本日は、お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。有り難うございます。今日は、よいお天気で、有り難いことですが、昨日は寒かったですね。12月中頃の温度だったそうです。毎年のことですが、こんなふうに寒くなってきますと、今年も残り少なくなったようで、何とはなしに気ぜわしない思いがいたします。 冬や夏と比べると、春や秋は、過ごしやすくて結構なように思いますけれど、改めて、「あなたの好きな季節は?」とたずねますと、答えは様々です。ある統計によりますと、「春が好き」「夏が好き」「秋が好き」という人が、それぞれ3割づつくらいで、「冬が好き」という人は1割くらいだそうです。 男女別、年齢別で見てみると、35歳未満の若い女性では「秋が好き」という人が多い。また、若い男性では「夏が好き」という人が多い。ところが、35歳以上になると、男女ともに、「春が好き」という人が多くなり、「冬が好き」という人は少なくなってくる。なるほどという気もいたしますが、皆さんは如何でしょうか。 年齢が高くなるにつれて、「冬が好き」という人が減ってくるのは、歳とともに寒さがこたえるようになる、というだけではないでしょうね。春に芽吹いた命が、夏には盛りとなり、秋には実りをもたらす。ところが、冬には、草木も枯れて、どことなく人生の終盤を予感させるものがある。つまりは、お迎えが近づいて来たようで、心細くなる。そのために、人は歳をとるにつれて、冬が嫌いになるのではないでしょうかね。 若いときには、自分が死ぬことなど考えていませんね。しかし、死というものは、人生の四季を問わずに訪れてくるものです。「生まれたときには、死ぬのに十分なだけ歳をとっている」と言った人がありますが、実際、生まれてきたら、いつ死んでもおかしくはないのですね。 だからこそと申しますか、短い人生であれ、長い人生であれ、「いのちいっぱい生きた」と、人生に感謝できる生き方がしたい。そういう願いを込めて、本日の法話は、「いのちいっぱい」という題にいたしました。思いつくままの、いささか、まとまりのない話ですけれど、どうぞ、しばらくの間、お付き合いください。 さて、本日は「報恩講」ですが、ご承知のように、「報恩講」というのは、浄土真宗の開祖、親鸞聖人のご命日をご縁としてお勤めする法要です。 親鸞聖人は、今からちょうど740年前の、弘長2年(1262年)11月28日に、90歳で、お亡くなりになりました。90歳という年齢は、現在でも相当な高齢ですが、当時の平均寿命は25歳程度と言われておりますから、よほど、お身体のお丈夫な方だったのでしょうね。 実際、栃木県の高田本寺に、遺品として伝わっている「笈(おい)」のサイズから見て、親鸞聖人は、六尺(約180センチ)を超える偉丈夫だったと考えられております。まあ、それだけの、常人を抜きん出た体格に恵まれた方であったからこそ、90歳という長寿を得られたのでしょうけれど、親鸞聖人に限らず、お坊さんには、結構長生きの方が多いように思います。 たとえば、仏教の開祖、お釈迦様は80歳。親鸞聖人のお師匠様、法然上人も80歳です。ちなみに、80歳を傘寿と言いますが、お釈迦様がお亡くなりになった歳ということで、仏寿とも言います。また、蓮如上人は85歳。良寛和尚は74歳。西行法師は73歳でした。最近の方で言えば、清水寺の大西良慶管主は108歳でしたね。 親鸞聖人や、こういった方々が長生きなさった理由は、いろいろ考えられるでしょうけれど、一番大きな理由は、人生を支える信仰があって、心安らかに生きられたということではないかと思いますね。ことさら長生きを問題にしなくとも、「人生を支える信仰があって、心安らかに生きられる」ということは、誰にとっても大切なことだと思います。 仏教は、安らかな心で、いのちいっぱい生きるための教えです。生きるための確かな拠り所があればこそ、心安らかに生きられる。また、心安らかに生きられるからこそ、人生を味わいながら、いのちいっぱい生きることができるのです。 私たちは、はたして、どうでしょうか。信仰があるかどうかは、ひとまず置くとしても、安らかな心で、人生をあじわっているかといえば、どうも、そうは言えないように思いますね。 