釋昇空法話集・第2話

お念仏になる

お念仏行を実践するうえでのコツ

(1994年3月21日 彼岸会法話)
 本日はお忙しいなかようこそお参りくださいました。どうぞお楽にお座りください。

 私は昨年の春に、この紫雲寺の住職を継承いたしましたが、月参りや法事で、あちこちの門徒さんのお宅に伺うようになりましてから、かれこれ20年近くなります。最初は何も分かりませんで、戸惑うことがよくございました。

 この寺はもともと「加越講」という門徒さんの集まりから始まりましたもので、お同行には加賀や越前の方が多くおいでになります。加賀の方言では、「お気をつけて」という意味の丁寧な言葉に、「お静かに」というのがございますが、これが最初は分かりませんでね。あるお宅にお参りに伺ったあと、ご挨拶をして玄関の戸を閉めようとしましたら、そこのおばあさんが、「お静かに」とおっしゃいましてね。私は分からんものですから、これはてっきり戸を静かに閉めろと言われたのだと思いまして、あわててソット閉めたなんてこともございました。

 このおばあさんも、もう何年の前にお亡くなりになりました。思えば早いものですね。私が小坊主だった頃から「ボンさん」とか「お新発さん」とか言って可愛がってくださったご年配のお同行の方々は、今はもうほとんどお亡くなりになってしまわれました。ですが、今日ここで皆様にお目にかかるご縁を頂けましたのも、そういう方々のお導きがあったからだと思います。今日は、そういった懐かしい方々もお聞きくださっているつもりで、私たち門徒にとりまして、いちばん大切なお話しをさせて頂こうと思います。

 今日は二つのお話しを致します。まず最初は、「浄土の教えとは何か」「浄土とはどこにあるのか」というお話しです。「浄土の教え」というのは私たちの「命の真実」について説かれた教えです。門徒というのは、この「浄土の教え」のもとに集まった人々のことをいいます。ですが、「自分は家が代々門徒やと聞いているから、門徒なんであって、浄土の教えについては何も知らない」とおっしゃる方々もおられるかと思いますので、この機会に、どうぞよくお聞き頂きたいと存じます。

 その次には、この浄土に往くための乗り物、つまり「お念仏」についてのお話しです。昨年の秋の永代経法要のおりにお約束致しましたように、今回は「お念仏行」の具体的な実践方法についてお話し申し上げます。話をお聞き頂いただけでは、それこそ「話」に終わってしまいますので、関心をお持ちくださった方々にはお残り頂いて、後で実際に「念仏行」を行なってみたいと思っております。もちろん、これは強制ではございませんので、話だけ聞いてお帰りになるのもご自由でございます。前以て、申し上げておきます。

 以前にご案内致しました時間より、もう少し長い話になるかもしれませんが、どうぞお楽にお聞きくださいませ。

 さて、最近はテレビや書物でも、「死後の世界」というものがよく取り上げられるようになりました。多くの人々の関心が、目に見えない世界にも向けられるようになったということは、それはそれで結構なことだと思います。ですが、どうも順序が違うように思うんですね。

 私たちは、まだ死んではおりませんから自分では生きていると考えております。ですが、本当は様々な欲望に追い回されてガムシャラに走り続けているだけなのではないでしょうか。「生きている」という自覚がない、「命の真実」に気づいていない。もしそうなら、私たちは、「死後の世界」どころか「今自分の立っている場所」さえ分かっていないということになります。

 生きている私たちにとって先ず大切なことは、その「生きている」ということの根底にある「命の真実」に目覚めることではないかと思います。「生きている者」は、その「生きている」ということから取りかかるべきでして、足元をなおざりにして「死後の世界」が有るとか無いとか言ってみても、どうも落ち着きの悪い話になってしまいます。順序が逆のように思うと申しましたのは、このことです。

 仏教は「死後の世界」を説く教えではありません。そうではなくて、この「生きている」ということの根底にある「命の真実」に目覚めることを説く教えなのです。「浄土の教え」というのも、やはり「命の真実」について説いた教えなのです。ですから、「浄土」というものを、単に死後に往く世界だと考えていると、仏教がお伽話のようなものに見えてしまいます。(「浄土」は死後にもありますが、そのお話しは別の機会に改めてさせていただきます。)

 では、「浄土の教え」とはどんな教えなのか。「浄土の教え」というのは、『大無量寿経』などの「浄土経典」に示されている教えのことです。では、その「浄土経典」には、どんな教えが示されているのか。お手元にお配り致しておりますプリントをご覧になってください。そこに書いてありますのは、『大無量寿経』の教えの核心を、ごくごく簡単にまとめたものです。一度ゆっくり読んでみますね。

 「昔々、法蔵(ほうぞう)菩薩という名前の修行者が、衆生済度の誓願(ねがい)を立てて修行を積み、その誓願を成就して、阿弥陀(アミダ)という名前の仏様となられた。そして今から十刧(こう)の昔に、西方十万億仏土の彼方に仏の世界を建立された。この仏の世界を『西方極楽浄土』という。

