釋昇空法話集・第27話

「知足」によせて

「今」に帰る、「吾」に帰る

(2004年3月20日 彼岸会法話)
 ようこそお参りくださいました。ありがとうございます。暖かくなりましたね。ぼつぼつ桜も咲き始めるようでして、いよいよ春ですね。

 思えば、日本は恵まれた国です。なによりも、四季の移り変わりがはっきりしている。季節の移り変わりのなかに、人生を考えることができ、「諸行無常」の教えが、身をもって味わえるようになっている。こんなに恵まれた国も少ないと思いますが、環境が良ければ人が育つかといえば、必ずしもそうではないところが、難儀なところですね。

 昨年の秋に、東山の法然院に紅葉を見に行きまして、たまたま、ご住職のお話をうかがいました。「みなさんは観光に来られたのでしょうけれど、観光というのは、光を観るという意味です。ああ綺麗、綺麗でお帰りにならず、どうぞ光を観ていってください」とおっしゃった言葉が、非常に心に残りました。

 庭に戻ると、大学生くらいの若いお嬢さんたちが、「ああ、綺麗な紅葉! ここで写真を撮ろう。いい想い出になるわ!」とおっしゃった。どうでしょうね。「今」は、将来どこかで想い出すためにあるのでしょうか。光を観るというのは、「今、ここ」にある紅葉とともに、「今、ここ」にいるということではないでしょうかね。

 しかし、まあ、そんなことを考えていたということは、私も、やっぱり、「今、ここ」にはいなかったわけで、困ったことです。「今、ここ」にいるというのは、なかなか、難しいことですね。

 今日は、「知足によせて」という題でお話させて頂こうと思いますが、この「知足」というのは、「今、ここ」にいる心の状態をさす言葉なのです。とりたてて目新しいことをお話ししようというわけではありませんが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、このあいだ、天神様に行ってきました。別に、お願い事があって行ったわけではありません。梅を見に行ったのですが、受験のシーズンでもありまして、合格祈願の絵馬が鈴生りになっていました。

 これまで、合格する自信があって受けた試験など、ひとつもありませんでしたから、身につまされる思いがいたしましたが、考えてしまいましたね。

 神様に頼ってでも合格しようというのは、合格すれば幸せになれるという確信があるということでしょうけれど、考えてみれば、本当は、試験に受かったからといって、幸福が保証されるわけでも何でもありませんね。

 合格したがために、遊び回ってダメになるかもしれませんし、通学途中に交通事故にあって死ぬかもしれません。また、一流企業に就職して、とんとん拍子に出世したとしても、不祥事の責任をとらされて首にならないとも限りません。

 反対に、試験に落ちたからといって、不幸になるとは限りませんね。一年遅れたお陰で、良い友達に出逢えるかもしれませんし、不合格の経験を生かして、真面目に勉強するようになるかもしれません。また、挫折を知ったお陰で、謙虚になり、人に好かれる大人になるかもしれません。

 人生には、良かれと思ったことが裏目に出ることもあれば、その反対になることもある。「人間万事塞翁が馬」という言葉もありますように、何が幸せの種か、不幸せの種かは、私たちには分からないのです。

 ところが、私たちはたいてい、何が幸せの種か「分かっている」つもりになっておりますから、難儀です。たとえば、お金が、そうではないですか。

 「金がないのは、首がないのと同じ」と言う人もあれば、「人間の幸せなど、99.9パーセントまでお金で買える」と言う人もいる。「金がかたきの世の中で、それでもおまえに会いたいの」。これは、上々颱風の歌に出てくる言葉ですが、なかなかうまいことを言いますね。

 たしかに、現代社会では、お金がないと生活できませんし、また、私たちの日常的な感覚から言えば、お金で買える幸せというのも、結構あるように思えます。とくに資本主義社会ではそうですね。

 資本主義社会は、人がお金を使ってくれることで成り立っています。あれが欲しい、これが欲しいという人がいないと、資本主義社会は成り立ちません。ですから、「こんなに素晴らしいものがあります、これを持てば幸せになれます、持っていないあなたは不幸です」と、コマーシャルは言い続けるわけです。

