本日は、お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁を頂戴いたしましたことを、有り難く存じております。 さて、本日は「報恩講」です。この「報恩講」というのは、親鸞聖人の祥月命日のお勤めです。親鸞聖人は、今から743年前の、弘長2年(1262年)11月28日に、90歳でお亡くなりになりました。その親鸞聖人の御遺徳を讃え、ご恩に報いる集いが、報恩講です。 この時期には、本山をはじめ、全国の真宗寺院やご門徒のご家庭で、報恩講の法要が勤まります。本山であっても、他の寺院であっても、ご家庭であっても、規模は違いますが、することは、ほぼ同じです。丁寧に正信偈をお勤めして、法話を聞き、御斎(おとき)を頂きます。 小さい頃は、この御斎が楽しみで、それこそ指折り数えて、報恩講の日を待っておりました。大勢のお参りの方々と一緒に、ごちそうを頂く。これが嬉しくて、私の頭の中には、「報恩講、イコール、ごちそうを頂く日」という、いささか不謹慎な等式ができあがっておりました。 それが、大きくなりましてね、報恩講というのは、「親鸞聖人のご恩に報いる法要だ」と教えられました。実は、私は、この「親鸞聖人のご恩に報いる」ということが、長い間、分からなかったのです。 「ご恩に報いる」というのは、「恩返しをする」ということだと思ったのです。ところが、親鸞聖人は、もう700年以上前に亡くなっておられるのです。今おられない人にご恩返しをするというのは、どういうことか分からなかった。 皆さんは、いかがですか。「よく分かっている」とおっしゃる方は、いいのですけれど、ひょっとすると、以前の私のようにお感じの方もおられるかもしれません。 そこで、今回は、この「報恩」という言葉をテーマにいたしまして、「親鸞聖人のご恩に報いるとは、どういうことか」という話をさせて頂こうと思っております。 例によって、思いつくままの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いくださいますよう、お願いいたします。 さて、前回の永代経法要の話は、今年の夏にはセミの脱皮を見たという話から始めましたが、別に夏の間じゅうセミの脱皮ばかり見ていたわけではありませんでね、実は、暇な時間はほとんど、韓国ドラマにはまっておりました。 「冬のソナタ」ではないですよ。まあ、あれも見ましたけれど、はまっていたのは、韓国の時代劇です。NHKで、「チャングムの誓い」という韓国の歴史ドラマを放送しておりまして、ご覧になった方もおられると思います。 家内があのドラマを見ておりますときに、横で仕事をしながら、チラチラと見ておりまして、私の方が、次の放送日を待てなくなりましてね。韓国のテレビ放送から録画したDVDを、ゆずってもらいました。 これが非常に良かったものですから、それで、韓国の歴史ドラマにはまってしまったのです。そんなわけで、ひと夏、テレビ漬けになっておりました。坊さんは、金は無くとも、暇があるのです。 どのドラマも16世紀頃の話でしたが、礼儀作法から人情の機微までと言いますか、お辞儀するタイミングから、心遣いの在り方まで、実に日本人とよく似ているのです。言葉を換えて言えば、儒教的なのです。 当時、韓国は、儒教と仏教の国でした。儒教というのは、宗教ではなくて、倫理の教えです。日本も、古来、倫理の基本は儒教でしたから、そういう点でも、この韓国のドラマを、非常に身近に感じたのだろうと思います。 その儒教の教えのためか、「このご恩は生涯忘れません」とか、「一生恩に着るから助けてくれ」とか、「あのときの恩を返せ」とか、「これで恩は返したぞ」とか、そういう科白(せりふ)がよく出てくるのです。 近頃は、「恩」などという言葉は、あまり使われなくなりましたが、お歳を召した方々には、結構馴染みのある言葉ですね。しかし、この韓国ドラマに出てくるような、返すとか返さないとかいう「恩」は、倫理や道徳でいう「恩」でして、仏教でいう「恩」とは、かなり違うのです。 では、どう違うのか、ということになるのですが、まずは、倫理や道徳でいう「恩」とは何か、というところから、お話いたします。そんなに難しい話ではありませんので、しばらくお付き合いください。 倫理や道徳というのは、社会の中で、人と人とが、折り合いをつけて、うまくやっていくための約束事です。私たちは、みな、自分の思い通りにしたいという欲がありますけれど、もしも、みんなが自分の欲望のままに動いたら、結局は、誰もが他人の欲望のために困ることになります。 