釋昇空法話集・第20話

生きることと死ぬこと

いま、ここに

(2001年11月11日 報恩講法話)
 ようこそお参りくださいました。有り難うございます。本日は「報恩講」でございますので、御法話は、福井の般若先生にお願いいたしておりましたが、三日前に風邪をひかれまして、残念ながら、お越しいただけなくなりました。般若先生のお話を楽しみにしておられた皆様には、申し訳ないことでございます。お詫び申し上げます。

 そこで、急遽、私がお話しさせて頂くことになりました。なにぶん急な話で、準備らしい準備はできておりませんけれど、今年の6月に、ある医科大学にお招きを頂きまして、お医者さん方にお聞き頂いた話がございますので、それを一度、皆様にもお聞き頂きたいと思います。

 本日の話は、いわば、仏教の話は初めて聞くという方々に向けた話しでございますが、内容的には、これまでにいろいろお話しさせて頂いたことの「まとめ」のようなものでございます。特に目新しい話ではございませんけれど、これまでの話を思い出して頂きながら、どうぞ、しばらくの間、お付き合いください。

 さて、本日は、ここにご案内申し上げておりますように、「生きることと死ぬこと」という題で、お話しさせて頂きます。「生きることと死ぬこと」というのは、一言で申しますと「人生そのもの」ということになります。と申しましても、「人生とは何ぞや」といった大仰な話をしようというわけではありません。そうではなくて、人生を考えるには宗教的な視点が必要だと、申し上げたいのです。

 人は誰でも、そこそこの年齢になれば、多少なりとも「人生」について考えるものですが、科学万能ともいえる現代社会に生まれ育った私たちは、おのずと科学的な視点から考えようとするものですね。皆さんも、高度に科学的な教育を受けられた方々ですから、おそらくは、人生を科学的な視点からお考えになっておられるのではないでしょうか。

 しかしです、科学的思考というものは、「人生」を考えるうえでは、いささか不都合にできているのです。その理由はと申しますと、まずひとつには、科学的思考というものは、あくまで客観的であることを身上としていることです。

 客観的というのは、そのなかに自分を含めないということです。つまりは、科学的思考によって得られた知識は、いうなれば「私」抜きの知識だということです。

 ところが、たとえば私が自分の「人生」を考えるという場合、「私」抜きの知識では意味がないのです。私が求めているのは、考察の主体でもあり客体でもある私にとってかけがえのない、個としての「自分」そのものについての知識だからですね。

 もうひとつの理由は、科学というのは、もともと存在の仕方を解明するものであって、存在の理由を証すものではないということです。

 たとえば、二つの物体の間には、引力という力が働いている。どういう仕方ではたらいているのかという問いには、「相互の質量の積に比例し、距離の二乗に反比例するという仕方で働いている」と応えられます。しかし、では、何故に、そういう力が存在するのかという問いには、科学は答えられないのです。

 よく言われることですが、科学というものは、如何にしてという「How」に応えるものでして、何故にという「Why」に応えるものではありません。ところが、私たちが人生の問題にぶつかって口にする問いかけは、ほとんどが「Why」なのです。

 たとえば、かけがえのない大切な人を亡くして、「どうして死んだんだ」と泣き叫ぶ人の姿を、目になさったことがおありかと思いますが、あの「どうして」という問いかけは「How」ではないのです。「心機能が停止して」とか、「脳細胞が壊死して」とか、そういった答えを求めているわけではない。そうではなくて、「私にとってかけがえのない人が、なぜ死んだのか」という、「Why」を問うているのです。ところが、この問いかけに、科学は応えられないのですね。

 「人生」というのは、いわゆる科学的思考の対象ではないのです。そこで、宗教的な視点というものが必要になってくるわけです。「宗教的」などと申しますと、不愉快に思われる方もおられるかもしれませんが、これも何かのご縁と思って頂いて、どうぞ、ご一緒にお考えになってみてください。

 さて、「生きることと、死ぬこと」というのが本日のテーマですが、人生にとってどちらが大切かと言えば、それは当然、「生きること」ですね。ですが、私たちは、たいてい、口で言うほど「生きること」が大切だとは思っていないようですね。

 たとえば、皆さんは、朝目覚めたとき、「ああ素晴らしい、今日も生きている」と、お感じになったことがおありでしょうか。生きているのは当たり前すぎて、何も感じておられないのではないでしょうか。もしそうなら、それは果たして、「生きること」を大切にしている人の感覚と言えるのでしょうか。

 生きているのが当たり前になっているということは、永遠に死なないかのごとくに生きているということです。つまりは、死ぬことを考えていないということです。私たちは、「当たり前」になっているものを、大切にすることはできませんね。ですから、「生きること」が本当に大切なら、「死ぬこと」を考えねばならないのですが、私たちは、そんなことは、できるだけ考えないようにして暮らしている。違いますかね。