 資本主義社会の代表国、アメリカでは、「最後に沢山おもちゃを持っていた人が勝ち」と言われているそうです。一生の間に、50個のおもちゃを手に入れた人は、50回幸せを感じた、100個のおもちゃを手に入れた人は、100回幸せを感じたということですから、人生の目的が「幸福」にあるとすれば、最後にいくつのおもちゃを持っていたかが、どれだけ幸せな人生だったかのバロメーターになるというわけです。

 まあ、お金で買えるかどうかはともかく、幸せを求める人間の欲望にはキリがありませんね。「思うこと、一つ叶えば、また二つ、三つ四つ五つ、六つかしの世や」という歌があるそうですが、常に何かを欲しいと思っているのは、慢性的欲求不満に陥っているということでもありますから、どうみても、それは不幸でしょうね。

 幸せをめざせば、めざすほど、欲求不満でいる時間が長くなる、つまりは、不幸でいる時間が長くなる、とすればです、そんな「幸せ」なんかを、人生の目的にしないほうがよいということに、なりませんかね。

 「幸福」というのは逃げ水のようなものです。どこまで追い続けてもキリがありません。いつになっても、もうこれで充分という日は、やってこないのです。とすれば、そういうものを追い求めるのは、「苦」でしょう。

 仏教は、苦しみの世界から解脱することを説く教えです。いわば、仏教は、そんな幸福を追い求めることをやめれば、「楽」になるという教えなのです。

 幸福というのは、ハイな気分のことですから、一種の興奮状態です。仏教は、そんな興奮状態を求める教えではなく、心安らかに生きるための教えなのです。その心安らかな生活こそ、「知足」の生活なのです。そういう生活にご関心がおありかどうか分かりませんが、どうぞ、ご一緒にお考えになってみてください。

 これまでに何度もお話してきたことですが、私たちが幸福を求めてやまないのは、心が「煩悩」に支配されているからです。「煩悩」というのは、「他の誰よりも我が身が可愛い」という心の働きのことでしたね。現代の言葉で言えば、煩悩とは、エゴのことです。

 「エゴがあるから、欲が生まれ、欲が満たされないから、悩みや苦しみが生まれる」。これは、お分かりになりますでしょう。では、悩みや苦しみをなくそうとしたら、どうすればよいと思われますか。

 悩みや苦しみをなくそうとしたら、当然ですが、それが生まれてくる大本の「エゴ」を何とかしなければなりませんね。ところが、私たちは、たいてい、そうは考えないのです。なぜか、私たちは、そのひとつ手前の「欲」を何とかしようと考えてしまうのですね。

 ですから、「足るを知る」という言葉を聞けば、「身のほどをわきまえて欲張らないのが幸福の秘訣」といった処世訓として理解してしまいます。いわば、倫理や道徳の次元で、理解が止まってしまうのです。

 バブルが崩壊した直後には、「少欲知足」を勧める『清貧の思想』という本がよく読まれましたが、生き方としては定着しませんでしたね。それもおそらく、欲望を抑えるという、倫理的な読み方をしたからでしょう。エゴを手つかずのままにして、欲望を抑えようとしたら、それこそ苦しくて仕方がありません。

 そうではなくて、問題は、大本の「エゴ」の活動を止めることなんです。仏教は、欲望には直接手を付けません。そういう意味では、仏教は、禁欲の教えではないのです。

 仏教は、「エゴ」の活動を止めることで、悩みや苦しみをなくそうとします。その方法はと言うと、これまでに何度もお話してきたことで、ご承知かもしれませんが、図をご覧になって頂きながら、もう一度、お話いたします。

 これは、お馴染みになりました、私たちの「いのちの全体像」です。海底から立ち上がって海に浮かぶ島を、横から見たような形になっていますが、水平線から上が「目に見える世界」で、水平線から下は「目に見えない世界」です。

 水平線から上の、「目に見える世界」だけで考えれば、私たちは、ちょうど海に浮かんでいる島のようなものです。ひとつひとつの島が、バラバラに海に浮かんでいる。名前も違えば、姿形も違います。あなたは、あなた。私は私。私とあなたは、別の人間です。

 ですが、海に浮かんでいるように見える島が、実際には、みんな海底でつながっているように、「いのち」の奥底では、「私」も「あなた」も、みんなつながっていて、「ひとつ」なのです。

