本日は、お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。有り難うございます。どうぞ、お楽にお座りください。 本日は、親鸞聖人の祥月命日のお勤めであります「報恩講」ですが、今回は、昭和63年11月3日に亡くなりました前々坊守・正覚院釋尼妙操の十七回忌を、併せて勤めさせていただきました。この法要に会うご縁を皆様とともに頂けましたことを、有り難く存じております。 だんだん寒くなってまいりましたので、今日は、ストーブをいれさせて頂きました。寒くなってくると、今年も終わりが近づいてきた気分になりまして、どことなく気ぜわしない思いがいたしますが、皆さんは、いかがでしょうか。 まだ11月でして、年末までひと月半ほどありますが、今年はいろんな事が起こりまして、大変な年でしたね。政治や経済の問題や、その他の社会的な問題もいろいろありましたけれど、今年はとくに、異常気象や、台風や、地震で、大変でした。 5月頃から急に気温が30℃を越えまして、真夏日が3ヶ月以上続き、熱帯夜も2ヶ月近くありました。そこに、集中豪雨や台風や地震が重なりまして、とくに新潟は大変でしたね。 7月の集中豪雨のときには、新潟に続いて福井にも大きな被害がでました。福井には親戚や知人がおりますので、そういった人たちから聞いた話ですが、「新潟は洪水で大変やなあ」と言っていたら、今度は福井が集中豪雨で大洪水になってしまった。 「明日は我が身」で、決して他人ごとではありません。京都は自然災害の少ないところと言われていますが、専門家によると、震度8以上の大地震がいつ起こってもおかしくない状態だといいますから、まことに、娑婆は「一寸先は闇」です。 私たちの人生は、たかだか数十年ですが、その数十年の間には、いろんなことが起こります。実際、自分の思いに叶うことも、叶わぬことも起こってまいります。ですが、日本語には、そんな、人生に起こってくる全てのことを、謙虚に受け止める言葉があります。それは、「お陰さま」という言葉です。 私たちの目に見える世界が「陽」(ヨウ)だとすれば、目に見えない世界が「陰」(イン)です。目に見える現実世界は、目に見えない深遠な世界に支えられている。そういう「いのちの真実」の姿を学ぶと、人生に起こってくる出来事を、全て、この目に見えない世界からの「導き」として受け止められるようになっていきます。そこに出てくる言葉が、「お陰さま」です。 昔の人は、「陰」(かげ)という言葉に、「お」と「さま」まで付けて尊び、大切にしましたが、私たちの人生を「陰」で支えてくださっている、この「お陰さま」というのは、「仏様」のことです。 私たちが日々、「お陰さま」と手を合わして「仏様」とともに歩めることを願って、今日は、「お陰さま」という題で、お話させて頂こうと思います。例によって、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。 さて、このごろは、「お陰さま」という言葉を、日常会話のなかでは、あまり聞かなくなったように思います。例外は、「お陰さまで30周年」などといった、ビジネス上の社交辞令くらいでしょうか。これはこれで、味のある使い方だとは思いますが、いまはひとまず置いておきますね。 日常会話のなかで、自然に「お陰さまで」とおっしゃるのは、そこそこ年配の方だけでして、まあ、若い方は、あまりこういう言葉はお使いになりません。 心から「お陰さまで」と言えるようになるには、相応の人生経験が必要でしょうから、そういう意味では、若い方がお使いにならなくとも無理はありません。むしろ、この言葉は、あまり若い人には、そぐわない言葉かもしれませんね。 ちょっと脱線しますが、以前、こんな話を聞いたことがあります。エジプトのピラミッドで発掘をしているときに、文字を刻んだ2000年前の粘土板が出てきた。そこで学者が集まって解読してみると、「近頃の若い者は…」と書いてあった、というのです。まあ、これはジョークでしょうが、「近頃の若い者は」と言い出したら、年を取った証拠かもしれませんね。 よく耳にする「近頃の若者は…」という言葉は、あまり褒め言葉としては使われませんけれど、私は、近頃の若者が、とくに悪くなったとは思いません。年寄りにも変な人がいますし、若い者にもなかなかの人がいます。ただ、社会環境が大きく変わったために、昔と比べて、なかなか大人に成りにくくなったようには思います。 考えてみればです、小さい頃から、「勉強だけしていたらよい」と言われて育った者が、二十歳になったからといって、急に大人になるはずもないのです。 情報のあふれる現代社会では、人は、一生の間に必要かどうか分からないような知識を、広く浅く学んで育ちます。