お忙しいところ、ようこそお参りくださいました。有り難うございます。本日は、「春の彼岸会」でございますが、私が、この寺の住職になりましたのも、春のお彼岸の頃でした。12年前のことです。ちょうど、干支が一回りしてしまいました。 月日が経つのは、速いものですが、こんなふうに衣を着せて頂いて、皆さんのお宅に、月参りやご法事に伺うようになってから数えますと、もう30年です。 25のときでしたかね。それまでお参りに伺っておりました祖母が大腿骨の骨折で入院しましたので、急遽、「さあ、明日から、お前が行ってこい」ということになりまして、それから30年です。 坊さんは、30年勤めても年金なんか付きませんよ。まあ、それは冗談ですが、お参りに伺いますと、たいてい、お仏壇の前には、赤や紫の分厚い座布団が敷かれていまして、最初は戸惑いましたね。 赤い座布団というと、還暦祝いの座布団でしょう。紫は、古希か喜寿です。坊さんには、それだけの歳の重みが願われていると思うと、いささかまいりましたが、いつのまにか、その赤い座布団に追いつきそうなところまで来てしまいました。 「還暦」が赤、「古希」と「喜寿」が紫、「傘寿」と「米寿」と「卒寿」が黄色、「白寿」が白。これで座布団が7枚です。寄席の大喜利ではありませんので、座布団を集めればいいというわけではありませんけれど、まだ1枚も座布団のないまま、皆様の前でお話させて頂ております。それも、今回で30回目になりました。 今回は、「無碍(むげ)の一道」という題でお話させて頂きます。『歎異抄』に、「念仏は無碍の一道なり」という言葉がありまして、これは、そこから頂いたものです。例によって、いささかまとなりのない理屈っぽい話ですが、どうぞ、しばらくの間お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。 さて、以前、こんな実験の話を聞いたことがあります。私たちは毎日、様々な経験をいたします。楽しい経験もあれば、苦しい経験もある。そこで、その楽しい経験と苦しい経験を、それぞれプラス・マイナスの5段階で評価してみたら、一日のトータルではどうなるかという実験です。 たとえば、今朝は爽やかなお通じがあったので気分がいい。これは楽しい経験のプラス1だ。今日は営業に回って予想以上の売上があったので、これはプラス4だ。あるいは、病院で看護婦さんに「おじいちゃん」と呼ばれて不愉快だった。これは苦しい経験のマイナス1だ。帰り道で車を電柱にこすってキズを付けてしまった。これはマイナス3だ。というふうに、その人の感覚で、一日の経験を評価してもらったのです。 その結果は、どうだったか。それはですね、楽しい経験のプラスの合計と、苦しい経験のマイナスの合計を差し引きすると、実験に参加した人のほぼ全員で、わずかにプラスが多かったというのです。 この実験によりますと、日々の生活には、不愉快なことや苦しいこともあるけれど、同じように、気分のいいことや楽しいこともあって、差し引き、わずかにプラスが残る。まあ、可もなく不可もなく、人生ってこんなものだ、というのが、私たちの日常感覚だということになります。皆さんの実感としては、如何でしょうか。 たしかに、わずかにでもプラスが残るから、また明日も生きていけるということかもしれません。ですが、順調に生きていても、だんだん年を取り、ときには病気にもなって、いずれは死なねばならないのですから、そういつまでも、「こんなもんだ」と思ってはいられないのが、人生ではないでしょうか。 今回の法話の題に掲げました「無碍の一道」の「無碍」というのは、「さわりが無い」という意味です。「さわりが無い」というのは、「思い通りになる」ということですが、私たちの人生には、思い通りにならないことが、いっぱいありますね。 欲しいと思っても、手に入らないこともありますし、成りたいと思ったようにも、なかなか成れません。また、嫌な用事を押し付けられることもあれば、会いたくない人とも、会わねばならこともある。分かれたくない人とも、いつかは分かれねばならないのです。 昔から、四苦八苦の言葉遊びで、四九(4x9)36,八九(8x9)72で、合わせて108となるから、108の煩悩の数だけ、思い通りにならないことがあると言いますが、そういった、思い通りにならないことの代表格は、やはり、老・病・死でしょうね。 年を取りたくないと思っても、だんだん年老いていきますし、病気になりたくないと思っても、ときには病気になるものです。死にたくないと思っても、いずれは死ぬときがやってくるのです。 思い通りにならないというのは、苦しいことです。ですが、年を取るのが苦しいといっても、20歳の人が21歳になっても、苦しくはないでしょうし、病気になるのが苦しいといっても、鼻風邪ひとつひいたくらいでは、さほど苦しくはないものです。 