 法蔵菩薩の誓願の眼目は、仏の名号(名前)を念ずる者を、もらさずこの『西方極楽浄土』に往生させ、悟りに導くというものだった。この誓願が成就できないうちは仏にならないと誓っておられた法蔵菩薩が仏様になられたのだから、この誓願は既に成就されているということである。したがって、この仏様の名号(名前)を念ずる者はみな、この浄土に往生できるのである。」

 初めてお聞きになられた方は、あるいはガッカリなさったかもしれません。また、「こんなお伽話を信じているのが門徒か」と、呆れてしまわれたかもしれません。私も以前、この『大無量寿経』を初めて読みました時には、唖然といたしましたので、お気持ちはよく分かります。ですが、大乗仏教の経典は特殊な方法で書かれていますので、これを文章どおりに受け取ったらとんでもない誤解です。

 では、どう読めばよいのか。先ず第一にお考え頂きたいのは、「御経とは何を伝えようとしたものか」ということです。御経というのは決してお伽話ではありません。御経というのは、「悟りの境地」や私たちの「命の真実」を伝えようとしたものなのです。ですが、この「悟りの境地」や「命の真実」というのは、目にも見えない、言葉でも説明できないものなのですね。

 では、そんな目にも見えない、言葉でも説明できないものを伝えようとしたら、どうすればよいのか。それにはです、「たとえ」や「象徴」の力を借りるしかないんですね。「目に見えないもの」を、仮に「目に見えるもの」に置き換えて表現するしかないのです。御経は、そんなふうにして書かれているのです。

 つまり、大乗仏教の経典というのは、不可称・不可説・不可思議な、目にも見えない、言葉でも説明できない「悟りの境地」や「命の真実」を、「たとえ」や「象徴」を使って表現し、ひとつの物語に仕立てたものなのです。大乗経典というのは、いわば哲学的神話なのですから、言葉の裏に秘められた意味を汲み取らねばならないものなのです。ですから、最近たくさん出版されている現代語訳になった御経を、他の書物を読むときのような知識を求める目で読んでみても、そこには荒唐無稽なお伽話しか見えてこないのです。

 では、そんなお伽話の裏に隠された本当の「西方極楽浄土」とは、どんな世界なのでしょうか。御経が、「目に見えないもの」を仮に「目に見えるもの」に置き換えて表現したものなら、そこに描かれている「目に見えるもの」を逆に「目に見えないもの」へと翻訳しなおしたら、本当のところが分かってくるはずです。そういう手順で、この「西方極楽浄土」とは何かということを読み解いていこうと思います。

 さきほどのプリントで、「浄土の教え」を読み解くための大切な言葉には横に線を入れておきました。その言葉だけ、プリントの裏側にまとめて書いておきましたので、この言葉の意味を、ひとつづつ考えていこうと思います。

 まず、この「西方」という言葉ですが、昔、この「西方」という言葉を、目に見える方角のことだと考えて、大阪湾から西に向かって船を漕ぎだし、「西方浄土」へ行くんだと言って自殺した人もあったそうです。ですが、大阪から四国へ、四国から九州へと、西へ西へと進めば「極楽浄土」に近付くというわけではありません。どんどん西へ進めば、地球を一回りして、もとに戻ってしまいます。これは、決してそういうことを言っているのではないのです。

 昔も、これが方角のことを言っているのではないということに気づいていた人たちもいました。そういった人たちは、この「西方」という言葉を、「西に日が沈めば一日が終わる」のだから「西方の彼方というのは一生が終わった次の世界」のことを言っているのだと理解しておりました。ですが、それも違います。仏教は単に来世のことを言っているわけではなく、この私たちの「命の真実」について言っているのです。

 では、どういう意味なのか。「西方」とは日没の方向です。日が沈めばどうなるか。騒がしく、慌ただしかった一日が終わるのです。つまり「西方」というのは、心のなかの騒ぎが鎮まっていく状態を言っているのです。この目には見えない状態を目に見える「方角」にたとえて示したのが「西方」という言葉なんですね。「西方」に行けば「極楽浄土」に到達する。これはつまり、心のなかの騒ぎが鎮まったなら、「極楽浄土」という世界が開けてくる、ということを言っているのです。

 次は「極楽」という言葉です。経典には、「極楽」というと、宝石で飾られた宮殿があったり、美しい花が咲いていたり、鳥がさわやかな声で囀っていたり、欲しいものがあれば、欲しいと思うだけで手に入る世界のように描かれています。ですが、本当はそうではないのですね。

 「極楽」というのは、インドの言葉ではスクハーヴァティーといいます。スクハーヴァティーというのは、「幸いあるところ」「本当の幸福が得られるところ」という意味なんです。

