釋昇空法話集・第26話

親鸞の夢

「あるがままの自分」への道

(2003年11月9日 報恩講法話)
 本日は、お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。有り難うございます。だんだん寒くなってまいりましたね。寒くなってくると、今年も終わりが近づいてきた気分になりまして、どことなく気ぜわしない思いがいたしておりますが、皆さんは、いかがでしょうか。

 さて、本日は「報恩講」でございます。ご承知のように、この「報恩講」というのは、浄土真宗のご開祖でいらっしゃる親鸞聖人の祥月命日のお勤めです。

 親鸞聖人は、今から741年前の弘長2年(1262年)の11月28日に、90歳でお亡くなりになりました。11月28日というのは旧暦でのことですが、東本願寺では、その旧暦の日付のまま、毎年、11月21日から28日までの七昼夜にわたって、報恩講が勤まります。

 ご案内にも書かせて頂きましたように、報恩講は、浄土真宗のご開祖でいらっしゃる親鸞聖人のご遺徳を讃え、ご恩に感謝する法要でして、私たち真宗門徒にとりましては、一年のうちで最も大切な法要です。

 ですが、時代が変わったと申しますか、現代の門徒さんのなかには、親鸞聖人がどんな方だったのか、ご存じでない方も結構いらっしゃるように、お見受けいたします。そこで今回は、ご命日にちなみまして、少し、親鸞聖人の話を、させて頂こうと思います。

 今回の法話の題は、「親鸞の夢」です。ここでいう「夢」とは、「夢も希望もない」という場合の夢ではなくて、眠っている間に見る夢のことです。今回は、親鸞聖人がご覧になった「夢」を読み解きながら、聖人が29歳で浄土の教えに出会われるまでの心の推移を、お話ししようと思います。

 いつもとは、ちょっと勝手の違う話ですが、どうぞ、しばらくの間お付き合いくださいますよう、お願い申し上げておきます。

 さて、私たちは、人生の約三分の一を眠って過ごします。そして、眠っている間に、毎晩、5〜6回、夢を見ると考えられています。夢を見てから5分以上経つと、その内容を思い出せないといいますから、「夢など見なかった」という人は、おそらく、見たことを忘れているだけなのでしょうね。

 夢は何のために見るのかというと、それはまだ、よく分かっていないようですが、ただ、不思議なことに、夢を見ているあいだ、脳の活動は、目覚めているときには決して到達できないレベルにまで高まっているそうです。とすればです、何日も考え続けていた問題が、夢の中で解けたということがあるのも、不思議はないように思います。

 おそらく、身体が眠っているあいだに、脳は深い無意識の井戸から、夢見る人にとって大切な情報を汲み上げてくるのだと思いますが、そんな眠りが最も深まるのは、身体の新陳代謝が最も低下する真夜中過ぎの午前1時から4時のあいだです。

 親鸞聖人の人生を決定していく重要な夢も、この時間帯に集中しています。たとえば、19歳のときに磯長(しなが)の廟堂でご覧になった聖徳太子の夢、28歳のときに比叡山の大乗院でご覧になった如意輪観音の夢、29歳のときに六角堂でご覧になった救世観音の夢がそうです。

 それは、聖人にとって、生涯忘れられない夢でした。そのことは、親鸞聖人ご自身が、この三つの夢を書き残しておられることからも分かります。そこで、今回は、この三つの夢を中心に、お話ししてまいります。

 昔は、夢は非常に大切なものと考えられていて、人々は、夢に絶対の信頼を置いていました。僧侶にとっても、夢を見ることが、修行の重要な手段とみなされていて、夢を見るために、身を清めて、お堂に籠もりました。

 法隆寺の夢殿や、奈良の長谷寺、京都の清水寺や六角堂も、夢を授かるための聖地でした。平安時代の物語などには、「どこどこのお寺に参籠する」という表現がよくでてきますが、あれは、ただたんに、お寺にお参りしたということではなくて、夢のお告げを授けてもらうために、身を清めて、お堂に籠もったということなのです。

 夢を見るために籠もるといいましても、布団を敷いて、ぬくぬくと眠るわけではありません。仏様の前で、一晩中、お経を読み、お念仏を称えて過ごすのです。そうしているうちに、だんだん疲労の極に達して、我知らずうつらうつらと、眠っているとも起きているとも判然としない状態に陥っていきます。そういう意識と無意識の狭間のような状態で、夢を授かったのです。

 親鸞聖人の三つの夢も、そんなふうにして、お堂に籠もって授かった夢のお告げです。参籠して夢のお告げを乞うというのは、何か、よほど切迫した思いがあってのことですから、そこでご覧になった夢も、私たちが日々、自然発生的に見ております夢とは、かなり趣が違います。

