釋昇空法話集・第33話

ドングリの教えてくれること

仏の「いのち」を生きている

(2006年3月21日 彼岸会法話)
 お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労様でございます。不順な天候がつづいておりますが、今日は、お彼岸のお中日ですので、もうそろそろ、落ち着いてくるころですね。

 春は気分がいいですね。散歩にもいい季節です。このあいだ、天気の良い日に、犬をつれて近くの公園を散歩しておりましたら、ドングリが落ちておりました。ぼんやりと、それを見ておりますうちに、子どもの頃を思い出しましてね。

 子どもの頃は、まあ、学校の勉強は嫌いでしたが、本を読むのは好きでしてね。よく窓際の日だまりに座布団を一枚敷いて、寝ころんで本を読みました。座布団にお日様の匂いがして、木漏れ日がページの上に落ちて、時間が止まっているような、至福のひとときでした。

 と言いましても、本の虫だったわけではありませんで、野山をうろつき回ることも好きでしてね。拾い集めた小さな虫や、小石や、ドングリで、いつもポケットが一杯になっていました。蜘蛛の卵を拾ってきたときには、一晩で、卵がかえってしまいましてね。朝起きたら、天井が蜘蛛の子だらけになって、えらく叱られたことがあります。

 その頃には、気づかなかったのですが、ドングリというのは、不思議に、のどかでおおらかな顔をして、転がっているのですね。

 戦時中に、ドングリを食料になさった方には、ドングリを見ても、とてもそうは思えないかもしれませんが、私に、ドングリが、そんな顔を見せてくれたことも、ひとつの「ご縁」かと思います。

 それを見ておりますうちに、ふと気づくことがありまして、「ああ、今度はこの話にしよう」と思いましてね。それで今日は「ドングリの教えてくれること」という題で、お話することにいたしました。

 「ドングリの話なんて、坊さんて、のんきなもんやな」と思われるかもしれませんが、中身は、やっぱり仏教の話です。ひょっとすると、また、理屈っぽい話か、とりとめもない話になってしまうかもしれませんけれど、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、これが、そのドングリですが、これはカシの実のようです。それで、このドングリを見ていて、何を思ったのかと申しますとね、「このドングリは、いまは眠っている。眠っているけれど、目覚めたら、必ずカシの木なる」ということなのです。

 「カシの実が、カシの木になるのは、あたりまえだ」とおっしゃるかもしれませんが、これは、すごいことだと思うのです。

 このドングリは、何の迷いもなく、まっすぐに、カシの木になっていく。それに比べて、私たちは、どうでしょうね。このドングリのように、まっすぐに進んでいく方向を知っているでしょうか。

 私たちは、人の子どもとして生まれてきて、人として成長していくわけですが、人として成長していくというのは、どこに向かって成長していくことなのでしょうか。皆さんは、どう思われますか。

 テレビを見ておりますと、人として成長するなどということは、まず話題になることすらありませんね。話題になっているのは、たいてい、健康で生き甲斐のある、豊かな生活か、有名人のゴシップだけです。

 最近は、しきりと、「勝ち組、負け組」という言葉が使われるようになりました。「勝ち組、負け組」なんて、嫌な言葉ですが、どうやら、現代人の関心は、勝ち組になって、豊かな生活をすることだけのようですね。ですが、勝ち組になって、豊かな生活をすることが、人間の進むべき道だというのでは、ドングリにさえ笑われそうな気がしますが、どうでしょうね。

 ちょっと余談ですがね、テレビのニュース番組なんかを見ておりますと、いろいろ悲惨な事件や深刻な問題を伝えたあとで、アナウンサーが、「さあ、つぎはスポーツです!」と、にこやかに話題を変えますが、あれに、ものすごく違和感を抱くのは、私だけでしょうかね。

 まるで、「社会にはいろいろありますけれど、まあ、あんまり深刻に考えずに、楽しい話をしましょう」という感じなのですよ。スポーツニュースが悪いというわけではありませんが、どうもあれには、妙に疲れを感じることがあります。