それはそれで止むを得ないことかもしれませんが、間口が広くて、奥行きが浅いと、知識は、なかなか知恵にまで発酵してこない。 そんな、なかなか大人に成れない現代人の精神年齢は、「6掛け」とか「7掛け」とか言われることがあります。二十歳の人は、「6掛け」で12歳、「7掛け」で14歳です。つまりは、その程度の精神年齢しかないということですが、いかがでしょうかね。 「当年取って何歳」という言葉がありますが、ひょっとすると、精神年齢に関しては、「当年取って」ではなくて、「十年取って」計算する時代なのかもしれませんね。 昔は、人生に必要な知識を、狭く深く学びました。基本的な「読み書き算盤」を習ったら、あとは各自の生業(なりわい)の道を深めたものですね。京都の町屋みたいですが、間口は狭くとも、奥行きが深かったのです。人生にとって、本当に大切なことは、「いのち」の奥深くにあるのです。 「お陰さま」という言葉は、子供には似合いませんね。小学生が、「お陰さま」なんて言うと、気持が悪いでしょう。「お陰さま」というのは、「いのち」の奥深くにある「人生の秘密」が少し分かってきて、初めて出てくる言葉ではないでしょうか。 歌手のさだまさしの「すろーらいふすとーりー」というCD(Victor, FRCA-1093)に、「人生の贈り物」という歌があります。これは韓国の有名な歌手、楊姫銀(ヤン・ヒウン)との合作ですが、ここに「人生の秘密」という言葉がでてきます。非常にいい歌ですので、ちょっとご紹介いたします。 歌は3番までありますが、その1番目の歌詞は、こうです。
季節の花がこれほど美しいことに いかがですか。いい歌でしょう。まあ、私が歌詞を読んだだけでは、もうひとつ味気ないものですから、楊姫銀(ヤン・ヒウン)の歌で、ちょっと聞いて頂こうと思います。前回、CDをお聞き頂いて好評でしたので、もう一回やろうというわけです。 …(「人生の贈り物」、1番)… いかがですか。何か、考えさせられる歌ですね。「もう一度、若い頃に戻りたい」なんて思っているあいだは、まだまだ「人生の秘密」から遠い所にいるのかもしれませんね。 さて、「人生の秘密」は、「いのち」の奥深くにあると申しましたが、それはいったいどういうことなのか。その話は、お馴染みになりました「いのちの全体像」の図をご覧になって頂きながら、お聞き頂こうと思います。 これは、唯識仏教で説かれております「心の構造」を基にして描いた、「いのちの全体像」です。と言っても、「いのち」がこういう形をしているというわけではありません。これは、あくまでも、ひとつのモデルでして、いわば「たとえ話」です。どうぞ、そのおつもりでご覧ください。 図全体では、小山が並んでいるようにも見えますが、この小山ひとつが一人の人間に相当いたします。ちょうど、海底から立ち上がって海に浮かぶ島を、横から見たような形ですね。 この水平線から上が、私たちの目に見える現象世界です。目に見える「身体」の中に「五感と意識」が包み込まれています。この水平線から上の部分は、死ねば無くなってしまいます。私たちが通常自覚できるのは、ここまでです。 次に、この水平線から下は、私たちには通常はほとんど自覚できない、いわば無意識の世界です。 上にあります赤色の「マナ識」というのは、私たちの心のなかで「煩悩」に支配されている領域です。「煩悩」というのは、簡単に申しますと、「他の誰よりも我が身が可愛い」という心の働きのことです。現代の言葉で言えば、「エゴ」です。 私たちは、この「エゴ」に「意識」を支配されておりますから、この「マナ識」を「自分」だと意識しております。それで、これが「我」と呼ばれるわけですが、それは「本当の自分」ではなくて、「エゴ」に支配された「偽りの自分」なのです。 その下に広がっている黄色の「アラヤ識」というのは、私たちの心のなかで「煩悩」に支配されていない清らかな領域です。 仏教ではこの領域のことを、いろいろな名前で呼んでおります。たとえば、「涅槃」とか、「空」とか、「一如」とか、「仏性」「浄土」「阿弥陀仏」とかいうのは、みなこの領域のことです。 ここは、「エゴ」に支配されておりませんから「無我」と呼ばれております。この「無我」こそが「本当の自分」なのです。つまりは、「本当の自分」は「仏」だということです。私たちは、みんな「いのち」の奥底で「仏」に支えられているのです。 「仏様」と言うと、私たちは、どこか遠い空の彼方にでもおられるように思っておりますけれど、そうではありません。私たちは、みんな「仏」なのです。「エゴ」に妨げられて、そのことに気づいていないだけなのです。 仏教がめざしているのは、この「エゴ」の支配から解放されて、「本当の自分」に成ること、「仏」に成ることなのです。 いかがですか。