 皆様のお手元にお配りしたプリントに、その夢の内容が記してございますので、それをご覧頂きながら、お聞きください。では、まずは、磯長の廟堂での夢です。

 親鸞聖人は、数え年9歳のときに出家され、比叡山で修行なさっていましたが、19歳のときに、大阪の河内にある磯長の廟堂に詣でて、参籠をなさいました。磯長の廟堂というのは、聖徳太子のお骨を納めた御廟でして、空海や日蓮など、多くの有名な僧侶が、ここに参籠なさったといわれています。

 親鸞聖人が、この廟堂に参籠なさったのは、建久二年(1191年)九月十二日から十五日までの三日三晩です。その三日目の十四日夜、丑時(午前1時〜3時頃)に、夢に聖徳太子が現れて、次のようにお告げになりました。

 「観音、勢至、阿弥陀仏の「三尊」は、無数の世界を教化しています。そのなかで、この日本は、大乗の教えに相応しい場所です。私の教えをよく聴きなさい。あなたの命はあと十年余りです。寿命が尽きれば、すみやかに清らかな仏国土に入るでしょう。ひたすら真(まこと)の菩薩を、よく信じなさい」と。

 聖徳太子は救世観音の化身と考えられておりましたから、これは観音菩薩からのお告げです。ここで、観音様は、親鸞聖人に、三つのことをお告げになっておられます。

 一つには、「観音、勢至、阿弥陀仏の三尊が、あなたを護り、寿命が尽きれば浄土に迎え入れる」ということ。二つには、「あなたの命はあと十年余り」ということ、そして三つには、「真(まこと)の菩薩を信じなさい」ということです。

 夢というのは、意識と無意識とが混じり合ったものだと思います。「観音、勢至、阿弥陀仏が、自分を護ってくださっていて、臨終のさいには浄土に迎え入れてくださる」というのは、親鸞聖人が、浄土教典から学ばれたことです。この夢でいえば、これが意識の内容でしょう。

 ところが、まだ、その教えに確信が得られなかった。確信が得られていたら、おそらく、「あなたの命はあと十年余り」というお告げはなかったでしょうね。「あなたの命はあと十年余り」というのは、意識と無意識の狭間にある「あせり」が現れたものだと思います。

 以前にもお話いたしましたが、『三帰依文』にこういう言葉があります。「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」。

 これはです、「人間に生まれてくるのは難しいことなのに、いますでに人間としての生を授かっている。人間に生まれてきても、仏法を聞くというご縁に出会えることは、これまた非常に難しいことなのに、いますでに仏法を聞くご縁に出会っている。これほど得難い境遇に生まれついたのだから、今生で彼岸に至ることができなかったら、もう二度とこんなチャンスには恵まれないかもしれない」という意味ですね。

 命のある間に、何とか悟りたい。親鸞聖人だけでなく、真剣に仏道修行に打ち込んでいる人には、みな、こういう思いがあるに違いありません。ですから、修行しても修行しても、すっきりと開けてくるものがないとなると、おのずと「あせり」が生じてきます。なにしろ、永遠に生きているわけではない。タイムリミットがあるのです。

 では、出家修行者たちは、どういう境地を目指していたのかと申しますと、それは、有名な『七仏通戒偈』という教えに示されています。それは、こういうものです。「もろもろの悪をなさず、すべての善を行い、自らの心を浄くする。これが諸仏の教えである」。簡単な教えですけれど、これほど難しいこともないでしょうね。

 悪をなすのは、煩悩があるためです。煩悩というのは、いつも申しますように、他の誰よりも我が身が可愛いというこころの働きのことですね。出家修行者たちは、この煩悩を捨て去ることを目指していたわけです。

 ところが、親鸞聖人は、ご自身の心を見つめ続けて、とうてい煩悩を捨て去ることができない自分に気づかれたのです。後に、親鸞聖人は、ご自分のことを、こうおっしゃっています。「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と。

 「煩悩の犬、追えども去らず」。「自らの心を浄くする」ことなど、それこそ夢のまた夢です。親鸞聖人は、そんなご自分のことを、とても悟ることなどできない罪深い人間だと、思い詰められた。となると、どうすればよいのか。

 そういう大きな悩みをもって、親鸞聖人は、磯長の廟堂に参籠なさったのでしょう。そこで観音様から授かったお告げが、「ひたすら真の菩薩を、よく信じなさい」だったわけです。これが、おそらく、親鸞聖人の無意識の内容だったと思います。

 親鸞聖人は、無意識のうちで、自分を悟りに導いてくれる「真の菩薩」を求めておられた。「真の菩薩」とは、言葉を換えて言えば、「善知識」のことです。「善知識」というのは、仏教の正しい道理を教え、悟りに導いてくれる指導者のことです。おそらく、法然上人との出会いは、このあたりから準備されていたのだと思います。

 その後、親鸞聖人は、比叡山に戻り、修行を続けられるのですが、「真の菩薩」との出会いはなかなか訪れませんでした。

 さて、磯長の廟堂で夢のお告げを受けられてから七年たって、26歳になられた年(建久九年、西暦1198年)の正月のこと。親鸞聖人は、新年の儀式を終えて、京都の町から比叡山に帰る途中、赤山明神(せきざんみょうじん)に立ち寄られました。