これまでにも何度もお話してきましたが、現代社会は、能率と効率の競争社会ですから、日々忙しく生きているのが現代人のステータスのようになってしまいました。そのせいですか、現役のビジネスマンだけでなくて、退職して年金で暮らしている方や、まだ就職していない学生さんまでが、びっしり書き込まれた予定表に従って、走り回っています。 最近の若者は、常に予定を隙間無く入れておかないと不安で仕方がないといいます。気楽なはずの学生でさえ、一週間の予定がびっしり詰まっていて、何かがダメになったら、すぐさま友人に連絡して別の予定を入れる。そういう空白の時間に耐えられない若者の現象を、「お約束症候群」と言うのだそうです。 そんなふうに、忙しい忙しいと、追い回されるように暮らしておりますと、人生を味わうということは、なかなかできません。のべつ幕無しに活動していると、人生に対する味覚障害を起こしてしまい、ついには、人生に味わいがなくなっても、疑問さえ感じないようになってしまいます。 何年か前のことですが、あるところで、「仕事でお忙しいのも結構ですが、人生、ゆっくり味わうということも大切ではないかと思いますけれど…」と申しましたら、こうおっしゃった。「本当にそうですな、ご院さん。私ら、味わうということも大切にしとります。このあいだの土曜日にも、家族で焼き肉を食べに行ってきました」と。おしゃべりな坊さんも、思わず無口になってしまう瞬間です。 以前にもご紹介いたしましたが、インドの古い格言に、「忙しい心は、病んでいる心。のんびりしている心は、健やかな心。静かな心は、聖なる心」という言葉があります。「忙しい心は、病んでいる心」。たしかに、そんな気がいたします。 人生を味わうには、日々の生活から得た経験を、ゆっくり消化するだけの、安らかな時間が必要なのです。そうでないと、大切な経験が、みんな未消化のまま捨てられてしまいます。それでは、あまりにも人生がもったいないと思いますね。 ところで、自分の人生を生きるのは、言うまでもなく、自分自身ですが、私たちは、本当に、自分自身を生きているのでしょうか。これは、大切なことです。 以前、「タイタニック」という映画が評判になったときに、こういう話を聞きました。救命ボートの席を、女性や子供のために譲ってもらうには、どう言って説得したらよいかというジョークです。 アメリカ人を説得するには、「女性や子供たちを助ける人はヒーローだ」と言えばよい。ドイツ人には、「そうするのが規則だから」と言えばよい。では、日本人にはどう言うか。日本人を説得するには、「みんながやっていることだから」と言えばよい。 思わず笑ってしまいましたが、要するに、「赤信号、みんなで渡れば、怖くない」というのが、日本人だというのです。まあ、日本人は皆そうだとも、日本人だけがそうだとも思いませんけれど、妙に納得させるものがある、なかなかよく出来た話ではあります。 たしかに、私たちには、「世間ではどうだ」「世間がどう言う」というぐあいに、自分より世間を優先させてしまう傾向があります。ですが、そういう生き方をしていると、自分自身を生きられませんし、自分自身を生きていないことにさえ、気づかなくなってしまいます。 たとえば、仕事でもそうですね。社会は、国家と企業に役立つ人材を求めていますから、最近は「人材派遣センター」というものが沢山出来ましたし、学校でも、「社会に貢献しうる有能な人材を育成する」ことを教育の目的にしています。ですから、世間を気にして生きている私たちは、有能な人材などと言われると、喜んでしまうのですが、よく考えてみれば、「人材」というのは、人間を道具扱いした言葉なのです。 会社にとって有益な人材というのは、会社という仕組みを動かしていくのに役立つ「部品」のことです。たとえば、会社が、私を必要としているとしても、必要なのは「私の知識」や「私の技術」であって、「私」そのものではない。極論すれば、「私」は、どうでもよいのです。 そういう会社の部品としてだけ生きていると、部品ではない一人の人間としての人生が無くなってしまいます。と言っても、決して、会社員であることが問題なわけではありません。そうではなくて、問題なのは、自分自身を忘れて、会社の「部品」になってしまうことです。 「部品」に、人間としての倫理はありません。たとえば、最近の事件で言えば、雪印乳業や、日本ハム、東京電力の問題を見れば分かりますね。