釋昇空法話集・第1話

苦諦とお念仏

お念仏を称えても救われた思いがしないのは何故か

(1993年9月26日 永代経法話)
 本日はお忙しいところをようこそお参りいただきました。今日はお天気がもうひとつですね。お寺での法要にとりましては、このお天気というものが、なかなか難しうございましてね、晴れたら晴れたで、あちこち遊びに出掛けるのに都合がよろしいし、降ったら降ったで、足元が悪うてお出にくい。晴れても降っても、お参りにくいところを、ようこそお参り下さいました。今回、椅子をご寄付いただきましたので、かなりお楽に座って頂けるようになったかと思います。どうぞお楽にお座り下さいませ。

 さて、これから一時間ほどお話しをさせていただきます。短い時間で沢山のことはお話しできませんので、本日は、私たち「門徒」にとりまして、一番心にかかっている疑問についてお話し申し上げたいと思います。それは、歎異抄の第9条にもでてまいります、私たちは「お念仏を称えても、有り難い思いがしないのはなぜか、救われた思いがしないのは何故か」という問題です。

 結論から申し上げておきますと、その理由は二つあるように思います。まずひとつには、私たち凡夫は、口では「救われたい、救われたい」と言いながら、本当は「救われたい」などと思っていないということです。もうひとつは、私たちは「本当のお念仏」を称えていないということです。つまり、「お念仏の称え方を知らない」ということです。今日はこの二つのことをお話し申し上げます。

 ですが、こういう場では、私の方から短い間に一方的にお話し申し上げますので、なかなか意を尽くせないこともあろうかと存じます。その点に関しましては、今後、またこうしてお目にかかるご縁が頂けましたおりに、少しづつお話し申し上げたいと思っております。

 それと、今年の春から、私はこの『菩提樹』という年4回発行の季刊紙を作りまして、皆様にお配りいたしております。いろいろお話し申し上げたいことを、この『菩提樹』のなかの、「心の青年への手紙」というコーナーに書かせて頂いております。本日お話し申し上げますことも、内容のうえで、かなりその「心の青年への手紙」と重なっておりますので、どうぞ『菩提樹』もあわせてお読み頂きますようお願い申し上げておきます。

 さて、昔はお寺で聞くお話を「お説教」と申しましたが、今は「法話」と言っております。「お説教」は、こんなふうに間衣を着けて立ってお話しするのではありませんで、袖の長い黒衣という衣に五条袈裟を着けまして、中啓を持ち、「高座」という半畳ほどの四角い台の上に正座してお話しいたしましたものです。「お説教」と「法話」では他にもいろいろ違いがありますが、目的はただひとつでして、これは今も昔も違いはありません。その目的というのは「お念仏の心」を伝えるということです。

 「真宗のお寺」というのは「念仏の道場」と申しまして、「念仏の話を聞き」「念仏を称える」ための場所なのです。そして「自分の命の真実と向き合う」、つまり「仏様と向き合う」場所なのです。

 世間では「門徒もの知らず」などと申しまして、門徒の方も物を知らんのを売り物のようにしておりますが、昔は、門徒ほどものを知っている仏教徒はいなかったのです。それは、昔は「お講」という集まりの機会がたくさんあって、先程申しましたような「お説教」をよく聞いたからですね。

 この「門徒もの知らず」というのも、もともとは「門徒、物忌み知らず」ということだったそうです。「物忌み」というのは、今ふうに言えば「迷信」とか「縁起かつぎ」ということになりますから、「物忌み知らず」というのは「迷信に振り回されたり、縁起をかついだりしない」ということです。つまり、門徒というのは、迷信に振り回されたり、縁起をかついだりしない人々だったのです。ですが、今はちょっと違ってまいりました。

