに、開かれてくる世界のことなのです。そういう世界への扉を開く鍵が「念仏」なのです。そういう世界に入れる能力が私たちには生れ付き備わっている。それが私たちの「命の真実」なのです。そして、そのことを教えているのが、「名号のいわれ」「法蔵菩薩の物語」なのです。

 経典を読み解く場合に、私が拠り所としておりますのは、最初にも申しあげましたように、人類共通の宗教的伝統です。世界の様々な宗教を見てみますと、そこには三つの共通点があります。

 それは、まず第一に、「私たちは真実の世界を知らない」と説かれていることです。第二には、「その真実の世界は、私たちの中にある」と説かれていること、そして、第三に、「その世界に入る方法として、何らかの瞑想の技術が用いられている」ということです。

 生きている時代や世界が違っていても、私たちはみな、人間であるという点では同じです。ですから、「宇宙の真理がひとつ」であるかぎり、その真理を伝える教えに普遍性が見られるのは当然のことかと思います。

 私たち人類は、さまざまな宗教を通じて、「真実の世界」を目指しています。その「真実の世界」を、私たち門徒は「浄土」と呼んでいるのです。そして、その「浄土」は、他ならぬ「私たちの中にある」のです。

 ですが、こう申しますと、首を傾げてしまわれる方もおいでになるかと思います。と申しますのは、私たち現代人は、心のどこかで、「目に見える物質世界」にこだわっておりますから、「私たちの中にある」と聞くと、この「身体」の中にあると考えがちです。ですが、「私たちの中にある」というのは、そういうことではありません。

 では、どういうことかと申しますと、私たちが「身体」と呼んでおりますのは、いわば、私たちの「命」というものの「目に見える部分」のことなのです。目に見える、この「身体」は、目に見えない「命」の極一部分だということです。

 あまり適切な「たとえ」ではないかもしれませんが、「身体」と「命」の関係は、たとえば、指人形と、それを操る黒子の関係にも似ております。指人形がないと、芝居が始まりませんから、指人形は大切です。ですが、本当に大切なのは、その指人形に命を与えている黒子のほうです。

 それと同じように、私たちの「目に見える世界」は、「目に見えない世界」に支えられているのです。そして、その「目に見えない世界」に「浄土」がある。「浄土」だけでなく、仏教の重要な理論は、たいてい、この「目に見えない世界」に関して展開されたものなのです。

 そこで、次には、その「目に見えない世界」についてお話し申しあげようと思いますが、その前に、このあたりで、ちょっと休憩を挟ませて頂くことにいたします。




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