 人は、たとえ幾つまで生きたとしても、いずれは死ぬのです。百年も経たないうちに、今日、ここにご出席の皆様は、勿論、私も含めてですが、一人もいなくなる。そんなことは、誰でも、頭では知っています。ですが、そんなことは考えないようにして暮らしている。

 「死というものは、避けられない。選択の余地が無いのだから、死について考えるなどという、不愉快な事はしたくない」。もう少し下世話な言葉で申しますとね、「死ぬ時が来たら嫌でも死ぬんだから、今からそんなことをクヨクヨ考えても始まらない。生きている間にしたいことをして、せいぜい楽しく一所懸命に生きた者が勝ちだ」となる。いかがですかね。

 私たちはたいてい、自分の「死」というものを真剣に考えることがありません。考えることがないというよりも、本当は、考えられないのです。何故かと言えば、理由は簡単です。恐ろしいからです。

 科学万能とも言える現代社会に生きる私たちは、「目に見える世界が全てだ」と考えているところがあります。しかし、「目に見える世界が全てだ」とすれば、たとえば「私」というのは、この目に見える「身体」のことだということになる。もし、この目に見える「身体」が、「私」の全てだとすれば、当然、「死ねば終わり」ということになります。ところが、この「死ねば終わり」というのは、自分の問題として考えれば、非常に恐ろしいことですね。

 どれほど豊かな暮らしをしていようとも、どれほど世間に認められていようとも、どれほど生き甲斐のある生活をしていようとも、死ねば、意識がプツンと切れて、それで全ては御破算になる。そんなふうに、「自分」という意識が消滅してしまい、いかなる「人生」をも無意味にしてしまうのが「死」だということであれば、これはちょっと想像するだけでも恐ろしいことです。考えれば考えるほど、恐ろしくなる。

 そんな恐怖に直面していることは、とても耐えられないものですから、私たちは、必死になって「死」から顔を背けて、生活にしがみついて生きているのです。つまりは、「死」を考えないようにして生きているのです。

 しかし、そういった考え方は、科学的に見ても、正しくありません。たしかに、科学の守備範囲は、いわば「目に見える世界だけ」に限られておりますけれど、それは決して、「目に見える世界しか存在しない」という意味ではないのです。そんなことは、科学には証明できないことです。それでも、「目に見える世界しか存在しない」と言うのなら、それはただ、そう信じているということでして、一種の信仰のようなものですね。

 私たちの「目」は、外を向いて付いておりますから、外側の世界ばかり見ておりますが、そんな私たちには見忘れている場所がある。それは、私たちの内側の世界です。捜し物でも、探す場所を間違えていては、いくら探しても見つかりません。「外」ではない、「外」ではない。「内」を探せ。「いのち」の真実は、そこにある。世界中の宗教的伝統が、口を揃えて説いているのは、そのことです。

 「宗教」と申しますと、すぐに、前世や来世や、地獄や極楽の話だと思われるようですが、そんな一足飛びに飛躍するような話なら、いくら坊さんの私でも付いていけません。そうではなくて、宗教というのは、「目を内に向けて、心の平安をめざす」ものなのです。別の言葉で申しますと、宗教というのは、私たちの視野のなかに「死」を取り戻し、「人生」をフルサイズで受けとめるための、パラダイムを提供するものです。

 では、それは、どんなパラダイムなのかということになるわけですが、私にとっての宗教といえば仏教ですから、仏教のパラダイムについて、少し、お話しさせて頂こうと思います。

 まずはどうぞ、こちらの図をご覧になって下さい。お手許にお配りいたしておりますプリントにも同じ図が載せてありますが、これは、唯識仏教で説かれております「心の構造」を、私なりにアレンジして描き直した「いのちの全体像」です。と申しましても、別に、「いのち」がこういう形をしているというわけではありません。これは、あくまでも、ひとつのモデルでして、いわば「たとえ話」です。どうぞ、そのおつもりでご覧ください。

 まず、簡単に、この図をご説明いたします。この小山のように盛り上がっているのが、たとえば「私」です。図全体では、波が並んでいるようにも見えますが、この波ひとつが一人の人間に相当いたします。ちょうど、海底から立ち上がって海に浮かぶ島を、横から見たような形ですね。

 ひとつの小山を、上から順に、青、赤、黄に色分けしてありますのは、それぞれ「五感と意識」「マナ識」「アラヤ識」を表しております。「マナ識」「アラヤ識」というのは、唯識仏教の用語ですが、特に憶えて頂く必要はありません。心理学でいう「深層意識」や「無意識」に近いものとお考えください。