会社の利益のためなら、賞味期限を書き換え、国産肉を輸入肉と偽り、原子炉にヒビが入っていても見なかったことにする。自分の人生に責任を持って、自分自身を生きている人には、ありえないことでしょうね。 私たちは、自分の頭で考えているように錯覚しておりますけれど、たいていは、物事を世間の物差しで計り、世間の役割を演じているだけではないでしょうか。私たちの頭の中には、「世間」が居て、「自分」が居ない。そんな世間のロボットではなく、本来の自分を生きる。そのことを目指しているのが、仏教です。 私たちは、たいてい、自分が感じたり考えたりする拠り所を「世間」に求めがちですが、世間を形作っているのは、私たちの煩悩なのです。煩悩というのは、「他の誰よりも我が身が可愛い」という心の働きのことです。そういう煩悩を持った私たちが集まって出来ているのが、世間であり、社会なのです。 私たちは社会の価値観を拠り所にして生きておりますが、社会の価値観というものは、社会を形成している人々の都合によって変わるものでして、絶対のものではありません。それは、戦前と戦後を見比べてみるだけでも分かりますね。昨日まで正しかったことが、今日は正しくないのです。そういった不確かなものは、心安らかに生きる拠り所とはならないと思いますが、如何でしょうか。 「世間虚仮、唯仏是真」(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)。これは聖徳太子の言葉ですが、「世間は偽りであり、ただ仏だけが真である」という意味です。世間が偽りに満ちていることは、近頃の新聞やテレビをご覧になれば、お分かりのこととは思いますが、世間というのは、あまり当てにはなりません。それを当てにしていると、困ったことになります。 たとえばです、近頃、妙に世間がキナ臭くなってきましたが、「国家があっての国民か、国民があっての国家か」というような議論が現れるようになると、戦争が近づいてきた可能性があります。 そんなとき、世間を拠り所にして生きていると、なかなか心が定まりません。赤信号が見えていても、「みんなが渡る」かどうかを考えてしまうからです。そういう私たちの虚を突くように、「戦争行きますか、日本人やめますか」という人まで現れてくる。皆さんは、どうお応えになりますでしょうか。 このごろ、有事法案が盛んに議論されていますが、「有事」と言うと、感情的に抵抗があるものですから、最近、政府は、「国民の皆さんを護るための法案」と言い換えましたね。ですが、そんなことを言っている人たちは、戦争には行かないのです。戦争に行くのは、護られるはずの「国民の皆さん」なのです。 また、こういうことを言う人もいる。「あなたは家族が暴漢に襲われたら戦うだろう。それと同じで、国家が襲われたら戦うのは国民の当然の義務だ」と。あなたにも愛国心があるだろうというわけです。ですが、家族を護ることと、国家を護ることとでは、意味が違うのです。家族を護ろうとするのは、全人格としての「私」ですが、国家を護るという場合の「私」には、国家の「部品」としての意味しかありません。 人は誰でも、自分の生まれ育った国を愛しているものです。ですが、私たちの考えている「国」というのは、故郷の山や川や、見知った人々のいる社会のことですね。 このあいだ北朝鮮から帰国した、拉致事件の被害者、曽我ひとみさんも、おっしゃっていました。「24年ぶりに故郷に帰ってきました。人々の心、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます。本当にありがとう。…佐渡で生まれたので、佐渡で暮らしたいと思います」と。 杜甫の詩に、「国破れて山河在り」という言葉がありますが、国家が無くなっても、故郷の山や川は無くなりません。私たちにとって、国と国家は、別の物なのです。それを、同じ物のように言いくるめ、郷土愛と愛国心をごちゃまぜにして、すりかえようとする人々がいる。 まあ、包丁を持ったオジサンに、後をつけられるようなことになると困りますから、あんまり言いませんがね。マネーゲームに失敗した大企業や銀行のツケが国民に回されていることひとつとって見ても、国家というのは、国民のためにあるのかどうか、疑問ですね。 