 この海底の領域は、「私」も「あなた」もない世界ですから、つまりは「無我」です。「仏性」とか「極楽」とか「阿弥陀仏」とかいうのも、みな、この領域のことです。本来、私たちはみな、このひとつの「大きないのち」を生きているのです。

 ですが、ここに「マナ識」という、「煩悩」に支配された領域がありますね。この赤い色のところです。煩悩とは、エゴのことですが、この「エゴ」が間に入っているために、上と下とがつながらない。私たちの「意識」が「大きないのち」の世界とつながらないのです。

 この「大きないのち」の世界には、「生命エネルギー」が満ちています。いわば、無尽蔵に「生命エネルギー」が溢れている井戸のようなものですが、そこに「エゴ」がフタをしているものですから、私たちは、慢性的な「生命エネルギー」不足に陥っているわけです。

 つまり、私たちは、内にある「無我」の世界の「生命エネルギー」とつながっていないために、その代用品として、「幸福」というハイな気分になる「刺激エネルギー」を、外の世界に求め続けているということなのです。

 この「エゴ」のフタをはずせば、「大きないのち」の世界から「生命エネルギー」が流れ込んできて、もう、あれが欲しい、これが欲しいと、外の世界の「刺激エネルギー」を求めることもなくなる。その状態が、「知足」です。つまりは、「知足」というのは、欲望を抑えた痩せ我慢ではなくて、「本当に満たされている」状態のことなのです。

 それに一番近いのは、おそらく、赤ちゃんでしょうね。赤ちゃんには、「エゴ」のフタがほとんどありませんから、「いのち」の奥底の光がキラキラと、木漏れ日のように漏れ出ている。皆さんは、赤ちゃんをご覧になって、そんな気がなさいませんか。赤ちゃんは、「大きないのち」の世界とつながっていて、満たされているのです。

 では、私たちの心なかにある「エゴ」のフタをはずすには、どうすればよいかということになりますが、実は、そのためにあるのが、いつもお話しいたします、「瞑想」なのです。「瞑想」というのは、「エゴ」の働きを止める技術です。

 「エゴ」のフタと言いましたが、それは「たとえ」でして、実際には、「他の誰よりも我が身が可愛い」という心の働きのことですから、この働きが止まれば、「エゴ」のフタというのは無くなるわけです。

 まず、「エゴ」はどんなふうに働いているのか。つまり、私たちが、悩んだり苦しんだりするのは、どんなときかと、観察してみますと、それは、「過去」や「未来」のことを頭で考えているときなのです。

 たとえば、試験に落ちたという「過去」のことを考えて苦しんだり、これからの人生という「未来」のことを考えて悩んだりしている。

 あるいは、職場の上司に嫌みを言われたという「過去」のことを考えて苦しんだり、ボーナスの査定に響いたらローンの返済に困るという「未来」のことを考えて悩んだりしている。

 つまりは、そんなふうに、いまさらどうにもならない「過去」のことや、まだどうなるか分からない「未来」のことを考えるところから、悩みや苦しみが生まれてくるわけですが、この、「過去」へ「未来」へと走り回って、悩みや苦しみの種を拾い集めてくるのが、「エゴ」の働きなのです。

 では、その働きを止めるには、どうするのかと言えば、もう一度、この図をご覧になってください。「エゴ」というのは、この「マナ識」のことですが、その上には「意識」があって、「意識」は、「マナ識」と「五感」に挟み込まれるような構造になっています。ここが大切なところです。

 たとえば、私たちは、何かに悩み苦しんでいるときには、周りに何があろうと全く気づいていないということがありますね。そういう経験は、どなたにもおありになるのではないかと思いますが、その反対に、空に浮かんでいる雲を見つめているときとか、鳥のさえずりに耳を澄ませているときなどには、悩みも苦しみもすっかり忘れているということがありますでしょう。

 悩みや苦しみは「エゴ」から生まれますから、何かに悩み苦しんでいるというのは、「意識」が「エゴ」に集中している状態です。また、雲を見つめているとか、鳥のさえずりに耳を澄ませているというのは、「意識」が、眼や耳といった「五感」に集中している状態です。

 「意識」が「五感」に集中しているときには、悩みや苦しみを忘れているということは、そのとき、「エゴ」は活動を止めているということです。つまり、「エゴ」の活動を止めるには、「意識」を「五感」に集中させればよいということです。