 世の中には、「交通安全のおふだ」ですとか、「ガン封じのご祈祷」ですとか、「背後霊を払うお祓い」とかいったたぐいの現代版の「物忌み」が花盛りです。

 しかし、月参りで出歩いておりますと、あちこちで交通事故でつぶれた車を見かけます。そういう車を見ますと、たいていこの「交通安全のおふだ」が貼ってあるのですね。皆さんもご覧になったことがおありだと思います。これはどうも、いかがなものかと思いますね。

 「ガン封じのご祈祷」と申しますと、ご存じかもしれませんが、2・3年前に、ある「ガン封じのお寺」の和尚さんがガンで死にかけて、大騒ぎになったことがありますね。もっとも、「医者の不養生、坊主の不信心、教師の不勉強」というのは世間の通り相場のようになっておりますから、ひょっとすると、この和尚さんは、ご自身ではご祈祷を受けておられなかったのかもしれませんがね。

 また、以前ですね、あるお宅にお参りした時のことですが。そこの奥さんがこうお尋ねになったのです。「ごえんさん、あるよう見る人が言われるんですが、沢山のご先祖さんのなかには、良いご先祖さんもおられれば、悪いご先祖さんもおられて、良いご先祖さんの霊に付いてもらうと幸せになり、悪いご先祖さんに付かれると不幸になる。良いご先祖さんの霊に付いてもらうご祈祷が30万円、悪いご先祖さんの霊に離れてもらうご祈祷が30万円。同時にしてもらうと50万円で割安やと言われるんですが、どうしようかと悩んでいるんです。ごえんさん、どうですやろ」と、こうおっしゃるんですね。

 何とも返答に窮するところですが、ひとまずはこう申し上げておきました。「幸せになるということは結構なことです。私は幸せというものに値札を付けて売っているというのは見たことがありませんが、もし50万円で幸せになれるというのなら、それは安い買物だと思いますね。それはひとつお買いになったらどうでしょう。ですが、勿体ないことをなさいましたね。奥さんはお子さんを塾にやって、そのうえ家庭教師までつけて、大学まで進学させられましたでしょう。そんなになさったのは、子供さんに幸せになって欲しかったからではないですか。あの塾や家庭教師などにかかった費用は50万円どころではなかったと思いますが、このご祈祷の話をもうちょっとはやく知っておられたら、教育費など必要なくて50万円ですんだでしょうにね。何しろ50万円で幸せになれるというのですからね」と。

 奥さんは考え込んでしまわれましたが、次の月にお参りにうかがうと、「ごえんさん、あれ、やめましたわ」ということでして、まあ、私もほっと致しましたような次第です。

 いったいどんな人たちがこういった「ご祈祷」を受けられたり、「おふだ」を買われたりなさるのか。不思議なことですが、ある出版社が調べてみたところ、こういった「ご祈祷」を受けられたり、「おふだ」を買われたりなさるお方のほとんどが、ご門徒だったそうです。

 なぜかと問うと、「真宗のお寺では、現世利益を言わないので、その方面のことは他で頼むしかない」ということでした。以前この寺へ来て、「ご先祖様のことはお寺さんに頼んでいますが、商売のことはエビスさんに頼んでいます」とおっしゃった方もおられますから、そうかもしれないと思いますね。ですが、門徒の現世利益というものが無いわけではありません。門徒の現世利益というのはただひとつ、「生まれてきたことを喜べる」ということなのです。

 実は、今日のお話は、こういったこととも関係があるのです。では、そろそろ本題に入りませんと、時間が無くなってしまいますね。

 さて、私たちは仏教徒です。ご承知のように、仏教はインドのお釈迦さまから始まります。私たちがお釈迦さま(釈尊)とお呼びしているお方は、今から2500年ほど前に、現在のインドとネパールの国境近くにありましたカピラヴァストゥーという王国の王子としてお生まれになりました。王子として何不自由ない生活をなさっておられたのですが、29歳のとき、その宮殿も王子という地位も、また家族もお捨てになって、出家なさったのです。そして、6年間の苦行の末、菩提樹の下で瞑想なさっておられたときに悟りを開かれ、仏陀つまり目覚めた人に成られました。何に目覚められたかと申しますと、それは「この世界の真実」「私たちの命の真実」に目覚められたのです。そして、ここに仏教が始まったわけです。仏教とは、もともと、このお釈迦さまが説かれた教えのことです。

