釋昇空法話集・第10話

自力と他力

本当の自分に出会うということ

(1997年3月20日 彼岸会法話)
 本日は、お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。皆様とご一緒に、この法縁に会わせて頂くことを、有り難く存じております。

 前回の秋の《永代経》には、「身体と心と魂」という題で、〈救いと信心〉についてお話しさせて頂きましたが、今回は、ご案内申し上げておりますように「自力と他力」という題で、お話しさせて頂こうと思います。

 私たちは仏教というものに何か暗いイメージを抱いておりますが、本当はそうではない。仏教は、私たちが本当に自由になる道、本当に幸せになる道を説いているのです。そのことをお伝えするのが、本日のお話しの眼目でございます。

 皆さんは、寺にお運び頂きまして、直に話を聞いてくださっているわけですが、録音テープで聞いてくださっている方もおいでになります。いろいろご感想をうかがいますと、「ごえんさんの話は、よく眠れる」というのが一番多い。「夜眠れなくて困っていましたが、ごえんさんの話を聞いていると、いつの間にか眠っていた。おかげさまで、長年使ってきた睡眠薬がいらなくなりました」とおっしゃる方も3人もおられました。

 それをうかがいましてから、「どうぞ、車を運転しながらお聞きになるときは、用心なさってください」とお願いするようにしておりますが、「眠り薬」の代わりになさるのでしたら、ひょっとすると、今回のお話しのテープが一番効くのではないかと、心配しております。本日も、例によってが例のごときお話しでございますので、いささか副作用が気がかりでございますけれど、どうぞしばらくのあいだお付き合いくださいませ。

 さて、日本では大半の方が生まれながらにして仏教徒ということになっておりますが、仏教徒であると自覚しておられる方はきわめて少ないのではないかと思います。たいていは、お身内の方が亡くなられてお葬式でもないかぎり、自分が仏教徒だということを思い出すことさえないというのが実状ではないでしょうか。

 そんな現代人にとって、仏教は、たとえば真宗とか禅宗とかいった、お宗旨の紋を入れた紋付きのようなものではないかと思いますね。日常の暮らしとは全く関係がない。タンスの奥にしまい込んで、そんなもの持っていたことも忘れている。葬式のときに引っ張りだして、紋を見て、「ああ、うちは真宗だったのか」と初めて知った。

 ところが、あんまり長い間しまってあったものですから、黴が生えてぼろぼろになっている。つまりお寺との縁が切れているというわけですが、そこで、これは困ったと、知り合いに電話をかけて尋ねてみる。「紋付きを持ってたら貸してくれんか? え、禅宗の紋が入っている? かまわん、かまわん。紋が付いてたら何でも一緒…」などということになって、禅宗の和尚さんに来てもらった。冗談ではなく、本当にこういうこともあるのです。

 そういう仏教のありかたを「葬式仏教」と言う人もあれば、葬式のときにしかお寺に縁のない仏教徒を「葬式仏教徒」と言い返す人もいますが、いずれにしても、あまり実りのある議論とは思えませんね。

 まあ、それはともかく、葬式のときにしか仏教に出会わないということになれば、悲しい思い出や死への恐怖と結びつくものとして、仏教に否定的な感情をいだくようになったとしても不思議はないように思います。その上、一生に一回になるかもしれないお坊さんとの出会いが不愉快なものだったりすると、もう最悪ですよね。

 どこかで聞いた話ですが、現代の若い人たちに「宗教をどう思うか」とたずねると、たいていの人の答えは、「暗い、怖い、気持ちが悪い、汚い、危ない、怪しい、迷信、年寄り臭い、関心が無い」という、この9つのなかにおさまるのだそうです。感心していてはいかんのですが、なるほどなあと思いましたね。

 「嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれる」「悪いことをしたら地獄に落ちる」。そこそこのお歳の方なら一度はお聞きになったことがおありだと思います。これが仏教だとすれば、たしかに「暗い」ですし、「怖い」ですね。ちょうど私くらいの年齢の方が、こういうものが仏教だと教えられて育った最後の世代ですから、ずっとお若い方には想像もつかないかもしれませんが、小さい頃は本当に地獄が怖かったことを覚えています。

 「罪の軽い重いにかかわりなく、お念仏を称えれば必ず極楽に往生する」という法然上人の教えから始まったはずの浄土真宗が、いつのまにやら「悪いことをすれば地獄に落ちる」という、何やら脅迫じみたものになってしまっていた。

 「ああ、よくぞこの御教えに出会えました。生まれてきてよかった。生んでくださって有り難うございます」という感謝の思いからご先祖様に手を合わせていたものが、いつのまにやら「ご先祖様を大切にしていたら何かいいことがある、ご先祖様を粗末にしたらバチがあたる」といった、我が身大事の、何やら怪しげなものになってしまっていた。