 ですが、私たち凡夫は、「幸福」というものを物質的な欲望の満足にしか見出だせませんでしょう。たとえば、家が手に入ったら幸わせ、車が手に入ったら幸わせというわけなんですね。ですから、欲望が無くなってしまった世界などというものは、おおよそ理解できません。そこで経典では、欲望が無くなってしまった世界を描く代わりに、欲望が完全に満たされる世界を描くことで、「極楽」の素晴らしさを表現しようとしたのです。そのため、この「極楽」という言葉は、これまでに無数の誤解を生んできました。

 「極楽」というのは、何でも思いのままに手に入る世界のことではありません。様々な欲望が完全に無くなってしまう世界をいうのです。「本当の幸福が得られるところ」、つまり「極楽」というのは、煩悩が完全に無くなってしまった「悟りの境地」のことを言っているのです。

 その次の「浄土」という言葉ですが、この「浄土」という言葉は中国でできたものでして、インドでは「仏国土」(ブッダ・クシェートラ)と言いました。この「仏国土」の「国土」(クシェートラ)というのは、物理学でいう重力場や電磁場の「場」に相当する言葉です。この「場」というのは、簡単に言えば、何らかの力が働いていて、そこに入ればその力の影響を受けるような空間のことです。

 たとえば磁場というのは、磁力が働いていて、そこに鉄片を入れると磁気をおびるようになる空間のことです。ただの鉄の釘が、磁石の力の影響で磁石になってしまう。そんな力が働いている空間が磁場なのです。

 同じように、「仏国土」つまり「浄土」というのは、仏の力が働いていて、そこに入ればその仏の力の影響を受けて仏性が目覚めるようになる場所のことなのです。「仏の力」によって「仏」になれる場所。それが「浄土」です。

 いま「場所」と申しましたが、正しくは目には見えない「精神的世界」「魂の世界」のことです。また、「仏の力」のことを「慈悲の光」とも言います。そしてこの「慈悲の光」のなかへ入るための智慧が「念仏」なのです。

 「仏性」というのは「悟りの種」のことです。この「悟りの種」は誰の心のなかにもありますが、煩悩の雲でおおわれて心の中が暗くて冷たいものですから、この種はまだ芽をふいてはいません。ですが、「念仏」によって心に「慈悲の光」が差し込むと、この「悟りの種」は芽をふきます。「悟りの種」はひとたび芽をふくと、二度ともとの種には戻りません。これを「不退の位」に入った、あるいは「正定聚の位」に入ったというのです。「正定聚の位」に入ったというのは、必ず悟りに到達できるエスカレーターに乗ったということです。つまり、この「浄土」と呼ばれる「精神的世界」に入れば、必ず悟れるというわけです。

 では、そんな場所が「十万億仏土の彼方にある」というのはどういう意味なのでしょうか。「十万億仏土の彼方にある」というのは、無数の宇宙を通りすぎた遠い彼方にあるということですが、これは距離を表わしたものではありません。距離は目に見えますが、これは目に見えないもののことを言っているのです。

 「西方極楽浄土」が「十万億仏土の彼方にある」というのは、「西方極楽浄土」は、欲望に満ちあふれて世俗の価値観を握り締めている私たち凡夫が、い くら努力しても到底到達できないほど遠くにあるということでして、つまりは、私たち「凡夫の心」と「悟りの境地」との間にある大きな隔たりを、距離の隔たりにたとえて表現したものなのです。

 では、この「念仏によって往生できる西方極楽浄土」が「十刧の昔に建立された」というのはどういう意味でしょうか。「刧」というのは、インドの時間の単位です。もちろん、先程来申し上げておりますように、これは時間のことを言っているのではありませんが、事のついでにこの「刧」という時間について見ておきましょう。

 「1刧」というのは、とてつもない長い時間です。「1刧」というのはどのくらいの長さなのか。『雑阿含経』という御経に、この「刧」という時間の説明がでてまいります。それを見ますと、「縦横高さがそれぞれ1ヨージャナの舛を作って、そのなかに芥子の実を満たす。そして100年に一度づつ鳥が飛んできて、芥子の実を1粒くわえて飛んでいくとして、この舛のなかの芥子の実が全部無くなったとしても、まだ1刧には足りない」と書かれています。

 1ヨージャナというのは、2頭の牡牛が荷物を満載して、1日に進める距離のことでして、一般には約15キロのことですが、仏教ではその半分の約8キロくらいに考えています。8キロというと、直線距離にして上賀茂神社から京都駅までですから、「縦横高さがそれぞれ1ヨージャナの舛」というのは、大変な大きさのものです。そこに芥子の実を一杯にする。この舛のなかに芥子の実は一体何粒あるのか。考えるだけでも気の遠くなるような話ですね。