 まあ、それはともかく、改めて、「人は、どう生きていけばよいのか」と問われると、ほとんどの人は、戸惑ってしまいます。

 「さあ、そんなこと考えたことありませんけど、社会の役に立つ人間になるということとちがいますか」とおっしゃる方が結構多い。

 また、「別に決まった道なんかないでしょう、自分の可能性を試して生きていくだけです」とか、「他人に迷惑をかけないことなら、何でも、やりたいことやったらええんとちがいますか」とか、「生まれてきたついでに生きているだけだ」とおっしゃる方もある。

 正直に申しますとね、どんなお答えを聞きましても、それは絶対違うとは言い切れないものが、私の心のなかにもあるのです。ですが、カシの木を内に秘めて、おおらかにころがっているドングリを見ますとね、やっぱり、違うのではないかと思うのです。

 たしかに、私たちは、一人ひとり、みんな違います。姿形も違えば、年齢も性別も、健康状態も、育ってきた環境も性格も、興味や能力も、みんな違うのです。たとえ、親でも間違えるほどよく似た一卵性双生児であっても、全く同じということはありません。

 実際、世の中には、さまざまな人がいますね。性格だけとってみても、内気な人もいれば、社交的な人もいる。用心深い人もいれば、大胆な人もいる。穏やかな人もいれば、激しい人もいる。まあ、実にさまざまです。

 なかには、パラシュートで飛行機から飛び降りたり、アマゾンのジャングルに分け入ったり、太平洋をヨットで単独横断したりする人までいますがね。

 私なんか、船酔いはするし、高所恐怖症で、ヘビやワニなんかの爬虫類が大の苦手で、思うだけでも腰が引けそうです。そういう人と私が、同じ人生観を持っているとは、とても思えません。

 ですが、その違う点だけを見ていたのでは、大切なことを見落としてしまうのではないでしょうか。現代社会では、「私」と「あなた」が違うことばかり強調しすぎるのではないかと思いますね。一人ひとりがみんな違う、その多様性が人類の発展を支えてきたと言われていますが、本当に人類を支えてきたのは、もっと大きな力の働きです。

 私たちは、「私」と「あなた」は何の関係もない別の人間だと思っていますけれど、私たちは、20代もさかのぼれば、みんな親戚なのですよ。

 さらに、どんどんさかのぼっていけば、ついには、私たちが生まれてきた根源にまでたどりつきます。それは、宇宙の誕生です。つまりは、もとをたどれば「ひとつ」です。

 現代科学の観点から言うと、宇宙の誕生から人類が生まれる可能性は、ほとんどゼロだそうですが、それでも、現に、私たちは、ここにいるのです。不思議だとは思われませんか。

 たしかに、「私」と「あなた」は違う人間です。ですがね、目に見えない遠い過去にまで思いを馳せて考えると、「私」と「あなた」を生み出すために、宇宙がかけた時間と手間は、全く同じなのですよ。

 かつては、「万世一系」という奇妙な言葉がありましたけれど、途中から湧いて出た人間など一人もいないのです。宇宙は、全ての人に、同じだけの時間と手間をかけてきたのです。

 そんなふうに考えていくと、宇宙のあらゆることが結び付いて、互いに、原因となり、条件となり、結果となって、現在の「私」がいるのです。極端なことを言うようですが、あるとき、ドングリの実が、コトリと地面に落ちたことさえ、「私」が生まれてきたことと無関係ではないのです。

 私たち人間だけでなく、あらゆるものはみな、互いに結び付いている無限の網目の一つなのです。その網目のどの一つが欠けても、今の「私」はいなかったのだと思うと、何か不思議な力の働きを感じます。

 「私」を生み出すために、遠い過去から続いている、この無限の働きへの感謝の言葉が、「お陰さま」です。「お陰さま」というのは、私たちは、生きているのではなく、生かされているのだという気づきから生まれた言葉です。