 私たちは知らず知らずのうちに、そういう脅迫じみたものや、怪しげなものが、仏教だと思いこんでいるのですね。もしそれが仏教だというのなら、そういうものに近寄りたくないというのは、むしろ正常な感覚だと言わねばなりません。

 よく昔から「さわらぬ神に祟りなし」と言いますが、「仏ほっとけ、神さわるな」という言葉もあるのだそうですね。「仏様や神様やご先祖様のご機嫌を損ねると祟りがある。それならいっそ、へたに近寄らないほうがよい」。至極ごもっともなことです。

 ですがね、ちょっとお考えになったら、すぐにお分かりになることですが、仏様や神様はもとより、ご先祖様が祟ったりするはずがないのです。私たちは亡くなった身内のことをご先祖様といっておりますが、そんな私たちも、いずれご先祖様と呼ばれる日がくるでしょう。その時のこととしてお考えになってみてくださいね。

 私たちは、お墓にお参りしたり、お仏壇にお供えしたり、ご法事を勤めたりすることが、「ご先祖様を大切にすること」だと考えておりますね。そこでです。あなたがご先祖様と呼ばれるようになって、もしも、子供さんやお孫さんが、お墓にお参りしたり、お仏壇にお供えしたり、ご法事を勤めたりなさらなかったとしたら、どうなさいますか。「けしからん。これはひとつ懲らしめてやらねばならん。痛いめにあわせてやらねばならん。祟ってやらねばならん」と、お考えになるでしょうか。

 おそらく、そうではないと思いますね。たとえ、お墓にお参りしたり、お仏壇にお供えしたり、ご法事を勤めたりなさらなかったとしても、そして、たとえあなたがそのことで寂しくお感じになるようなことがあったとしてもです、それでも、それでも、後に残してきた子供や孫が何とか幸せになってほしいと願われるのではないでしょうか。それが私たちではないでしょうかね。

 仏教はご先祖様をお祀りするための教えではありませんが、ご先祖様を言うのなら、「私たちは、ご先祖様に幸せを願われている」というのが本当だと思います。

 仏教は、決して「御利益や祟り」を説く教えではありません。そうではなくて、仏教は、「本当の幸せへの道」を説く教えなのです。ところが、私たちには、この「本当の幸せ」ということが理解できないのですね。

 病気に苦しむときには、病気が治ること。お金に困っているときは、お金が手に入ること。こういった願いがかなうことを、私たちは「幸せ」だと考えています。ですから、病気を治してくれるわけでもない、お金をさずけてくれるわけでもない仏教が、「幸せ」への道だとはとても思えないのですね。

 ですが、それでも私は、仏教は「幸せへの道」を説く教えだと申し上げたいのです。ではなぜ、仏教が「幸せへの道」を説く教えだと言えるのか。そのことを、これから、私たち門徒の頂いております「他力」の教えにもとづいて、私なりにご説明してみたいと思っております。それが今回のお話しでございます。

 さて、私自身も仏教が理解できなくて悩んだわけですが、あるとき「仏教は善悪を説く教えではない」ということに気づいて、ようやく「他力」の教えに至り着きました。まずは、そのあたりのことからお話し申し上げようと思います。

 ちょっと話が戻るようですが、私は、「悪いことをしたら地獄に落ちる、仏様のバチがあたる、誰も見ていなくても仏様が見ておられるぞ」という時代に育ちましたものですから、小さい頃は、仏様が怖くてしかたがなかった。

 少し大きくなってから、「悪人でも救ってくださるのが仏様だ」と聞かされましたが、そのしりから「悪いことをしたら仏様のバチがあたるぞ」という言葉が追いかけてくるものですから、さっぱり分からない。

 子供心にも悩みましたね。「いったいいくつ悪いことをしたら地獄に落ちるんだろう。いくつ善いことをしたら極楽へ行けるんだろう。ひとつ善いことをしても、ひとつ悪いことをしたら帳消しになるのかなあ」とね。

 まあ、そんなわけですから、長い間、私は、仏教というのは善悪を説いた教えだと思っておりました。御経様にもちゃんと書いてあるのですね。有名な「七仏通戒偈」というものですが、そこには、「もろもろの悪をなさず、すべての善を行い、自らの心を淨くする。これが諸仏の教えである」と説かれてます。「自らの心を淨くする」というのは「悟りの境地にいたる」ということです。

 ですが、この「七仏通戒偈」を読んで、これはとても私なんかの手に負える世界ではないと思いましたね。善とは何か、悪とは何かという問題はひとまず置くとしましてもね、「もろもろの悪をなさず、すべての善を行う」ことなど、私にはとうてい不可能です。

 仮に百歩譲って、いえ、百歩どころではなく何万歩も譲って、もしも私に「もろもろの悪をなさず、すべての善を行う」生き方をができたとしてもです、その先には何か妙に息苦しい世界しか見えてこないのですね。「悟りの境地」とは何かは分かりませんでしたが、そんな息苦しい世界が「悟りの境地」だとは、とても思えませんでした。