仏教の説いている「いのちの全体像」がお分かり頂けましたでしょうか。実は、「人生の秘密」は、この「いのちの全体像」のなかに隠されているのです。 この図をご覧になればお分かりになるように、一番上の、「目に見える世界」だけで考えれば、私たちは、ちょうど海に浮かんでいる島のようなものです。ひとつひとつの島が、バラバラに海に浮かんでいる。あなたはあなた。私は私。私とあなたは、別の人間です。その証拠に、あなたが物を食べても、私のお腹がふくれるわけではない。 この別々の人間が、みんな「エゴ」に支配されて、我が身の利益や満足を求めて争っている。それが、私たちの言う「現実社会」の姿です。 ですが、海に浮かんでいるように見える島が、実際には、みんな海底でつながっているように、「いのち」の奥底では、私もあなたも、みんなつながっていて、「ひとつ」なのです。 「目に見える世界」では、一人一人がバラバラに生きているように見えても、本当は、みんなが「ひとつのいのち」「仏のいのち」を生きているのです。私もあなたもないのです。本当のあなたは、本当の私なのです。 私たちはみな、「いのちの仲間」なのです。それが、私たちの「いのちの真実」です。そして、この「いのちの真実」こそ、「人生の秘密」なのです。 「いのちの仲間」というのは、仏教の言葉で言えば、「一切衆生、悉有仏性」(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)です。「一切衆生、悉有仏性」というのは、人間だけではなくて、生きとし生けるもの全てが、仏の「いのち」を生きている仲間だということです。 さらに仏教では、「草木国土、悉皆成仏」(そうもくこくど、しっかいじょうぶつ)と言って、草木や国土といった、あらゆる環境までが、仏に成ると説かれています。 伝統的な理解とはちょっと違うのですが、私は、この「草木国土、悉皆成仏」という言葉は、「草木国土が悟りを開く」という意味ではなくて、「私を取り巻く世界の全てが、私を導く仏と成る」という意味ではないかと、想像しております。 思いますにね、庭の金木犀の香りに、人として生まれてきた喜びを感じるのも、山の端に沈んでいく夕日に、いのちの故郷、浄土を憶うのも、みんな、草木国土が仏と成って「私」に働きかけてくださっているからではないでしょうかね。 世界の全てが、仏と成って、「私」を支えてくださっている。「本当の自分」に成っていく、「仏」に成っていくという、人として生まれてきた目的を果たさせようと、導いてくださっている。つまりは、「私」は、生かされて生きているのです。だからこそ、思いに叶うことも、叶わぬことも、みんな、「お陰さま」なのです。 「お陰さま」とは、生まれてきた世界への信頼を表す言葉です。それは同時に、いのちへの信頼を表す言葉でもあります。そんな、世界への信頼、いのちへの信頼を、身近な人から学べたら、それほど幸せなことはないでしょうね。 以前、こんな話を聞いたことがあります。曹洞宗、永平寺の第六十七世貫首で、北野元峰という有名なお坊さんがおられましたが、この元峰禅師が、修行に出られるときに、お母さんにこんなことをおっしゃった。 「お母さん、修行の旅に出ますが、もしわたしが堕落坊主になったら、もう二度とこの家の敷居はまたぎません。必ず立派なお坊さんになる覚悟で行ってまいります」と。すると、その言葉を聞いたお母さんは、こうおっしゃったそうです。 「おまえ、なにを馬鹿なことを言っているのです。おまえが立派なお坊さんになったら、世間の人たちは、みんなちやほやしてくれるでしょう。そうなったら、おまえは少しも寂しいことなんかないではありませんか。 でも、堕落坊主になったら、誰一人相手にしてくれませんよ。そのときこそ、この家に帰っていらっしゃい。玄関から帰るのがはばかられるのなら、裏口から入ってくればいい。裏口から入ることもできないのなら、窓を破ってでもいいから、帰ってくるのですよ」と。 元峰禅師は、お母さんのその言葉を生涯覚えておられて、お母さんを大切になさったといいます。「何が起こっても、大丈夫」。そんな、いのちへの信頼と、生きていくエネルギーを、元峰禅師は、お母さんからもらわれたのです。 ちょっと余談ですがね、新聞なんかを見ておりますと、戦後は学校で修身を教えていないから、あるいは道徳がなくなったから子供が親を大切にしなくなったと、よく書かれていますが、そんなことは決してありません。親を大切にすることくらい、親の本当の愛情に包まれて育った子供なら誰でもしますよ。はたからとやかく言われなくとも、自然にそうなります。 ところが現実には、親は愛情のつもりでも、本当は親のエゴだということが少なくありませんね。