そうではなくて、年を取ることや、病気になることが苦しいのは、それが死を予感させるときですね。つまりは、老・病・死のなかで、いちばん思い通りにならない、苦しみの原因になっているものは、死だということです。 人生には、思い通りにならない、苦しいことが、いっぱいあります。ですが、つきつめて考えれば、そのいちばん根底にあるのは、死の問題なのです。となれば、この死の問題が解決できたら、生きるのが、ずっと楽になるはずです。 ところが、ことは、そう簡単にはいかないのですね。というのも、私たちには、死の問題を解決するというと、死ななくなるという方向でしか考えられないからです。ですが、これには前例がない。死ななかった人は、歴史上、一人もいないのです。 不老不死を夢見る人は、いまだに後を絶ちませんけれど、実現したという話は聞いたことがありません。ですから、私たちは、死が恐ろしくて仕方がないのです。実際、私たちは、死を、まっすぐに見つめることさえできません。 病院にお見舞いに行って、今にも死にそうな人を見ても、「いや、今日はお元気そうで」などと言うばかりで、逃げるように病室から出てくる。廊下に出たら、みんなホッとした顔になりますでしょう。できたら、こんなところに来たくはなかった。それが、私たちの本音ではないでしょうか。 そんなふうに、私たちは、死が怖くて仕方がないものですから、死に背を向けて、この世にしがみついて暮らしているのです。ちょうど、虎に背を向けて、親猿の胸にしがみついている子猿のようにです。ですが、私たちは、心の奥底では、常に、背後の虎が気になって仕方がないのですね。 如何ですか、そこそこ歳を取ってくると、いつのまにか、新聞の死亡広告欄を毎日欠かさず見るようになりませんか。そんなふうに、知り合いでもない人の死亡広告を毎日見るというのは、そうすることで、なにか安心できるからではないでしょうか。 「45歳で肝臓ガンか。若いのにかわいそうに」と言いながら、心のどこかで、まだ生きている自分に小さな優越を感じて安心する。また、「98歳で肺炎か。歳に不足はないな」と言いながら、その歳になるまで、まだまだ時間があると思って安心する。如何ですか、違いますかね。 皆さんは、お歳は様々ですが、来年の誕生日を迎えられる確率は、どのくらいあると思われますか。厚生労働省が発表している簡易生命表によりますとね、現在64歳までの方なら、99パーセントの確率で、来年の誕生日を迎えることができるそうです。80歳の方でも、ほぼ94パーセントの確率です。 安心なさったかもしれませんが、残念なことに、統計は、個人には当てはまらないものなのです。99パーセントの確率で、来年の誕生日を迎えられると言っても、残りの1パーセントに入らないという保証は全くないのです。 科学が進んだら、もっと長生きできるようになると考える方もおられますけれど、それはどうでしょうか。日本人の3大死因は、悪性腫瘍、心疾患、脳血管疾患ですが、たとえ、科学が進んで、悪性腫瘍(癌)で死ぬことがなくなったとしても、平均寿命は2年しか延びないと言われています。 「死を避けようと逃げ回ってみても、結局、死に向かって走っているだけだ」と言った人がありましが、たしかに、いくらジョギングをしようが、無農薬野菜を食べようが、誰しもいつかは死ぬのです。私たちは、死を約束された世界に生まれてきたのです。 では、死の問題は解決できないのかといえば、そうではありません。お釈迦様は、死の問題を解決するために出家なさって、6年間の修行ののちに、お悟りを開かれました。つまりは、死の問題を解決なさったということですが、それは、もちろん、死なない方法を見つけられたということではありません。そうではなくて、お釈迦様は、「無我」を悟られたのです。 「無我」というのは、簡単に言えば、死んでいくもののなかに「私」はいない、ということです。死ねば、いずれ身体はバラバラになって無くなってしまいますが、その無くなってしまうもののなかには「私」はいない。それが、「無我」の教えです。 私たちは、この身体が「自分」の全てだと思っています。ですから、死ねば「自分」が無くなってしまうと思って、必死になって身体にしがみついて生きています。しがみついているから、苦しくて仕方がないのです。 ところが、身体は死んでも、その死んでいくもののなかに「自分」がいないとなれば、話は別です。しがみつく必要はない。「死んでも大丈夫」なのです。 「死んでも大丈夫」といっても、それは、命を粗末にするということではありません。お釈迦様でも、山の上から岩が転げ落ちてきたら、よけられたに違いないのです。そうではなくて、この世にしがみつかなくとも大丈夫だということです。 私たちの真実の姿は「無我」なのです。