 私たちは、大自然のめぐみによって、生かされています。「めぐみ」というのは、「タダ」だということです。大根であれ、秋刀魚であれ、私たちはお金を払って買いますから「タダ」だとは思っていませんけれど、大根や、秋刀魚は、一円ももらっていないのです。大根や、秋刀魚は、タダで、いのちを恵んでくれているのですよ。

 私たちは、生きているのではなくて、生かされているのです。このことに気づくだけでも、私たちは、「いのち」に対して、もっと謙虚になれるのではないかと思いますね。

 生かされているということは、ただ生きているということではありませんね。生かされているというのは、生きることが願われているということでしょう。とすれば、私たちの「いのち」を支えている「願い」に応えていくことこそ、「人として進んでいく道」ではないのでしょうか。

 そういう観点から見れば、一人ひとり個性が違うから人生観も違うといった、個別の問題を超えたところに、同じ「いのち」として、共通した「進むべき道」があるように思えるのですが、皆さんは、どう思われますでしょうか。

 仏教では、そんな道があると説かれています。私たちは、そのことに気づけと願われているのです。そろそろ、このあたりから、仏教の話に入っていくことにいたします。

 さて、さきほど、私たちのなかには、「いのち」を支えている「願い」があると申しましたが、その、「いのち」を支えている「願い」のことを、仏教では「仏性」(ぶっしょう)と呼んでいます。「仏性」というのは、仏になる原因のことです。

 ドングリのなかには、カシの木になっていく原因があり、私たちのなかには、仏になっていく原因があるのです。つまりは、同じ「いのち」として、共通した「進むべき道」というのは、仏になっていくということなのです。

 ですが、原因(因)があれば必ず結果(果)が生まれるかといえば、そうではありませんね。たとえば、ドングリを、この机の上に置いておいたのでは、いつまでたってもカシの木(果)にはなりません。ドングリは、土の上に落ちて、雨を浴び、太陽に照らされて、はじめてカシの木に育つのです。

 原因があっても、適当な条件が整わないと、結果は生まれてきません。この、原因から結果が生まれるための条件のことを、「縁」と言います。つまりは、原因(因)と条件(縁)が揃って、はじめて結果(果)が生まれるわけです。

 そういう関係のなかで考えると、「このドングリをカシの木にするものは何か」といえば、それは、「縁」なのです。「因」から「果」が生まれるかどうかは、「縁」次第だということになります。仏教でも、この「縁」というものを、非常に大切にいたします。

 では、私たちが仏になっていく「縁」とは何かと言えば、一番大きな「縁」は仏法に出逢うということです。仏法に出逢えるのは人間だけです。

 禅宗の公案に、「犬に仏性はあるか」というのがあります。犬にも仏性はあるのです。ですが、犬には、仏法に出逢うという「縁」がないのですね。

 仏法に出逢うという「縁」は、人にしかありません。「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く、仏法聞き難し、いますでに聞く」という三帰依文(さんきえもん)の言葉は、そのことを言っているのです。

 皆さんは、今日ここで、仏教の話を聞く「縁」に出逢われたわけですが、皆さんが、今日ここにお越しになったことには、遠い遠い過去から、途切れることなく続いてきた、無限の力が働いているに違いないのです。それを思うと、今日ここで、私たちが出逢っているということは、すごいことなのですよ。

 仏法に出逢うことが何故大切なのかというと、私たちには「仏性」があるということを知るためなのです。「仏性」というのは、仏の「いのち」のことです。私たちのなかには、仏の「いのち」が生きている。そのことを知ることが、何より大切なのです。

 知るというのは、頭で知るということではありません。全身で、それを受け止め、それを生きるということなのです。

 ドングリが、まっすぐに、カシの木になっていくのは、自分が、カシの実だということを知っているからです。カシの実だと知っているからこそ、カシの木に育ててくれる「縁」を、間違いなく「縁」として受け止めていくのです。私たちも、そうなのですね。