 赤山明神は、修学院離宮のそばにありますが、ここは、もともと延暦寺の別院、修学院のあった場所です。この修学院から比叡山に登る道は、雲母坂(きららざか)と呼ばれていて、昔は、京都と比叡山の往来には、もっぱらこの道が使われていました。

 親鸞聖人は、そこで白昼夢を見るような体験をなさっています。読経していると、気品のある女性が現れて、「自分も比叡山に参詣したいから、一緒に連れて行ってほしい」と言ったのです。

 そこで、親鸞聖人は、こうお応えになった。「女性は御山に登れません。法華経にも、女性は汚れており、仏法の器でないと説かれています。それゆえに、伝教大師(最澄)も、女人禁制の山とされたのです」と。

 すると、その女性は、「なんという情けないことをおっしゃるのか。伝教大師は優れたお方と聞いているのに、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)という経文をご覧になったことがないのでしょうか。御山には、雌の鳥や獣もおりますでしょうに、一切衆生から女人だけを除いて、悉有仏性の教えが成り立つものでしょうか」と言うと、フッと姿を消した。

 こういう内容です。伝説では、この女性は、如意輪観音だったといわれています。「一切衆生悉有仏性」というのは、『涅槃経』に出てくる言葉でして、「生きとし生けるものには、みな仏になる可能性が備わっている」という意味です。ただ、この白日夢のテーマは女性救済の問題だと言われておりますが、それはどうかと思いますね。

 そこで問題になっているのは、女性の救済よりも、むしろ親鸞聖人ご自身の救済だと思います。御山では、一切衆生悉有仏性の教えが説かれているのに、自分は一向に悟れない。御山の仏教では救われないという無意識のなかでの気づきが、この白日夢となったのではないでしょうか。汚れた女性、仏法の器でない女性というのは、そんな親鸞聖人ご自身の投影ではないかと思います。

 「真の菩薩」には、比叡山では出会えない。懸命に修行を続けながらも、そういう思いがだんだん強まってくる。その一方で、19歳のときに磯長の廟堂で授かった「あなたの命はあと十年余り」という期日が、容赦なく近づいてくる。親鸞聖人の心中は、ますます切迫してまいります。

 そして、とうとう、その期限も残すところあとひと月足らずとなった、28歳の年(正治二年、西暦1200年)の十二月七日。親鸞聖人は、比叡山無動寺の大乗院に、最後の願いを込めて、二十一日間の参籠に入られました。

 参籠の最終日は、大晦日の二十九日です。年が明ければ、十年の期限が切れる。「十年余り」というお告げの「余り」というのは、「一日」でも「余り」ですから、年が明ければ、もういつ命が尽きるか分からない。親鸞聖人の心には、張り詰めた切迫感があったに違いありません。

 その甲斐あって、参籠最終日の十二月二十九日、四更(午前1時〜3時頃)に、夢に如意輪観音が現れて、こう、お告げになりました。

 「めでたい、めでたい、あなたの願いは、ほどなく満たされるでしょう。めでたい、めでたい、私の願いもまた、満たされます」。

 このお告げは、「あなたの待ち望んでいた善知識に、ほどなく出会えますよ。それで、あなたを救いたいという、私の願いも満たされます」という意味でしょう。

 これをみると、親鸞聖人は、それ以前に、法然上人の噂をお聞きになっていたのではないかと思いますね。法然上人は、親鸞聖人より40歳も年上です。法然上人が、比叡山を下って、東山の吉水に草庵を結び、あらゆる階層の人々に浄土念仏の教えを説き始められたのは、親鸞聖人が3歳のときです。

 親鸞聖人は、きっと、法然上人と浄土念仏の噂を耳にしておられたに違いないのです。そこで、「あの人ではないか」という無意識のなかでの気づきが、こういう夢となって現れた。そんな気がしますね。

 ただ、このお告げには、具体的な内容が何もありません。つまりは、乞い願っていたお告げは授かったものの、どうすればよいのか分からない。もっとはっきりしたお告げがほしい。どこなら、そんなお告げを賜ることができるだろう。

 焦る心を静めて、よくよく考えてみると、最初にお告げを賜った聖地は、聖徳太子の磯長の廟堂だった。聖徳太子は、救世観音の化身であり、あの時以来、自分は観音様のお告げに導かれてきた。自分を導いてくださっているのは、聖徳太子と観音菩薩だ。

 さて、この近くに、聖徳太子にゆかりの、観音様をおまつりしている聖地があっただろうかと、思案をこらしているうちに、ハッと心に浮かんだのが、京の都の六角堂でした。

 六角堂は、聖徳太子の創建なさったお寺で、ご本尊は如意輪観音です。当時の歌謡を集めた『梁塵秘抄』にも、身近な観音霊場として、「観音験(しるし)を見する寺、清水・石山・長谷の御山、粉河(こかわ)・近江なる彦根山、間近く見ゆるは六角堂」とよまれておりますけれど、このうち、聖徳太子にゆかりの聖地は、六角堂だけです。