 普通なら「大変な数」と言うだけで、考えるのを諦めてしまうのですが、私は数えてみたんです。「そんな芥子粒の数を数えるとは、坊さんて、よっぽど暇なんやな」と思われるかもしれませんが、まあ、これも愛敬です。坊さんは金は無くとも、暇はある。ですが、数えたと申しましても、この舛のなかの芥子粒を全部数えたわけではありません。いくら坊さんでも、そこまで暇ではない。私たちのこの宇宙が始まってから、幾粒くらい減ったかを数えてみたんですよ。

 私たちの宇宙が始まってから、だいたい200億年ほどたっている、と言われています。この200億年の間に、芥子粒はどのくらい減ったのか。実はですね、一升ビンで、たった6本半なんですね。これでは、「縦横高さがそれぞれ1ヨージャナの舛」から考えたら、何も減っていないのに等しいくらいですよね。

 ここまで数えて、まだこの話が時間のことを言っていると思うようなら、御経を読むセンスが無いと諦めた方がよろしい。これは時間のことを言っているのではないのですね。これはですね、「念仏によって西方極楽浄土に往生できる」という能力は、わたしたちが生まれるはるか昔に与えられた力、生まれたときには既に備わっている「天与の力」だと言っているのです。「天の与えた力」と言おうと「仏の与えた力」と言おうと、結局同じことです。つまりは、「生れ付き備わっている能力だ」という意味です。

 ですから、「念仏によって往生できる西方極楽浄土」が「十刧の昔に建立された」というのは、私たちには、念仏によって「浄土」に入れるという心的能力が生れ付き備わっているということを言おうとしたものなのです。

 さて、最後に残ったのは「法蔵菩薩」という修行者の名前と、「阿弥陀仏」という仏様の名前です。

 「法蔵」の「法」というのは「まこと」という意味です。ですから、「法蔵」というのは、その「まこと」が「蔵」に収まったまま、まだ外には現われていない状態を言うのです。「菩薩」というのは「仏」になる前の段階を言います。この「法」つまり「まこと」が外に現われると「仏」になるのです。

 「法蔵菩薩」という人がいたわけではありません。「仏」というのは「目覚めた」という意味ですから、目覚めるには、その前の段階として「目覚めていない段階」があったと言っているわけです。

 次に、「阿弥陀」というのは、「アミターユス」と「アミターバ」というインドの言葉の発音を漢字にあてはめたものです。

 「アミターユス」というのは寿命が無限にあるということです。寿命が無限にあるということは、時間的な制限が無いということです。また、「アミターバ」というのは、遮るもののない無限の光ということです。これはどこまでも光が届くということですから、空間的な制限が無いということです。そして「仏」とは「悟りの境地」のことです。ですから、「阿弥陀仏」とは、時間も空間も超えた「悟りの境地」を象徴する言葉なのです。

 ご家庭の御仏壇や、お寺のお内陣を見ますと、人間と同じような姿の「ご木像」や「ご絵像」がありますので、「阿弥陀仏」というのはこんな姿をしておられると考えてしまいますが、そうではありません。このお姿は「悟りの境地」という形の無いものを、仮に人間の姿で表現したものなのです。どうして人間の姿で表現したかと申しますと、「悟りの境地」に到達できるのは人間だけだからなんです。このことにつきましては、いずれまた別の機会にお話し申し上げます。

 さて、以上で「浄土の教え」を読み解いてきたのですが、ちょっと話が混み入っていましたので、お分りにくかったかと思います。そこで、もう一度、簡単にまとめておきましょう。プリントの裏の左側をご覧ください。

 「『西方極楽浄土』というのは、心が鎮まったときに開けてくる本当の幸せに満ちた精神的世界のことです。この世界に入れば、自動的に、時間も空間も超えた『悟りの境地』に到達できます。私たちには、念仏によってこの世界に入れる能力が、生れ付き備わっているのです。これが私たちの『命の真実』です。」

 これが「浄土の教え」の核心です。こういうふうに読み解いてみると、「浄土の教え」は、決してお伽話ではないことがよく分かるかと思います。

 「西方極楽浄土」というのは、どこか遠くにある理想郷のことではなく、私たちの心のなかで眠っている「仏性」が「念仏」によって目覚めたときに、開かれてくる世界のことなのです。そういう世界への扉を開く鍵が「念仏」なのです。そういう世界に入れる能力が私たちには生れ付き備わっている。それが私たちの「命の真実」なのです。

 さて、このようにお話ししてまいりますと、あるいは、「心の持ちようで、娑婆も浄土だ」ということを言っているのだと思われた方もおられるかもしれませんが、そうではありません。「心の持ちよう」というのは、「物も考えよう」ということでしょうが、どのように考えてみても「娑婆」は「娑婆」です。「浄土」は「娑婆」と全く違った場所にあるのです。では「浄土」はどこにあるのか。本日のもうひとつのテーマであります「お念仏」のお話しをいたします前に、このお話しをしておこうと思います。