この「無我」を、瞑想によって体得していく道を、お釈迦様はお説きになったわけですが、この教えは、なかなか難しかった。 そこで、その「無我」の教えを、誰にでも分かるように、別の形で説かれたのが、「浄土の教え」、「お念仏の教え」なのです。 これまでに何度もお話してきたことですが、やはり、目に見える手掛かりがあった方が、分かりやすいと思いますので、また、例の図をご覧になって頂きながらお話することにいたします。 これは、お馴染みになりました、私たちの「いのちの全体像」です。海底から立ち上がって海に浮かぶ島を、横から見たような形になっていますが、水平線から上が「目に見える世界」で、水平線から下は「目に見えない世界」です。 水平線から上の、「目に見える世界」だけで考えれば、私たちは、ちょうど海に浮かんでいる島のようなものです。ひとつひとつの島が、バラバラに海に浮かんでいる。名前も違えば、姿形も違います。あなたは、あなた。私は私。私とあなたは、別の人間です。 ですが、海に浮かんでいるように見える島が、実際には、みんな海底でつながっているように、「いのち」の奥底では、「私」も「あなた」も、みんなつながっていて、「ひとつ」なのです。 私は、旅行パンフレットの写真で見ただけですが、ハワイ諸島を上空から見ると、ハワイ島、マウイ島、オアフ島、カウアイ島、モロカイ島など、名前も姿形も違う沢山の島が海に浮かんでいますね。ですが、海に浮かんでいるというのは言葉の文(あや)でして、目に見えない海底では、みんなつながっていて、ひとつなのです。私たちも、そうなのです。 この海底の領域は、「私」も「あなた」もない世界です。つまりは「無我」です。「仏性」とか「浄土」とか「阿弥陀仏」とかいうのも、みんな、この領域のことです。本来、私たちはみな、このひとつの「大きないのち」を生きているのです。 ちょっと余談ですが、ハワイの飛行場に着くと、現地の人が「アロハ」と言いながら、観光客の首にレイという花輪を懸けてくれるそうですね。あの「アロハ」という言葉は、英語ではアイ・ラヴ・ユーと訳されているようですが、もともとは、「あなたと私は、いのちのエネルギーを共有している」という意味なのだそうです。ハワイの人たちも、おそらく、「いのちの真実」に気づいていたのだと思いますね。 話を戻しましてね、この水平線から上の部分は、死ねば無くなってしまうものす。ですが、私たちは、死んでも終わらないのです。死ねばみな、この「大きないのち」の世界へと帰っていくのです。 私たち門徒は、この「大きないのち」の世界を「お浄土」と呼んでいます。私たちはみな、お浄土から生まれてきて、また、そのお浄土へと帰っていくのです。それが、私たちの「いのち」の真実の姿なのです。そして、その「いのち」の真実を説く教えが、「浄土の教え」なのです。 私たちは、死ねば終わりだと思っているから、世間の価値観を握りしめ、身体にしがみついて生きているのです。ですが、本当は、死んでも終わらないのです。「死んでも大丈夫」なんですよ。そのことを、常に思い出し、心に深く刻みつけておくために、仏様から頂いたのが、「お念仏」なんです。 お念仏とともにある生活のなかで、「死んでも大丈夫」だと、心から思えたら、死ぬことは深刻な問題ではなくなります。死ぬことが深刻な問題でなければ、この世に深刻な問題など何もありません。これほど心安らかに生きられる道はないと思いますね。 ねえ、皆さん。私たちは、「世間、世間」と、世間にしがみついて生きておりますけれど、「世間って、なんぼのもんや」という発想も大切なのではないでしょうかね。「こんな時代に、毎日明るく爽やかに生きていける人は、病気だ」と言った人がいますが、世間というのは、いつの時代でも、こんなものなのです。 いつも申しますように、世間というのは、「他の誰よりも我が身が可愛い」という煩悩の支配する世界です。つまりは、欲望の渦巻く世界です。仏法は、そんな世間の役に立つ教えではありません。 役に立つというのは、便利な道具になるということです。仏法は、世間の便利な道具になる教えではなくて、そんな世間を捨てていく、出世間の教えなのです。つまりは、「世間って、なんぼのもんや」という教えなのです。 私たちは、世間にしがみつき、世間の価値観にとらわれているから、生きるのが苦しいのです。「世間の役に立たねばならない」とか、「幸せにならねばならない」とか、そういった、こう生きねばならないという世間の価値観を絶対視しているから、苦しいのです。「世間なんか、どうなってもよい」のです。「人は、どう生きてもよい」のです。 「世間のことは、どうなってもよい」などと申しますと、いかにも捨て鉢なことを言っているように聞こえるのですが、そうではありません。「捨て鉢」というのは、未練たらたらでしがみつくことです。