 お釈迦様が嘘をついていらっしゃるのでないのなら、私の理解が間違っているに違いない。自分が間違っているに違いないのですが、そのときはまだ、仏教は一種の夢物語ではないのかという思いも、心のどこかに残っていたのです。

 そんな思いが何年も続きまして、あるとき、『法句経』のなかで、こんな言葉に出会いました。「悟った人とは、善と悪とをともに捨てて目醒めた人のことである」。驚きましたね。「悟った人とは、悪だけでなく、善も捨てた人なんだ!」

 『法句経』を読んだのは、そのときが最初ではありませんでしたし、そういった内容の言葉は別の本でも何度も読んでいたはずなのですけれど、出会わなかった。目には見えていても、機が熟さないと心にまで届かないのですね。

 善を捨てるとは、具体的にどうすることなのか分かりませんでしたが、なぜ善を捨てねばならないのかは分かりました。それは、善も、悪と同じように、苦しみの原因になるからなのです。善が苦しみの原因になるとは、どういうことか。

 善とは、簡単に言えば、人を幸せにする行いのことですね。たとえば、重い荷物に苦しんでいる人を見て、私が少し荷物を助けて持って上げるとします。これは善意からしたことですね。ところが、それが目の前にある交差点の向こうまでということなら話は簡単なのですが、たいていは、そうではない。

 「すまないね、あんたは偉いね」と、感謝されたり誉められたりして、初めはいい気持ちになっているのですが、そのうち、私も疲れて苦しくなってくる。そこへ、「あんたは若いんだから、もうひつと持ってくれ」などと言われようものなら、憎しみすら湧いてくる。結局は、遅かれ速かれ、荷物を投げ出して「さようなら」ということになってしまうのですね。

 さきほど、「善の世界は何か妙に息苦しい」と申しましたのは、そういうことです。私たちの努力には限りがあって、善意をいつまでも維持することはできないのです。善意は、いずれ苦しみに変わり、ときには罪をつくることにもなってまいります。

 では、「善を捨てる」というのは、どういうことなのでしょうか。「人の幸せなど考えなくともよい」、「人に親切にする必要などない」ということなのでしょうか。どうも、それでは何かおかしいような気がしますね。いったい「善を捨てる」とは、どういうことなのでしょうか。もういちど、別のたとえで、私たちの善意について考えてみましょう。

 たとえば、従兄弟が家を建てたのでお祝いを送った。ところが、いつまでたっても御礼の電話ひとつない。「いったいどうなっているんだ」と、面白くない。不愉快になって考えていると、昔のことを思い出してくる。「そういえば、結婚祝いをしたときも、就職祝いをしたときも、まともにお返しをもらっていなかったな。いや、まてよ、そういえば卒業祝いにも入学祝いにも、あいつは礼ひとつ言わなかった奴だ」と、だんだん腹が立ってくる。

 「いい歳をして世間の礼儀も分からんのか。嫁がついていて何だ。いや、親がまともな教育をしていないに違いない。だいたい、あいつの母親というのはろくな奴ではなかった」と、とめどもなく腹が立ってくる。皆さんも、一度くらいこういう経験をなさったことがおありではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 私たちは「善意」のボールを投げたら、相手がちゃんと受け止めて、「善い球」と言ってくれることを期待しているのです。ですから、思ったように相手が受け止めてくれなかったら、不愉快になる。ましてや、「痛いじゃないか、肩に当たったぞ」などと言われようものなら、腹が立ってしかたがない。「俺は善い球を投げたんだ。受けられないのはお前が悪いんだ。馬鹿」ということになってまいります。

 私たちの目はたいてい外に向けられておりますから、人の悪い点ばかり見えてしまいますが、ひとたび目を内に転じてみると、自分の心だって、そんなにきれいなものだとは言いがたい。

 謙虚になってよくよく考えてみれば、「人を幸せにしたい」という「善なる思い」も、実は、「喜ばれ、感謝され、誉められることで、自分が喜びたい」という動機から生まれていることに気がついてくるのですね。

 よくよく考えてみれば、私たちには、見返りを期待しない「善意」というものはありません。人に何かをしてあげたら、せめて「ありがとう」のひとことくらいは言って欲しいのです。

 ですが、こう申しますと、あるいは、「いや、そんなことはない。私は人に感謝されようとされまいと、自分が正しいと信ずることをすれば、それで満足だ」と、おっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、それはどうでしょうね。

 「自分が納得すればよい」というのは、「自己満足」が得られればよいということですから、それもまた、「自己満足」という形で見返りを期待していることに変わりはないと思うのですが、いかがでしょうか。

 つまり、「善意」とは、他人を幸せにすることで自分が満足しようとする思いのことです。それに対して、「悪意」とは、他人を犠牲にしてでも自分が満足しようとする思いのことです。