 この水平線から上が、私たちの目に見える現象世界です。この青色の「五感と意識」には、帽子のように緑色の膜が被せてありますが、これは「身体」を表しております。「五感と意識」は目に見えません。見えているのは、それらを包み込んでいる「身体」の方です。ですから、この水平線から上の部分は、死ねば無くなってしまいます。私たちが通常自覚できるのは、ここまでです。

 さて、次に、この水平線から下は、私たちには通常はほとんど自覚できない、いわば無意識の世界です。上にあります赤色の「マナ識」というのは、私たちの心のなかで「煩悩」に支配されている領域です。「煩悩」というのは、簡単に申しますと、「他の誰よりも我が身が可愛い」という心の働きのことです。現代の言葉で言えば、つまりは、「エゴ」です。

 私たちは、この「エゴ」に「意識」を支配されておりますから、この「マナ識」を「自分」だと思っております。それで、これが「我」と呼ばれるわけですが、それは「本当の自分」ではなくて、「エゴ」に支配された「偽りの自分」なのです。

 その下に広がっている黄色の「アラヤ識」というのは、私たちの心のなかで「煩悩」に支配されていない清らかな領域です。仏教ではこの領域のことを、いろいろな名前で呼んでおります。たとえば、「涅槃」とか、「空」とか、「無我」とか、「如」「真如」「一如」とか、「仏性」「浄土」「阿弥陀仏」とかいうのは、みなこの領域のことです。精神世界の伝統で「永遠の今」というのも、ここのことです。

 ここは、「エゴ」に支配されておりませんから「無我」と呼ばれております。この「無我」こそが「本当の自分」なのです。つまりは、「本当の自分」は「仏」だということです。私たちは、みんな「いのち」の奥底で「仏」に支えられているのです。

 「仏様」と言うと、私たちは、どこか遠い空の彼方にでもおられるように思っておりますけれど、そうではありません。私たちは、みんな「仏」なのです。「エゴ」に妨げられて、そのことに気づいていないだけなのです。

 ちょっと余談ですが。インドの聖者でサイババという人がおられます。有名な方ですから、皆様もご存じかもしれませんが、あのサイババに、ある人が、こう尋ねた。「あなたは神ですか」と。すると、サイババは、こう応えたといいます。「そうです。私は神です。ですが、あなたもまた神なのです。私は、自分が神であることを知っている。でも、あなたは知らない。私たちの違いは、それだけですよ」と。これも、同じことを言っているのだと思いますね。

 仏教がめざしているのは、この「エゴ」の支配から解放されて、本当の自由になることです。つまりは、「本当の自分」になること、「仏」になることです。

 ちなみに、「エゴ」から解放されることを「解脱」と言います。そして、その「解脱」の境地が、「涅槃」と呼ばれる完全な平和です。この完全な自由と平和の境地に到達することをめざしているのが、仏教なのです。完全な自由と平和。いかがですか。これこそ、私たちが本当に願っていることではないでしょうかね。

 この図をご覧になればお分かりになるように、一番上の、「目に見える世界」だけで考えれば、私たちは、ちょうど海に浮かんでいる島のようなものです。ひとつひとつの島が、バラバラに海に浮かんでいる。あなたはあなた。私は私。私とあなたは、別の人間です。その証拠に、あなたが物を食べても、私のお腹がふくれるわけではない。

 この別々の人間が、みんな「エゴ」に支配されて、我が身の利益や満足を求めて争っているのです。ですが、海に浮かんでいるように見える島が、実際には、みんな海底でつながっているように、「いのち」の奥底では、私もあなたも、みんなつながっていて、「ひとつ」なのです。最近よく「ワンネス」ということが言われますが、それは、このことですね。

 「目に見える世界」では、一人一人がバラバラに生きているように見えても、本当は、みんなが「ひとつのいのち」「仏のいのち」を生きているのです。私もあなたもないのです。本当のあなたは、本当の私なのです。私たちはみな、「いのちの仲間」なのです。それが、私たちの「いのちの真実」です。

 いかがですか、仏教のアウトラインがお分かりになりましたでしょうか。私たちは、みんな「いのちの仲間」なのです。私たちは、みんな「仏」なのです。とはいっても、実際には、そうではないという現実がある。それは何故かと言えば、私たちは、みんな「エゴ」に支配されているからなのです。

 先ほども申しましたように、「エゴ」というのは「他の誰よりも我が身が可愛い」という心の働きのことです。誰の心にも、この「他の誰よりも我が身が可愛い」という思いが、多少なりともあるものです。

 あるところで、この話をしましたら、「ご院さん、私は自分のことより、孫が大事や」とおっしゃった方がおられました。お気持ちはよく分かりますが、孫が大事と言いましても、それは「我が孫」のことで、他人の孫のことではない。「我が家」であれ、「我が国」であれ、この「我が」という言葉がつくことを「エゴ」と申しますのですね。