 たしかに、私たちは、自分のなかに、仏になる「因」があると言われても、実感がないものです。ですが、私たちのなかには、仏の「いのち」が生きているのです。たとえ実感がなくとも、私たちのなかには、仏の「いのち」が生きていると、かたく信じるのですよ。

 「信じる」というのは、何があっても、それを世界の枠組みとして生きるということです。つまりは、自分には「仏性」があるのだという信念のうえに、あらゆる出来事を受け止めていくということです。そうすると、気づきが変わってくるのです。

 たとえば、「人生は金が全てだ」という信念を持って生きている人は、金儲けの縁に敏感でしょう。そういう人は、普通の人が、とても思いつかないようなことにまで、金儲けの縁を感じ取るものです。それと同じです。

 自分には「仏性」があるのだという信念を持って生きていると、私たちのなかに生きている仏の「いのち」への、気づきの縁が増えてくる。だんだんと、以前には思いもしなかったような、いろんなことに、「ご縁」を感じるようになっていくのですね。

 「仏になる」と言いますけれど、私たちは、もともと、仏の「いのち」を生きているのです。「仏になる」というのは、「私たちは、仏のいのちを生きているのだ」という、気づきが深まっていくことを言うのです。そして、その気づきの深まりを味わいながら暮らしていくことが、信仰者の生活なのです。

 ですがね、一筋縄ではいきませんよ。たしかに、私たちのなかには、仏の「いのち」が生きている。ところが、いつもお話いたしますように、その仏の「いのち」を、煩悩の暗闇が覆い隠しているのです。

 煩悩というのは、「他の誰よりも我が身が可愛い」という心の働きのことですね。普段、私たちが「自分」だと言っているのは、この煩悩のことなのです。つまりは、「私」イコール「煩悩」だということです。そんな「私」は、自分に都合のよいことしか、受け容れません。

 仏法の話を聞いても、「安らかな心になっていく」などといった、自分の耳に心地よいところだけ聞いている。「ああ、有り難いご縁に出逢えた」といっても、自分に都合のよいことがあったというだけのことです。ガン検診でひっかかって、「有り難いご縁だ」と思う人は、まず、いません。

 つねに自分の満足をもとめて、何かになろう、何かを手に入れようとしているのが、「私」です。そして、何かになり、何かを手に入れるには、どうすればよいかと、問い続けているのが「私」なのです。

 ですから、「煩悩を打ち破れば、悟りが得られる」と聞けば、煩悩を無くそうと努力することもある。ところが、その煩悩をなくそうとしているのは、当の煩悩なのですよ。

 私たちは、「私」イコール「煩悩」だということを、なかなか認めたがらないのですが、「私」が生きている限り、煩悩は無くならないのです。煩悩を無くすために、「私」に出来ることなど、何もないのです。

 もう亡くなりましたが、東京に、家内の叔父がいました。この叔父は、あるとき、思うところがあって、水垢離(みずごり)の行を始めたのです。何ヶ月か続けていたようですが、はたとやめてしまいました。

 「どうして、やめたのですか」と聞きましたら、「あれをやっていると、確かに心が清まってくるのだが、だんだん、できない奴が、バカに見えてきたので、やめた」と言いました。すごい人だと思いましたね。

 たいていなら、だんだん心が清まってきたと感じると、「自分は、できない奴らとは違う」のだ、というところに収まってしまいます。

 すごい人というと、以前、こんな話を本で読んだことがあります。石川県の真宗寺院のご住職で、非常に有名な洋画家でもあり、大学の先生もなさっておられた、高光一也という方の話です。20年ほど前に79歳でお亡くなりになっておられます。これは65歳ころの話です。

 ある方が、高光先生に、こうおたずねになった。
 「先生、わかったら救われますの?」

 すると先生は、大きな眼でぎょろりと見つめながら、ゆっくりと、こうおっしゃった。
 「わかるということが、救われていることやないけ」と。

 「そら、先生のようなえらい人はそうでしょう。わたしらのような業の深い者はそうはいきません」

 すると先生の眼はさらに大きくなり、こうおっしゃった。
 「わしの尻の穴は年のせいでゆるんでおりましてな、毎日、パンツ、しょびしょびと濡らしますのや。そんな男の、どこがえらいねん」と。