たとえば、私が、夜中に、大声で歌いたくなったとしますね。もし、その思いのままに、大声で歌い出したとしたら、隣の人は、えらい迷惑です。その反対に、隣の人が、庭でゴミを燃やしたいと思って、その思いのままに、ボンボン燃やしたりしたら、今度は、私の方が、困ります。 そういうことでは、誰もが暮らしにくくて困るものですから、約束事が必要になる。そこから生まれた約束事、つまり、お互いの欲望に折り合いを付ける約束事ですが、それが、倫理や道徳です。 たとえば、絵に描いてみると、こういうことです。ここに二つの丸があります。こちらの丸が「私」だとすると、もう一つの丸が隣の人です。それぞれの丸には、栗のイガのようにトゲが生えています。このトゲというのは、欲望のことです。 二人の欲望のトゲがぶつかり合うと、互いに痛くて仕方がない。そこで、ふたつの丸の間に線を引いて、ここからは、互いに踏み込まないという約束をする。そういう約束が、倫理や道徳なのです。 忘れてはならないのは、倫理や道徳は、誰もが欲望を持っていることを認めたうえで成り立っているということです。つまり、一方的に、誰かが得をしたり、損をしたりするような関係は、倫理や道徳では認められていないということです。 誰かに親切にされたら、感謝する。何かをもらったら、お返しをする。ギブ・アンド・テイクですね。それが倫理や道徳ですから、「恩」を受けたら、相応の「恩返し」をすることが期待されている。それが、倫理や道徳での「恩」です。返すとか返さないとかいう「恩」は、これのことです。 もちろん、社会に暮らす私たちにとって、「自分」と「他人」との関係というものは、大事なことですから、倫理や道徳は大切です。義理堅いのは結構なことです。 ですが、まあ、そんな義理堅い人ほど、「倫理や道徳は、ギブ・アンド・テイクだ」などと言うと、不愉快になられるのかもしれません。「私がした親切は、ただ形だけのことではなくて、ちゃんと心がこもっているのだ」と、思われるかもしれませんね。 たしかに、そうかもしれませんが、ちょっとお考えになってみてください。誰かに親切にしたら、「ありがとう」の一言でも返ってこないと、不愉快になりませんかね。 「いや、感謝などされなくとも、自分は正しいことをしたのだから、それで満足だ」とおっしゃるのなら、それは結構なことですけれど、その場合でも、「自分は満足している」という自己満足という形で、ちゃんとお返しをもらっているのではないでしょうかね。 「形だけのことではなく、心がこもっている」と言いますが、仏教で問題にしているのは、どこまでも「自分は正しい」と思っている、その「心」なのです。ようやく、仏教の話です。 仏教でいう「恩」は、返すとか返さないとかいう「恩」ではありません。最初に、ちょっと理屈っぽい話をいたしますが、「恩」というのは、仏典が書かれている古いインドの言葉で、「クリタ」といいます。「クリタ」というのは「なされたこと」という意味です。 また、「報恩」というのは、同じく、「クリタ・ジュニャー」といいます。「クリタ・ジュニャー」というのは「なされたことを知ること」という意味です。 「なされたこと」というのは、ただの事実関係のことではなくて、他の誰のためでもない、この「私」のために「なされたこと」という意味です。そうでないと、「恩」という言葉が、無意味になってしまいますね。 つまりは、「なされたこと」が、他の誰のためでもない、「この私のためだ」と「知ること」、それが、仏教でいう「恩に報いる」ということなのです。「恩を知る」ということですね。 ですから、「親鸞聖人のご恩に報いる」というのは、親鸞聖人によって「なされたこと」が、他でもない、「この私のためだった」と「知ること」なのです。親鸞聖人に、何かをお返しするということではないのです。 では、親鸞聖人によって「なされたこと」というのは何か。それはです、「凡夫が救われる道は、お念仏しかない」と教えてくださったことです。「なされたこと」は、分かりましたね。では、誰のためになされたのか。 「凡夫が救われる道は、お念仏しかない」。呼びかけられているのは、「凡夫」です。「凡夫」だけが、自分への呼びかけであることを知るのです。 たとえばね、「おーい、そこの帽子をかぶっている人」と、誰かが呼びかけたとしますね。そうしたら、帽子をかぶっている人だけが、「ああ、私のことだ」と分かるでしょう。 それと同じで、自分が「凡夫」だと分かったとき、はじめて、親鸞聖人が「凡夫が救われる道は、お念仏しかない」と教えてくださったのは、この「私」のためだったと知るということです。 