 「エゴ」というのは、一筋縄ではいかないものなのです。「エゴ」は、極めて巧妙に働いているのです。たとえば、私たちは、苦しんでいる人を見れば、同情を感じますね。それは倫理や道徳の世界では、極めて高く評価されることです。ですが、そういう同情は、たいてい「エゴ」の感情なのです。

 よく、お考えになってみてください。私たちは、自分より幸せな人に同情を感じることはありませんね。同情するのは、自分より不幸な人に対してだけです。ですが、それは、上から下を見る目なのですね。そのうえ、同情が続くかどうかは、相手の出方次第というところがある。

 相手が感謝しなければ腹も立ちますし、本当は相手の方が幸せではないかと思うようになれば、引きずり落とそうともする。そういう「エゴ」の同情では、本当に人を幸せにすることは出来ません。本当に人を救っていくのは、「いのちの仲間」としての共感なのです。ちなみに、そういう共感を、仏教では「慈悲」と言います。「慈悲」というのは、「本当の自分」の感情のことです。

 この図でご覧頂いているように、私たちの「意識」は、目に見えないところで、この「エゴ」に支配されています。そのために、私たちは、自覚はしておりませんけれども、最終的には、何事も「エゴ」の顔色次第なのです。

 その「エゴ」は、「他の誰よりも我が身が可愛い」と、後生大事に「身体」にしがみついている。そのために、私たちは、そんな「エゴ」を通じて、「自分」を「身体」と同一視して、「死」を怖れているわけですが、本当は、「死」を怖れているのは、「自分」ではなくて「エゴ」なのです。人生を考える上で、一番問題になってくるのは、この「エゴ」です。

 「私が、私が」という思いは、みな、この「エゴ」から生まれます。「私が、私が」という、その「私」は、「エゴ」に支配されている「偽りの自分」のことなのです。私たちは、その「偽りの自分」を「自分」だと思っている。「本当の自分」ではないものを「自分」だと思って、しがみついているのです。そのことを、仏教では「我執」と言います。私たちの悩みや苦しみや不安は、みな、この「我執」から生まれてくるのです。

 そろそろ、お疲れになってきましたでしょうか。いかがですか。この、じっと座って話を聞いているというのも、なかなか疲れるものですね。時間も時間ですから、お腹も空いてくるし、一日の疲れも出てくる。そんな時に、退屈な話が続きますと、自然と欠伸のひとつも出てまいります。

 これはある先生から聞いた話ですが、その先生が、講演をなさっていた時、しきりと欠伸をする人がいた。そこで、先生は、「欠伸が出そうになったら、上唇を左から右へと舐めてみてください。そうすれば欠伸が止まりますから、宜しくお願いします」と、おっしゃった。すると、とたんに、会場のあちこちで、ペロペロ、ペロペロと唇を舐め始めて、かえって話がしにくかった、ということでございました。

 ここでは、そういうお気遣いはご無用でございます。どうぞご遠慮なく、欠伸をなさりたい方は、なさって頂いて結構でございます。

 さて、話を進める前に、「我執」について、もう少し考えてみましょう。「私が、私が」とは言うけれど、その「私」とは誰なのでしょうか。「私とは誰か」。皆さんなら、どうお応えになりますでしょうか。改めて、考えてみると、これはなかなか難しいことですね。とても、一言では言えないようにも思えます。

 ですが、あえて言えば、こういうことになります。私たちは、これまでに無数の経験をしております。そして、その経験への評価に基づいて、将来を考えている。その、過去から未来にわたる、無数の思考と感情の束が「私」なのです。それは、いわば実体のない「イメージ」です。

 いかがですか。皆さんも、ご自分のなかに、「自分像」をお持ちではないかと思いますが、「自分像」というのは、「自己イメージ」のことですね。

 そんな「自己イメージ」を生みだしている思考と感情は、誰のものかと言えば、それは、「エゴ」のものなのです。ということはです、つまりは、「私」というのは、「エゴ」が生みだしている、ひとつの「自己イメージ」にすぎないということです。

 ちなみに、最近よく「尊厳死」とか「自己の尊厳」とかいった言葉を聞きますね。しかし、「自己の尊厳」というのは、よく考えてみれば、たいていは「エゴの体裁」ではないのでしょうかね。「自己の尊厳」とは「エゴの体裁」のことではないのか。このことは、皆様がご自身でよくお考えになって頂きたいことです。

 さて、「エゴ」は、「自己イメージ」を生みだし、その「自己イメージ」を必死になって護ろうとします。それが「我執」なのです。そして、その「我執」から、私たちの悩みや苦しみが始まるのです。

 たとえば、道で誰かに出会ったとします。自分の「自己イメージ」からすると、相手は目下の者だったから、先方から挨拶があって当然だと思っていた。ところが、知らん顔をして通り過ぎたので、不愉快になった。