 伝わっているところによりますと、最初お釈迦さまは、ご自身がお悟りになった、その悟りの内容は難しすぎて人には理解できないのではないかと、話すのをためらわれたのだそうです。ですが結局、「たとえわずかな人々であっても、分かる人がいるに違いない」と思いを定めて説法を始められたのです。

 そして、その「悟り」の内容を人々にお話しになる場合には、「4つの神聖な真理」(四聖諦)という形でお説きになりました。「4つの神聖な真理」と申しますのは、「苦聖諦(この世は苦であるという真理)」、「集聖諦(苦の原因は煩悩であるという真理)」、「滅聖諦(煩悩を滅すれば苦が無くなるという真理)」、「道聖諦(煩悩を滅して悟るための道、つまり方法)」です。

 つまり、「この世は苦であり、その原因は煩悩にある。お釈迦さまがお示しになった道を進めば煩悩が無くなり、苦が無くなる。その境地を悟りの境地という」、とお説きになったわけです。皆さんも何度かお聞きになった言葉だと思います。

 たとえて言えば、お釈迦さまは厳しい修業によって高い高い山、つまり「悟りの境地」に登られたのです。仏教とは、お釈迦さまのおっしゃる通りに修業すれば、この山の頂に到達できる、お釈迦さまと同じように悟れる、という教えです。

 「悟る」というのは、単に頭でものの道理が分かったということではありません。本当に、世界の見え方が変わり、肉体的・生理的な部分まで変化してしまうものなのです。「悟る」ということを、「人生に達観すること」だとお考えになっておられる方もありますが、これも違います。達観しようが、しまいが、「この世界の真実」「私たちの命の真実」に目覚めないかぎり、凡夫であることに変わりはありません。まあ、このことについては、いずれ機会を改めてお話し申し上げます。

 今では、「悟る」などということは、夢のまた夢で、人間にはハナから無理のように言われておりますが、お釈迦さまが生きておられた頃には、結構たくさんの人々が悟られたように伝わっています。『長老偈』『長老尼偈』という、当時の悟られた方々の詩集には、男女あわせて3百数十名ものお名前がでてまいります。

 その後も、悟られた方は少なくなかったに違いないのですが、「悟った人」としては、お名前は伝わっておりません。その一つの理由は、「自分は悟った」と言うことを、戒律で禁止してしまったからなんです。というのは、悟ってもいないのに、「自分は悟った」と言い触らす、こまった人たちが現われてきたからなのですね。今もありますでしょう。「自分はお釈迦さまの生まれ変わりだ」などと言って信者を集める人たちがね。あれなんですねえ。

 それで、まともな人たちは、悟りの境地に到達しても、悟ったとは言わなくなってしまったんです。この本堂のお内陣に掛かっております「七高僧」の筆頭、「龍樹菩薩」なども、悟りの境地に到達された方だと、私は思いますが、ご自身では、悟ったとはおっしゃっていません。

 悟られた方はお釈迦さま以外にも沢山おられたと申しましたが、その方々が皆、お釈迦さまと寸分違わぬ道をたどって、悟りの境地にたどり着かれたわけではないのです。人には個性というものがありまして、何事にも向き不向きがあります。お釈迦さまも、このことはちゃんと分かっておられて、人の個性に応じて、お教えになったのです。それがつまり対機説法なのですね。

 山にも、頂上に到り着く道は一本ではないように、いろんな悟り方があったと思います。どんな道をたどっても、方向さえ間違っていなければ、到り着く場所は同じはずなのですね。「お念仏の道」というのも、この頂上に到り着くための道なのです。