 言葉を換えて言えば、「善意」とは、人の頭をなでで自分が満足しようという思いです。「悪意」とは、人の頭をたたいて自分が満足しようという思いです。他人との関わり方は違いますが、「善意」も「悪意」もともに、自分が満足したいという思いから生まれていることに変わりはありません。

 こんなことを申しますと不愉快になられるかもしれませんが、つきつめて考えれば、私たちの心には、「自分が満足したい」、「他の誰よりも自分が可愛い」という思いしかないのです。

 これまでにも何度かお話しいたしましたが、この「自分と他人を区別して、他人とは違う特別な自分が可愛いという心の働き」のことを、仏教では「煩悩」と呼んでおります。もう少し馴染みのある言葉で言えば、「煩悩」とは「エゴ」のことです。

 私たちは、「善」と「悪」を、全く違う物のように区別しておりますが、よくよく考えてみると、「善」も「悪」も、ともに、この「エゴ」から生まれているのです。

 世間ではよく、「美人不美人、皮一枚の差」などと申しますが、善人と悪人の差も、この程度の違いしかありません。皮一枚の差がいかに外見を変えるにしても、その皮をかぶっているのは、つまるところ我が身大事の「エゴ」にすぎないのです。

 さて、これでようやく、さきほどの『法句経』の言葉の意味が分かってまいりました。「善と悪とをともに捨てる」とは、「煩悩」を捨てる、「エゴ」を捨てるということだったのです。

 さて、捨てるべきものの正体は、「善悪」ではなく、「エゴ」だと分かりました。「エゴ」だと分かりましたが、ここでハタと困ってしまいました。問題が更に難しくなったことに気づいたからです。

 「悪いことをするな、善いことをせよ」ということであれば、まだ何とかなるような気もするのです。日常的な意識から言えば、特に「善いこと」もしていませんが、特に「悪いこと」をしているわけでもない。ですから、必死になって努力すれば、徐々に「善」を増やし、「悪」を減らしていくことも、できない相談ではないように思える。

 ところが、「善」も「悪」もともに「エゴ」だということになれば、何をしても「エゴ」だということになってくる。いったい「エゴ」を捨てるとは、どうすることなのか、皆目見当もつかなかったのですね。

 ああでもない、こうでもないと悩んでいるうちに、だんだん見えてきたことがある。それは、こうやって悩んでいる今の私が「エゴ」そのものなのだということです。ということはです。当然のことながら、「エゴ」である私が、私である「エゴ」を捨てることなどできないということになってまいります。どんなに努力しても、この「私」には「エゴ」を捨てることなど絶対に不可能だということです。

 かくして、ようやく「他力」の教えに至り着くわけですが、その話に入ります前に、もう少しだけ「エゴ」と「私」の関係について、ご説明申し上げておきます。

 さて、私には「エゴ」が見えません。私の心が完全に「エゴ」に支配されていて、自分と「エゴ」の区別がつかないからです。私に「エゴ」が見えないのは、ちょうど自分には自分の顔が見えないようなものです。

 深く「反省」すれば、自分の「エゴ」が見えると言いますが、これもあまり役には立ちません。というのは、「反省する」というのは、非常にドライな言い方をすれば、「自分が満足できなかった理由を考える」ということだからです。

 過去を振り返って、自分の行動に「○」や「×」を付ける。自分の頭をなでたりたたいたりして、次回の教訓にする。こんなふうに「自分の満足」を求めて次の作戦を練っているのは、言うまでもありませんが「エゴ」ですね。私たちの「反省」は、たいてい、これ以上深まることはありません。

 これ以上深まった場合には、今度は「自己正当化」と「自己憐憫」が始まります。「自分には、ああするしかなかったのだ」というのが「自己正当化」です。そして、そんな自分を哀れむことが「自己憐憫」です。もちろん、自分の背中をさすってくれたり、涙を拭いてくれたりしているのは、これもまた「エゴ」なのです。

 私たちは、自分が自由だと思っております。私たちは、自分の自由意志で選択し、行動していると思いこんでいます。ですが本当は、私たちに自由などひとつもないのです。私たちは心を「エゴ」に乗っ取られて「エゴ」の思うがままになっているのです。私たちは「エゴ」の喜びを喜びとし、「エゴ」の苦しみを苦しみとして生きている。そんな私たちは自分の心が「エゴ」に乗っ取られていることに、気づいてさえいないのですね。

 思えば、人間とは弱いものです。意志が弱いとか強いとかいっているわけではありません。私たちは、「エゴ」に首根っこをつかまれて、いいように振り回されているのに、手も足も出ない。そのことを言っているのです。仏教がめざしているのは、そんな「エゴ」から解放されて、本当の自由を取り戻すことなのです。

