釋昇空法話集・第25話

いのちの重心

「腹ができる」ということ

(2003年9月23日 永代経法話)
 本日は、ようこそお参りくださいました。有り難うございます。今日は、お彼岸の中日でございます。今年は9月になってからも真夏日が続きまして、よわりましたけれど、昨日あたりから、急に風が冷たくなってまいりました。どうも、年々、季節の様子がおかしくなってきたように思いますね。

 昔は、夏空には入道雲がわきあがり、毎日夕方には夕立が降りました。夕立があがれば、床机を出し、浴衣に着替えて夕涼み。それが夏の風物詩でしたけれども、最近は入道雲なんか、見たこともないですね。

 浴衣姿を見かけるのも、せいぜいお祭りのときくらいです。その浴衣も、最近の若い人が着ているのは、膝小僧のところまでしかない。皆さんもご覧になったことがおありかもしれませんが、あれを初めて見たときには、びっくりしましたね。着物姿で乗車すると20パーセント引きというタクシーができましたが、あの浴衣でも着物と認めてもらえるのかと、余計な心配までしてしまいました。

 子供のころは、着物姿というのは、珍しくもなかったのですが、最近はめったに見かけません。たまに見かけると思わず見つめてしまいますけれど、妙に、着物姿が板についていない人が多い。女性の場合は、歩き方が違う。男性の場合は、帯の位置が高すぎる。まるで、欧米の人が着物を着たような格好です。

 もちろん、着物を着慣れていないということもあるでしょうけれど、それよりも、むしろ、私たちの「こころ」が欧米風に変わってしまったために、「体」まで変わってしまったということではないでしょうか。

 前回の春の彼岸会には、「身心一如」という題で、「体に聞く」という話をさせて頂きましたが、仏法の話がなかなか腑に落ちないというのも、あるいは、「体」が変わってしまったからかもしれません。

 そこで今回は、もう一度、別の角度から、仏法と体の関係を考えてみたいと思います。法話と言うより、いささか雑談めいた話で恐縮ですが、どうぞ、しばらくの間、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

 さて、まずは、着物の話の続きから始めたいと思います。さきほど、最近の着物姿の女性は、歩き方が違うと申しましたが、皆さんは、どこが違うと思われますか。外股になっていることでしょうか。まあ、着物姿で、外股で歩くというのも、妙な姿だと思いますけれど、決定的に違うと思いますのは、手を振って歩いておられることですね。

 昔は、人は歩くときには手を振らなかったのです。手は、体の前で軽く組んでいるか、膝の前に添えていました。今のように、足と互い違いに手を振って歩きますと、どうしても、腰のところで、上半身と下半身が捻れますから、着物が着崩れてしまいます。ところが、昔は、手を振らなかったので、着物が着崩れるということもなかったのです。

 昔の人でも、手を振ることはありましたけれど、その場合には、右足が出るときに右手、左足が出るときに左手が出るような振り方をしました。つまりは、手を振っても、体は捻れなかったのです。そういう動きを「ナンバ」といいます。

 今でも、こういう体の動きは残っていますね。たとえば、お相撲さんの突っ張りでは、右手と右足が同時に出ています。また、盆踊りもそうです。徳島の阿波踊りや、富山の風の盆など、有名ですからテレビでもご覧になったことがおありかと思いますが、こういった伝統的な民謡踊りでは、たいてい、同じ側の手足が、同時に出ています。

 現代人の目には、奇妙な動きに見えるかもしれませんが、私たち日本人は、昔は、そういう体の使い方をしていたのです。

 ちなみに、「ナンバ」は、体を捻らないので、疲労の少ない、安定した動作ですが、走るのには向いていません。そのため、江戸時代の庶民は、走ることができなかったと言われています。どうしても走らねばならないときには、それこそ阿波踊りのように、両手を頭上に挙げて走ったそうです。