 「お念仏の道」というのは、たとえて言えば、この山の山腹にエスカレーターが付いているようなものなのです。これに乗れば自動的に頂上(正確には、頂上一歩手前の「お浄土」)に到着するのです。これが「他力浄土門の道」と呼ばれている「お念仏の道」です。これは法蔵菩薩の誓願によって付けられた道なのですが、そのことについては、また別の機会にお話し申し上げます。

 「悟り」に到る道のことを別のたとえで申しますと、煩悩のただなかにいる人が、いわば力ずくで修業のハシゴを一歩一歩登り続けて、煩悩世界から抜け出そうとするのが、「自力聖道門の道」と言われるものです。一方、この「他力浄土門の道」というのは、今おりますままの位置で、座布団の下に「お念仏」という車輪を付けましてね、この「お念仏」の力で、横へズルッとすべり超えて煩悩世界から抜け出そうというものなのです。

 先程も申しましたように、この「道」は「エスカレーター」のようなものですので、乗ってしまえば自然に「お浄土」に行き着く仕組みになっております。ですが、そんなに簡単な道だと言うのなら、どうして私たちは「お念仏」を称えても「煩悩の世界」から抜け出たという実感を持てないのでしょうか。

 私は以前このことを考えておりました時に、実に当たり前のことに、ハッと気づいたのです。私たちは、決して「救われたい」などと思っていないのです。つまり、「エスカレーター」の道を云々する以前に、私たちは、実は、ハナからそんな山に登る気などないということに気づいたのです。

 思えば、お釈迦さまは最初からご存じだったのです。先程の「4つの神聖なる真理」をもう一度ご覧ください。「この世は苦だ」ということが「神聖な真理」として示されておりますね。「この世が苦だ」ということが、わざわざ「神聖な真理」と言われているのは、私たち凡夫にはそうは見えていないということなのですね。

 私たちには釈尊の説かれた「道諦」どころか、本当は、最初の「苦諦」すら実感として分かっていないのです。私たちの目には「この世が苦だ」とは映っていない。つまり、私たち凡夫は、「苦しみの世界」にいるとは思っていないのですから、当然、そこから「救われたい」などと本気で思ってはいないのです。このことこそが凡夫の凡夫たるゆえんなのです。お釈迦さまが、説法をためらわれた理由も、これだな、と思いましたね。

 私たちはよく「人生は苦しみだ」などということを口にはしますが、この「人生を苦しみ」と見る考え方は、世界的に見ても非常にめずらしい考え方なのです。これは実は仏教思想の一大特徴といわれているものなのです。わたしたちには仏教伝来以来、これを聞きかじってきた長い伝統がありますから、無意識のうちに口真似しているだけなのです。

 そこで、この「苦しみの世界」にいるとは思わずに暮らしている私たちの姿を、ちょっと考えてみたいと思います。先程も申しましたように、お釈迦さまは一国の王子としてお生まれになり、何不自由なく暮らしておられたのに、その王子という地位も、あるいは豪華な宮殿も捨てて、悟りを求められたのでしたよね。そこで、ちょっと考えてみてください。私たちは、お釈迦さまのお捨てになった「地位や宮殿」の方に関心があるのか、それとも「悟り」の方に関心があるのか、ということをです。つまり、私たちは「権力や財物」が欲しいと思っているのか、目に見えない「悟り」という境地が欲しいと思っているのか、ということです。

 有り体に申しまして、私たちは仏教徒だと口では言いながらも、たいてい、釈尊がお捨てになった地位や宮殿の方に関心がある、という生き方をしておりますのですね。だとすると、つまり、私たちはお釈迦さまの教えを聞いて、理屈では何となく分かるような気がしても、決して本心からお釈迦さまのようになりたいとは思っていない、ということになるのではないでしょうか。

 なぜでしょうか。それは、先程も申しましたように、私たちはたいてい、本当の意味で「人生は苦だ」とは思っていないからなのです。「人生は苦だ」などと言われても、私たちの日常的な感覚から言えば、「人生には楽しみもあれば、喜びもある」としか思えませんものね。