 すると、この感情に思考がかぶさって、心のなかでオシャベリが始まります。「何だ、あいつは。失礼な奴だ。そういえば、この間も、こんなことがあったな。いやまてよ、あんなことも言っていたな。とんでもない奴だ。今度は、絶対に許さない」。

 と、まあ、そんなふうに、「感情」の周りで心の輪が閉じて、「思考」が過去へ未来へと引きずり回しているあいだに、最初の「不愉快」は「怒り」にまで育っている。そして、その「怒り」が火種となって、心の中でブスブスとくすぶり続けるものですから、苦しくて仕方がないということになるわけです。

 「自己イメージ」は、傷つき易いものですから、「エゴ」には休む間もない。そんな勤勉な「エゴ」のお陰で、心のなかには、プライドとコンプレックスが山のようにたまって、私たちは身動きがとれなくなっている。とても自由とは言えない状態です。

 「自己イメージ」を一番傷つけるものといえば、それは「死」です。「死」は、「自己イメージ」を根底から破壊してしまうものですから、「エゴ」は、決して「死」を考えようとしないのですね。

 宗教的な視点を持たない現代人は、この、「エゴ」が生み出して自ら護ろうとしている「自己イメージ」を、「本当の自分」だと思っています。ですが、仏教では、そうは言いません。仏教では、それは「偽りの自分」だと言っています。

 では、「本当の自分」は、何処にいるのか。それに対して、仏教は、こう応えます。「本当の自分は、今、ここにいる」と。まるで、禅問答のようなものですが、それは、つまり、こういうことです。

 私たちは「今、ここに」いる、と思っております。たしかに、「身体」は「今、ここに」あります。ですが、心が「今、ここに」はいないのです。日常の私たちは、何もしていないときでも、常に休み無く、心のなかでオシャベリをしています。常に何かを考えていると言ってもよいでしょう。

 過去を誇ったり悔やんだり、未来に期待したり不安を抱いたりして、決して「今」のこの一瞬にとどまっているということがありません。つまりは、心のなかで過去へ未来へと走り回っている私たちは、「今、ここに」いないということになります。

 「エゴ」に支配されている私たちの心のなかで、常にオシャベリをしているのは、言うまでもなく、「エゴ」です。「エゴ」は、心のなかを走り回って、何をしているのかと言えば、過去から、怒りや自惚れの種を拾い集め、未来から、不安や野心の種を拾い集めて、「自己イメージ」を作り出しているのです。

 たとえば、「自分には、これだけの業績があるのだから、もっと評価されてもいいはずだ。このままでいけば、あいつに追い越されてしまうかもしれない。いや、俺には実力があるのだから、今に目に物を見せてやる」といったような具合です。

 私たちは、過去に生きているわけでも、未来に生きているわけでもありません。私たちは、本当は「今、ここに」生きているはずなのです。ですが、「エゴ」は、過去へ未来へとさまよって、幻のような「自己イメージ」を生み出している。そして、それにしがみついて、悩み苦しんでいる。それが、私たちです。

 仏教は、そんな「偽りの自分」を離れて、「本当の自分」に戻ることを教えています。そのためには、過去へ未来へと走り回っている、心のなかのオシャベリを止めて、「今」を取り戻すことです。心のなかのオシャベリを止めるということは、「時間」を止めるということでもあります。「エゴ」は「時間」のなかでしか活動できないのです。

 ひとつ、目に見える「たとえ」を使って、ご説明いたします。ここに三つの箱があります。赤・青・黄色と、まるで交通信号のようですが、赤い箱には「過去」、青い箱には「現在」、黄色い箱には「未来」と書いてあります。

 一般に、「時」というものは、「過去」から「現在」を経て「未来」へと続く、一筋の流れのようなものと考えられております。しかし、この流れは、「過去」「現在」「未来」という三つの箱を、このように一列に並べたような関係にはなっておりませんね。

 そうではなくて、「時の流れ」を、この箱で表すとすれば、「過去」と「未来」という、二つの箱がくっついているだけです。そして、このふたつの箱の接点が「現在」に相当するという関係になっております。「今」というのは、この接点のことです。この「今」という世界には、心のなかのオシャベリが止まったときに、初めて入っていけるのです。

 たとえば、私たちの日常意識は、「エゴ」の働きによって、つまりは、心の中のオシャベリによって、こんなふうに「過去」と「未来」にまたがっておりますね。このオシャベリが、段々と収まっていったとき、私たちの意識は、自然に、この「今」へと入っていくというわけです。お分かり頂けましたでしょうか。

 世界の様々な宗教的伝統には、私たちの心のなかのオシャベリを止めて、この「今」に入っていくための技法が伝わっています。それが、「瞑想」です。「瞑想」には、呼吸を数えるとか、念仏を称えるとかいった、様々なスタイルがありますが、それらはみな、いわば、時間を止める技法なのです。