 庶民は、走れなくとも、不都合はなかったのです。現代でもそうですが、町なかで走っているのはジョギングをしている人くらいでして、日常生活で、走るということは、まず必要ありませんね。

   江戸時代に、走ることができたのは、武士と、猟師と、飛脚くらいのものでして、「ナンバ」で走るというのは、一種の特殊技術でした。それでも、幕府の継飛脚は、500キロ以上ある江戸と大阪の間を、65時間で走ったと言いますから、大変なものです。

 脱線ついでに申しますと、明治時代になると、飛脚は、ほとんど人力車夫になったそうです。最近は、観光地で人力車が復活していますが、学生アルバイトのような、現代人の引く人力車は、走り出すと左右に揺れて、何とも具合が悪い。昔の車夫は、「ナンバ」で走ったので、左右に揺れなかった。左右に揺れない「ナンバ走り」は、体力のロスも少なかったのです。

 そういうところから、最近は、スポーツの世界で、この「ナンバ」が見直されるようになってきました。この間の、世界陸上の200メートルで銅メダルを獲った末続選手も「ナンバ」を取り入れていると、新聞に書いてありましたね。

 まあ、それはともかく、江戸時代の日本人は、歩くときには手を振らず、手を振るときには、右足と右手、左足と左手というように、同じ側の手足を、同時に前に出していたのです。ちょうど竹馬に乗っているときのような動き方ですが、私たち日本人は、昔は、そういう体の使い方をしていました。

 では、現在のように、右足と左手、左足と右手、というように、互い違いに手足を動かすようになったのは何時からかというと、それは、明治時代になってからなのです。

 日本の近代化は、欧米を手本として始まりましたから、明治以降の日本の社会では、西洋人のように「胸を張り、手を振って歩く」のがよい姿勢だと考えられるようになりました。つまり、それがハイカラだったわけですが、それまでの日本人には、「手を振って歩く」ということも、「胸を張る」ということもなかったのです。

 幕末から明治の初期に写された日本人の写真を見ますと、たいてい、胸ではなくて、むしろ、下腹のほうが、やや前に出ています。そして、男性の場合は、その下腹を抱きかかえるような位置に、帯がしめられています。

 着物を着慣れておられる方には、いまさらの話ですが、帯は腰にではなく、下腹に巻くものなのです。さきほど、最近の着物姿の男性は、帯の位置が高すぎると申しましたのは、このことです。胸を張って歩く現代人には、帯で支えるような下腹の張りがないのです。

 昔の日本人は、胸がへこんで、腹が出ているのが、よい姿勢だと考えていましたが、現代の日本人は、欧米人のように、胸が出ていて、腹がへこんでいるのが、よい姿勢だと考えています。昔と今では、日常的な体の動かし方も、理想とされる姿勢も、明らかに変わってしまったのです。

 それは、日本人だけではなく、東洋人一般に言えることですが、この変化には大きな意味があると思います。というのも、仏教は、胸を張る文化ではなく、腹を張る文化のなかで生まれ育ってきたからです。

 胸を張る文化と、腹を張る文化とでは、どこが違うのかと申しますと、それはです、「息の仕方」が違うのです。胸を張る文化の人は、胸で呼吸します。腹を張る文化の人は、腹で呼吸します。そんなふうに、「息の仕方」が違うと、おのずと「生き方」も違ってきます。

   「生き方」とは、「息の仕方」のことです。これは別に、こじつけではありません。「生きる」ということは、「息をする」ということ。「生き物」とは、「息をする物」のことです。

 私たちは、食べなくとも1ヶ月、飲まなくとも10日くらいは耐えられますが、呼吸は10分も止まれば、死んでしまいます。生きるために一番大切なのは、呼吸することなのです。私たちの「生き方」は、根本的なところで、この「呼吸」の仕方に左右されています。

 呼吸というのは、意識しなくとも、自然にできるものですから、私たちは、普段、呼吸について、あまり考えることがありませんが、呼吸は、体とこころに、密接に結びついています。