 たとえばです。街で見かけた綺麗な洋服を買うことも、ハンドバックを買うことも喜びでしょう。新しい車や家を買うことも喜びでしょう。お若い方にはデートも楽しいでしょう。試験に受かることも、職場で昇進することも喜びですよね。久しぶりにお孫さんの顔を見るのも嬉しいことでしょう。ささやかな晩酌だって捨てたものではないでしょう。私たちは、こういった様々な喜びを励みにして、生きているのではないでしょうか。

 つまり、私たちの人生は喜びを追うことを基調にして成り立っているということです。喜びの飛び石づたいに、前へ前へと進んで行くのが、私たちの人生なのではないでしょうか。「この世は苦であり、その原因は煩悩にある」というより、むしろ「この世には苦しいこともあるが、その原因は、たいていは金が無いことだ」くらいに思っているのが、私たちではないでしょうか。

 私たちは常に、何か喜びや楽しみを前方に置いて、それに向かって生きております。「苦労して何か大きな目標を達成することが人生の目的だ」とか、「目標への道程が苦しければ苦しいほど、そこに到達した時の喜びも大きい」などと申します。ですが、「苦しみ」なんてことを言っても、たいていはその「苦しみ」自体が目的ではありませんで、「喜びを得る」という点に目的があるのです。

 そして、次から次へと目標を定めて、喜びを求めて走り続けているのです。そして、常に「何か喜びのタネはないか」「何か面白いことはないか」とキョロキョロ、キョロキョロと周りをうかがっているのです。というのも、私たちは「自分を満足させてくれるものは、自分の外にある」と思っているからなのです。私たちが「病気」イコール「不幸」だと考えているのも、病気になって身体が動かなくなると、「喜びのタネ」を思うように外から奪ってこれなくなってしまうからです。

 ですが、何かを手に入れて満足しても、そのうちにまた、その満足感が薄れて次のものが手に入れたくなる。満たされては不満になり、満たされては不満になるという、この波のような揺れを、死ぬまで絶え間なく繰り返しているのが私たちなのです。

 どうしてなのか。それは私たちの心が煩悩におおわれているからです。この「煩悩」というものの働きについては「心の青年への手紙」の第2通でお話しいたしておりますので、詳しくはそちらをお読みいただくことにして、ここでは、コップを使って簡単にご説明したいと思います。このコップが私たちの「心」、こちらの水を「喜びのタネ」だとします。コップに水を注ぎ入れると、コップは満たされます。これが、心が満たされた「満足」という状態です。ですが、このコップはいつまでも満たされたままではありません。煩悩には「漏れる」という働きもあるのです。時がたつにつれて、水が流れ出ていき、またコップが空虚になっていくのです。これが、煩悩におおわれた私たちの「心」の仕組みです。こんなふうに、常に何かを求めながら、それを達成しても達成しても、まるでザルで水をすくいあげているように、究極的に満たされることがないというのが私たちなのです。

 ところで、様々な喜びを飛び石にして進んで参りました私たちも、重い病気になったり、だんだん年をとってきたり、死を前にするようになったりますと、前方にそんな目標を置く場所がないという真実につきあたる時が訪れてまいります。私たちが、つまずき始め、本当の意味で人生を考え始めるのはこんな時なのですね。

 昔の人は、と申しましても一部の人々だったと思いますが、お説教をよくよく聞いておられたものですから、最後の飛び石を来世に置いて、「さあ、これで浄土に往生できる」と、一種の安堵感を持って、この世での最後の一歩を踏みだせたものなのでしょうが、今は、なかなかそうはいきません。そんな精神的基盤ができていないからです。

 昔、ある人が、「若さというものは、若い奴らには勿体ないものだ」と言ったそうですが、あるいはそうかもしれませんね。人生の意味など考える気もない時期には馬に喰わせるほど時間がたっぷりとあって、人生の意味を考え始めた頃には、もう手に残り少なくなった砂時計を握らされている、ということが少なくありません。