親が、子供に我が身の都合を重ねておれば、それを子供は敏感に感じ取っているものです。理屈では分からなくとも、感情のレベルで、愛情とエゴの違いは分かるものです。 人は、親からもらったものを親に返し、社会からもらったものを社会に返します。こんなことを言うと嫌われるかもしれませんが、本当は、与えた以上のものを取ろうとするから、修身や道徳が必要になってくるのではないでしょうかね。 子供の成長だけが生き甲斐だとおっしゃる方もおられますが、子供の成長だけを生き甲斐にしていると、肝心の子供の成長が許せなくなることもあるのです。子供が成長して独立するということは、親の生き甲斐が無くなるということでもあるからですね。 私も親ですが、親というものは、無意識のうちに、自分の子供は「自分のもの」だと思っているところがあって、自分の都合を最優先にしていることが多い。そこから様々な問題が生まれてくるのですが、この目に見える現実世界だけで一所懸命に生きていると、なかなかこのことが分からないのですね。 いつもお話することですが、子供は、作るものではなくて、「授かる」ものです。それも、偶然に授かるのではないのです。親は、その子供からしか学べないことがあるから、その子供を授かる。また、子供の方も、この親からしか学べないことがあるから、この親のもとに生まれてくるのです。 親子になるということは、よほどの「ご縁」があってのことと思いますが、「ご縁」があるのは、親子だけではありません。私たち、みんな、同じ時代に同じ世界に生まれてきて、こうして出会っている。これもまた、よほどの「ご縁」があってのことですね。 私たちは、みんな、仏の「いのち」を生きる「いのちの仲間」です。私たちには、お互いに、助けあい、学びあい、伝えあうことがあるのです。だからこそ、同じ時代、同じ世界に生まれてきたのです。 さきほどの元峰禅師には、こんな逸話も残っています。大正時代のことです。北海道の網走刑務所から、囚人たちに、話をしてほしいと依頼がありました。当時、元峰禅師は90歳でしたが、快く引き受けられて、杖をついてでかけられました。 講堂の壇上に登られた元峰禅師は、一同を眺め回されました。広い講堂一杯の受刑囚が「この老僧、何を語るのか」と見上げていると、やがて、 「あんたがたはナァ、みんな仏様だヨ、ここは仏様の居るところじゃないョ……あんたがたァ、みな、仏様じゃあ」と大声でおっしゃった。目には涙があふれ、合掌する手が震えておられた。 その姿に、一同はシーンとして誰も口をきかず、あちこちで目を拭っている。長い間、元峰禅師は、無言のまま立っておられましたが、やがて深々と頭を下げられ、杖をとりなおして去って行かれた。そのとき、「あんたがたは仏様なのだ」と拝まれた囚人たちは、みな声をあげて泣いたそうです。 この元峰禅師は、昭和8年に92歳でお亡くなりになりましたが、その数年前、84歳のときにお書きになった「南無阿弥陀仏」という掛け軸が残っております。写真(右の写真)で見ただけですが、半切くらいの大きさの紙に、六字を一気に書かれたような、非常に力のあふれた立派な字でした。おそらく、禅師の「いのち」のなかには、お母さんからもらわれたエネルギーが、生涯燃え続けていたのだと思います。 人との出会いは「ご縁」だと言いましたが、自分にとって都合の良い出会いだけが「ご縁」ではありません。憎み、諍(いさか)い、傷つけあう出会いもあるのです。ですが、いつか「人生の秘密」に気づき、そんな出会いにも、手を合わせて「お陰さま」と思える日がやってくるといいですね。 そんな日のことが、「人生の贈り物」の2番では、こんなふうに歌われています。今度は、さだまさしの歌でお聞きください。
季節の花や人の生命の短さに 夕日の沈む彼方には、浄土がある。私たち門徒は、「並んで座って沈む夕日を一緒に眺めてくれる友」を、同行と呼んでいます。私たちは、みな、同行なのです。 さて、そろそろ、店じまいにかかります。本日は、報恩講に併せて、昭和63年に亡くなりました、私の祖母の法事も勤めさせて頂きましたが、その同じ昭和63年にヒットした歌がありました。美空ひばりの「川の流れのように」です。皆さんも、よくご存じの歌だと思います。 あの歌は、人生を川の流れにたとえた歌ですが、川の流れを見ていると、たしかに、人生について考えてしまいますね。川は、ときには速く、ときには緩やかに流れ、あちらの岸にぶつかり、こちらの岸にぶつかりしながらも、ついには海に流れ込む。私たちの人生も、これと同じではないかと思います。 私たちの人生も、さまざまな出来事に出会い、紆余曲折を経ながらも、ついには大きな「いのちの海」に流れ込むのです。その大きな「いのちの海」を、私たち門徒は、「お浄土」と呼んでいます。「お浄土」は、私たちの「いのちの故郷」です。 