 結論から申し上げます。「西方極楽浄土」はどこにあるのか。実はですね、「いま、ここに」あるのです。「ご院さん、気でも狂うたのか、まわりを見てみなさい。このどこが浄土なんや」と思われるかもしれませんが、私は別に、気が狂ったわけでも、冗談を言っているわけでもありません。

 ここは「西方極楽浄土」ではない、とおっしゃるのなら、それはそのとおりです。でも、「西方極楽浄土」は「いま、ここに」あるのです。「西方極楽浄土」は「いま、ここに」あるのですが、私たちが、その「いま、ここに」いないのです。なにか禅問答みたいに聞こえるかもしれませんから、もう少し順序だててお話し致します。

 私たちは「いま、ここに」いる、と思っています。たしかに身体はここにありますね。ですが、心がここにないのです。日常の私たちは、何もしていないときでも常に休みなく頭のなかでオシャベリをしています。常に何かを考えていると言ってもよいでしょう。過去を誇ったり悔やんだり、未来に期待したり不安を抱いたりして、決して「今」のこの一瞬にとどまっているということがありません。つまりは、頭のなかで過去へ未来へと走り回っている私たちは、「いま、ここに」はいないということなのです。こんな私たちの、心のなかのオシャベリを止めるための智慧。それが「念仏」なのです。

 私たちは「過去」に生きているわけでも「未来」に生きているわけでもありません。私たちは、本当は「いま、ここに」生きているはずなのです。ですが、心が「過去」へ「未来」へとさまよっています。心は「過去」へ「未来」へとさまよって何をしているのか。「過去」と「未来」のなかに、自分の姿を探しているのです。私たちは「いま、ここに」いるのに、「過去」や「未来」という見当違いの世界で自分の姿を探しているのです。

 また、私たちは「ここ」にいます。それなのに、他人が自分のことをどう思っているかと、他人の心のなかにある自分の姿を探しています。他人の評価が、世間の思惑が気になってしかたがない。他人の頭のなかばかり覗いてまわっています。そんなところを探しても自分は見つかりません。自分は「ここ」にあるのです。うろつきまわっている私たちは、つまり、自分を見失っているということです。こんな見失ってしまった「自分自身」を取り戻すための「智慧」。それが「念仏」なのです。

 「過去」は過ぎ去ってしまいました。ですから、「過去」は、いまさらどうしようもありません。「未来」はまだ来てはおりません。ですから、「未来」は、まだどうなるか分かりません。私たちは、そんな「どうしようもない」世界と「どうなるか分からない」世界をうろうろしているものですから、いつまでも心が温まらないのです。「念仏」は、「いま、ここに」ある命を取り戻す「智慧」なのです。

 こう申し上げましても、まだお分かりにくいかもしれませんので、ひとつ、目に見えるたとえを使ってご説明いたしましょう。ここに3つの積み木を用意いたしました。赤、青、黄色、とまるで交通信号みたいですが、赤の積み木には「過去」と書いてあります。青には「現在」、黄色には「未来」と書いてあります。

 「時」というものは、「過去」から「現在」を経て「未来」へと続く一筋の流れのようなものと考えられています。しかしこの流れは、「過去」「現在」「未来」という3つの積み木を、このように一列に並べたような関係にはなっておりません。そうではなくて、「時の流れ」を積み木で表わすとすれば、「過去」と「未来」という2つの積み木がくっついているだけです。そして、この2つの積み木の接点が「現在」に相当するという関係になっています。

 たとえばですね。私がこれから「いま」という言葉を声に出して言うとしますね。すると、「いま」の「い」と言ったときには、もう既に「い」と言ってしまったのですから、その「い」という部分は「現在」には無くて、もう「過去」に流れ去っているのです。ところが、「いま」の「ま」という部分はまだ声に出しておりませんから、この「ま」はまだ「未来」にあるのです。つまり、「現在」とは、「過去」と「未来」という2つの積み木がくっついている、この接点にあるということです。

 この「いま」という世界には、心のなかのオシャベリがとまったときに、初めて入っていくことができるのです。たとえば、私たちの「娑婆」世界は、心のなかのオシャベリによって、こんなふうに「過去」と「未来」にまたがっていますね。このオシャベリが段々と納まって行ったとき、私たちは自然に、この「いま、ここに」ある本来の命の世界に入っていくのです。

 本当の「いま」というのは、「過去」と「未来」という2つの積み木にはさまれた、この「緑色のシート」のようなものです。つまりは、時間の流れからはみだしている世界、時間を超越した世界が、本当の「いま」なのです。そして、私たちの日常的な意識とは次元の異なった、「いま、ここに」ある広大な世界が「浄土」です。

 さてこれで、「浄土」がある場所も、そこへ入っていく智慧が「念仏」だということもお分かり頂けたかと思います。しかし、それだけでは、まだ「浄土」へは行けません。肝腎なのは「念仏行」を実践するということです。