 親鸞聖人は、その日のうちに、雲母坂(きららざか)を駆け下り、百日を期限として、六角堂に籠もられます。お護りくださっている聖徳太子と観音菩薩のお膝元ですから、ここで空しく命が尽きるということは、よもやあるまいとしても、百日というのは、命懸けの参籠です。

 お告げを得られないまま、日はどんどん過ぎていきましたが、参籠なさって九十五日目の、建仁元年(1201年)四月五日夜、寅時(午前3時〜5時頃)、ついに、救世観音が夢に現れて、こうお告げになりました。

 「仏道の修行者が、前世からの宿業によって、もしも結婚妻帯の道を行くしかないのなら、わたしが美しい女性の姿となって、妻となり、一生のあいだ連れ添って、臨終のときには極楽に導いてあげましょう」と。

 さらに救世菩薩は、「これは、わたしの誓願です。これを、すべての人々に説いて聞かせなさい」とおっしゃった。そこで、親鸞聖人は、この観音様の誓願を、数千万の人々に説いて聞かせようと決意なさったところで、夢から覚めた。

 こういうお告げですが、これには、昔から様々な解釈がなされてきました。そのひとつは、親鸞聖人は、激しい性欲に悩んでいたから、こういう夢を見たのだという説です。もちろん、若い親鸞聖人に性欲が無かったとは思いませんけれど、それが、このお告げの意味だという考え方には、賛成できません。それには、いくつか理由があります。

 ひとつには、当時は、僧侶の妻帯はあたりまえのことでして、結婚するかどうかで悩む必要などなかったからです。実際、比叡山麓の坂本には、僧侶の家族の住む家が、何百軒も軒を連ねて建っていたといいます。

 また、当時、比叡山には、澄憲という、天台宗を代表するような、優秀な学僧がおられました。澄憲は、とくに説法の達人で、安居院(あぐい)流という、説法の流派を起こした人ですが、この安居院流は、代々、実子が継ぐ決まりでした。つまり、世襲制の家元みたいなものですが、そういうことは、当時、珍しいことではなかったのです。

 ちなみに、北大路から大宮通りを少し下がったところに「安居院(あぐい)」という地名があります。あのあたりに、澄憲の創った「安居院」というお寺がありました。「安居院流」という流派の名前は、そこから付いたものです。

 僧侶の妻帯を厳しく禁止するようになったのは、江戸時代になってからです。親鸞聖人のころは、僧侶の妻帯は日常化していて、朝廷でも問題にすることはありませんでした。というのも、当時の土御門天皇のお母さんが、比叡山の僧侶、能円法印の娘だったぐらいですから、問題になるはずがないのです。

 それにです、もし六角堂でのお告げが、「結婚してもいいよ」というお告げだったとしたら、そのあとで観音様が、「これを、すべての人々に説いて聞かせなさい」とおっしゃったのは、どう解釈すればよいのでしょうか。

 この話がでるたびに思うのですが、果たして、結婚していないということが、それほど評価されることなのでしょうかね。たとえば、私には、尊敬している人が何人かおられます。たいていは結婚しておられますが、なかには独身の方もおられます。ですが、私は、その方が独身だからという理由で尊敬しているわけではありません。人として立派だということは、結婚しているかどうかということとは関係がないと思いますね。

 まあ、それはともかく、親鸞聖人は、このお告げを受けられると、夜の明けるのを待って、すぐに、吉水の法然上人のもとに走られました。女性のもとにではなく、法然上人のもとに走られたのです。何度も言うようですが、夢のお告げの意味は、結婚の許可ではなかったのです。

 親鸞聖人の時代でも、僧侶の結婚妻帯は、「隠すは聖人(しょうにん)、せぬは仏」とからかわれたように、決して褒められることではありませんでした。仏教の戒律からいえば、出家修行者が結婚妻帯することは、やはり、罪悪です。

 ですが、仏教の戒律からいえば、なにも結婚妻帯だけが罪ではありません。生き物を殺すこと、殺生も大きな罪です。ところが、漁業であれ、農業であれ、生きるための労働には、必ず、殺生がつきまといます。大多数の人々は、殺生の罪を犯さずには生きられないのです。つまりは、救われないということです。

 そのことを踏まえて、「結婚妻帯」を「殺生」と読み替えたら、観音様のお告げは、こうなります。「もしも、前世からの宿業によって、あなたが、どうしても殺生を犯さねばならないのなら、わたしが、あなたのために殺されて、臨終のときには極楽に導いてあげましょう」と。

 つまりは、夢に現れた観音様は、親鸞聖人だけでなく、「前世からの宿業によって」罪を犯すしかない全ての人々を、必ず救うと誓われていたのです。

 「前世からの宿業」というのは、「生まれてくる前から決まっていたこと」という意味ですから、本人の意志では、どうしようもないことです。

 私たちは、何でも自分の意志で決定できるように思っておりますけれど、本当は、そうではありませんね。正しいと分かっていても、できないこともあれば、悪いとわかっていても、やってしまうこともあります。