 考えてみれば、悩みや苦しみの種は「過去」と「未来」にしかありません。その「過去」や「未来」を考えるところに、悩みや苦しみが生まれるわけですが、何も考えずに、「今」という一瞬を感じているときには、悩みも苦しみもないのです。たとえば、一人でお茶をたてて飲むところを想像なさってみてください。

 「手」で、お茶碗の感触や、ぬくもりを感じ、「鼻」でお茶の香りを感じ、「舌」でお茶の味を感じ、「眼」でお茶碗の姿を感じ、眼を閉じると、「耳」に、お湯の沸く音を感じる。「眼」や「耳」や「鼻」や「舌」や「手」が感じているのは、「今」の一瞬です。「今」を感じることに集中しているときには、悩みも苦しみもありませんね。

 本来、眼や耳といった「五感」で受け取られるものは、「あるがまま」の世界です。それが、「意識」を通すことで、綺麗だとか汚いとか、上等だとか安物だとかいった、悩みや苦しみのもとになる「色」が着いてしまいます。というのは、「意識」が、常に「エゴ」(「マナ識」)の方を向いているからです。

 とすれば、「エゴ」に引きずられて過去へ未来へと彷徨っている「意識」を、「五感」の方に振り向かせてやれば、「あるがまま」の世界に戻ってこれるということになります。「あるがまま」の世界には、「今」しかありません。

 つまりは、「エゴ」の活動を止めるには、「意識」を、眼や耳といった「五感」に集中させて、「こころ」を「今」につなぎとめておればいいということです。それが「瞑想」なのです。

 「欲望を離れ、苦を滅するためには、無我になりなさい。無我になるためには、無常を観じなさい」(『正法眼蔵随聞記』)。これは道元禅師の言葉ですが、「無常」とは「五感」に映る世界のことですから、いまお話ししていることと同じことをおっしゃっているのだと思います。

 さて、私たちにとって大切な「瞑想」は、いつもお話しいたします、「お念仏」に集中するという方法ですね。これは、「ナマンダブ、ナマンダブ…」と称えながら、その音に集中しますから、耳の「聴覚」を用いた瞑想法です。

 「お念仏」に集中するのは、「意識」だけです。身体は、ゆったりと背筋を伸ばして、脱力していることが大切です。「お念仏」を称え続けていると、だんだん、呼吸が緩やかになっていき、暖かい透明な気配に包まれてきます。そして、「意識」が「お念仏」で満たされて、「お念仏」と私は「ひとつ」になります。

 あるとき、そんな「瞑想」の余韻が残るまま、庭に出て、驚いたことがあります。木々の緑や花の色が、いつもよりうんと鮮やかで、光を放って輝いていました。まっさらな世界です。おそらく、生まれたばかりの赤ちゃんの目には、世界がこんなふうに見えるんだろうなと、感動しました。

 『阿弥陀経』というお経の中に、「池中蓮華・大如車輪・青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光」(「極楽世界の池の中には、大きな車輪ほどもある蓮の花が咲いていて、青色のものは青い光を、黄色のものは黄色い光を、赤色のものは赤い光を、白色のものは白い光を放っている」)と説かれていますが、それは、このことでしょうね。

 ちょっと脱線しますが、先日、あるお宅に月参りに伺いましてね、お勤めが終わって、振り向いたら、奥さんが、手を合わせたまま、まるで湯上がりのような、ほっとした表情をなさっていました。

 その奥さんがおっしゃるには、「目を閉じたまま、手を合わせて、じっとお経を聞いておりましたら、なにか本当に心が楽になりました。こんな気持になったのは初めてです」ということでした。

 別に、私の読経が上手かったというわけでもなんでもありません。お経を読む声に集中しておられたから、「こころ」が「今」になっていたのです。「だから、お経は、意味が分からなくとも有り難いのです」、なんて言うと、叱られますかね。

 ちなみに、私たちは、両手を合わせて、合掌しますね。私たち仏教徒だけでなく、合掌する姿は、世界中でみられますが、手を合わせることにはいったい、どういう意味があるのでしょうか。