 よく聞く話なんですが、たとえばですね、「今日はお寺でいいお話しを聞いた」と、何か大切なことが分かったような気になることがありますよね。ですがそれは、何かが分かったような気がしただけで、しばらくすると何も変っていない自分に気づくのではないでしょうか。それは何故かと申しますとね、お話しを聞いただけで、この「念仏行」を実践しないからなんです。

 では、「念仏行」はどうすればよいのか。いよいよ本日のお話しの核心に入ってまいりました。

 お念仏行の「かなめ」につきましては前回の秋の永代経法要の折にお話し致しました。お念仏行の「かなめ」と申しますのは、ここにも貼ってありますように、「はからいをはなれ、ただ一心に念仏申して、浄土に往生する」ということです。

 「はからいをはなれ」とは、「自分の頭で考えることをやめる」ということですが、実際には、「念仏など称えて何になるんだ」という否定的な思いも、「念仏を称えることで救われよう」という肯定的な思いも、ともに捨てさることです。

 また、「ただ一心に念仏申す」というのは「念仏だけを一心に思う」ということです。「お念仏」を称えながら、何か他のことを思ったり考えたりしないで、「心」を「お念仏」で満たすということです。つまりは「お念仏そのものになる」ということなのです。

 では、どうすれば「心」を「お念仏」で満たすことができるのか。「お念仏そのもの」になれるのか。実はあっけないくらい簡単なことなのです。静かな場所に座って、目を閉じ、心のなかで「ナム、ナム、ナム、ナム」と称え続ければよいだけなんです。

 ただ、これにはいくつか「コツ」がございます。この「コツ」を知っていないと、なかなかうまくまいりません。それに、ガムシャラにやると、多少危険なこともございます。では、「念仏行」の「コツ」と危険について、お話し申し上げますので、よくお聞きください。

 《ふさわしい時》:来客や集金などの邪魔の入らない時間帯ならいつでも結構ですが、満腹時はいけません。食後であれば、少なくとも2〜3時間たってからになさってください。言うまでもありませんが、お酒を飲んだあとは無理です。

 《ふさわしい場所》:家の中でご自分が一番落ち着ける場所を探してみてくぐさい。それが御仏壇の前なら申し分ありませんが、そうでなくともかまいません。何度か試してみて、落ち着ける場所がはっきりしたら、毎回できるだけその場所で行なってください。

 暑すぎたり寒すぎたり、風が直接あたったりする場所はさけてください。日光や照明があまり明るすぎないように調節して、近くに電話機があれば、そのうえに座布団でもかぶせて余計な邪魔が入らないようにしてください。

 外の車の音が聞こえてきたり、その他少々の雑音があってもかまいませんが、ラジオやテレビなどは消してください。CDなどの音楽も止めてください。タバコの煙などで空気が汚れているようなら、換気してください。

 《準備するもの》:ローソクとローソク立て。ローソクは通常ご家庭の御仏壇用に使っておられるもので結構です。このローソクは「念仏行」の経過時間を知るための小道具です。このくらいのローソクですと、燃焼時間は無風状態で約18分です。もっと長くてもよいのですが、最初はこれで充分です。

 ローソクを使う理由は、時計を使うと時間が気になって邪魔になるからです。ローソクだと、炎がある間は「まだ終わっていない」と一瞥で分かります。ローソク立ては危なくないものなら何でも結構です。

 《座り方》:特に正座する必要はありません。椅子に座っても、畳のうえにアグラを組んでも結構です。要は無理なく背筋が伸びて楽に座れる姿勢を選んでくださればよいと思います。

 手は組まずに、手のひらを上に向けて膝の上にそっと乗せます。腕時計や眼鏡や装身具類を着けている場合はそれらをはずし、身体に圧迫感がないようにズボンのベルトもゆるめてください。

 《まず心を鎮める》:「ふさわしい時」に「ふさわしい場所」に座ったら、静かに息を吐きながら身体の力を抜いてください。しかし、無理に力を抜こうとすると逆に力が入ってしまいます。身体の力が抜けない人は、まず一度身体に力を入れてみて、息を吐きながら力を抜き、身体がゆるむ様子を実感してみてください。そうすれば自然に力が抜けるようになります。

 《念仏行の開始》:ローソクに火をつけてください。火をつけたら軽く目を閉じます。目を閉じたら、心のなかで(つまり声を出さずに)「ナム、ナム、ナム、ナム、…」と称え続けてください。

 心のなかで「ナム、ナム、ナム、ナム、…」と称えていると、そのうちに称えるスピードが変ってきたり、気が付いたら念仏が途切れてしまっていたということがあります。こういった変化が起きても、何も気にすることはありません。念仏の持っている自然の力にまかせればよいのです。