 確かに、年をとると、経験の蓄積によって、若い頃には見えていなかった世界が見えてくるものでしょう。ですが、だからといって、凡夫のわれわれには「世界の真実」「命の真実」が見えてくるわけではありません。私たちには、現実社会での経験の蓄積しかないからなんです。

 私たちは長年、前方にある目標に達成することこそ喜び、という生き方をしてきておりますから、同じような状況では、これまでの経験がものを言うのです。ですが、もうこれで人生が終わるという、つまり前方が無いというこれまでとは違った状況をつきつけられても、悩むだけで、お手上げなんですね。

 ですから、たいていは、これまでと同じように、「人生には常に目標が必要だ」などと、もう存在しないかもしれない未来のなかに無理にでも何か目標を据えて、つまり自分をごまかして、人生をやりすごそうとしたりするものなんですね。結局は、何も見えていないというのが、私たち凡夫なのです。

 仏教では、よく、「世界をありのままに見ることが大切」などということを申します。お聞きになった方もおられるかと思いますが、これは実は、私たち凡夫には出来ないことなのです。「世界をありのままに見る」というのは、悟った人の世界なんです。「世界ぐらい、我々でも見ているではないか。誰が見ても世界は世界だ」と、お考えになるかもしれませんが、これは違うのです。私たちは、誰一人、同じ世界を見てはいないのです。そういっても、これはどういうことかお分りにくいでしょうから、いくつか具体的な例をお話し致します。

 まず、これはよく言われることですが、たとえば、入学試験に受かった人と、落ちた人とでは、桜の花も空も太陽も、全く違って見えるということがありますよね。また、食物なんかもそうですね。空腹の時と、満腹の時とでは違って見えるでしょうし、好き嫌いもありますから、人によっても「おいしそう」だとか「まずそう」だとか、同じ料理でも違って見えるはずです。

 以前、こんな実験のことを聞いたことがあります。100円硬貨を使った実験です。紙の上に100円硬貨と似た、様々な大きさの円を書いておきます。そして小学生を集めて、100円硬貨と同じ大きさの円を選ばせます。すると、家庭の裕福な子供は実際の100円硬貨より小さい円を選び、家庭の貧しい子供は実際の100円硬貨より大きい円を選ぶというのです。私たちは、それほど、同じものを見ていないのですね。

 また、こんな話があります。かなり前のことですが、国連のユニセフがアフリカの人々に衛生教育をしようと、教育映画をたずさえて、村々を回ったときの話です。ある村で、映画が終わってから、ユニセフの職員が、「さあ、今の映画で何を見ましたか」と尋ねました。彼らは、「衛生に気をつけて石鹸で手をあらうことが大切だ」といったような答えを期待していたのですね。ところが、村人が一人立って、「ニワトリがいた」と答えたのです。ユニセフの職員は驚いて、「ニワトリ? 他には何を見ましたか」と尋ねると、「ニワトリしか見なかった」と言うのです。そんなはずはないと、職員が映画を1コマ1コマ丹念に調べたところ、一ヶ所だけ、ニワトリが画面を横切る場面があったというのです。つまりですね。狩猟や農耕で生活している人々には、石鹸で手を洗うなどということは生活に何の関係もない。彼らの目には「ニワトリ」しか映らなかったのです。私たちは誰もが、その人その人の関心に応じた角度からしか世界を見ていないということですね。

 もうひとつお話いたしましょう。タレントの黒柳徹子さんの話です。ご本人がおっしゃっていたお話しですが、以前、あるテレビのドラマにお婆さんの役で出ておられたときのことです。いつも社員食堂で食事をしていたときには、「ああ、徹子さん、徹子さん、こっちの席があいてますよ」と、混んでいても誰もが親切に席を譲ってくれたり、食事を運んできてくれたりしていたものですから、「まあ、何と皆さんは親切な方ばかりだ」と思っていたというのですね。ところが、そのお婆さんの扮装のまま社員食堂に行ったところ、非常に邪険にされた。それでですね、黒柳徹子さんは、「ああ、何と、この歳になるまで、自分はこんなことも知らなかったのか」と、非常に恥ずかしい思いをなさった。それほどですね、私たちには、自分の境遇からしか世界が見えていないのですね。