 たとえば、職場の配置転換があって、製造部門の現場に回されたら、そこではミサイルや爆弾や対人地雷を製造していた。こんなものを造るのは正しくない、こんな仕事は辞めたいと思っても、家族があり、住宅ローンが残っていて、就職難の時代にいたら、まず、辞められませんでしょう。

 また、子供と二人で台所にいるとき、突然、得体の知れない男が押し入ってきて、子供に危害を加えようとした。そのとき、たまたま、包丁を手にしていたとしたら、あなたは、とっさに、その男を刺してしまうかもしれません。そんなことは絶対無いとは言い切れないと思うのですが、いかがですか。

 もしも私たちが、悪を犯していないとすれば、それは、「心が浄い」からではないのです。とりあえず、悪を犯すような状況に置かれていないというだけなのです。これから、どういう状況に直面するか分からない。死ぬまでに、悪を犯さないという保証は、何もないのです。

 つまりは、悪を犯した人と、犯していない人とでは、心のレベルでは差がないということです。世間では、よく、「美人、不美人、皮一枚の差」と言いますけれど、善人と悪人の違いも、その程度です。とすればです、悪を犯した人が救われる道がなければ、誰も救われないということになります。

 親鸞聖人の夢に現れた観音様は、悪を犯した人を救うと誓われた。それは、とりもなおさず、一切衆生を無条件で救うという誓いだったのです。だからこそ、観音様は、親鸞聖人に、「この、わたしの誓願を、すべての人々に説いて聞かせなさい」とおっしゃったのですね。

 そのお告げをお聞きになった聖人の心に、とっさにひらめいたものがありました。観音様は悪人を救うとお誓いになったが、たしか、そういう教えは、噂に聞いていた法然上人が説いておられたのではなかったかと。それで、聖人は、夜が明け始めるとすぐに、吉水の法然上人のもとに走られたのです。

 法然上人は、善人も悪人も分け隔てなく救われる道を、ひとすじにお説きになりました。それは、お念仏を称えるだけで浄土に迎え入れるという、阿弥陀如来の本願の教えでした。親鸞聖人は、雨の日も風の日も、教えを確かめ納得できるまで、百日の間、法然上人のもとに通い詰め、ついには、法然上人のお弟子となられたのです。

 親鸞聖人は、『教行信証』のなかで、そのときのことを、こうおっしゃっています。「愚禿釈の親鸞、建仁辛の鳥(かのとのとり)の暦(建仁元年、1201年)、雑行を棄てて本願に帰す」と。

 また、『歎異抄』のなかでは、こうおっしゃっています。「たとえ、法然上人の言葉が偽りであって、念仏を称えることで地獄に堕ちたとしても、まったく後悔することはありません」と。

 さて、これで、親鸞聖人の「夢」の話は、一段落です。勉強会のような話で、退屈なさったかもしれませんが、親鸞聖人の三つの夢には、ひとつの流れがあって、たがいにつながっていることは、お分かりいただけたのではないかと思います。

 夢は、意識と無意識の混じり合ったものですが、その意識と無意識は、無関係ではありません。意識が深まれば、無意識も深まるのです。意識の釣瓶(つるべ)が深くなるほど、無意識の井戸の奥深くまで届くようになるのです。

 私たち現代人は、夢のお告げなどまともに取り上げませんけれど、いつもお話いたしますように、無意識の奥底にあるのは「本当の自分」、つまりは「仏様」です。ですから、浅い無意識から生まれてくる思いは、ただの妄想かもしれませんが、深い無意識の奥底から送られてくるメッセージは、仏様のお告げだと思いますね。

 親鸞聖人の意識は、悟りを求める方向に、一途に深まっていき、その意識の深まりに呼応した、三つの夢をご覧になった。そして、その夢のお告げに導かれて、聖人は、浄土の教えに出会われたのです。

 私たちは、決して「心が浄い」わけではありませんから、つきつめて考えれば、みな悪人です。ですが、そんな私たちを、無条件で受け入れてくれる世界がある。そのことを説いているのが、浄土の教えです。親鸞聖人は、法然上人のもとで、この浄土の教えに出会われて、救われたのです。

 「無条件で受け入れてくれる世界がある」という教えに出会うことは、私たちの人生にとっても、何よりも大切なことです。というのは、私たちは、「あるがままの自分」を受け入れてくれるものとの出会いを通じて、初めて、「あるがままの自分」を受け入れることができるようになるからです。

 おそらく、親鸞聖人は、「あるがままの自分」を受け入れられなくて、苦しんでおられたのだと思います。それは、もう少し詳しく申しますと、こういうことです。

 伝説によりますと、親鸞聖人は、四歳のときに父親を亡くし、8歳のときに母親をなくされた。そこで、9歳のときに、両親の菩提を弔い、悟りを得て衆生を済度したいと、自ら願われて出家された、ということになっております。