「私のためだった」と知れば、お念仏を称えるようになるでしょう。つまりは、「凡夫の自覚」を獲て、お念仏を称える身となる。それが、親鸞聖人のご恩に報いるということなのです。 まあ、救われたいとも、凡夫だとも思っていない人にとっては、さしあたっては他人事ですけれど、関心のある方々にも、これだけでは、なかなか分かりにくいと思いますので、少し順序立てて、お話いたします。実は、ここからが、本日の話の核です。 さて、まず、仏教では、この世界の在り方のことを、「法」と言います。 「法」という漢字は、「さんずいへん」に「去る」と書きますが、水が流れ去る姿をあらわした字です。水は高きから低きに流れます。決して、低きから高きに流れることはありません。 つまりは、水が高きから低きに流れるように、在るがままに在ること。それが、「法」です。「法」というのは、この世界の真実の姿のことです。 「自然法爾」(じねん・ほうに)という言葉がありますが、これは、「自然(じねん)とは、法のごとくに在ること」という意味です。 「自然」(じねん)というのは自然(しぜん)と書きますけれど、「自然」(じねん)と自然(しぜん)は違います。 たとえば、私たちは、山の中でキャンプなどして、自然(しぜん)に親しむなどと言いますように、自然(しぜん)には、「人」が含まれていないのです。「自然」(じねん)というのは、そうではなくて、「人」をも含めた全世界の在り方をいいます。 私たちをも含めた全世界は、法のごとくに、つまりは、水が高きから低きに流れるように、サラサラと流れている。私たちの身体の中でも、血液がサラサラと流れている。何故かは分からないが、そうなっている。この「そうなっている」というのが、「法」なのです。 ところが、この世界で、ひとつだけ、「法」の流れに逆らっているものがある。それは、私たちの「心」です。 私たちは、自分の悩みや苦しみの原因が、自分の外にあると思っています。悪口を言われて腹が立っても、腹が立った原因は、悪口を言った他人にあると思っている。ですが、本当の原因は、私たちの内にある。「法」に逆らっている「心」にあるのです。 それなのに、私たち「凡夫」には、そのことが、なかなか分からない。「凡夫」というのは、普通の人という意味ですが、さきほどのお勤め、『正信偈』の言葉で言えば、「邪見驕慢悪衆生」(じゃけん・きょうまん・あくしゅじょう)です。 「邪見」というのは、自分は正しいと思っていること。「驕慢」というのは、おごり高ぶって、人をあなどっていることです。つまりは、自分は正しいと思って、おごり高ぶり、人をあなどっている、そんな悪人が、普通の人(凡夫)なのです。これが、仏教の認識です。仏様は、私たちを、悪人だとおっしゃっているのです。 ところが、私たちは、そうは思っていない。正しいことばかりしているわけではありませんから、善人だとは言いにくいのですが、悪人だとは、決して思っていませんね。私たちの問題は、そこにあるのです。 私たちには、本当に、自分の姿が見えていませんね。あるところへお参りに伺いましたときにね、そこのお姑さんが、こうおっしゃるのです。「ご院さん、今は時代が違いますでね、若い者には、何も言わんことにしてます」と。 そこへ、若嫁さんが戻ってこられた。そうしたら、お姑さんは、「あんた、何処へ行ってたんえ、何してたんえ、昨日のお客さんは何の用やったの、さっきの電話は誰やったの」と、まあ、こうです。若嫁さんは、暗い顔して、下がられましたけどね。 それで、私が、「いや、結構おっしゃってますよ」と言いましたら、こうです。「親子の間で、声かけんのは水くさいでしょ。私、気いつこてますね。そやのに、あれですわ。こっちが気いつこて、こんな我慢しているのに、何が不服や。いっぺん言うたらなあかん思てますね」と。「そら、何も言わんどころか、言い過ぎやないか」と、私は、腹の中で思いましたけどね。 皆さん、笑ってらっしゃいますけど、他人事だと、思っていらっしゃるでしょう。私たちは、なかなか、自分の姿は見えないのですよ。ですからね、「私は、これだけ気を遣っているのに」、「こんなに我慢しているのに」、「いっぺん言うたらなあかん」などと思うことがあったら、ぜひ、今日の話を思い出してみてくださいね。 まあ、なかなか、本心から自分が悪かったと気づくというのは、難しいことですね。私たちには、頭を下げることはできても、頭が下がるということは、まずありませんものね。たとえば、交通事故かなにかで、人に迷惑をかけて、謝りに行っても、倫理や道徳の範囲で、頭を下げているということが、ほとんどではないですか。 