 一般には、降伏・帰順の意志を表す姿だと言われています。つまり、負けました、あなたに従います、武器は持っていませんという姿だ、と言うのですが、本当でしょうか。

 ある本で読んだ話ですが、テリー・ウイリアムズというイギリスの医師の研究によると、指には、N極・S極という磁石のような極性があるというのです。親指には、左右ともに極性がないそうですが、右手は、人差し指から小指に向かって、順に、N、S、N、Sとなっていて、手の平はSになっている。左手は、極性が逆で、S、N、S、Nとなっていて、手の平はNだということです。

 とすると、両手を合わせると、指も手の平も、NとSが向き合うことになります。これは、ひょっとすると、陰陽和合の姿ではないでしょうかね。そうだとすると、合掌は、陰陽の「気」のエネルギーが、最も調和・安定した姿だということになります。それは、人が、まさに「今、ここ」にいるという姿ではないかと思うのですが、どうでしょうね。

 さて、さきほどもお話いたしましたように、「五感」に受け取られるものは、「あるがまま」の世界です。「あるがまま」の世界には、「今」しかありません。

 「五感」に「意識」を集中して「今」にいると、「エゴ」が働きを止めて、「意識」は「無我」の世界につながります。そして、「無我」の世界から「生命エネルギー」が流れ込んで、心が満たされる。そのとき、私たちは、本当の「知足」を知るのです。

 竜安寺の蔵六庵という茶室の前に、石造りの丸い手水鉢があります。それは、上から見ると、こんな形をしています。これを真似た和菓子があったように思いますが、これは、水を張った真ん中の「口」の字をそれぞれ重ねて、「吾唯知足」(われ、ただ、たるをしる)と読みます。

 辞書には書かれておりませんが、私は、この「吾」という字は、「五つの口」を表していて、「五感」を意味すると思っております。

 「五感」に映るのは、「あるがまま」の世界です。手水鉢の水に映る世界、五感に映る「今、あるがまま」の世界には、何も不足しているものはない。それが、この「吾唯知足」(われ、ただ、たるをしる)という言葉の意味だと思います。

 「意識」が「五感」とひとつになって、「あるがまま」の世界を、あるがままに受け取れるようになったら、「悟り」の境地です。

 「悟」という字は、心を表す「立心偏」に「吾」と書きます。「心」が「意識」のことだとしたら、この字は、「意識」と「五感」がひとつになったところに「悟」が生まれるということを表している。と、思います。

 「悟り」などと申しますと、なにか遠い世界の話に聞こえるかもしれませんが、生活の中で、「意識」を「五感」に向けるように心がけることはできます。それは、何をするにも、「こころ」を込めてするということです。

 「こころ」を込めるというのは、「こころ」を「今、ここ」に向けるということです。 たとえば、さきほどもお話しいたしましたように、お茶を飲むときには、お茶を飲む。掃除をするときには、掃除をする。子供と向き合うときには、子供と向き合う。何をするにも、「こころ」を込めて、丁寧に生きる。

 一瞬一瞬に、「こころ」を込めて生きれば、「こころ」は「今」で満たされます。満たされたら、それ以上のものは、入れられませんね。

 「お念仏」は、そんな、「こころ」を込めた生活の要(かなめ)です。生活のなかで、「過去」へ「未来」へと彷徨い出て行こうとする「こころ」に気づいたら、「お念仏」。「お念仏」に生きる生活こそ、「こころ」が「今、ここ」にある、「知足」の生活なのです。

 「こころ」が「今、ここ」にあれば、いずれは「大きないのち」の世界に触れて、すでに全てが与えられていることに、気づくでしょう。お念仏を称えることで救われようというのではなく、お念仏を称える生活のなかで、すでに救われていることに気づいていく。その気づきを深めていくところに開けてくるのが、本当の「知足」なのです。

 私たちの「いのち」の奥底には、「私」も「あなた」もない「大きないのち」の世界がある。その世界を、あるいは「無我」と呼び、「阿弥陀仏」と呼び、「極楽」と呼んでいるのです。仏教に限らず、宗教というものは、この自分の内にある富に気づく道なのだと思います。

 お疲れになりましたか。いつものことですが、どうも話が理屈っぽくなっていけませんね。いつか、気楽な話ができるようになりたいと願っておりますけれど、もう少しで終わりますから、お付き合いくださいね。

 いろいろお話してまいりましたが、「幸福」なんか意味がないという話だと思われた方は、ガッカリなさったかもしれませんが、そうではありません。幸せなのは結構なことですが、幸せを人生の目的にしたら、苦しいですよ、という話なのです。