そうではなくて、「どうなってもよい」というのは、世間にしがみつかないということなのです。 「どうなってもよい世間」では、「どう生きてもよい」のです。とはいえ、ただひとつだけ、忘れてはならない大切なことがあるのです。それは、煩悩のない仏様が説かれた「お念仏の教え」とともに歩むということです。 「お念仏の教え」とは、先ほどもお話いたしましたように、「私たちはみな、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰っていくのだ。目に見える世界では、名前も姿形も違ってバラバラに生きているけれども、本当は、大きなひとつの命を生きている、いのちの仲間なんだ」という教えですね。 この、「私たちはみな、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰っていくのだ」ということが、心にストンと落ち着けば、この世にしがみつくこともないでしょう。 また、「あなたも私もない、みんな、ひとつの大きな命を生きている、いのちの仲間なんだ」ということが、本当に納得できれば、人を許し、受け容れることもできるようになるでしょうね。 人生は、よく、旅にたとえられます。私たちは、「浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰っていく」のですから、まさしく、旅をしているようなものです。なのに、私たちは、旅をしているということを忘れてしまっているのですね。 「郷に入れば、郷に従え」と言いますが、私たちは、「この世」という郷に入って、郷に従っているうちに、「この世」が全てだと思い込むようになってしまったのです。「この世」が全てだと思い込んで、「この世」にしがみついて生きるようになってしまったのです。 ですが、本当は、私たちは、「この世」を旅しているだけなのです。国立公園を旅しているように、ここからは何も持って帰れないのです。持って帰れるのは、旅の経験だけなのです。 人は、掌を握って生まれてきて、掌を開いて死んでいきます。若いうちは、何かを手に入れようと、全力を尽くし、努力することも大事です。ですが、ひと歳越せば、手放していくことが大切になるのです。 最近、ニュースを見ていたら、「握ったものは決して手放すな」などという家訓を先代が残したがために、苦しんでいる人がいましたけれど、たしかに、世間を、いつまでも握り締めていたら、苦しくて仕方がないでしょうね。 ビジネスの世界でも、伊藤忠商事の初代のように、「たとえすべての事業・財産を失うことがあっても、他力安心の信心を失ってはならない」と遺言して亡くなった方もおられました。「商売は忘れても、毎日のお勤めは忘れるな」というのが、この会社のモットーだと聞いています。 「ビジネスはダメだ」というのではないのです。何をしてもよいのです。どう生きてもよいのです。「お念仏の教え」、「浄土の教え」さえ、忘れなければ。 「浄土の教え」は、「死んでも大丈夫」という教えです。「死んでも大丈夫」といっても、それは、命を粗末にするということではありません。そうではなくて、この世にしがみつかなくとも大丈夫だということです。この教えのままに生きられたら、どれほど人生が楽になるだろうと思いますね。 聞法を重ね、お念仏を称えながら、この教えを、常に思い出し、心に刻みつけて生きていけば、あとは、どうなってもよい、どう生きてもよいのです。これほど楽な生き方はありません。 「どう生きてもよい」と聞けば、「それなら、泥棒をしてもよいのか、人殺しをしてもよいということか」と言う人が、必ずでてきます。ですが、そんなことは、お念仏を称えていない人が、頭で考えて言うことです。煩悩が言わせているだけのことです。 煩悩にまみれた私たちが、この世で為すことは、善でも悪でもなくて、みんな「偽り」なのです。「偽り」という漢字は、「人偏」に「為す」と書くでしょう。「人」の「為す」ことは、みな「偽り」だということです。偽りのない「まこと」は、煩悩のない仏様の言葉だけです。 そのことが本当に分かったら、この世のことは「どうでもよい」、人は「どう生きてもよい」のです。ただただ、「お念仏」を称えながら生きればよいだけなのです。 「お念仏」とともに生きる人生には、何の障りもない。この世を旅していく道には、何の障害物もない。つまりは、「無碍」です。それが、『歎異抄』に記されている「念仏は無碍の一道なり」という言葉の意味です。 と、ここまで話してきましてね、ふと思うのです。自分で話しておいて、こんなことを言うのも申し訳ないのですが、どうも、しっくりこない。どこか威勢がよすぎるのです。そこで、こんなまとめかたは許されないかもしれませんが、最後に、私自身の話をいたしまして、帳尻を合わせておきたいと思います。 