相手があんまりひどいことを言うと、「迷惑をかけたと思うから下手に出てやっているのに、付け上がりやがって」と、すぐに頭が上がってくる。そして、「あんたが、そこまで言うのなら、こっちにも言い分がある」ということになってくる。 私たちは、頭を下げても、自分は正しいと思っているのです。まず第一に、こういう場合には、頭を下げるのが正しいことだと思っている。ですから、自分は正しいことをしているのに、そういう対応をするのは、相手が間違っている、ということになるわけです。 わたしたちの心の中には、「自分は正しい、自分は間違っていない」という、「常に自分を肯定する思い」があります。そのために、様々な問題が起こってきて、悩んだり苦しんだりすることになるのですが、そのことが、また、私たちには分かっていないのです。そんな自分の姿が見えたら、大きく変わるのですがね。 以前、こんな話を聞いたことがあります。石川県の松扉哲雄という有名なお坊さんが、NHKの「こころの時代」という番組でお話になったものです。 ある母子家庭のお母さんが、松扉先生に、愚痴をこぼしにきて、こう言われた。自分は町工場に働いていて、残業残業で、買い物にも行けなかったので、中学生の男の子に、何日か続けて、カツオブシをふりかけた弁当を持たしてやった。そうしたら、三日目の朝に、その男の子は、「母さん、僕は猫の子やないぞ」と、弁当をはたき落として、飛び出して行った。 父親のいない子だと世間様に笑われないように、私が歯を食いしばって頑張っているのに、あの子は、この母親の苦労を、ちっとも分かってくれないで、我が儘なことばかり言う。なんとできの悪い子どもだろうと思うと、悲しくてしかたがない、と。 そしたら、松扉先生は、こうおっしゃった。あんたは、自分は間違ったことはしていないとばかり言うけれど、子どもの身になって考えたことはあるのか。教室で、その子が、弁当を人に見られないように、隠しながら大急ぎで食べている姿を、考えてみたことはあるのか、と。 その話を聞かれて、お母さんは、はっと気づかれた。そして、子どもに、思わず、こうおっしゃった。「母さんが悪かった。あんな弁当、教室で食べるの恥ずかしかっただろうね。ごめんね」と。 そうしたら、男の子は、「母さんの苦労は、よう分かっとる。くよくよせんでええ。卒業したら働いて、うまい物食わしてやるから、もうちょっとの辛抱や」と、ポンと肩をたたいてくれたというのです。 私は間違ったことをしていないのに、なんで子どもが、こんなになるのか。よく聞く話ですが、松扉先生は、まず自分の間違いに気づけとおっしゃっているのです。自分の根本的な誤りに気づいて、「私が悪かった、私が間違っていた」と、頭が下がったら、自ずと、流れが変わるのです。 ですがね、ここで誤解してはいけません。お母さんは、自分が悪かったと知りましたけれど、だからといって、次の日から、立派な弁当を作るようになるということではないのです。残業で忙しくて、次の日にも、カツオブシのふりかけ弁当しか作れないかもしれないのです。 しかし、たとえそうだったとしても、もう、この男の子は、「僕は猫の子やないぞ」とは言わないはずです。お母さんには、もう、「自分は正しい、子どもが悪い」という、自分を肯定する心、子どもを責める心がなくなっていることを、男の子は知っているからです。 これ、不思議だとは、思われませんか。「私は悪人だ」と知ったら、邪見の心も、驕慢の心も、なくなっているのですよ。 「邪見」というのは、自分は正しいと思っていること。「驕慢」というのは、おごり高ぶって、人をあなどっていることでしたね。「邪見驕慢悪衆生」です。 邪見と驕慢の心がなくなったら、悪人は、どうなるのでしょうか。善人になるのでしょうか。そうではありません。善人というのは、自分が悪人であることを知らない人のこと、自分は正しいと思っている人のことです。「いっぺん言うたらなあかん」という人のことです。 では、なにになるのか。親鸞聖人は、「心はすでに如来と等し」(『親鸞聖人御消息』)とおっしゃっています。頭が下がった、その瞬間、心は善悪の世界を超えて、お浄土にいるようなものだ、ということです。その瞬間、救われているのです。 仏様は、私たちを、悪人だとおっしゃっています。ですがね、よく聞いてくださいね。仏様は、決して、私たちが悪人であることを、とがめておられるわけではないのです。そうではなくて、「悪人だ」と教えてくださっているだけなのです。 仏様の目には、在るがままの世界が、在るがままに、映っています。柳は緑、花は紅(くれない)です。