 たとえば、熱のあるとき、どこかが痛むとき、怒っているとき、悲しんでいるとき、恐れているときのように、体とこころにストレスがかかると、呼吸は、浅く、速くなります。その反対に、体とこころがリラックスすると、呼吸は、深く、緩やかになります。

 体とこころの状態が変化すると、それに応じて、呼吸も変化します。そういう経験は、どなたにもおありではないかと思いますが、それだけではありません。反対に、呼吸を変えると、体とこころが変わるということもあるのです。

 たとえば、こういう経験は、おありでしょうか。重い荷物を持ち上げるときには、大きく息を吸って持ち上げますね。荷物を持ち上げたままでいたら、呼吸は、浅く、速くなっていきますが、そこでもし、大きく息を吐いたらどうなるでしょうか。おそらく、荷物を落としてしまうでしょうね。

 筋肉は、息を吸うときに緊張し、吐くときに緩むのです。もう少し詳しく申しますと、息を吸うと、交感神経が刺激されて、筋肉が緊張し、息を吐くと、副交感神経が刺激されて、筋肉が緩むのです。私たちの体は、そういうふうにできているのです。

 呼吸というのは、「吸う」と「吐く」を交互にするのでして、どちらか片方だけということはできませんが、どちらかを長くすることはできます。実は、この、「吸う息」が長いか、「吐く息」が長いかの違いが、胸でする呼吸と、腹でする呼吸の違いなのです。

   では、「胸でする呼吸」と「腹でする呼吸」では、「生き方」の上で、どう違ってくるのか。この点を、もう少し詳しくお話いたします。

 まず、「胸で呼吸する」呼吸法は「胸式呼吸」と言いますが、この「胸式呼吸」では、「吸う息」に重点が置かれていて、「吐く息」より「吸う息」が長くなっています。

 「吸う息」に重点を置いて、胸で呼吸すると、交感神経が刺激されます。交感神経が刺激されると、アドレナリンが分泌されて筋肉が緊張し、体もこころも臨戦態勢に入ります。そのため、交感神経は「戦うための神経」とも言われています。

 たとえば、戦う場合には、相手をよく見るために瞳孔が広がり、滑らないように適度に手足に汗をかき、筋肉を緊張させて運動機能を高めるために、心臓の動悸が速くなり、呼吸数も多くなります。

 相手によっては、戦わずに逃げねばなりませんが、こういった「戦うか、逃げるか」という、臨戦態勢を生み出すのが、交感神経の働きです。つまり、交感神経を刺激する「胸式呼吸」というのは、人を「戦闘モード」にする呼吸法なのです。

 胸で呼吸する「胸式呼吸」は、戦う人をつくります。つまりは、「イケイケ、ドンドン」の人です。ですから、「胸式呼吸」は、競争的なビジネスやスポーツと馴染みがよいのです。

 また、「胸式呼吸」は、胸を張り、筋肉を緊張させる呼吸法ですから、「胸式呼吸」の文化では、たとえばスーパーマンやアーノルド・シュワルツェネッガーのような、胸の厚い、逆三角形の体が理想とされます。

 私たち現代人の呼吸は、たいてい、この「胸式呼吸」です。その証拠に、おそらく皆さんは、深呼吸というと、胸一杯空気を吸い込むことだと思っておられるのではないでしょうか。それが、つまりは「胸式呼吸」なのです。現代の日本人は、日常的に「胸式呼吸」をしていることが多いのですが、実は、そんなふうになったのも、明治時代からなのです。

 ちょっと脱線しますが、その経緯は、こうです。ご承知のように、明治政府は、欧米の列強に追いつき追い越すことを目標に、富国強兵策をとりました。日本を世界の一等国にする。そのためには、外国との戦争に勝てる立派な軍隊が必要だと、はやくも明治6年には徴兵令が出されています。