そして、川の水が、地球の引力に導かれて、生まれ故郷である海に流れ着くように、人生には、私たちを間違いなく「いのちの故郷」へと導いて行く力が働いている。その力を「他力」というのです。 ですが、海へと引く力があるからこそ、川は岸にぶつかりもするのです。つまりは、川が、故郷の海に帰るには、ときには、岸にぶつかることも必要だということです。 おそらく、私たちも、そうでしょう。人生のさまざまな出来事も、紆余曲折も、「私」が、「本当の自分」に成るために、そして、間違いなく「いのちの故郷」に帰るために、必要だから起こってくる。そう思えたら、人生の荒波に翻弄されて、右も左も分からないときにでも、生きるエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。 人生が平坦でないのは、「他力」が働いている証拠かもしれません。「私が必要とする事ではなく、私に必要な事が起こってくる。私が必要とする物ではなく、私に必要な物が与えられる」。そんなふうに「他力」の働きが感じられたら、「いのち」への信頼が生まれます。 「他力」を感じる能力は、聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで育っていきます。いのちの奥底で「私」を支え、導いてくださっている「他力」の働きに気づいたときに、初めて「生かされて生きている」ことが分かる。「お陰さま」だと分かるのです。 都合の良いことも悪いことも、みんな、お陰さまです。たとえば、私たちを苦しめる熱や下痢でさえも、身体に悪いものを排除して、私たちを生かそうとする、いのち本来の働きなのです。そのことが分かったら、病気の願いが見えてくる。病気も、いのちの「お陰さま」です。 川の流れに身を任せるように、他力を感じて流れていると、安心でしょう。他力に引かれて、浄土の海へ。全ての川は、みな浄土の海に流れ込み、私たちはみな、そこで再会するのです。それを「倶会一処」(くえいっしょ)というのですね。 私たちはみな、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰って行くのです。それは、気休めや、慰めではなく、人類の気づきなのです。そんな「浄土」の教え、「他力」の教えを伝えてくださった、親鸞聖人への感謝の法要が、この報恩講なのです。 何年か前の世界宗教者会議で、「宗教は、心に咲く一輪の花です」とおっしゃった方がおられました。親鸞聖人の心に咲いた一輪の花が、今、私たちの心の中にも咲いている。この一輪の花を、枯らさないように大切に育てていくこと。それが、私たちにできる、ただひとつのご恩返しです。そして、その思いを新たにするご縁が、この報恩講なのです。 「心に咲いた一輪の花」。同じ言葉が、さだまさしの「人生の贈り物」に歌われています。2番まで聞いて頂いたのですから、ここは大サービスで、3番もお聞き頂こうと思います。さだまさしと楊姫銀(ヤン・ヒウン)のデュエットです。
季節の花がこれほど美しいことに 歳を取って、身体の花は散っても、心には「いのち」への信頼の花が咲いている。「何が起こっても大丈夫」と、咲いている。この「心に咲く一輪の花」は、お念仏を称える生活のなかで育っていく「信心の花」です。 「信心」は生活の技術ではありませんから、信心が無いと生活できないというものではありません。ですから、世間では、信心などというものは、年寄りの「慰みごと」であるかのように誤解しておりますけれど、本当はそうではないのです。 身体が寒いと火のそばによって暖をとりますが、ちょうどそのように、娑婆の風のなかで、心が寒くて、魂が疼くときに、その心を温め、魂をほぐしてくれるもの、それが「信心」なのです。どうぞ、皆さん、日々の生活のなかで、お念仏を大切になさってくださいね。 では、本日は、ここまでにさせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。 前回好評でしたので、今回も歌をお聞き頂きましたが、あまり、こういうことをやりますと、著作権の問題がありまして、お叱りを受けますので、また、いずれということにさせて頂きます。 法事の記念に差し上げましたのは、星月菩提樹の腕輪念珠です。菩提樹の間に紫色の石が挟まれておりますが、これは「紫雲石」という珍しい石だそうです。紫雲寺にちなんで作って頂きましたので、お使い頂けると有り難く存じます。 本日は、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……。
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