梅の木には梅の花が咲き、水は高きから低きに流れ、そして、私たちは悪人なのです。「悪人」だということが、私たちの、在るがままの姿だということです。 この、在るがままの姿が見えていないものですから、サラサラと流れている「自然法爾」の世界のなかで、私たちの周りだけ、水が渦を巻いて、流れが止まってしまうのです。つまりは、悩みや苦しみが生まれてくるということです。 自分の「在りのままの姿」が見えたら、自分の周りで渦巻いていた水は、サラサラ流れ始めて、自然法爾の世界と合流します。 自然法爾の世界というのは、「在るがまま」の世界のこと、仏様の世界のことです。自分が「悪人」だと、本当に分かったら、そこが仏様の世界、お浄土だということです。そのことを教えてくださっているのが、仏教なのです。 以前にもお話いたしましたが、仏教というのは、病人が健康になる教えでもなければ、貧乏人が金持ちになる教えでもない。女が男に成る教えでもなければ、悪人が善人になる教えでもないのです。そうではなくて、悪人が悪人であることに気づくための教え、それが、仏教なのです。 悪人が悪人であることに気づくというのは、つまり、自分は凡夫なのだという「凡夫の自覚」を獲るということです。その「凡夫の自覚」を獲て、つねに忘れないようにするために、仏様が、私たちに与えてくださったのが、「お念仏」なのです。 ご承知のように、お念仏というのは、「南無阿弥陀仏」(ナム・アミダブツ)と声に出して称えることです。称えるときには、「ナマンダブ」と、短くなりますけれど、皆さん、どうぞ、声に出して称えてくださいね。 「心で思っているから、それでいい」とおっしゃる方もありますが、どうぞ声に出して称えてください。それは、自分の耳で、お念仏を聞くためです。自分に言って聞かせるのです。言って聞かさないと分からないのですよ、なにしろ頑固者ですからね。 南無阿弥陀仏というのは、どういう意味かと申しますと、「南無」(ナム)というのは、「そのとうりです」と、頭が下がることをいいます。頭を下げるのではなくて、頭が下がるのです。ここが大事なところです。 「頭が下がる」というのは、反省するということではありません。反省くらいなら、猿でもします。ちょっと言い過ぎましたかね。いや、まあ、実際、猿でもするのですよ。 左手を出してエサをもらえなかったとします。左手でだめだったのだから、右手を出してみる。ああ、エサがもらえた。 過去の自分の行動を振り返って、目的が達成できなかった理由を考える。これが、反省です。つまりは、自分自身も、自分の目的も変わっていない。次の一手の差し方を考えているだけです。 「頭が下がる」というのは、そうではありません。頭が下がるというのは、自分の根本的な誤りに気づくことです。自分の根本的な誤りに気づいたら、もう、次の手などないのです。頭が下がって、「南無」が言えたら、あとは、おまかせなのです。 私たちは「南無」が言えないから、流れが通らないのです。「南無」が言えて、頭が下がったら、水はサラサラと流れ始めて、「阿弥陀仏」の世界に流れ込むのです。そのことを、常に思い出し、忘れないためにあるのが、「南無阿弥陀仏」というお念仏なのです。 頭が下がったら、そこがそのまま、「在るがままの世界」、「自然法爾」です。「在るがままの世界」では、全ては、なるようになるのです。 「なるようになる」というのは、自分の思い通りになるということではありませんが、本当に頭が下がれば、あとは、どういう流れ方をしたとしても、怨みがましい思いは起こらないでしょうね。 仏教で問題になっているのは、他の誰でもない、この「私」なのです。さきほどの絵で示しますと、「私」の丸の下に、もう一つ丸を増やします。これは、「阿弥陀仏」です。「お浄土」です。「本当の自分」です。 倫理や道徳では、横に並んだ二つの丸の関係、「自分」と「他人」の関係が問題になっている。ですが、仏教では、縦に並んだ二つの丸の関係が問題になっているのです。「自分」と「仏」の関係、「自分」と「本当の自分」との関係です。 流れに逆らっていた「私」の頭が下がって、「南無」が言えたら、そこには「仏」の世界がある。「阿弥陀仏」の世界があるのです。そのとき、「私」は「仏」と同じ流れの中にいるのですね。 とはいえ、それは、「仏」になったということではありません。気づかないうちに、頭が上がってきて、何度でも「善人」に戻ってしまいます。ですが、お念仏を称えることができれば、また何度でも、「悪人の自覚」が立ち上がってくる。それが、お念仏の力です。 さきほどの絵ですが、ここには、三つの丸が描いてありますね。