 遅れて競争に加わった日本が、ふと目を上げると、ずっと前の方に、胸を張り、腕を振って歩いている欧米人たちの姿が見えた。そこで採用された欧米式の軍隊訓練方が、日本人の体を変えてしまったのです。私たち日本人が、胸を張り、腕を振って歩くようになったのは、そのときからです。

 軍隊だけでなく、民間でも、すぐに戦場で使える人間を教育するために、明治の中頃には、兵式体操という軍隊式の体操が師範学校と小学校に取り入れられ、さらに大正時代には中学校で軍事教練が始まります。昭和の初期に始まったラジオ体操も、その流れの中にあります。

 覚えておいでの方もいらっしゃるかと思いますが、ラジオ体操のときには、日の丸を掲揚して、皇居の方に向かい、放送される音楽に合わせて、全国一斉に体操をしたのです。ラジオ体操というのは、国家神道のもとでの一種の神事でした。

 ちなみに、学校の遠足というのは、胸を張り、手を振って歩く「行軍旅行」から始まったものです。また、運動会という行事があるのは、世界中で日本だけですが、これもまた、軍事教練のなごりです。

 兵式体操を学校教育に取り入れたのは、「日々の生活はみな戦争だ」と言った、初代の文部大臣、森有礼ですが、世界の一等国をめざした明治政府は、この世界を生存競争の戦場とみなすイデオロギーを、軍隊と学校教育を通じて、国民に植え付けたのです。

 現在でも、このイデオロギーは、脈々と生き続けています。あまり知られていませんが、今から5年前に、日本は国連から、「教育制度が極度に競争的である」という警告を受けています。国連からこういう警告を受けた国は、後にも先にも、日本だけです。

 私たちは、もう、「24時間戦えますか」とか「ファイト一発」などと言ってないで、ここらで、「息の仕方」を変えた方が良いかもしれませんね。

 では、次に、腹で呼吸する場合はどうでしょうか。腹で呼吸する呼吸法は「腹式呼吸」と言います。まず、腹の筋肉を絞って横隔膜を持ち上げ、胸から空気を吐き出します。そして、次に、腹の力をストンと抜くと、横隔膜が下がって、空気は自然に入ってきます。こんなふうに、「吐く息」に重点を置いて、腹で呼吸するのが「腹式呼吸」です。

 この「腹式呼吸」では、「吸う息」より「吐く息」が長くなっています。「吐く息」が長いと、副交感神経が刺激されて、筋肉が緩み、体もこころもリラックスします。

   イライラしているときなどに深呼吸すると、リラックスできると言いますけれど、実際には、期待するほどの効果はないものですね。というのも、私たちは胸で深呼吸するからです。胸で深呼吸すると、どうしても「スーッ、ハッ、スーッ、ハッ」というぐあいに、「吐く息」より「吸う息」が長くなります。

 ところが、腹で深呼吸すると、「ハーッ、スッ、ハーッ、スッ」というぐあいに、自然に「吐く息」が長くなります。本当にリラックスするには、「吐く息」を長くすることが大切です。

   胸で深呼吸してリラックスしたような気持になるのは、刺激物のコーヒーを飲んで気分が変わるようなものでして、多少はリフレッシュしても、本当にリラックスしているわけではないのです。本当にリラックスするには、「吐く息」を長くして、腹で呼吸することです。皆さんも、いつか、お試しになってみてください。

 ところで、この「腹式呼吸」ですが、もともと、リラックスするためにあるわけではありません。そうではなくて、東洋人の伝統的な呼吸法である「腹式呼吸」は、人間としての完成をめざして、身心を鍛練する方法でした。

 東洋では、健康法でも修行でも、すべて、この「腹式呼吸」が基本になっています。ヨガでも、太極拳でも、気功でも、座禅でも、その中心は、みな「腹式呼吸」です。お釈迦様も、アーナーパーナという「腹式呼吸」を用いた瞑想で、悟りを開かれたと言われております。