 心のなかのオシャベリが止まったとき、つまりは、「エゴ」の活動が停止したとき、私たちの「意識」は、「エゴ」の支配を離れて、「本当の自分」とつながります。そうなったとき、私たちは初めて、本当の自由と平和を知り、心の平安を得るのです。

 ちなみに、「瞑想」とは別の道をたどって、この心の平安に至ることもあります。たとえば、キューブラー=ロスの言う、末期患者がたどる心理的プロセスの最終段階のようにです。

 おそらくご存じのことと思いますが、エリザベス・キューブラー=ロスというのは、スイス生まれの有名な精神科医です。その観察によりますと、死に直面した末期患者は、「否定・怒り・取引・抑鬱・受容」という心理的な段階を経るといいます。

 死に直面すると、まず「自分が死ぬなんて考えられない」と否定し、「どうして自分が死なねばならないのか」と怒る。そして次には、「死なずに済むのなら、何でもします」と取引しようとするが、ついには全てを諦めて、抑鬱するようになる。そして、最後には、死を受け入れるようになる。

 もちろん、こういった段階が、全ての人に、この順序で起こるということではありませんし、誰もが死を受け入れられるようになるとは限りません。ですが、死を受け入れられるようになった人は、穏やかな安らぎの境地になるといいます。それはですね、「エゴ」が活動を止めて、「自己イメージ」が解き放たれた結果なのです。心に自由と平和が訪れるのは、もう、護るべきものがなくなったからですね。

 ただし、宗教というものは、死ぬためにあるわけではありません。「生きていくには信心はいらないが、死んでいくには信心がいる」と言う人もいますが、それは違います。信仰は、ペインコントロールのモルヒネのようなものではありません。信仰は、安らかな心で生きるためにあるのです。

 「エゴ」が停止して、「自己イメージ」が解き放たれてしまえば、「死」でさえも平然と受容できるのです。「本当の自分」にとっては、「死」は深刻なものではないのです。「死」が深刻でないのなら、人生で深刻なものなど何もありません。そこには、ただ、満ち足りた「今」が輝いているだけです。

 仏教が目指しているのは、そんな世界です。そんな世界は、何処に在るのか、と言えば、「今、ここに」在るのです。「今、ここに」在るのですが、私たちが、その「今、ここに」いないだけなのです。

 仏の世界は、何処にも無くて、「今、ここに」在るのです。臨済宗の盤珪禅師が、「仏に成ろうとしょうよりも、仏でおるのが造作がのうて、近道でござるわいの」とおっしゃっているのは、このことです。

 宗派に分かれていても、仏教はみな同じです。「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり」。これは、曹洞宗の開祖、道元禅師の有名は言葉ですが、「自己を習う」というのは、「外ではなくて、内を見て、心のなかを学ぶ」ということです。「自己を忘れる」というのは、「エゴを止めて、自己イメージを解き放つ」ということなのです。その方法が、道元禅師にとっては「只管打坐」、つまり、ひたすら「瞑想」することだったのです。

 禅宗の対極に在るように思われている浄土真宗でも同じです。浄土真宗では、「はからいを離れて、他力におまかせする」と言いますが、「はからいを離れる」というのは、「心のなかのオシャベリを止める」ということです。

 「他力」という言葉には少し説明が要ります。「他力」の反対は「自力」です。「自力」というのは、「エゴ」が「偽りの自分」の満足を求めて行使する力のことです。つまりは、「努力」のことです。それに対して「他力」というのは、「仏」の力、つまりは、「本当の自分」の力のことなのです。

 ですから、「他力にまかせる」というのは、「本当の自分」の働きのままに生きるということなのです。そして、そんな生活を支えるのが、「念仏」なのです。

 しかし、鎌倉時代とは違って、現代の社会では、この「今、ここに」生きるということが、非常に難しくなってしまいましたね。現代社会は、能率と効率を重んじる競争社会です。ですから、一定時間に、どれだけ多くの仕事を詰め込むかということばかり考えるようになってしまいました。

 仕事をこなすことばかりに気を取られて、速くこの仕事を片づけて、次にかかりたいと、追われるように走り続けているのが、私たちです。「速く片づけて、次にかかりたい」というのは、心が「ここに」ないということですから、そうなると、もう「今」を感じることなど、なかなかできませんね。

 ですが、そんな私たちにも、偶然に、「今」を感じるということがあります。たとえば、空に浮かぶ雲を見上げていて、いつの間にか我を忘れて感動していた、というようなご経験は、おありではないでしょうか。似たようなご経験は、どなたにも、おありのことと思いますが、「我を忘れていた」というのは、「心のなかのオシャベリが止まっていた、時間が止まっていた」ということなのです。つまりは、そのとき、「今」にいたということです。