中国、瑞巌寺の師彦(しげん)和尚は、毎日、自分に大声でこう呼びかけたといいます。「主人公よ」。主人公というのは、本来の自分のことです。「主人公よ」と呼びかけて、「はい」と答える。そして、また呼びかける。「主人公よ、目を覚ませよ」。「はい」。「主人公よ、いつどんなときでも、他人にだまされるなよ」。「はい、はい」。ひょっとすると、私たちも、自分の煩悩や、世間に騙されないために、師彦(しげん)和尚の真似をしたほうがよいのかもしれません。 私たちは、自分の人生に責任を持ち、自分の人生を味わう「主人公」のはずなのですが、実際には、そうではありませんね。「世間」を拠り所にして、世間の顔色を窺い、世間の要求に従い、世間の評価を喜んでいる。それでは、まるで、世間の奴隷のようなものです。私たちは、自分の人生を生きるために、自分の心で感じ、自分の頭で考える力を取り戻さねばなりません。 「自らを拠り所とし、法を拠り所として、精進しなさい」。これはお釈迦様の遺言です。「自らを拠り所とする」というのは、自分の心で感じ、自分の頭で考えるということです。そして、「法を拠り所とする」というのは、仏の教えを、自分が考えたり、感じたりする際の拠り所にするということです。 また、浄土真宗のお坊さんで、暁烏敏という方は、「私が私であることが釈迦のいわゆる成仏であります」とおっしゃっています。仏の教えを拠り所に、本来の自分であり続けること、私が私であること。そのことを目指しているのが、仏教なのです。 仏教は、私たちの「いのちの真実」を説く教えです。これは、いつもご覧頂く図ですが、「いのちの真実」とは、私たちは、目に見える世界では、一人一人がバラバラに生きているように見えても、目に見えない「いのち」の奥底では、みんなつながっていて、ひとつだということです。私たちが「浄土」と呼んでいるのは、その「いのち」がひとつになった世界のことです。 私たちは、無から生まれてきて、無へと帰っていくわけではありません。私たちは、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰っていくのです。浄土は、私たちの「いのち」の故郷なのです。死ぬというのは、その「いのち」の故郷へ帰っていくことなのです。 私たちは、自分では意識していなくとも、みんな人間としての完成をめざして、生まれ変わり死に変わりしている、「いのちの仲間」なのです。仏教の言葉で言えば、私たちはみな、仏と成ることをめざして、生まれ変わり死に変わりしている「菩薩」です。 仲間は、殺し合わない。仲間は、奪い合わない。仲間は、欺き合わない。それが、仲間ですね。私たちが、同じ時代、同じ世界に生まれてきたのは、互いに助け合い、互いに学び合うためなのです。私たちは「いのちの旅仲間」なのです。仏教は、そのことを教えようとしているのです。 そして、そのことが、頭ではなく、心の底から納得できたとき、私たちは、安らかな心で、いのちいっぱい生きることができるようになる。安らかな心で、いのちいっぱい生きるためには、人生を支える信仰が必要なのです。 いつもお話いたしますことですが、私たちはまだ完成されておりませんから、それぞれの宿業に応じて、修羅と仏の間の、どこかに生まれてまいります。修羅というのは、常に戦っている生き物です。 競争社会は戦いの社会ですから、競争社会に飲み込まれてしまうと、修羅になってしまいます。私たちが、修羅の世界に向かって行くか、仏の世界に向かって行くかは、ひとえに、どんな教育を受けるかにかかっていると思いますね。 仏の教育を受ければ、私たちは、互いに「いのちの仲間」として、助け合い、学び合いして、心安らかに生きられるようになるでしょう。仏の教育を受ければ、私たちは、「いのち」の奥底では、みんなつながっていて、ひとつなのだということが分かるでしょう。 その世界では、「私」も「あなた」もありません。「本当の私」は「本当のあなた」なのです。ですから、そんな「いのちの真実」の世界から見れば、あなたを傷つけることは、私を傷つけることなのです。そのことが、頭ではなくて、心の底から納得できたら、戦争など起こるはずもありません。 私たちは、戦争になったら人を殺さねばならないし、また、殺すことが出来ると思っておりますけれど、本当は、そうではないのですね。