「死んでも大丈夫」といっても、実は、ことはそれほど簡単ではないのです。「死んでも大丈夫」というのは、仏様の言葉なのです。私たち凡夫は、仏様の口真似はできても、なかなか「死んでも大丈夫」とは思えないのです。死にたくない、死ぬのが怖いのですね。人ごとではありません。私自身のことです。 以前、九州の宮崎の大学から招かれまして、お話をさせて頂くことになりましてね。そのときのことです。先方さんは、ご丁寧に、航空券を送ってきてくださいました。ところが、私は、いささか高所恐怖症なものでして、飛行機というものが大の苦手なのです。 ですが、飛行場まで迎えに来てくださるということで、折角のご厚意でもありますので、「まあ、死んでも大丈夫」と、目をつぶって、飛行機で行くことにしたのです。で、どうだったか。宮崎空港に着くまで、本当に目をつぶったまま、脂汗にまみれて、座席の肘掛けにしがみついていました。「世間にしがみつく」というのは、こういうことを言うのでしょうね。 飛行機が落ちるときには、座席ごと落ちるのですから、そんなものにしがみついても仕方がないのですが、しがみつかずにはおれないのです。頭では、「死んでも大丈夫」と思っている。思っているのに、身体は、別の反応をしている。頭というものが、いかに頼りないものかと、つくづく思いましたね。 そんなとき、お念仏を称えても、全然だめですね。口では、お念仏を称えているのですが、頭の中はパニックになっている。で、そのパニックになった頭の中で、途切れ途切れに考えているのです。「こんなことで、はたして話ができるのだろうか」と。なにしろ、「死んでも大丈夫」という話をしにきたのですからね。 で、虫の息で飛行場に着きましたが、そこで、やっと思い出した言葉があります。それは、『歎異抄』に出てくる、「仏かねてしろしめして」という言葉です。その言葉を思い出したお陰で、何とか、お役を果たせたわけですが、「仏かねてしろしめして」というのは、「仏様は、そんなことは、もともとご承知の上で」という意味です。 「そんなこと」というのは、私たちを支配している煩悩は、それほどヤワではないということです。何度も何度も聞法して、「死んでも大丈夫」だと、いくら頭で納得しても、「はい、そうですか」と、あっさり手を引くほど、煩悩はヤワではないのです。「世間って、なんぼのもんや」と、手を放したつもりが、反対の手で、しっかり握りなおしている。それが、私たち凡夫の姿なのですね。 ですが、そういう、どうしようもない凡夫だと、仏様はもともとご承知の上で、そういう凡夫だからこそ、お念仏を称えなさいと、勧めてくださっているのです。つまりは、死を恐れながら、お念仏を称えてもよいということです。 どんなお念仏でも、凡夫の称えるお念仏は、仏様のおこころに叶っている。つまりは、どんなお念仏でも、おかまいなし、おさしつかえなし、なのです。 思いますに、私たちは、お念仏で救われるのではないのでしょうね。救われようと思って称えるお念仏は、まだ、私たちには何かができると思って称えるお念仏でしょう。 そうではなくて、お念仏を称える以外に何もできないと気づいたときに、お念仏そのものが救いであったと、分かるということではないでしょうか。 「世間って、なんぼのもんや、お念仏ひとつや」。それはそれでよいのでしょうが、それでよいというところに胡座をかいてしまうと間違えてしまうのです。そういう理解を、昔の人は、「極楽を通り過ぎる」と言って、戒めています。 「念仏は無碍の一道」です。ですが、この道は、広くはないのです。私にはまだ、山の稜線に続く、細い小道のように思えます。眺望が開けて、ながめはよいのですが、一歩間違えると谷底まで落ちて行きそうです。 落ちてもよいのだと言えば、それはそうなのですが、先の方に、なにやら開けた場所が、あるようにも思えます。そこまで行けたら有り難いと、今は、思っております。 お釈迦様は、お亡くなりになる少しまえに、「人生は甘美だ」とおっしゃったそうですが、しがみつかずに、味わう人生は、さぞ甘美なことでしょうね。 しがみつかずに、味わう人生は、どんなに甘美な味がするのか。それを、皆さんとご一緒に味わってみたいと、心より願っております。どうぞ、皆さん、ご一緒に、お念仏を称えてまいりましょう。しがみついている手を開いていく道は、お念仏にしかないのですから。 さて、本日は、これで終わらせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますように、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ
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