 「我を忘れていた」というのは、「エゴ」が止まって「無我」になっていたということです。そのとき、現象世界の「今」と「永遠の今」とが共鳴して、「意識」は、現象世界のなかに「永遠の今」を垣間見たのです。そのときの感動は、「いのちの真実」に触れた感動なのですね。「悟る」というのは、常に、この「今」を感じながら生きられるようになることです。

 ところが、「いのちの真実」を学んでいないと、そういったときの大切な体験の意味が分からなくて、うやむやになって終わってしまいます。それでは、非常に勿体ないことだと思いますね。

 さて、時間も終わりに近づいてまいりましたので、もう一度、この図をご覧になってください。私たち人間には、分離の幻想を夢見ている「エゴ」から、「命の真実」に目覚めている「仏」までの幅があるのです。ところが、私たち現代人は、「目に見える世界が全てだ」と信じて、「目に見えない世界」を切り捨ててしまったのです。つまりは、この「仏」の世界を切り捨ててしまったということです。

 そのために、「神も仏もない、死ねば終わり」の世界になってしまったわけですが、それはまた同時に、私たちは、こちら側の「エゴ」の世界に閉じ込められてしまったということでもあるのです。

 「エゴ」の世界に閉じ込められると、どうなるのか。それはです、新聞やテレビで、日々報道されているような世界になるのです。宗教的世界を切り捨てた私たちには、「エゴ」しか残されていません。「エゴ」には、「自分の欲望の実現」にしか関心がないのです。

 余計なことを言うようですが、現代社会では、「自分は無宗教だ」と言うのが流行っております。それが、「知識人のステータス」のように思われているのかもしれませんが、「自分は無宗教だ」というのは、いわば「自分にはエゴしかない」と公言しているようなものですから、決して誉められたことではないのですね。

 まがりなりにもキリスト教信仰の上に成り立っている欧米社会の人々は、そんな言葉を聞くと、非常に落ち着かなくなる。しかし、そんな日本人のやることを見ていると、「どうやら、あいつの言っていることは本心らしい」ということになって、エコノミックアニマルなどという立派な名前を頂戴することになるわけです。

 そんな「エゴ」に支配されている私たちは、欲望の満足を求めて、常に、「何かに成りたい」「何かを手に入れたい」と、まるで導火線が燃えるように生きているのです。ですが、燃え尽きるまで、燃え続けるだけの、そんな生き方のなかに、本当に、「幸せ」があるのでしょうか。

 そうではないでしょうね。私たちも、心の何処かで、そうではないと気づいているのです。ですが、では、どうすればよいのかとなると、分からない。違いますかね。それはですね、何度も言うようですが、探す場所が間違っているのです。そっちではない、こっちなのです。

 ご自分の生き方は何かおかしいと気づかれたら、どうぞ、立ち止まって、振り向いてみてください。そこには何も見えなくとも、ちゃんと道がある。「本当の自分」への道があるのです。そのことを教えてくれているのが、仏教のパラダイムなのです。

 私たちは、日々「忙しい、忙しい」と、まるで、忙しいのが手柄であるかのようにして、生きております。たしかに、私たちの生活は、「忙しく、慌ただしい」ものです。ですが、「忙しい」という字は、「立心偏」に「亡くす」と書きます。また、「慌ただしい」という字は、「立心偏」に「荒れる」と書くのです。「忙しく、慌ただしい」生活は、心を亡くす生活、心の荒れる生活でもあるのです。

 そんな「忙しさ、慌ただしさ」に流されている自分を、娑婆の喧噪からすくい上げて「ひとり」になる時を持つ。「本当の自分」と向き合う時を持つ。信仰を持つというのは、日々の生活のなかに、「本当の自分」と向き合う時間を持つということです。

 それは、「自己イメージ」と向き合って、今日を反省し、明日を計画することではありません。そうではなくて、「自己イメージ」を解き放つために、何も考えない時を持つということです。それは、「今」に向かって心を開けるということでもあります。

 皆さんのお宅に、お仏壇があるかどうか分かりませんけれど、お仏壇のなかには、「仏様」がある。「仏様」というのは、「本当の自分」のことでしたね。私たち仏教徒が、お仏壇に向かうのは、「本当の自分」と向き合うためなのです。

 道元禅師のように「只管打坐」とはいかなくとも、日々15分でも、「本当の自分」と向き合うようになれば、人生は変わってくると思います。

 たとえば、私たちが悩み苦しむのは、たいてい対人関係の問題です。ときには、腹が立って仕方がないとか、悔しくてやりきれないということもあるでしょう。そんなとき、私たちは、感情は、外へぶちまけるか、内へ抑え込むかしかないと思っていますが、手放すという道もあるのです。