アメリカ、アーカンソー州立大学のディヴィッド・グロスマン教授の研究によれば、たとえ戦争中でも、人は人を殺そうとしないものだといいます。人間は、本来、修羅ではないのです。 実際、第二次世界大戦中のアメリカ軍の発砲率は15パーセントだったといいます。発砲率というのは、敵と直面したときに、その敵に向かって銃を撃った人のパーセントです。発砲率15パーセントというのは、100人中85人は、敵と直面しても銃を撃たなかったのです。戦争状態でも、人は人を殺したくないものなのです。 ところが、そのことに気づいた米軍は、発砲率を、朝鮮戦争では55パーセント、ベトナム戦争では95パーセントまであげるという目標を掲げたのです。 そのために何をしたかと言いますと、兵士の首を固定して残酷なビデオを延々と見せ、感情を麻痺させる。トマトケチャップを詰め込んだキャベツを撃たせて、人を撃つことに慣らせる。そして、東洋人は人間ではないという洗脳教育を徹底したのです。こいう訓練を施すことで、発砲率は95パーセントに達しました。 その結果、どうなったか。感情が麻痺し、野蛮な殺人マシーンとなった兵士たちは、戦場から帰還しても、ほとんど社会復帰ができませんでした。家庭は崩壊し、凶悪犯罪が激増したのです。 人は人を殺したくないのです。それでも殺させようとすれば、相手は人間ではないと思わせるしかない。そのため、米軍では、相手は人間ではないという洗脳教育を行ったのです。日本でも、そうです。戦争中は、「鬼畜米英」と言いまして、敵国人は人間ではないという教育を行いましたね。ですが、人を人と見なくなるということは、自分も人でなくなっていくことなのです。 戦闘教育によって、人が人でなくなっていく。実は、これと同じことが日常的に起こっているのです。テレビや映画やビデオゲームです。そういったマスメディアにあふれる、暴力シーンや残酷シーンを見慣れることで、私たちは、人間本来の感情を鈍らせ、麻痺させていき、ついには、そういう暴力や残酷を楽しむようになる。グロスマンの研究でも、そういうことが分かってきています。 「テレビと現実は違うから、テレビからの影響などあるはずがない」と考える人もいますが、それは違います。実際、企業も、そうは思っていません。テレビに影響力がないと思っていたら、番組のスポンサーになってコマーシャルを流したりするわけがありません。 刺激はエスカレートしていかないと飽きられてしまいますから、マスメディアも、暴力シーンや残酷シーンをエスカレートさせていきます。そして、企業も、より刺激的な番組のスポンサーになろうとする。 現代社会は、競争社会です。企業はみな、利益を求めて戦っています。そのために、現代社会は、戦場と化し、修羅の世界になっているのです。そんな修羅の世界に生きている私たちは、みな、知らないうちに修羅の教育を受けている。つまりは、戦闘教育を受けているのです。そして、徐々に、人の心をなくしていっているのです。 私たちは、人としての心と頭を取り戻さねばなりません。今一度、私たちはみな「いのちの仲間」だということを思い出さねばならならないのです。そのためには、「いのちの真実」を教える、仏の教育が必要です。テレビを消して、聞法することが、必要なのです。 仏教教育と言うと、最近は、物事に動じない平常心を養うためと言って、ビジネスマンやスポーツ選手が、座禅の真似事をするのが流行っておりますが、仏教は、競争社会(世間)を有利に生きていくための教えではありません。そうではなくて、競争に明け暮れる世間から人を救い上げるための教えです。仏教は、修羅の道具ではなく、出世間の教えなのです。 「出世間」というのは、世間から出て寺や山に籠もることを言うのではありません。たとえ、寺や山に籠もっても、心が修羅のままでは、同じことです。そうではなくて、「出世間」というのは、世間に影響されない心を持つことなのです。そのためには、「世間」を拠り所とせず、「いのちの真実」を説く「仏法」を拠り所とすることが大切です。 もちろん、私たちは、世間に生きておりますから、世間と無関係ではおれませんが、蓮如上人は、こうおっしゃっています。「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」と。つまりは、仏法を大切にして生きておれば、世間のことは、時に応じて適切に対応できるということです。 