 ですが、私たちの首根っこをつかんでいる「エゴ」の手を、「努力」で振り払うことはできません。何故かと申しますと、「努力」というのは「エゴ」の力のことだからです。私たちは、「他人とは違う特別な自分が可愛い」から、自分の満足を求めて「努力」するのですね。つまりは、「努力」とは「煩悩」の力、「エゴ」の力のことなのです。そんな「エゴ」の力で「エゴ」の手を振り払うことなど不可能です。それはちょうど、右手で右手をたたけないようなものです。

 別のたとえで申しますと、もし私が「エゴ」を握っているのなら、宝石のように大切なものだと思って握りしめているのなら、それが宝石ではなく毒蛇だと分かったら捨てられるのです。ところが、私は「エゴ」そのもの、毒蛇そのものに成りきっているのですから、これは捨てられない。さきほど、「エゴ」である私が、私である「エゴ」を捨てることなどできないと申しましたのは、そういうことです。

 仏教では、そんな私たちの「努力」のことを「自力」と呼んでいます。「自力」の「自」とは、「エゴに支配されている自分」のことです。「エゴ」の力である「自力」では、「エゴ」を捨てることはできません。つまりは、「自力」では悟れないということなのです。ここで、ようやく「他力」の出番になってまいります。

 「他力」とは、「阿弥陀如来の力」のことを言います。ですが、この「他力」というは、よく誤解される言葉です。かつて農林大臣が、記者会見で「他力本願の軍隊ではだめだ」と発言して問題になったこともありましたし、今だに、NHKのアナウンサーまで、平気で「他力本願の物価安定策」などとしゃべっているのですから不思議です。

 あんまり不思議なものですから、国語辞典の『広辞苑』で調べてみたのですが、びっくりしましたね。「他力」という項目の第一番目に、「他人の力」と書いてあったのです。これはダメだと思いました。国語辞典にまでこう書いてあるのですから、それはもう、「他力」といえば「他人の力」だと思ってしまいますよね。

 ちなみに「他力本願」の項を見てみると、第一番目に「阿弥陀如来の本願」、第二番目に「もっぱら他人の力をあてにすること」と書いてありました。条件としては最悪ですね。今の人に「阿弥陀如来の本願」などと言ってみても、雲をつかむような話でしょうから、当然、分かりやすい方の「もっぱら他人の力をあてにすること」という意味で学んでしまいますよね。

 まあ辞書にそう書いてあるのですから、誤解する人があっても不思議はないのですが、「他力」とはそういう意味ではありません。まずはこの「他力」という言葉の意味の説明から始めます。

 「他力」というのは、何もそんなに難しい言葉ではありません。まず、さきほどの「自力」という言葉の意味を思い出して頂きたいのです。「自力」の「自」とは、「エゴに支配されている自分」のことでしたね。その「エゴに支配されている自分」の力が「自力」だったわけです。

 では、「他力」の「他」とは何かと申しますと、これは「他人」のことではなく、「エゴに支配されていない自分」のことなのです。「エゴに支配されていない自分」というのは「本当の自分」のことです。「本当の自分」とは、つまり、「アラヤ識」であり、「一如」であり、「阿弥陀如来」のことです。ですから、「他力」とは「阿弥陀如来の力」のことだというのです。

 と申し上げただけでは、お分かりにくいと思いますので、いつもご覧になって頂きますこの図でご説明いたします。これは「唯識仏教」で説かれております、私たちの「心の構造」、「生命の全体像」を表した模式図です。

 この図では4つの層に分かれていますが、上から順に、五感、意識、マナ識、アラヤ識と呼ばれております。ふだん私たちが「心」と言っておりますのは、この意識のことでして、このマナ識より下は、私たちには自覚できない、いわば無意識の世界です。

 さきほどお話しいたしました「エゴに支配されている自分」というのは、このマナ識のことです。このマナ識の力を「自力」と言います。私たちの意識はマナ識の奴隷です。意識は、常にマナ識にお伺いをたてて、マナ識の要求に従うのです。

 たとえばですね、道で誰かに出会ったとしますね。すると、目とか耳とかいった五感からの情報を受けて、「ああ、人だ」という意識が働きます。意識はすぐにマナ識に伝えます。「人が来ました」。するとマナ識は、「ああ、この人はお金持ちで地位も高い人だから、丁寧に挨拶しろ」とか、「ああ、こいつは失礼な奴だから、相手になるな」とか命令するわけです。

 つまり、私たちの行動は、全て、この意識とマナ識の対話から生まれているのです。意識は区別はしますが差別はしません。差別をするのはマナ識なのです。

 一方、「エゴに支配されていない自分」というのは、このアラヤ識のことです。ご覧頂いてお分かりのように、私たちの心は、深いところで皆つながっています。このアラヤ識には「自分」も「他人」もないのです。この「自分も他人もない心」が「本当の自分」なのです。「他力」とは、このアラヤ識の力のことを言うのです。