 その声は、終わりになるほど大きく野太くなって、「どこがえらいねん」には、人を押し殺すほどの迫力があった、と書かれていましたが、さらに続けて、先生は、こうおっしゃった。
 「人間のすることでないのや、仏さまのことや」と。

 ものすごい人ですね。実は、この話を初めて読みましたときには、ほとんど何を言っているのか分からなかったのですが、なんとも、すさまじい迫力でして、仏教に、パステルカラー調の癒し系セラピーのようなものを期待している人には、とても付いていけないものがあります。

 人はみな、気づかぬうちに漏れだしている煩悩で、びしょびしょに濡れている。煩悩まみれの凡夫なんだ。それなのに、あんたは、わしのことを「えらい人」と言ってくれるが、その「えらい人」のパンツの中は、知らぬまに漏れだしているもので、びしゃびしゃに濡れているんだ。そんな男の「どこがえらいねん」と、先生は、突き放した。

 たずねた人は、相手が、お寺の住職で、有名な絵描きさんで、大学の先生なものですから、「先生のようなえらい人」と言ったのでしょうけれど、仏の目から見れば、職業や地位など、何の関係もありません。才能すらも、煩悩のうちです。何かができると、「私は、他の人とは違う」と思ってしまうものですね。

 念仏者の木村無相師の詩に、こういう言葉があります。

   煩悩具足のボロ屋に、ナムアミダブツがすみついて、
   あかりがついて、ボロ屋のおんボロボロが見えまする
   ナムアミダブツと見えまする

 仏の光に照らされて、今まで見えていなかった自分の心の中が見えてきた。自分の心は、煩悩がいっぱいつまった、ぼろ屋だった。この「ボロ屋」の現実を照らし出しているのは、「仏」の真実の光です。

 仏の「いのち」への気づきが深まるにつれて、「ボロ屋」のありさまが、はっきりと見えてくる。「ボロ屋」のありさまが、はっきりと見えてくるということは、仏の「いのち」への気づきが深まっているということです。

 「あかりがついて、ボロ屋のおんボロボロが見えまする、ナムアミダブツと見えまする」というのは、そのことですね。

 つまり、「仏を知る」ということと、「自分を知る」ということは、別のことではないのです。「わかるということが、救われていることやないけ」と、先生がおっしゃったのは、このことでしょうね。

 煩悩の暗闇のなかにいる私たちは、「救われる」というと、何か自分に都合のよいことが起こるように思い込んでいるところがありますけれど、煩悩を喜ばせるのが「救い」ではありません。そうではなくて、煩悩にまみれて苦しんでいる自分の姿を、ありのままに知ることが、「救われる」ということなのです。

 「ボロ屋」にあかりがともっても、そこが御殿になるわけではありません。「ボロ屋」は「ボロ屋」のままですが、今や、そこの主(あるじ)は「仏」なのです。つまりは、これより他にどうしようもないと知った、我が身の現実こそ、仏の真実が住まうところとなるのです。

 そのとき、私を生きているのは、仏です。「尻の穴が年のせいでゆるんでいる」のも、仏が私を生きている姿なのです。「人間のすることでないのや、仏さまのことや」と、先生がおっしゃったのは、このことだと思います。

 開き直りかと思えるほど、仏に全てを託して、仏の生きるままに生きる。仏の「いのち」への気づきというのは、ここまで深まっていくものかと、言葉もありません。おそろしいくらいです。

 「仏の生きるままに生きる」というのは、何もしないということではありません。そうではなくて、何でもするのです。何でもするのですが、そこには、「私がする」という思いがなくなってくるのです。

 ご縁を感じたことは、何でも、させて頂くのです。「する」のではなく、「させて頂く」のです。誰に「させて頂く」のかと言えば、それは、もちろん、私を生きている「仏」にですね。