さて、本日は、「いのちいっぱい生きる」という話ですが、「いのちいっぱい生きる」と申しますと、社会に積極的に働きかけていくような活動的な生き方や、半年先まで予定表が詰まっているような忙しい生活、あるいは、ハラハラ、ドキドキするような、刺激と興奮に満ちた日々を、想像しがちです。ですが、そうではないのですね。 ハラハラ、ドキドキしているのは、交感神経が昂ぶって、アドレナリンが過剰に分泌されている状態です。それは、身体と心が、「戦うか、逃げるか」という臨戦態勢になっているのです。いわば、「いのちいっぱい生きる」というより、命の瀬戸際に立っている状態です。 「いのちいっぱい生きる」とは、全ての時間を効率よく使い切るという意味ではありません。そうではなくて、「いのちいっぱい生きる」というのは、生きるための確かな拠り所があって、心安らかに生きるところに、自ずと現れてくる、人生の在り方なのです。 生きるための確かな拠り所というのは、仏の説かれた「いのちの真実」です。ですが、仏の教えは、頭で理解しただけでは、生きるための拠り所とはなりません。聞法を重ね、日々お念仏を称える生活の中で、仏の教えが、自然に身に付いていく。そして、いつとはなしに、生きるための確かな拠り所となっている。そういうものですね。 いくら聞法を重ねても、聞いたことが頭にたまっているだけでは、知識を誇る修羅の道具になるだけです。聞いたことを、我が身のうえに問うていくということが大切です。我が身のうえに問うていくうちに、聞いたことが、頭から下がって腑に落ちる。それが仏法を味わうということですが、その静かな時間の中でこそ、日々の経験から得た知識が、智慧へと変わっていくのです。 私たち真宗門徒は、日々、お念仏を称えますが、お念仏を称えると、息が調ってきます。「息」という字は、「自らの心」と書きますように、息が整えば、自ずと心も調い、安らかになってきます。心が安らかになれば、仏法を味わう静かな時間も持てるようになりますね。 ざわめいている心というのは、波立っている水面のようなものです。そこで、何かが起こっても、全て、ざわめきの中に消えてしまいます。ですが、鏡のように静かな水面だと、木の葉が一枚落ちても、波紋が全体に広がって行きます。 それと同じように、聞法とお念仏の日暮のなかで、心が安らかになっていると、日常の何でもないことに、気づくようになります。そして、その気づきが全身に広がっていくところに、感動が生まれます。仏法の功徳というのは、この、日常の何でもないことに、感動し、喜べることではないかと思います。 穏やかな世界を望むのなら、自分自身が、穏やかに生きることです。いつもお話することですが、私たちが、穏やかに生きられない一番大きな理由は、無意識のうちに、常に、死ぬことへの不安を抱いているからです。死ねば終わりだと思っているからです。 死ねば終わりだと思っているから、生きているあいだに、あれも手に入れたい、これも手に入れたいと、修羅や餓鬼のようになる。死ぬことを思い出さないように、娯楽や刺激を求め、生活にしがみついて生きている。それが、私たちではないでしょうか。 ですが、私たちの「いのちの真実」は、そうではないのです。私たちは、死んでも終わらない。私たちはみな、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰っていくのです。「いのち」の故郷である浄土へと帰っていくのです。仏法は、そのことを教えているのです。 聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、私たちの「いのちの真実」が、心の底から納得できたとき、死ぬことへの不安は解消されます。死ぬことへの不安が解消されたとき、初めて、私たちは、本当に生きることができるようになる。心安らかに生きることができるようになるのです。 もちろん、安らかな心で生きていても、人生には何が起こってくるか分かりません。実際、思ってもみないようなことさえ起こってくるものです。ですが、たとえどんなことが起こってこようとも、それを全て、気づきのご縁として受け止めて、あるがままを受け入れられるようになっていく。 「あるがままを受け入れる」というのは、決して、消極的に「受け身」になって生きるということではありません。