 このアラヤ識は、「エゴ」に汚されてない真実の世界ですから、「如」とか「一如」とか「真如」とも呼ばれています。私たちの心の奥底に眠っている「仏性」というのも、このアラヤ識のことです。この「仏性」が目醒めて活発に働き、心の全体を満たしたとき、「如から来た人」、「如来」となるのです。

 また、私たちが「阿弥陀如来」と呼んでいるのも、このアラヤ識のこと、「本当の自分」のことなのです。つまり、「本当の自分」は、仏様なのですね。

 インドの有名な聖者で、サイババという人がおられます。ご存じかもしれませんね。あのサイババが、ある時、「あなたは神様ですか」とたずねられた。そうしたら、サイババが、こう応えたといいます。「そうです、私は神です。ですが、あなたも神なのです。私は自分が神であることを知っていますが、あなたはそうではない。私たちの違いは、それだけのことです」と。同じことを言っているのですね。私たちは、本当は仏なのです。私たちは、自分が仏であることを知らないだけなのですね。

 さて、「自力」では悟れないとお話しいたしました。それでは「他力」でなら悟れるのかと申しますと、結局はそういうことになるのですが、普通は「他力」で悟るという言い方はいたしません。「他力」に任せると申します。では、「他力」に任せるとはどういうことなのか。

 「他力」に任せるとは、「善」も「悪」も捨てられない「エゴ」のまま、ただ「南無阿弥陀仏」というお念仏を称えることで、「他力」の働く場になっていくということです。ですが、これにはもう少し説明が必要ですね。

 さきほど申しましたように、私たちの行動は、全て、この意識とマナ識の対話から生まれています。別の言葉で申しますと、私たちは「エゴ」に支配され、「エゴ」に任せて生活しているということです。

 そんな「エゴ」に任せるのではなく、「本当の自分」に任せなさい。「他力」に任せなさい。マナ識とのオシャベリをやめてアラヤ識の声に耳を傾けなさい。そう説いているのが、「他力」の教えです。

 マナ識との対話をやめて、アラヤ識との対話を始めよ。「エゴ」との対話をやめて、「本当の自分」との対話を始めよ。それが、「他力」の教えです。では、どうやって「本当の自分」との対話を始めればよいのでしょうか。

 私たちの意識は常に「エゴ」の顔色をうかがっています。ですから、「エゴ」の声しか聞こえてこないのです。「本当の自分」の声を聞こうとすれば、私たちの意識を「本当の自分」に向けねばなりません。

 ところが、私たちはまだ「本当の自分」に出会ったことがない。「本当の自分」に意識を向けるといっても、どちらに向けてよいものやら皆目見当もつかないのです。

 たとえば、生まれてすぐに両親に死に別れて、親の顔を見たことがない、名前も知らないという人は、親を思い出すことはできません。せめて名前が分かっていたら、思い出せなくとも、その名前を呼ぶことができる。名前を呼ぶことで、親に意識を向けることができるのです。名前には、そういう働きがあるのです。

 ですから、「他力」の教えでは、「本当の自分」に意識を向ける方便として、名前が説かれているのです。私たちは「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えますが、「阿弥陀仏」というのは、仏様の名前、つまり「本当の自分」の名前なのです。「南無」というのは、簡単に言えば、呼びかけの言葉です。つまり、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるというのは、「おーい、本当の自分よ」と、名前で呼びかけていることなのです。

 私たちは、呼びかけることでしか「本当の自分」に意識を向けることができないのです。呼びかけては耳を澄まし、呼びかけては耳を澄ます。そうするうちに、「エゴ」が鎮まっていき、私たちの心のなかに「本当の自分」と共鳴できる場が生まれてくる。「他力」に感応する自分になっていくのです。

 それは、たとえば、放送局から送られてくる電波に同調できるようにラジオを調節するようなものです。ふだんは私たちの意識が「エゴ」に同調しているものですから、「エゴ」の声ばかり聞こえているのです。ですが、少しづつ目盛りをずらせていくと、「エゴ」の声が小さくなっていき、「本当の自分」の声が聞こえ始めるのですね。

 私たちにできることは、お念仏を称える生活のなかで、「本当の自分」に共鳴できるようになり、「他力」の働く場になっていくことだけです。そうなっていけば、ついには、自分には超えられなかった「エゴ」の壁も、「本当の自分」の方から乗り越えてくるようにさえなるのです。そこまでいけば、悟ったのと同じです。

 では、「他力」の働く場になっていけば、私たちはどう変わっていくのでしょうか。「他力」は、私たちの人生にどう関わってくるのでしょうか。また、私たちの人生にどんな意味を持っているのでしょうか。

 私たちの「人生」とは何かと考えてみると、ひとつ見えてくることがあります。それは、私たちの人生は、選択の連続で成り立っているということです。「お昼はウドンにするか、それともソバにするか」といったごく日常的なことから、「進学なら、近いからこちらの学校にしようとか、遠くても有名な方がいい」とか、「就職なら、大手が安心とか、中小の方がやりがいがある」とか、「結婚なら、この人がいい、あの人がいい、いや、それとも独身のままでいる方がいい」とかいうように、人生は万事が「選ぶ」ということの連続です。