「私」の丸の横には、「他人」の丸があり、「私」の丸の下には、「仏」の丸がある。「私」は、「他人の目」と「仏の目」に、見られているのです。 「他人の目」とは「世間の目」のことですが、「世間が、世間が」と、「世間の目」ばかり気にしているのは、自分を見る「仏の目」に気づいていないからでしょうね。 「仏」は、常に「私」を見ておられるのです。「おやおや。また善人になっているよ。お念仏だよ、お念仏」。その、仏の呼びかけに気づいて、「私」が応える言葉が、南無阿弥陀仏(ナマンダブ)なのです。 安田理深という方が、「仏法を聞くと本当のことが分かる、というより、自分の誤っていたことが分かるのだ」とおっしゃっています。お粗末な自分の姿を見せてくれるのが、お念仏です。そして、そのことを、常に思い出させてくれるのが、お念仏なのです。 いろいろお話してまいりましたが、うっすらとでも、お分かり頂けましたでしょうか。最後に、ひとことでまとめておきます。「お念仏を称える身となって、凡夫の自覚に生きること」、それが、親鸞聖人のご恩に報いるということなのです。 「仏教なんか、なんの証拠もない、お伽噺みたいなものだ」と言う人もあります。他人事として見るなら、そうかもしれません。ですがね、お念仏を称える身となれば、この「私」自身が証拠になる。「私」自身が、証拠となって、仏法を証明する。それが、この報恩講の意義なのです。 さて、そろそろ、店じまいにかかります。今月には、本願寺様でも、報恩講が勤まります。テレビのニュースなど見ておりますと、「全国から善男善女が集まって」などと言っておりますけれど、「善男善女」が集まったのでは、報恩講にはなりません。 我が身をよくよく見てみれば、「ああ、仏様のおっしゃっていたとうり、私は鬼でした」と、頭が下がって、お念仏を称える身となった。そんな「悪人」が集まって、はじめて報恩講が勤まるのですね。 私たちは、たいてい、ことさら善人だとも思っておりませんけれども、決して悪人だとは思っていない。「私も悪いかもしれないけれど、あいつの方が、もっと悪い」というのが、私たちです。ですがね、本当に、自分が悪かったと思えたら、きっと楽になりますよ。 私たちの心は、時計のゼンマイみたいなものでして、善人だと思っている人の心では、ゼンマイがぎりぎりまで巻き締めてある。これは、ゼンマイにとってみれば、一番苦しい、不自然な状態です。 ところが、「悪人」だと気づいた人の心では、ゼンマイが完全に緩みきっている。ゼンマイにとっては、これが一番楽で、自然な状態です。つまりは、これが、心の本来の「在るがまま」の在り方なのです。「悪人」だと気づいたら楽になるというのは、そういうことなのです。 心のゼンマイは、急にはじけて緩むこともあれば、じわじわ緩んでいくこともある。「パンと、はじけないとダメだ」と言う人もありますけれど、どちらになるかは、その人の縁によるのだろうと思います。 実際、お念仏を称えても称えても、なかなか「悪人」にはなりきれませんね。お念仏を称えていると、「こんなつまらん奴はおらんな」と、頭が下がってくる。ところが、その尻から、「我が身のつまらんことを知らん奴より、ましかもしれん」と、またぞろ、頭が上がってくる。本当に、つまらん奴です。 念仏詩人の榎本栄一さんの詩にも、こういうのがあります。「木の上」という詩です。
うぬぼれは 木の上から ボタンと落ちた 実際、頭は、下がったり上がったりです。ですが、下がったり上がったりしているうちに、だんだん、下がる回数が増えてくるのですね。 「わかっちゃいるけど、やめられない」という歌の文句がありましたが、その反対の、「やめられないけど、わかっちゃいるのだ」ということが、お念仏を称える身には、大切なのだと思います。 まあ、凡夫は凡夫のままで、落ち着くところへ落ち着くのです。腹の内には、お粗末な話が山のようにある。そんな話は、人には言えん。お粗末な腹の内は、阿弥陀様だけに、こっそり見せる。 恥ずかしながら、私のお念仏は、そんなものですが、これからも、皆さんとご一緒に、お念仏を称えさせて頂きながら、ご恩に報いていきたいと思っております。 では、本日は、これで終わらせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますように、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…
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