「どうにかなること」は、どうにかする。「どうにもならないこと」は、どうにもならないと見極めて、あるがままを受け入れる、ということです。 前回にもお話いたしましたが、アラブの格言に、こういう言葉があります。「神を信頼せよ。しかしまず、お前のラクダを木につなげ」と。神を信頼するといっても、自分にできることまで放っておくのは、横着なだけです。 では、「どうにかなること」と、「どうにもならないこと」とは、どうやって見極めるのかと言えば、その智慧を養うのが、信仰の生活なのです。 聞法を重ね、お念仏を称える生活の中で、「いのちの真実」への気づきが深まっていくと、自ずと、「どうにかなること」と「どうにもならないこと」の見極めもついてくる。また、その見極めがつかないときにも、「いのち」を信じて、心安らかに、人事を尽くしていける。 そんな生き方を支えているのは、「私が必要とすることではなく、私に必要なことが起こってくる、私が必要とするものではなく、私に必要なものが与えられる」という、「いのち」への無条件の信頼です。この「無条件の信」を深めていくこと、それが「信仰の生活」なのです。 江戸時代の禅僧、良寛和尚に、こういう言葉があります。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」。 有名な言葉ですが、これは、無気力で投げやりな生き方から生まれた言葉ではないでしょう。「災難に逢う時は、災難に逢うのがよいことなのだ。死ぬ時がきたら、死ぬのがよいことなのだ」。そう言い切れるのは、「いのち」への無条件の信頼があるからだと思いますね。 私たちは、生きる理由があって生まれてきたのです。ですからね、乱暴なことを言うようですが、死ぬときがくるまで、絶対に死なないのです。どんな重病にかかっても、それが死ぬときなのかどうかは、私たちには分からないのです。 死ぬ時節は、「いのち」だけが知っている。死ぬときか死ぬときでないのかは、「いのち」にお任せです。そして、もし、それが死ぬときであるなら、それは、お浄土へ帰るとき、「いのち」の故郷へ帰るときなのです。その時まで、人生を味わいながら、心安らかに生きていく。それが、「いのちいっぱい生きる」ということだと思います。 「裏を見せ、表を見せて、散る紅葉」。これは、さきほどの良寛和尚の辞世の句です。世間体を繕うことなく、裏も見せ、表も見せて、「いのち」のままに、自然に舞い、自然に散っていけたら、それ以上のことはないように思います。 アメリカに曹洞宗を伝えた、鈴木俊隆老師という方がおられましたが、その鈴木老師がニューヨークで癌で亡くなる直前に、古くからの友人だった片桐老師が見舞いに行かれました。片桐老師がベッドの横に立つと、鈴木老師は見上げてこう言われた。「死にたくない」。片桐老師はお辞儀をして、「どうもご苦労さまでした」と言われたそうです。「死にたくない」。これも、また、「いのちいっぱい生きた」人の言葉だと思います。 「安らかな心で生きる」ということは、決して、ノホホンと脳天気に生きていることではありません。心のなかに鏡のような水面を保つためには、一種の緊張が必要なのです。 そのために、師彦(しげん)和尚は、毎日、自分に呼びかけたのです。「主人公よ、目を覚ませよ」と。私たちは、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えます。仏様というのは、本当の自分のことです。私たちは、お念仏を称えることで、本当の自分に呼びかけているのです。 本当の自分に、呼びかけ、呼びかけしながら、死ぬも生きるもお任せで、おおらかに、心安らかに、「いのちいっぱい」生きる。宮沢賢治ではありませんが、「そういうひとに、わたしはなりたい」と、思いますね。 さて、本日は、ここまでにいたします。まとまりのない話に、ながながとお付き合い頂き、申し訳ございません。世間に生きている限り、世間の役割を演じねばならないのですが、せめて、自分らしく演じていきたいと願っております。また、ご一緒に、聞法させ頂けるよう、念じております。本日は、有り難うございました。
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