 若いときには、「身体」も「こころ」も元気ですから、「頑張れば幸せになれる」と思っている。努力すれば、なんでもできると思っている。それはそれで、大切なことです。ですが、人生というのは、それだけではないのです。

 そこそこの歳になれば、体力も気力も、なんとなく底が見えてくるでしょうし、世の中、思うようにはならないということも分かってくる。そんなときには、力任せに生きてきた人生を、見つめ直してみることも大切なのですよ。

 皆さんは、「六根清浄」(ろっこんしょうじょう)という言葉をご存じだと思いますが、「六根」というのは、「五感と意識」のことです。以前にお話しした言葉で言えば、「六根」とは、「身体」と「こころ」のことです。

 昔の人は、富士登山のときなどに「六根清浄」という言葉を口に唱えて、身も心も清らかになることを願いましたが、その「六根清浄」という祈りの言葉が、「六根浄」となり、「どっこいしょ」となったといわれています。

 そこそこの歳になれば、私たちの口から、思わず知らず、「どっこいしょ」という掛け声が出てくるようになりますね。思えば、その「どっこいしょ」という掛け声は、ハイな気分よりも、清らかな「楽」を求めましょうという、「身体」と「こころ」からの、お催促なのです。ですからね、「どっこいしょ」と言うような年齢になったら、考えるときがきたということです。

 若いときには、若いときの仕事があるでしょうが、ひと歳とったら、お催促のままに、「楽」になりましょう。幸せを求めるには、努力がいりますが、「楽」になるには、「こころ」を「今」に向かって開けばいいだけなのです。

 お念仏に耳を澄ませて「今」になれば、「大きないのち」の世界への道が開けてきて「こころ」が満たされ、「楽」になる。それが「知足」です。「知足」というのは、簡素な生活をしていた昔に返ることではなく、「こころ」が「今」に帰ること、「吾」に帰ることなのです。

 年寄りは役に立たないなどと言いますけれど、死ぬまで役に立ってばかりいたのでは、ただの道具ですよ。それよりも、「吾」に帰っていくことが、家族のためにもなるのです。「私が、私が」と、幸せの夢を見ている人ばかりでは、息が詰まります。「吾」に帰った人がいればこそ、家族も一息つけるのです。

 作詞家の山川啓介さんの作品に、「どこかに帰ろう」という、こんな詩があります。
   帰ろう 帰ろう どこかに帰ろう。 帰ろう 帰ろう だれかと帰ろう。
   あの日に 帰ろう 子供に帰ろう。 自分に 帰ろう 歌って帰ろう。

 何年か前の紅白で、由紀さおりと安田祥子のお二人が歌われるのを聞きまして、初めて知ったのですが、やっぱり、みんな「どこかに帰ろう」と想うのですね。

 私たちには、お念仏を称えながら、帰っていく世界がある。それは、「いのち」の奥底にある、「無我」の世界、「阿弥陀仏」の世界、「極楽浄土」です。御聖教にも、「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」(『安心決定鈔』)とありますように、「極楽浄土」という阿弥陀仏の世界は、どこか行ったこともない見知らぬ場所ではなくて、帰っていく懐かしい場所なのです。

 プラス思考だ、ポジティヴシンキングだ、などと言ってみても、大切な人を亡くしたときや、病気のときには、幸せは感じられません。ですが、幸せであろうとなかろうと、あるがままの「今」を受け容れて、心安らかに生きることはできるのです。それが、ひと歳越して、ようやく頷けるようになる、「知足」の生活なのです。

 春には花が咲き、秋には紅葉が照るように、人生には、輝くときが二度あるのです。若いときには、幸せを求めて咲く花となり、ひと歳越せば、「知足」に目覚めた紅葉となる。春が過ぎて、花が散っただけでは、人生が勿体ないと思いますね。私たち自身のためにも、また、子供や孫のためにも。

 どうぞ、皆さん、ご一緒に、お念仏を称えていきましょうね。

 さて、今日は、「苦」を離れて「楽」になろうという話でしたが、長い話をお聞きくださるのも、また、「苦」かもしれませんので、この辺で終わらせて頂きます。

 本日は、ようこそお参り下さいました。また、ご一緒に、聞法させて頂けるよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ…。



次の法話へ


紫雲寺HPへ