 もう、これでお分りになったことと思います。つまり、私たちは一人一人違った世界を見ているということです。世界をありのままに見てなんかいないのです。私たちは世界を「目」でみているというより、むしろ「心」で見ているのです。私たちの心はさまざまな「欲望」で波立っていますから、心に映る世界の姿もゆがんでいるのです。また、人によって心の波立ち方が違いますから、世界の映り方も違ってきます。この心が鎮まって、完全に鏡のようになったとき、はじめて「ありもままの世界」が心に映るのです。「世界をありのままに見る」ということは、悟った人しかできない、と申しましたのは、こういうことです。

 つまり、さきほど、釈尊は修業によって高い高い山に登られたのだと申しましたが、その高い山の上からご覧になれば、裾野に広がる「この世は苦だ」と分かったということなのです。ですが、それは私たち裾野に暮らしている凡夫にはなかなか見えてこない世界なのです。

 それでは結局、私たち凡夫には「真実」に続く道がないのか、ということになりますが、そうではありません。「お念仏の道」があるのです。私は以前、「お念仏の道」というのは、お釈迦さまの示された修業方法、つまり「道諦」に代わる教えだと考えておりました。ですが、これは違うのです。「お念仏」は「4つの神聖な真理」を一点に集約した智慧そのものでして、「苦諦」もこれを通して初めて体得できるものなのです。

 どういうことかと申しますと、私たち凡夫は、「お念仏」の「エスカレーター」に乗って山を登り始めなければ、視野が開けてきませんから、それまで自分たちの居た場所が「苦しみの世界」だったことにすら気づかないということです。

 ですが、ここで必ず疑問に思われる方がおられることと思います。「自分はお念仏を称えている、だが、とりたててそんなふうに感じたことはない」という疑問です。これは本日の最初にあげました疑問ですね。ようやく、私たち凡夫の世界を一巡りして、出発点に戻ってまいりました。

 「お念仏を称えても有り難くない」と申しますと、「それは信心が足りないからだ」などとおっしゃる方がおられますが、それこそ「お念仏を称えていない」から言えることなのです。そもそも、「信心」というものは、得ようと努力して得られるものではないのです。「信心」というのは、「お念仏」から自然に生まれてくるものなのです。

 「まず信心が第一」などと、よく言いますがね。それはたとえて言えば、ここに「お浄土」へと続く「エスカレーター」がある。だが、ここに「エスカレーター」があると信じて乗らねば、この「エスカレーター」は動かない、と言っているようなものです。信じていようと、いまいと、「お浄土」へと続く「エスカレーター」はちゃんと在りますし、乗れば必ず動きます。そうなっているのです。だからこそ、「自然法而」と言われているのです。

 祖母が元気でしたころ、ときどき一緒にデパートなんかに出掛けたことがあります。デパートには「エスカレーター」があるのですね。ですが、祖母はめったにこれに乗りたがりませんでした。「乗り方が分からないので、こわい」と言いますのですね。今ではこういう方も少なくなったと思いますが、以前は結構おられました。祖母が「エスカレーター」に乗れなかったのは、乗り方が分からなかったからですが、これは「お念仏」にも言えるのではないかと思います。

 そこで、これから「お念仏の道」という「エスカレーター」への乗り方をお話しいたしますので、お手元にお配りいたしておりますプリントをご覧ください。「はからいをはなれ、ただ一心に念仏申して、浄土に往生する」と書いてございます。「乗り方」と申しますのは、前の2行、「はからいをはなれ、ただ一心に念仏申して」というところです。