 仏の「いのち」への気づきが深まっていくにつれて、「私」という意識が薄れていきます。ところが、私たちは、その反対に、年を取るにつれて、「私」という意識が強まっていくように思うのです。

 意識は、自ずと、言葉に表れます。たとえば、「私の言うことなんか、聞いてくれません」とか、「私が、これだけしてきたのに」とか、「健康診断で、私は、30代の身体だと言われた」とか、よく聞く言葉ではないでしょうか。話している本人は意識していないのでしょうけれど、これは悲しいことだと思いますね。

 さて、「私たちには、仏になる因がある、仏性があると、何があっても信じるのだ」というところから、ここまで話を進めて来ましたが、「信じる」というのは、まことに難しいことです。煩悩の暗闇に閉じ込められている私たちには、自分に都合のよいことしか信じられないという、「疑いの心」しかないのです。

 私たちのなかから、「煩悩」が無くなる望みはありません。「私」が生きている限り、煩悩は無くならない。煩悩を無くすために、「私」に出来ることなど、何もないのです。

 ですが、私たちのなかにあるのは、「煩悩」だけではありません。私たちが信じていてもいなくても、私たちのなかには、仏の「いのち」があるのです。

 仏の「いのち」には、願いがある。その願いというのは、私たちの心に光が届くこと、「ボロ屋」にあかりがともることなのです。

 「いつか必ず、そんな日が来る」と、仏は信じている。私たちは、疑っていても、仏は、信じているのです。「信じる」というのは、私たちのすることではなくて、仏のすることなのです。高光先生も、おっしゃっていましたでしょう。「人間のすることでないのや、仏さまのことや」と。

 それでも、「そんなことは、どうしても信じられない」という人は、その「信じられない」という思いを、どこまでも突き詰めていくしかないのではないかと思いますね。

 実は、私自身も、どうしても信じられなかったのです。どうしても信じられないという思いが、腹の中に居座ってしまいまして、長い間苦しみました。

 そんなときに、どこでだったか忘れましたが、「信じられるのも他力の働きだ」という言葉に出逢いましてね、その瞬間、腹の底が抜けてしまいました。「なんだ、そうだったか」と、何もかも分かったような気持ちになりまして、もう、可笑しくて可笑しくて、仕方がない。

 身体中で半日くらい笑っていましたが、では、何が分かったのかと言えば、何も分かっていないのです。何も分かっていないのですが、何も分かっていないということが、不安ではなくなりました。

 「いのち」の不思議を思いましたね。私は、自分の力で生きているのではないのです。私は、大きな「いのち」に生かされているのです。その大きな「いのち」の前に立つと、「私」が信じるか信じないかなどといった、ちっぽけなことは、どうでもよくなったのです。

 私たちが「仏」と呼んでいるのは、その大きな「いのち」のことです。その大きな「いのち」が、「ボロ屋」にあかりがともることを願っているのです。とすれば、もう何も言うことはありません。ただ、その願いのままに生きていくだけです。

 ある本によりますと、親鸞聖人のお書きになったものには、「信者」という言葉は、たった5回しかでてこないのに、「行者」という言葉は80回もでてくるのだそうです。「信」より「行」なんだ、ちっぽけな頭のなかで思い悩んでいないで、お念仏を称えなさい、ということではないですかね。

 私たちは、南無阿弥陀仏というお念仏を称えておりますが、仏の願いは、この南無阿弥陀仏という名号に込められています。お念仏を称えるということは、仏の願いを口にするということです。

 人生に何かを期待して、「人生の意味」を問うのは、煩悩なのです。仏の願いを口に称えながら、仏の願いのままに生きていく。その他には何もないのです。それが、念仏の教えに出逢うご縁を頂いた、私たちの生き方なのです。

 たしかに、「お念仏を称えて生きていくだけ」と言っても、これはなんとも分かりにくいのです。ところが、「立派なお墓を建てたら、先祖が喜ぶ」とか、「難しい修行をしたら、位が上がる」とか言われると、これは分かりやすい。難儀ですね。