 修行としての「腹式呼吸」では、呼吸をするときに動くのは、臍より上の腹でして、臍より下の下腹は動かないのです。動かないというより、息を吸うときにも吐くときにも、下腹は膨らんだままになっています。鳩尾を落として座り、呼吸によって、こころを下腹に集中する。それが修行としての「腹式呼吸」です。

 下腹を「丹田」といいますので、こういう呼吸法を「丹田呼吸」ともいいますが、これを続けていると、下腹がやや膨らんできます。ですから、下腹の突き出た布袋様のような姿が、「丹田呼吸」で形成される人間の理想像だったわけです。

 かつては、日本でもそうでした。下腹の出た人は、「腹の出来た人」だったのです。まあ、今でも下腹の出た人はいくらでもおられますが、それはたいてい中年太りですね。中年太りの下腹は、臍が下を向いています。

 ところが、「腹の出来た人」の下腹は、臍が上を向いているといいます。胸で呼吸している現代人には、なかなか、臍が上を向いている人はおられないのではないかと思いますね。

 胸で呼吸する「胸式呼吸」は、戦うための呼吸ですから、こころは常に外を向いて緊張しています。ですが、「丹田呼吸」では、こころが常に内を向いて、丹田に向かっています。

 そういう呼吸で身心が鍛練されてきますと、丹田に体の重心ができ、そこに、こころの重心も重なってきます。そうなって、体とこころの重心が、常に、丹田にあるようになった人、それが、「腹の出来た人」なのです。

 「腹の出来た人」は、体もこころも、ゆったりと落ち着いています。それは、何が起こっても、ダルマさんの起き上がり小坊師のように、動じない一点があるからです。つまりは、「腹が据わっている」のです。

 私たちは、なかなか、そのようにはまいりません。私たちは、たいてい、自分に都合のよいことが起これば喜び、都合の悪いことが起これば憂い悲しむ。まさに、「一喜一憂」しながら、日々を送っているのが、私たちの姿ではないかと思いますが、いかがですかね。

 ちなみに、「一喜一憂」というのは「喜んだり憂いたりすること」ですが、東洋医学では、喜びが過ぎれば心臓を傷め、憂いや悲しみが過ぎれば肺を痛めると言います。というのは、喜びは「気」を心臓に集め、憂いや悲しみは「気」を肺に集めるからです。

 「気」というのは、こころのエネルギーのことですが、嬉しいと胸が躍り、悲しいと胸が張り裂けそうになるのは、「気」が胸のあたりに集まってくるからなのです。

 「腹が据わっている人」は、常に、「気」が下腹に集まっていて、胸には上がらない。それで、一喜一憂することもないのです。

 「腹が据わる」の反対は、「腹が立つ」です。最近の若い人は、すぐに、「腹が立つ」「むかつく」「頭にきた」「鶏冠にくる」などと言いますが、「気」は上にあがるほど、よろしくない。すぐに「気」が上にあがるのは、腹が出来ていない証拠です。

 「腹をつくる」のは、「吐く息」です。先ほども申しましたように、「吐く息」が長いと、副交感神経が優位になって筋肉が緩み、体もこころも「平和モード」になる。その反対に、「吸う息」が長いと、交感神経が優位になって筋肉が緊張し、体もこころも「戦闘モード」になる。

 ですが、「息の仕方」には、そんなふうに自律神経や筋肉がどう変化するかといった生理的な側面だけでなく、もう少し精神的な側面もあるように思います。心理的と申しますか、哲学的と申しますか、そういった側面ですが、と申しましても、別に難しい話ではありません。それは、つまり、こういうことです。

 胸で呼吸する「胸式呼吸」では、「吸う息」に重点を置きます。言葉を換えて言えば、それは、自分の中に取り入れることに重点を置くという「息の仕方」です。もうお分かりになったかもしれませんが、「取り入れることに重点を置く」というのは、私たちの煩悩の働きと同じ方向にあるということです。