 「選ぶ」というのは、たとえて言えば、ふたつのものを天秤計りにかけて、右をとるか左をとるかを決めるということです。その際、右も左も同じ重さなら選べませんが、まずそういうことはありません。天秤は、必ず、どちらかに傾いて見えます。軽い重いが見えるから、選べるのです。もちろん、私たちは自分にとって重く見える方を選びます。右が下がって見えれば、右をとるわけです。

 では、どうして右が下がって見えたのか。それはですね、実は「エゴ」が下から引っ張っているからなのです。さきほども申しましたように、私たちは「エゴ」の喜びを喜びとし、「エゴ」の苦しみを苦しみとして生きています。ですから、「エゴ」の喜ぶ方が重く見えるのです。

 たとえ、苦しい道を選んだような場合でも、それは何らかの利益を見込んで「エゴ」が納得しているからなのです。私たちが自由意志で選んだように見えても、それは全て「エゴ」に選ばれた道なのです。それは本当の自由ではありません。

 では、「他力」が働き始めたらどうなるのか。「他力」が働き始めても、私たちの人生が選択の連続であることに変わりはありません。以前と同じように、私たちは「選ぶ」のです。ただ、私たちにとって、重く見えるものが変わってくるのです。「エゴ」ではなく、「他力」が天秤を引っ張るようになってくるからです。

 重く見える方を「選ぶ」のですから、自分が選んでいることに変わりはない。その点だけで言えば、何も変わりはないのです。ですが、それを私に選ばせたのは、「エゴ」ではなく「本当の自分」なのです。ですから、「他力」に選ばれる道こそ、「本当の自分」が選んだ道なのです。

 「本当の自分」には、自分も他人もありません。自分も他人もないのですから、「本当の自分」は自由です。それは、孔子の言葉を借りて言えば、「心の欲するところに従えども、矩を踰えず」という自由です。

 「矩を踰えず」の「矩」とは、倫理や道徳や法律のことです。つまり、「矩」とは、社会のなかで「エゴ」どうしがぶつかりあわないように、「エゴ」と「エゴ」の間に設けられた「柵」のことです。

 もちろん、「心の欲するところに従えども、矩を踰えず」と言うのは、閉じ込められた「柵」のなかで、「柵」にぶつからないように小さく生きられるようになったということではありません。そうではなくて、自分も他人もない「本当の自分」になったら、そこには「柵」が無かったということなのです。

 自分も他人もない「本当の自分」に任せておけば、私たちを閉じ込めている「柵」が消えていく。「他力」にまかせる生活とは、本当に自由になっていく生活のことです。自分がしたいことを、したいようにして、誰も傷つかない。これ以上、自由で、幸せなことはないと思うのですが、いかがでしょうか。

 「他力」に任せるという話に関連して、以前、こんな話を読んだことがあります。ユダヤ教の話です。ユダヤ教では安息日にお金に触れてはいけないという戒律があります。ですから、安息日には、道に財布が落ちていても拾ってはいけないのです。そこでユダヤ教の牧師が生徒にたずねます。

 「安息日に、道で財布が落ちているのに気づいたとする。お前なら、どうするか」と。一人目の生徒が答えます。「もちろん、拾いません」。戒律に従って答えたわけです。ところが、牧師は、「お前は、馬鹿だ!」と叱った。そして、二人目の生徒にたずねます。「お前なら、どうする」と。

 拾わないと答えたら叱られるのですから、これは拾うと答えるしかない。そこで二人目の生徒は、「はい、もちろん拾います」と答えた。すると牧師は、「お前は罪人だ! けしからん奴だ!」と、またもや叱った。そして、三人目の生徒の番になった。「お前なら、どうする」。

 三人目の生徒は、静かに考えながら、こう答えました。「私には分かりません。きっとその場になれば、拾おうか、拾ってはならないのか、あれこれ迷うだろうと思います。ですが、私は、きっと正しい判断ができるだろうと信じています。神様が正しい決断をさせてくださると信じています」と。牧師は、微笑んで言いました。「よろしい、それでいいのだ」と。

 神様と言おうと、仏様と言おうと、同じことです。このユダヤ教の話も、選ぶという仕事は「他力」に任せよと教えているのですね。

 とは申しましても、そのときそのときで、これは「エゴ」が選んだのか、それとも「本当の自分」が選んだのか、分かるわけではありません。

 たとえば、「たまには焼き肉もいいな」と、夕食に焼き肉を食べることにしたとしますね。肉を食べたいというのは、味覚を楽しみたい「エゴ」が食べたいのか、それとも「本当の自分」が肉を必要としているのか、私たちには分かりません。その反対に、「肉は食べたくない」という場合でも、我が身大事の「エゴ」が食べたくないのか、「本当の自分」が肉を必要としていないのか、これもまた分からないのです。