 ですが、歴史的にいうと、かなり事情が違います。母親は、8歳頃に亡くなられたようですが、父親は、親鸞聖人が30歳のころまで生きておられた。また、伝説では、親鸞聖人には弟が一人おられたことになっていますが、本当は、4人の弟がいて、兄弟5人全員が出家させられています。

 子供を全員出家させてしまうというのは、よほどの事情があったのでしょう。親鸞聖人は、宗教的天才だったと思いますけれど、数え年9歳の子供のときに、「悟りを得て衆生を済度したい」と願われたとは、どうも考えにくい。おそらく、自発的に出家なさったわけではないのでしょうね。

 親鸞聖人は、子供の頃のことを一切お話になりませんでしたので、そのあたりの事情は分かりませんが、ただ、聖人が晩年におつくりになった和讃に、こういうものがあります。

 「救世観音大菩薩、聖徳皇(しょうとくおう)と示現して、多多(たた)のごとくすてずして、阿摩(あま)のごとくにそいたまう」(『皇太子聖徳奉讃』)。

 「多多」というのは父親のことで、「阿摩」というのは母親のことです。この和讃は、「慈悲の菩薩である救世観音菩薩は、聖徳太子の姿となって現れ、父親のように見捨てず、母親のようにそばにいてくださる」という意味です。

 父親の慈悲は、見捨てないこと。母親の慈悲は、そばにいてくれること。幼くして、母に死なれ、父に出家させられた聖人は、あるいは、母にはそばにいてもらえず、父には見捨てられたという、寂しい思いがあったのかもしれません。

 そのことと思い合わせると、「親鸞は、父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」という『歎異抄』の言葉も、何か気になるところですね。

 当時の比叡山は、政治の世界で立身出世が難しいと思った貴族の子弟が、学問の世界で一旗揚げようとして入る、国立の総合大学のようなものでした。そこでは世俗の家柄が大きくものを言いましたから、後ろ盾もなく、さほど高貴の家柄でもない聖人には、そういう世界で成功するチャンスは、ほとんどなかったと思います。

 そんな聖人には、修行に励み、悟りを得て、苦しみの世界を離れる道しか残されていなかった。しかし、懸命に修行に励んでも、煩悩を断ち切ることは、どうしてもできない。「もろもろの悪をなさず、すべての善を行い、みずからの心を浄くする」。この諸仏の教えに従えなかったら、悟りを得ることはできないとすれば、もう道はない。

 親から見捨てられ、比叡山の立身出世システムから除外され、いままた、悟りへの道さえも閉ざされてしまった。聖人の悩みは深かったと思います。

 言葉を換えて言えば、聖人は、子供を見捨てねばならない親の立場を受け入れ、比叡山の立身出世システムを受け入れ、煩悩を断ち切れという諸仏の教えを受け入れたために、その親や比叡山や諸仏の教えから、ことごとく否定された「自分」を受け入れることができなかった。聖人が悩み苦しまれた理由は、本当は、そのあたりにあったのではないかと思います。

 それは何も、親鸞聖人だけの問題ではありませんね。私たちでも同じです。たとえば、「勉強の出来る子供は良い子だ」という社会の価値観を受け入れたら、「勉強が出来ない自分はダメな奴だ」ということになるでしょう。私たちは、社会の価値観を受け入れながら育つために、「あるがままの自分」を受け入れることができなくなっていくのです。

 「あるがままの自分を受け入れる」ということは、最近よく言われるようになりましたが、それは、言うほど簡単なことではありません。というのも、さきほども申しましたように、「あるがままの自分を」受け入れられるようになるには、まずは、「あるがままの自分」を、まるごと受け入れてくれる人と出会うことが必要だからです。そういう出会いの縁は、なかなかありませんが、以前、こういう話を聞いたことがあります。

 私の友人に、高校時代、暴走族をやっていた人がおられましてね、その友人から聞いた話です。高校時代、週末の夜になると、特攻服に鉢巻をしめて、「おかん、いってくるど!」と声をかける。すると、お母さんは、「おお、行ってこいや!」と手を振って送り出してくれたというのです。

 その人はね、「泣いて止める親もいるのに、うちの親は、なんかおかしいのとちがうか」と思っていたそうですが、今はね、「暴走族をやめて、自分に戻れたのは、あの母親のお陰ですよ」とおっしゃっています。この人も立派ですが、お母さんも、たいしたものだと思いますね。

 私たちは、なかなか、こうはいきません。私たちは、たいてい、社会の価値観にどっぷり浸かって、「今のお前ではダメだ」と言い続ける人たちに囲まれて育ちます。つまりは、「あるがままの自分」を、否定され続けて、社会人に成っていくわけです。そんなふうにして大人になった私たちが、「あるがままの自分を受け入れる」ことなど、簡単に出来るわけがないのです。