 昔から「お念仏におまかせする」と申しまして、「一腰折ったお念仏」などと申しますが、「まかせる」とは頭だけで「まかせる」ことを言うのではありません。身体ごと「まかせる」ことを言うのです。つまりは、身体の力を抜くことです。

 たとえば、乱暴な運転のタクシーに乗ると、思わず知らず身体に力が入ってしまいますでしょう。これは心配で「まかせられない」からです。「念仏行」にはそんな心配はありませんから、身体から力を抜いて楽にしてください。

 また、一心に称えるといっても念仏にしがみついてはいけません。しがみつくというのは懸命に念仏を称えようと力むことです。これではいけません。

 たとえば、川でおぼれかかっているときに誰かが救けにきてくれたと想像してみてください。救けにきてくれた人にしがみついては、助かるものも助かりません。本当に助かりたいと思ったら、身体の力を抜いて相手にまかせることです。「念仏行」でもこれと同じです。力を抜いて念仏にまかせればよいのです。

 《雑念への対処法》:念仏を称え始めてしばらくすると、様々な雑念がわいてきます。ですが、行中にわいてくる雑念は、力ずくで抑えたり払ったりしてはいけません。

 たとえば、仕事中に幼い子供がまとわりついてきたら、「よしよし、またあとでね、今はお仕事だからね」と、穏やかになだめて仕事に戻るでしょう。こんなときに手荒く払い除けたり、はねつけたりすると、子供は大声で泣きだしたり、しがみついてきたりするものです。

 行中の雑念もこれと同じように、ふんわりと扱わねばなりません。雑念がわいてきたら、「よしよし、またあとでね、今は念仏だからね」と、穏やかにおさめて念仏に戻るのです。無理に振り払おうとすると逆効果になります。

 それでも、気が付けば何か他の思いにとらわれていたとか、白日夢のような空想の世界をさまよっていたということもあるでしょう。そういう場合にも、あわてる必要はありません。「ああ、そうだ。今は念仏だ、念仏だ」と、いわば何食わぬ顔で念仏に戻ればよいのです。何事も気軽にお考えください。

 《念仏行中に起こること》:湯ぶねにいい気持ちで浸かっていて、知らぬ間にコックリコックリし始めて、ガバッと顔が湯に浸かって驚いたという経験はおありでしょうか。念仏行にもそれと似たところがあります。行を始めると、心より身体の方が先に念仏に反応し始めて10分もすると、たいてい手や足の先が妙に重だるくなったり温かくなったりして呼吸も少なくなってきます。

 ですがこの段階では、自分が何をしているのかという意識もありますし、周囲の音なども相変わらず聞こえています。このときには、ちょうど肩まで湯に浸かっているようなもので、首から上はまだ外に出ているのです。

 この段階を過ぎると、意識が完全に途絶えます。たとえて言えば、頭も湯のなかにもぐってしまった状態です。これが「大きな生命」に触れた瞬間です。通常、こんな時間はあまり長くは続きません。そのうち、ハッとして、何も考えていなかった瞬間に気づいてしまいます。するとまた、もとの意識が戻ってきます。こういったことを繰り返しながら念仏行が深まってゆくのです。

 しかし実際には、何も考えていなかった瞬間にハッと驚き、まるで湯に落ちた首を引き起こすかのように慌てて体勢をとりなおし、念仏にまかせきれないということも多々あります。これは、今まで長年の間に身につけてきた日常の意識を離してはならぬと、心のどこかで抵抗しているからです。この抵抗の手をそっとほどくことが、「はからいを捨てる」ということなのです。

 ですが、この意識を無理に捨てようと力む必要はありません。念仏行さえ続けておれば、どんなに頑固な意識であろうと、いずれは自然に落ちてしまいます。意識が途切れたら途切れたで、また自然に浮かび上がってきますから、何も心配することはありません。落ちる意識は落ちるにまかせておけばよいのです。

 むしろ「念仏行」の妨げになるのは、こういった意識の途切れる瞬間を待ち望む期待感が生まれてくることです。これは「念仏を称えることで救われよう」とする思いと言ってもよいでしょう。こんな期待が強いと、たいていは「期待はずれ」に終わります。

 たとえて言えば、いつ眠り込むのか、その瞬間を経験しようと待ち構えていると、いつまでも眠れないようなものです。意識が途切れなくとも、何も問題はありません。初めて念仏行を経験したときには、たいていの人が何かそれまでに知らなかった感覚を経験しますが、そうでなくとも、別に気に病むことはありません。いずれはそうなりますから。

 《念仏行の終わり方》:行中に経過時間が気になれば、そっと目を開いてローソクの炎を確かめていただいて結構です。実際、18分という時間が永遠のように長く感じられるときもあれば、ふと気づいたら既にローソクが燃え尽きていたというときもあります。いずれにせよ、ローソクが燃え尽きてしまえば、もう一度最初と同様に静かに深呼吸をして、「行」を終わります。