 「そんなことならやっている」と思われる方も、これからご説明申し上げますことと、ご自身のなさっていることをお比べいただきたいと存じます。

 まず、「はからいをはなれ」とは、「自分の頭で考えることをやめる」ということですが、実際にはどうするのかと申しますと、これは二つの思いを捨てるということなのです。まずそのひとつは、「念仏など称えて何になるんだ」という思いを捨てることです。もうひとつは、ちょっと反対のことを言うようですが、「念仏を称えることで救われよう」という思いを捨てることです。これはともに、自分の頭で、「役に立つとか立たないとか」を判断している思いです。まず、この二つの思いを捨ててください。つまり、大切なのは、「お念仏」に何も期待しないということです。

 つぎに、「ただ一心に念仏申して」ということですが、まず「ただ一心に」というのは、「念仏だけ」ということです。「念仏だけを思う」ということです。「お念仏」を称えながら、何かを思ったり考えたりしないということです。よく、「お念仏を称えながら一日を反省する」などとおっしゃる方がおられますが、これは違います。「お念仏」を称えながら「反省」するというのでは、これは「一心」ではなく、「お念仏」と「反省」という二つの心になってしまいます。

 ですから、「お念仏」を称えながら、「反省」したり、「我が身の後生」や「先祖の供養」を願ったりしていたのでは、「ただ一心に」というわけにはいきません。これは実際にやってご覧になれば、すぐに分かります。「お念仏」を称えながら「反省」するというのは、「お念仏」という水の入ったコップの中へ「反省」という氷を入れるようなもので、真剣に「反省」すればするほど、心のなかから「お念仏」があふれて出ていってしまいます。

 親鸞聖人が『歎異抄』(第5条)のなかで、「私は今までに、ただの一辺も、父親や母親の孝養のためにという思いをもって、念仏したことはありません」とおっしゃっているのも、こういう方向から見れば、当然だと言えます。「ただ一心に念仏申す」というのは、「心」を「お念仏」で満たすということです。もう少し進んで申しますと、それは「お念仏そのものになる」ということなのです。

 最後に、「ただ一心に念仏申して」の、「申して」ということですが、これは伝統的には、「声に出してお念仏を称えること」と言われております。ですが、眼目は「心がお念仏で満たされ、お念仏そのものになる」という方にありますから、「声を出すと一心になりにくい」という人は、強いて声に出す必要はないと思います。何事にも、「向き、不向き」「得手、不得手」ということがありますから、それを無視しては、成るものも成りません。

 さて、皆様がなさっておられる「お念仏」とお比べになって、いかがでしょうか。以上が「お念仏の道」という「エスカレーター」に乗る方法の「かなめ」です。ただ、この「かなめ」を実践に移す場合に、多少「コツ」がございます。次回は、その「コツ」をお話し申し上げたいと思います。ただ、お話しをお聞き頂いただけでは、お分りになりませんでしょうから、ここでご一緒に「お念仏」を称えてみて、皆様に直接ご体験頂きたいと思っております。

 あるいは、本日の説明だけで、お分かりになった方もおられるかもしれませんが、これは「念仏行」と言ってもよい、一種の瞑想法です。いわば、心と身体にこびりついた汚れの大掃除をする方法なのです。次回、実際にこの「念仏行」をなさってごらんになれば、すぐに納得なさることと思いますが、これは心の指圧とでも言えるような、なかなか気持ちのよいものです。

 どうぞ、「お仏壇」の前で、「反省」したり「嫁のグチ」言うたりなさってないで、「ただ一心に」お念仏を称えてください。毎日、毎日、少しづつ、少しづつ、この「念仏行」を続けておられれば、必ず、「お浄土」と呼ばれている「大きな命の世界」に気づける日が参ります。

 私には、皆様を「お浄土」までお連れする力など全くございませんが、「エスカレーター」に一歩足を乗せられるところまでは、何とかご案内申し上げたいと存じております。

 本日は、お忙しいなか、ようこそお参り下さいました。またお目にかかれるよう、念じております。有難うございました。



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