 人を許すというのは、一歩下がって相手が変わるのを待つとか、あきらめるとかいったことではありません。そうではなくて、人を許すというのは、相手への感情を手放して、自分を解放することなのです。様々な感情を抱きながらも、どの感情にもしがみつかない。それが、仏教でいう「中道」です。「中道」とは、両極端の中間を綱渡りする事ではなく、心をニュートラルに保っておくことなのです。

 相手は変わらなくとも、よいのです。私の信仰は、私が変わっていくためにあるのです。私の信仰は、あなたを変えるためにあるのではありません。ましてや世界を変えるためにあるわけではないのです。自分の都合にあわせて世界を変えようとするのは、「エゴ」の発想です。宗教戦争などというものは、ありえないのです。そんなことに気づくのもまた、「本当の自分」と向き合うようになってからなのですね。

 日々、「本当の自分」と向き合っているうちに、日常生活のなかで、少しづつ「今」を感じるようになってきます。そして、少しづつ「生」が輝きを取り戻してくるのです。

 思いますに、信仰の功徳というのは、日常の何でもないことに感動し、喜べるようになることでしょうね。たしかに、日常生活の大半は、ありふれた出来事で占められています。今日することの9割までは、昨日したことと同じなのです。

 ですが、本当は、たった一度限りの「今」の積み重ね、それが、人生なのですね。「信仰に生きる」「今を生きる」というのは、その、二度と帰ってこない「今」に気づき、その「今」に気づき続けながら生きることなのです。

 本当は、「今」しかないのです。花であれ、草であれ、山であれ、川であれ、世界の全てが「今」に満ちている。「光」に満ちているのです。その光に気づかないのは、私たちが「今」にいないからなのですね。

 皆さん、今日お帰りになって、おやすみになるとき、今日の反省や、明日の計画などなさらずに、ただ、シーツの手触りをお感じになってみてください。そのとき、感じておられることこそ、「今」なのです。そこには、「今」しかないのです。

 さて、そろそろ時間がまいりましたので、このあたりで終わらせて頂きますが、どうぞ皆さん、人生を大切になさってくださいね。

 「せいぜい楽しく一所懸命に生きよう」としても、人生が思いもしない方向にねじ曲げられることがある。今日が元気で生きられる最後の日で、明日から死ぬまで寝たきりにならないという保証は、どこにもないのです。また、幸運にも、さしたる病気にもならず、長生きしたとしても、人生というのは、思いの外に短いものなのです。

 子供のときには、一日が長かったように思うのですが、年をとるにつれて一日が短くなっていくような気がいたしますね。皆さんは、いかがでしょうか。月日の経つのは速い、一日があっと言う間に過ぎ去ってしまうとは思われませんでしょうか。

 かつて、ピエール・ジャネというフランスの心理学者が、加齢によって時の経過が速く感じられるようになるという現象を、統計的に研究したことがあります。その研究によりますと、60歳の人は、20歳の人が感じる一年を、4ヶ月にしか感じていないのだそうです。つまり、60歳の人にとっては、時間が20歳の人の3倍も速く流れていくということですね。

 どうしてそんなことになるのかと申しますと、こういうことらしいのです。たとえば、腕時計の針は、子供にとっても大人にとっても同じ速さで動いています。ところが、それとは別に、私たちはみな、新陳代謝という身体の時計を持っているのです。

 子供はケガをしても治るのが速い。それは、身体の時計が速く動いているからですね。ですが、年をとるにつれて、身体の時計がゆっくりになってくる。そのために、ケガの治りも遅くなる。

 そこで、いわゆる客観的な時間と、主観的な時間にずれが生じてくるのです。つまりは、加齢とともに身体の時計がスローダウンしていくにつれて、相対的に、腕時計の針がスピードアップしていくように感じられるようになる、というわけです。

 かくして、歳をとればとるほど、一日が短くなっていく。そして、ついには人生最後の日を迎えることになる。ですが、「その日」は、同じ速さで歩み寄ってくるのではなくて、加速しながら走り寄ってくるのです。「60歳で退職して、あと20年はある」と思っていても、その20年は、数年の値打しかないのかもしれません。「平均寿命まであと何年ある」などと、気楽に構えていると、臍を噛むことになるかもしれません。

 本日は、長い間、理屈っぽい話にお付き合い下さいまして、有り難うございました。またご一緒に聞法させて頂きたいと願っておりますが、本当は明日の事も分かりません。何事も一期一会でございます。

 「仏法に明日ということはない、今日の尊さ、今日のありがたさ」。曽我量深先生の言葉です。どうぞ皆さん、「今日の尊さ、今日のありがたさ」を感じ取って頂いて、人生を大切になさって頂きますように。本日は、本当に、有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ。



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