 親鸞聖人も、おそらく、そうだったのではないかと思います。ですが、法然上人と出会い、無条件で救われるという浄土の教えに触れて、ようやく、「あるがままの自分」を受け入れられるようになられたのです。

 「あるがままの自分」を受け入れられるようになるということは、「あらゆる問題をかかえたままの自分」を受け入れることができるようになるということです。それは、私は私のままで生きていけるということ、私は私のままで死んでいけるということです。

 これほど安らかな境地はないでしょう。そんなふうに、自分が自分を受け入れることが出来るようになること、それが、浄土の教えの意味なのです。私たちは今、そういう得難い教えに出会っているのですね。

 さて、本日は、親鸞聖人の夢を中心にお話ししているわけですが、実は、私にも、忘れられない夢が三つあります。といっても、別に、参籠して賜った夢ではありません。布団のなかでぬくぬくと寝ているあいだに見た夢でして、親鸞聖人の夢のような高尚な内容ではありませんけれど、テーマが似ていますので、少しお話しさせて頂こうと思います。

 まず、ひとつめは、何とも苦しい夢です。人を殺して、どこかに埋めて、それが見つかるのではないかと、不安で仕方がないという夢です。10代の中頃から20代の中頃にかけて、ほとんど同じ夢を、何度も何度も、繰り返し見ました。

 あんまり何度も見るものですから、それが夢なのか現実なのか、だんだん自信がなくなってくるのですね。いやな出来事は記憶から消えてしまうことがあるといいますから、これはきっと、誰かを殺して、思い出せなくなっているにちがいない。

 しかし、いったい誰を殺したんだろう、どこに埋めたんだろうと、目が覚めてからも、しばらく考えているのですが、どうしても思い出せない。そうすると、今度は、誰かが先にみつけたらどうしようと、ますます不安になってくる。そういうことが、何度もありました。

 ほとんど、精神的にまいりかけていたのですが、20代の中頃になって、ようやく、この夢の意味が分かってきました。探しても、探しても、死体が見つからないはずです。というのは、殺されて埋められていたのは、「あるがままの自分」だったからです。

 小さい頃から、大人の価値観を受け入れて、ひたすら大人しい良い子を演じていた私の心のなかには、大人の価値観から言えば、何ともお粗末な「あるがままの自分」がいました。そんなお粗末な自分を、人に知られるのが怖くて、私は、「あるがままの自分」を、荒れ果てた心の中の廃墟に埋めてしまっていたのです。

 お粗末な「あるがままの自分」を知られたくないという不安が、人を殺したことが見つかるのではないかという恐れとなって、夢のなかに現れた。10代の中頃には、良い子を演じることに疲れ果てておりましたから、たびたび、そういう夢を見たのでしょうね。

 今から思えば、「あるがままの自分」は、お粗末でも何でもありません。ただ、「あるがままの自分」だというだけです。そう思えるようになってきたのは、「あるがままの自分」を無条件で受け入れてくれる、浄土の教えと出会えたからだと思っています。

 では、二つ目の夢です。仏教を学び始めて10年ほどたった、30代の中頃に、こんな夢を見ました。たった一度見ただけですが、忘れられない衝撃的な夢でした。

 それは、霧の立ちこめた、静かな森のような場所でした。5メートルほどの高さの白い石の壁が、左側に、ずっと続いていて、その壁に沿って、淡い緑色の水をたたえた3メートルくらいの幅の堀がありました。その堀に沿って、これも3メートルくらいの幅の、白い石を隙間なく敷き詰めた、廊下のような道がありました。

 その石畳の廊下を、白い中世の騎士のような衣装をまとった私が、白い馬に乗って、ゆっくりと進んでいきます。その馬の上から、ふと堀を見下ろすと、堀の水面の下には、裸の子供の死体が、びっしりと詰まっていました。

 堀を横目に見ながら、さらに何歩か馬を進めると、霧に包まれた石の廊下の突き当たりに、白い石の壁が見え、その壁には、アーチ型をした頑丈な木製の扉がありました。扉は閉まっていました。そのことに気づいたところで、目が覚めました。

 この夢の意味が、自分なりに理解できたのは、ごく最近のことです。「白い馬」というのは、無意識の奥底で私を支えてくださっている、仏様のことだと思います。堀を埋めていた無数の「裸の子供の死体」というのは、大人の価値観によって子供の頃に殺された、無数の私自身のことでしょう。

 仏法に支えられることで、私は、子供時代のことを、かなり冷静に見つめることができるようになってきた。ですが、まだ完全にそうなれたわけではない。白い霧が立ちこめていて、全体が見えなかったのは、そういう意味ではないでしょうか。

 また、石畳の突き当たりにあった扉が閉じられていたのは、道は更に続いているけれど、まだそこに進める段階にはきていないということだと思いました。中世の騎士のような衣装をまとっていたのは、「あるがままの自分」になっていくということが、ひとつの戦いであることを象徴していたのかもしれません。