 親鸞聖人のお言葉には、「他力には、義なきを義とす」という言葉が、何度か出てまいりますけれど、他力というのは、仏の願いの働きのことです。その仏の願いの働きが、南無阿弥陀仏という念仏にはこめられているのです。つまりは、「念仏には、義なきを義とする」のです。

 「念仏には、義なきを義とする」というのは、「意味がないのが、念仏の意味だ」ということです。「意味がない」というのは、「煩悩にとって都合のよい意味など何もない」ということです。私たちは、「念仏を称えたら、救われるのだ」と思いがちですけれど、そうではないのですね。

 「念仏を称えても、一向に、安らかな心になってきません」とおっしゃる方がありますけれど、念仏は、煩悩の子守歌ではないのです。

 こんな話を聞いたことがあります。金子大栄先生のお母さんが病気になられて、「肉体的な苦痛の中では、心から如来のお慈悲を喜び、念仏することができないが、どうすればよいか」と訴えてこられた。

 そのとき、金子先生は、「お慈悲を喜んでお念仏するのではなく、お念仏の申さるることがお慈悲であります」と、返事の手紙に書かれたということです。お念仏を称えるということは、そういうことなのですね。

 お念仏を称えるのは、何かになるためでも、何かを手に入れるためでもありません。私たちは、ただお念仏を称えるのです。それが、私たちを支えている、大きな「いのち」の願いだからなのです。

 大きな「いのち」は、生まれることも死ぬこともない、永遠の「いのち」です。私たちは、その永遠の「いのち」の光に照らし出されるまで、「いのちの真実」には気づけないのですね。

 さて、理屈っぽい話がつづきましたので、いささかまとまりに欠けますけれど、このあたりで終わるのが潮時かと思います。

 私たちは、一人ひとり、みんな違います。ですが、誰のなかにも、みんな、決して無くなることのない「煩悩」と「仏性」があるのです。私たちは、ばらばらだけど、いっしょなのですよ。

 私たちは、自分自身の力で生きているのでありません。大きな「いのち」に支えられて、生かされて生きているのです。その大きな「いのち」が、「ボロ屋」にあかりがともることを願っているのです。

 仏の願いは、「ボロ屋」にあかりをともすことではありません。「ボロ屋」にあかりがともることです。仏は、私たちの気づきを待っているのです。その仏の願いのままに、生きていく。お念仏を称えながら、生きていく。それが、私たちの生き方なのです。

 どこでだったか忘れましたが、こんな話を聞いたことがあります。ある人が、新幹線に乗ろうとして、切符売り場に行ったところ、駅員さんが、「のぞみはありませんが、ひかりはあります」と言った。

 「のぞみはありませんが、ひかりはあります」。その言葉が、心のなかで、こだまして、はっと思った。「のぞみはなくとも、ひかりがあるんだ」と。

 こういう話です。つまりは、「煩悩」の無くなる『のぞみ』はなくとも、「仏」の『ひかり』がある。その「いのちの真実」が、「お念仏」となって、心のなかに『こだま』する。よくできた話だと思います。

 「のぞみはなくとも、ひかりがある」。この言葉を思い出すたびに、妙に心が軽くなって、お念仏がでてきます。皆さんも、ひとつ、この言葉を覚えておかれると、よいかもしれませんね。

 皆さんの前で、お話させて頂くのも、今回で33回目になります。何を、どうお話しようかと、毎回、悩みもし、苦しみもするのですが、毎回、自分の間違いに気づかせて頂くことも、たくさんありまして、この話の準備こそ、私に与えられた聞法の場だと思って、喜んでおります。

 あるいは、前にお話したことと違うことを言うかもしれませんが、その、私自身が変わっていく姿をご覧くださるのも、また、「ご縁」となるかもしれません。

 毎回、理屈っぽい話ばかりで、申し訳ございませんが、どうぞまた、お付き合いくださいますよう、お願いいたします。本日は、お忙しいところを、お参りくださいまして、有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…



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