 ただし、このときに急激に立ち上がってはいけません。足元がふらつくことがあります。行中ずっと意識があったとしても、身体の方はやや通常の状態ではなかったのですから、座ったままで伸びをしたり手足を軽く動かしてから立ち上がってください。

 《その他の注意事項》:行中に身体のどこかが痒くてしかたがないとか、足が痛いとかいう場合には、あまり我慢している必要はありません。そんなときには、多少なら身体をうごかしたり、どこかを掻いたりしても結構です。無理に我慢していると、それが気になって「一心」になれませんから。また、同じ理由で、行にはいるまえには手洗いもすませておいてください。

 《危険について》:「念仏行」は決して「過激な行」ではありませんが、実は人によっては急激に心の深みに到達して、多少問題を生じることがあります。どういう人が急激に心の深みに到達してしまいやすいのかと申しますと、一点に集中することが日常的になっているような仕事についておられる方、つまり、特殊な職人さんとか芸術家などです。ですが、これから申し上げますことを前以て理解しておいて頂きましたら、さほど危険はありません。

 心は、自分で自覚的に意識できる表層部分、つまり私たちが日常的に「意識」といっている部分と、自覚的に意識できない深層部分からできています。また、この自覚的に意識できない深層部分は、さらに2つに分かれています。上の層は「自分と他人を区別する」働きをもっています。つまり、他人とは違った自分というものを成り立たせている心の層です。この層には、自分自身では意識していないような、様々な自己中心的願望が沈澱しています。この層を仏教では「マナ識」と呼んでいます。そしてその下に、「大きな生命」とつながる「アラヤ識」があります。

 問題は、この「自分と他人を区別する心の層」にまで急激に到達した場合に生じます。この層に急激に到達すると、ちょうど池の底に沈澱した泥をかきまわすように、自分では意識していないような、様々な願望が沸き上がってきます。そうなるとどういう事が起こるのか。具体的に申しますと、仏様や神様や観音様や天狗様、あるいは歴史上の特殊な人々(たとえば明治天皇やヒットラーなど)がはっきりと目にみえたり、また、そういった人々が何かを命じたり、予言をしたり、特別な任務を与えたりすることがあるのです。

 こういうものが見えたら、決して相手になってはいけません。それはあなた自身の無意識のなかに沈澱していた、「自分は他人とは違う」という思いが核になって生まれた幻なのですから。無視していると、そのうち消えてしまいますが、興味を持って関心を示していると、その幻に付きまとわれるようなことも起こってきます。そうなると、「自分は仏様や神様の生まれ代わりだ」と思い込んだり、「特殊な選ばれた人間だ」と思い込んで、新興宗教の教組様になってしまったりしますので問題ですし、これが極端に走ると一種の精神分裂症のようになってしまうこともあります。この状況を禅宗では「禅魔」といって強く戒めています。

 恐れる必要はありませんが、決して相手になってはいけません。幻がどうしても無視できないようなら、しばらくのあいだ「念仏行」はお休みにして、散歩でもなさってください。あなたは、そしてもちろん私も、決して特別な人間ではないのです。そのことに心から納得できたら、また少しづつ「念仏行」に戻ってください。いかなる場合でも、決して無理をしてはいけません。一度に長時間、念仏行をするということには、やはりいくぶんかは危険がともなうのです。

 言ってみれば「念仏行」は身体と心にこびりついた汚れの大掃除です。「念仏行」をしているうちに、様々なストレスが解消されてゆき、身体の持っている自然治癒力も高まってきます。実際に「念仏行」をなさってごらんになればすぐに納得なさることと思いますが、これは心の指圧とでもいえるような、なかなか気持ちのよいものです。

 ですが、身体のコリも急激にほぐすとかえってよくないように、心のコリも急激にほぐすというのはお奨めできません。いくら温泉が身体によいからといって、一日中浸かっているというのは考えものでしょう。「念仏行」も、まずは一日に2〜3回が適当かと思います。

 長さや回数よりも、毎日続けて日々の習慣になさることが肝要です。行に馴染み、経過時間を知るローソクなど不要となってしまえば、あとはご自分の情況に合わせて、回数や時間をお考え頂ければ結構です。

 さしあたり「念仏行」に必要な時間はわずかですが、最初は多少なりとも意識的に時間を取らねばならないかもしれません。長年かかってこびりついた汚れですから、一朝一夕には拭い去れないとお考えになってください。少しづつ喜びを深めながら気長にやる。「念仏行」は簡単だといっても、その程度の心構えは必要です。

 さて、以上で「念仏行」を実践に移す場合の「コツ」と危険についてお話し致しましたので、少しのあいだ休憩にいたします。この「念仏行」をやってみようと思われる方は、お残り頂くとして、ひとまず本日のお話を終わらせていただきます。本日はようこそお参り下さいました。有難うございます。



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