 そういう呼吸は、無意識のうちに、自我を強化していく方向に働きます。自我が強化されると、自分と他人を比べる思いが強くなり、常に対抗意識を抱くようになる。他人より優位にいないと落ち着かないので、体を鍛えることや、お金を蓄えること、権力を得ることにやっきになる。

 そのうえ、「胸式呼吸」では、力を抜くと、空気が自然に出ていってしまいますから、手に入れても力を抜くと出ていってしまうという思いが生まれ、力が抜けなくなる。かくして、胸を張り、肩に力の入った「戦闘モード」の人になっていくわけです。

 ちなみに、胸で呼吸している人は、便秘になりやすい。取り入れたものは、手放さないという人ですからね。というのは冗談ですが、胸で呼吸している人は、交感神経が優位になっていますから、消化器官の働きが鈍いのです。

 大腸や小腸などの消化器官の働きを司っているのは、副交感神経です。便秘でお悩みの方は、ぜひ、腹で呼吸する練習をなさってみてくださいね。

 腹で呼吸すると、消化吸収の働きがよくなりますし、腹筋が鍛えられるので、腰痛の予防にもなります。また、静脈の血液の流れがよくなり、冷え性にも効果があります。「腹式呼吸」は、健康のもとです。

 では、次には、その「腹式呼吸」です。腹で息をする「腹式呼吸」では、「吐く息」に重点を置きます。それは、自分の中にあるものを手放すことに重点を置くという「息の仕方」です。言葉を換えて言えば、それは、自我を手放していく方向にある呼吸です。

 また、「腹式呼吸」では、力を抜くと、空気が自然に入ってきますから、必要なものは自然に入ってくるという思いが生まれます。かくして、「いのち」を信じ、「いのち」に任せることのできる、「平和円満モード」の人になっていくというわけです。

 もちろん、1回や2回なら、どんな呼吸でも、たいして影響はないでしょうけれど、四六時中となると、話は別です。胸で呼吸していると、自分しか信じられない「自力」の人となっていき、腹で呼吸していると、「いのち」に任せることのできる「他力」の人となっていく。「息の仕方」は「生き方」を変えていくのです。

 「いのち」を信じ、「いのち」に任せることのできる人は、人を信じ、人に任せることもできるでしょう。人を信じて任せるということは、そのことで、どんな結果になっても文句はないということです。たとえば、親鸞聖人は、『歎異抄』のなかで、こうおっしゃっています。

 「親鸞においては、ひたすら念仏を称えて、阿弥陀如来のお助けをこうむるのがよいという、すぐれたお方のお言葉を身に受けて、それを信ずる以外に、格別の理由はないのです。念仏を申すことは、本当に極楽浄土に生まれるもとなのでしょうか、あるいは、地獄に堕ちる行いなのでしょうか。全然、私は存じません。私としては、たとい、法然上人のお言葉が偽りであって、念仏したことで地獄に堕ちたとしても、決して、後悔することはございません」と。

 人生で最も大切なことは人との出会いではないかと思いますが、これほど信じられる人と出会えたら、幸せなことですね。親鸞聖人だけでなく、誰の場合でも、人を信じ任せるという思いは、根本的には、「いのち」を信頼するという信仰の世界につながっているように思います。

 この間まで、テレビで「Dr.コトー」という番組が放送されていましたが、ご覧になったことがおありでしょうか。離れ小島の診療所で働く若いお医者さんの話で、結構評判の良い番組でした。

 そのなかの何話目か忘れましたが、末期ガンにおかされた島の長老が、コトー先生に、こうつぶやく場面がありました。「いのちのことは神様にお任せです。体のことは先生にお任せします。どうか宜しくお願いします」と。この一言だけで、島の長老の人柄が、十分に偲ばれるように思いました。

 「体のことは先生にお任せします」と言えるような先生に出会えるかどうかは、縁ですけれど、「いのちのことは神様にお任せです」と言い切れるほど腹ができれば、そういう出会いの縁も、おのずと開けてくるのかもしれません。