 そして、次には、三つ目の夢です。たしか、40代の中頃だったと思いますが、同じ夢を、三日続けて見たことがあります。それは、こんな夢でした。

 白い光に包まれて、誰かの話を聞いている。それは、「いのちの真実」が解き明かされる話でした。「ああ、そうだったのか!」と、何もかも納得できた。と思ったとたんに、目が覚めました。ところが、夢の内容を思い出そうとしても、どうしても思い出せないのです。

 そのときは、残念で仕方がありませんでしたが、そのうちに、それでいいのだと思うようになりました。あれは、夢から醒めた夢だったのです。「現実」という名の夢にまどろんでいる私には、持って帰ることのできない夢だったのです。ですが、扉の向こうには、真実の光が満ちていた。その光に触れただけで、十分なような気がしました。

 これで、私の夢の話も、お終いです。浄土の教えに受け入れられて、ようやく、「あるがままの自分」を受け入れられるようになってきた。その心の推移を、無意識は、私の意識より、よく知っていて、こんな夢となって教えてくれたのだと思います。

 夢の話ばかり続きましたので、眠くなってしまわれたかもしれませんが、もう少しで、終わりますからね。

 さて、「あるがままの自分」という言葉をキーワードにして、ここまでお話してまいりましたが、「あるがまま」というのは、持って生まれてきた、その人の意志では変えられない「いのち」の在り方のことです。観音様のお告げの言葉で言えば、「前世からの宿業」です。それを、法然上人は、「生まれつきのまま」と、おっしゃって、こんなふうに説いておられます。

 「念仏の教えは、ただ生まれつきのまま、念仏を称えればよいという教えです。頭が良くても悪くても、宗教心があってもなくても、豊かでも貧しくても、慈悲があってもなくても、欲が深くても、腹が黒くても、阿弥陀様の不思議な本願の力によって、念仏を称えさえしたら、どんな人でもみな浄土に往生するのです」と。

 また、法然上人には、こんな話が伝わっています。あるとき、一人の女性がやってきて、「わたしは遊女ですが、こんな汚れたわたしでも、お念仏で救われるでしょうか」とたずねた。すると、法然上人は、こうおっしゃった。「誰でも、お念仏で救われます。できることなら、遊女を辞めなさい。しかし、辞められないというのなら、遊女のままで、お念仏を称えなさい」と。

 人には、悪いと思っても、辞められないこともあるのです。辞められないなら、辞められないままで、お念仏を称えなさい。阿弥陀様は、必ず浄土に迎え入れてくださいますよ。

 そういう教えをお聞きになって、親鸞聖人は、これこそ、観音様がお示しになった、私の救われる教え、一切衆生の無条件に救われる教えだと、感激なさって、「本日ただいまより、自力の修行を全て棄てて、阿弥陀様の本願の力におすがりいたします」と、決意なさった。

 そして、「この教えを、すべての人々に説いて聞かせなさい」という、観音様のお告げを、ご自身の一生の使命と受け取られたのです。私たちが、浄土念仏の教えに出会えたのも、そのお陰ですね。

 「あるがままの自分」というのは、お念仏を称える生活の中で、ようやく分かってくる、自分の姿のことです。お念仏のない生活には、気ままな自分しかいません。私たちは、お念仏の光に照らされて、はじめて、「あるがままの自分」が見えてくるのです。「あるがままの自分」を、心安らかに生きていくために、どうぞ、皆さん、お念仏を称える生活をなさってくださいね。

 何年か前の世界宗教者会議で、「宗教は、心に咲く一輪の花です」とおっしゃった方がおられました。親鸞聖人の心に咲いた一輪の花が、今、私たちの心の中にも咲いている。この一輪の花を、枯らさないように、大切に育てていくこと。それが、私たちにできる、ただひとつのご恩返しです。そして、その思いを新たにするご縁が、この報恩講なのです。

 年に一度の報恩講に、あと何回会えるでしょうか。私たちの一生は、たかだか数十年です。あるいは、私たちが「現実」と呼んで絶対視している世界も、また夢なのかもしれません。ですが、これが夢であろうとなかろうと、何も心配しなくてよい、お念仏とともに「あるがままの自分」を生きなさいというのが、浄土の教えなのですね。

 私は、この寺の住職ですが、「住職」というのは、「(寺に)住んでいるのが仕事」という意味だと思っています。「住んでいるのが仕事」というのは、「いちど、ご院さんと話がしたい」という方がお越しになったときに、いつでも寺にいるということです。

 私は、結婚もしておりますし、子供もあります。つまりは、皆さんと同じような生活をしております。だからこそ、お互いに話し合えることもあると思うのです。まあ、時には外出することもありますので、前もってご連絡頂けたらと思いますが、そんなお気持ちになられたときには、どうぞ、ご遠慮なくお立ち寄りください。

 さて、これで本日の話は終わりです。いささか退屈な話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご縁がありましたら、ご一緒に聞法させて頂きたいと、念じております。本日は、お忙しいところを、お運びくださいまして、有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ…。



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