 ですから、自分は「エゴ」なんだからといって、自分の思いと反対のことをすればいいというわけではないのです。自分の意志に抵抗して、肉を食べたいときに食べないとか、肉を食べたくないときに食べるとか、そんなことをしたからといって、「他力」に任せたことにはなりません。それは、ただの臍曲がりです。

 自覚できる意識のレベルでは、「エゴ」からきている命令なのか、「本当の自分」からきている命令なのか分からないのです。分からないものは、選べません。つまりは、自分の意志では「他力」を選べないのです。自分の意志では「他力」に任せられないということです。

 だからこそ、そんな私たちには、「本当の自分」に共鳴できるようになっていき、「他力」の働く場になっていくことしかできないのです。

 「他力」が働き始めれば、徐々に、重く見えるものが変わってきます。重く見えるものが変わってくれば、自然に世界が変わってきます。見え方が変わると言うよりも、意味が変わってくるのです。

 あなたと私が違う人間だという区別がなくなるわけではないけれど、あなたより私が大切だという差別がなくなっていく。誰もが、同じ生命を生きる同行なのだ、菩薩なのだという気づきが生まれてくるのです。山も、川も、鳥も、虫も、みんな仲間だったと気づいてくる。世界が本当の意味をおびてくるのです。

 過ぎ去った過去が変わるわけではないけれど、過去の意味が変わってくる。あの苦しかったことも悲しかったことも、すべては、この今のためにあったのだ。どのひとつが欠けていても、今の自分はない。人生に偶然はひとつもないということに気づいてくる。一貫して「他力」が働いていたことに気づいてくるのです。

 ニュートンはリンゴが枝から落ちるのを見て、引力に気づいたといいます。リンゴが枝から落ちるのは、当たり前のことです。あんまり当たり前すぎて、そこに特別な力が働いているとは、誰も思っていなかった。私たちの人生もそうなのですね。本当は、当たり前のことが当たり前ではない。そこには「他力」が働いているのです。

 前回にもご紹介いたしました星野富広さんの詩に、こんなのがあります。

     花が上を向いて咲いている
     私は上を向いて
     ねている

     あたりまえの
     ことだけれど
     神様の深い愛を感じる

 信仰の生活とは、気づきの生活です。念仏とともにある生活とは、「他力」の働きに気づいていく生活なのです。その気づきのなかから、生かされて生きている喜びが湧いてくる。生かされて生きている喜びとは、「本当の自分」が生きているという喜びです。

 息苦しいイバラの道や、自己満足の砂漠の涯に、悟りの都があるわけではない。「自力」で悟ろうとするのは「エゴ」の一人芝居です。「他力」に任せる生活のなかにこそ、本当の自由と幸せがあるのです。

 「任せる」とは、私のよいようにしてくださいではなく、あなたのよいようにしてくださいです。任せれば、そこには自然に、私が必要とするものではなく、私に必要なものが与えられてくる。私が必要とすることではなく、私に必要なことが起こってくるのです。それに気づきつづけていくこと。それが「他力」に任せて生きるということです。

 思えば、私たちは、自力に安住し、娯楽に流されて暮らしています。「エゴ」は欲深いもので、「幸せ」という言葉に、ことのほか弱い。幸せになれると聞けば、ガラクタのような壷にでも、何百万も出すのです。お念仏を称えたら幸せになれると聞けば、「そんなことくらいで幸せになれるのなら安いものだ」と、お念仏を称えるのです。そんな私たちの称える念仏は、みな「エゴ」の念仏、「自力」の念仏です。

 ですが、それでもいいのです。そんな「エゴ」だからこそ、お念仏を称えるのです。「エゴ」の称える念仏であろうと、誰の称える念仏であろうと、「本当の自分」に呼びかけていることに変わりはありません。呼びかけ、呼びかけしているうちに、いずれ目醒めるときがくる。私は、そう信じています。

 どうぞ、一日に一回でも、一人になる時間を作って、お念仏を称えてみてください。お風呂でもトイレでも結構です。「エゴ」のお念仏、「自力」のお念仏で結構です。たとえそれが何処で称えるどんな念仏であれ、念仏を称えているとき、私たちは「本当の自分」に顔を向けているのですから。

 少し長くなりましたが、今回のお話しは、これまででございます。長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。次回は、9月23日の《永代経》でございます。また、ご縁がございましたら、ぜひお運びくださいませ。お待ち申し上げております。有り難うございました。




【謝辞】

 今回の法話には、「星野富弘詩画集絵はがき」より、作品1点を引用掲載させて頂きました。作者ならびに出版社に御礼申し上げます。星野富弘さんの作品(絵はがき等)をご希望の方は、下記の出版社にご連絡ください。合掌

グロリア・アーツ株式会社
213 川崎市高津区宇奈根 731-6
TEL 0120-33-5472, FAX 0120-833-044



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