 人を信じて任せるということは、決して、依存心が強いということではありません。依存心から任せる人は、自分の思い通りの結果が出ないと、文句を言うことになります。

 仕事を任せるにしても、そうですね。昔の腹が出来た人は、「君に任せるから、思い通りにやってくれ。責任は私がとるから」と言いました。ところが、今の人は、たいてい、「君に任せるから、君の責任でやってくれ」と言います。これでは、「任せた」というより「押し付けた」という感じですね。

 「責任をとる」というのは、どんな結果になっても、黙ってそれを受け入れるということです。なかなか出来ないことです。たいていは、自分の思い通りに動いてくれない人には任せられない、自分の思い通りの結果でないと受け入れられない。仕事だけではありません。何でもそうですね。

 しかし、何でも思い通りになることが、よいとは限りませんね。ペルシャの呪いの言葉に、「おまえの願いが、全て即座に叶いますように」というのがあるそうですが、何でも願いがかなっていたら大変です。

 以前、あるところで、「悲しみと同じように、喜びも、度が過ぎるとストレスになりますよ。その証拠に、嬉しくてしかたがないというときには、悲しいときと同じように、涙がでるでしょう。たとえば、中国残留孤児の方が、何十年ぶりかに帰国して肉親と再会したときなど、嬉しくてしかたがないのに、泣けて泣けて、涙がとまらないということがありますよね」と申しましたらね、そこのお嫁さんが、こうおっしゃった。「ご院さん、わたし、姑さんが亡くなったら、きっと泣くと思いますわ」と。

 応えに困りましたね。あの人がいなくなれば、この人がいなくなればと、一度も思ったことがないという方は、あまりいらっしゃらないと思いますが、そういう願いがみんなかなっていたら、大変ですね。今頃、世の中に、嫁さんも姑さんも一人もいなくなっていますよ。思い通りにならないということも、大切なことなのです。

 私たちは、そこそこの歳になれば、誰でも、思い通りにならないことから学んで成長したという経験があるはずです。むしろ、思い通りになったことからは、なかなか学べませんね。とすれば、あるいは、思い通りにならないということで、成長が願われているのかもしれません。

 病気になってもイライラせずに、「せっかく病気になったのだから」と、腹一杯深呼吸してみる。そうすると、別の地平線が開けてくるかもしれません。病気から学んだ人は、病気を受け入れた人だけだといいます。

 前回にもご紹介いたしました、田中美津さんは、こう言っています。「不眠も、元気も、病気もみーんなマル。私に起きることはすべてマル。という『物語』を私はオシャカさまの膝の上で紡いでいるのさ」と。いいですね、私は好きですね、こういうのって。

   私が10年かけてお話ししてきたことを、一言で言ってしまわれたような言葉で、いささか面目ないのですが、この田中美津さんも、「腹式呼吸」の実践者です。

 胸を張って、「自分、自分」と、自分の思いにしがみついているあいだは、任せることも受け入れることもできません。そんな「自分」から自由になるために、まずは、「息の仕方」を変えてみることが必要ではないかと思いますね。

 さて、そろそろ店じまいにかかることにいたしますが、ここ数十年の間にも、日本は大きく変わってしまいましたね。物があふれるようになり、生活のテンポが速くなったことは、どなたもお感じになっていることと思いますが、私たちの気づかないうちに、私たち自身の体も、大きく変わってしまったのです。

 私たちの体は、その使い方も、姿勢も、呼吸の仕方も、昔とは大きく違っているのです。先にも申しましたように、江戸時代の人は、歩くときに手を振らなかった。振るときには、同じ側の手足を同時に出して、体を捻らなかった。いわゆる「ナンバ」ですね。

 まあ、戦後まもなくの時代劇を見ると、殿様の前で進退する家来は、袴に手を添えて、体を捻らず、膝で動いていましたから、まだその頃には、「ナンバ」のできる俳優さんがいたということですが、そういう動きができる俳優さんは、もういないでしょうね。

 膝で歩く「ナンバ」を「膝行、膝退」と言いますが、今の人は、膝で歩くどころか、膝を曲げて歩くのさえ格好が悪いと言います。脚がきれいというのは、膝が出ていないことだそうですが、明治の中頃までは、腹に力を入れて、尻を引き、膝を少し曲げて歩くのが普通でした。昔の人が、そういう姿勢で歩いていたのは、「腹式呼吸」をしていたからなのです。

 「腹式呼吸」は、体が安定し、心が安らかになる呼吸法です。「腹式呼吸」が深まると、体の重心も、こころの重心も、どっかりと下腹に据わるようになり、腹が出来てくる。そういう呼吸法を、「丹田呼吸」とも言いますが、仏教の伝統は、その「丹田呼吸」の上に受け継がれてきたのです。

 江戸時代の有名な禅僧、白隠禅師は、「仏性は丹田にあり」とおっしゃっています。いつもお話いたしますように、「仏性」とは「本当の自分」のこと、「いのちの真実」のことです。丹田は、「いのちの真実」とつながる場所なのです。

 体とこころの重心が重なり、「いのちの真実」とつながる場所、丹田は、まさに「身心一如」の実現される場所です。いわば丹田は、「いのちの重心」なのです。私たち仏教徒の修行というのは、体の中に、この「いのちの重心」を作ることなのです。

 「仏法の話は、聞いても聞いても腑に落ちない」と、よく言われますが、「腑に落ちる」というのは「腹に落ちる」ということですから、腹が出来ていないと、落ちる場所がないのです。体の中に、仏法の落ちる場所をつくる。腹をつくる。それが、仏教徒の修行です。その修行の中心にあるのが、「丹田呼吸」です。

 たとえば、座禅をするときの呼吸法も「丹田呼吸」です。また、お経を読んだり、『正信偈』をお勤めしたり、お念仏を称えるときの呼吸法も、基本的には、みな「丹田呼吸」です。

 昔の人は、「一腰折ったお念仏」と言いましたが、「一腰折った」というのは、ただ腰が曲がっているということではなく、鳩尾がへこんだ「丹田呼吸」の姿勢のことなのです。

 仏教は、学者のように、頭で理解することもできるでしょうけれど、そういう理解には、私たちの「生き方」を変えるほどの力はありません。乱暴なことを言うようですが、仏法は理屈で分からなくともよいのです。仏法というのは、聞法を重ね、お念仏を称える生活の中で、自然に腹に落ちるものなのです。

 聞法を重ね、お念仏を称える生活の中で、「息の仕方」も、自然に「丹田呼吸」になっていきます。「息の仕方」が変われば、「生き方」も変わるのです。

 腹の底で称えるお念仏が、腹をつくり、その腹に、仏法が落ちる。私たち門徒にとっては、お念仏とともにある日々の生活そのものが修行なのです。

 どうぞ、皆さん、「門徒は、何にもせんでええから、楽でええわ」などとおっしゃっていないで、日々の生活の中に、お念仏を取り戻して頂きますように。

 「念仏は、ただ称えるばかり」。これは法然上人の言葉です。ただ、ただ、お念仏すること。仏法が腹に落ちる道は、そこにしかないのですから。

 それにです。学者の研究によると、人が一生の間に呼吸する回数は、約5億回と決まっているのだそうですが、もしそうなら、呼吸のスピードが落ちれば、その分だけ長生きするということになります。お念仏を称えていると、呼吸がゆるやかになってきます。お念仏を称える生活には、ひょっとすると、健康で長生きするというオマケまでつくかもしれませんね。

 さて、本日は、これでお終いです。まとまりのない話に、長い時間、お付き合いくださいまして、有り難うございました。次回は、11月9日の「報恩講」でございます。ご縁がありましたら、どうぞ、お参りください。また、ご一緒に、聞法させて頂けるよう念じております。有り難うございました。



次の法話へ


紫雲寺HPへ