釋昇空法話集・第34話

花によせて

念ずれば、花ひらく

(2006年9月23日 永代経法話)
 本日は、お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労様でございます。お彼岸になって、ようやく涼しくなってまいりましたね。まあ、秋風にさそわれて、そろそろ夏の疲れが出てくるころかもしれませんが、皆さんは、如何でしょうか。

 先日、久しぶりに秋風を感じて、「お彼岸が近づいてきたなあ」と思っていたときに、彼岸花のことが、ふと心に浮かびましてね。

 彼岸花というのは、ちょうど今頃、田んぼの畦道や土手に咲いている赤い花で、曼珠沙華とも言います。とくに珍しい花ではありませんので、どなたもご存じのことと思いますが、よく見ると、なかなか綺麗な花ですね。

 お彼岸は、春と秋にあるのに、春の花ではなくて、秋の花が、彼岸花と呼ばれている。これは、なかなか意味のあることかと思います。

 彼岸というのは、本来、仏の世界のこと、永遠の世界のことですから、人の一生を季節にたとえてみても、心浮かれる春にではなく、心静まる秋にこそ相応しいでしょう。

 まあ、春にも、彼岸桜という花がありますように、人生の春にも、いのちの不思議を思い、彼岸を思うときはあるのですが、すぐに人生の夏がきて、忙しくなり、慌ただしくなるものですから、たいていは、いつのまにか紛れてしまうものです。

 彼岸を思うというのは、やはり、ひととし越した人生の秋になってからでしょうね。人生の秋には、おのずと彼岸の世界への思いが生まれてくる。そして、歳をとるにつれて、いのちの気づきが深まり、優雅に人生を降りていき、ついには、彼岸の世界、永遠の世界へと帰って行く。それが、「いのち」の自然な姿ではないかと思います。

 そこで、今回は、「花によせて」という題で、「彼岸を思い、いのちの花を咲かせる」という話をさせて頂こうと思います。いつもながら、思いつくままの、はなはだまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくの間、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

 さて、さきほど、「人生の秋には、彼岸を思うのが、いのちの自然な姿だ」と申しましたけれど、実際には、なかなか、そうはいきません。現代社会では、人生の秋になっても、なかなか彼岸への思いなど生まれてきませんね。むしろ、誰もが、いつまでも人生の夏にしがみついている。

 政治の世界でも、ビジネスの世界でも、「成長、発展をめざす」と言う人ばかりでしょう。「成長、発展、右肩上がりの上り坂」。それが、現代社会の合い言葉です。

 ですがね、そんな上り坂ばかりのところなんか、世界中探しても見つかりませんよ。坂を上っていけば、どこかで下りになっているに決まっています。それでも、大きく成長することしか頭にないというのなら、それはガン細胞の考え方ではないでしょうかね。

 情報も増加するばかりですが、増えれば良いというわけではないですね。今の五歳の子どもの情報量は、江戸時代の人間が一生の間に受け入れる情報量と同じだ、という話を聞いたことがあります。私たちの頭は、消化しきれない膨大な情報の洪水で、オーバーヒートして、ヒューズが飛びかけている。体裁ばかりの「ゆとり教育」など、それこそ、焼け石に水ですよ。

 お釈迦様は、「世界は燃えている」とおっしゃいましたが、まさしく、世界は煩悩の炎で燃え上がっている。いわば、私たちは、炎の燃えさかる火炎地獄にいるようなものです。

 実際、新聞やテレビを見ておりますと、現代社会は、地獄の様相を呈している。虐待や殺人のニュースが出ていない日はない。親が子を殺し、子が親を殺し。夫が妻を殺し、妻が夫を殺す。このあいだは、80何歳かの妻が、90何歳かの夫を刺し殺した、という事件までありましたね。

 そんな事件の話を聞きますと、社会がどうの犯罪がどうのという以前に、どんなに苦しかっただろうと、その人たちのこころで燃えていた地獄の炎に、自分まで、あぶられる思いがいたします。

 現代の日本では、交通事故で亡くなる人が、年間1万人、自殺で亡くなる人が、3万人もいるのです。現代社会では、いのちが、どんどん軽く扱われるようになってきている。これはまさしく非常事態です。

 燃えさかる火炎地獄のなかで、いのちへの感性が乾いてきている。なんでも、乾くと軽くなる。濡れたタオルは重いですが、乾いたら軽くなるでしょう。それと同じように、欲望の炎にあぶられると、こころは乾いて、ひからびてくる。ひからびたこころには、いのちが軽く映るのです。

 こころは、本来、もっと湿っているものです。その湿っているこころを、「情」と言います。「情」という漢字は、「立心偏に青い」と書くでしょう。青いというのは、若いということ。若いというのは、みずみずしいということです。こころというのは、本来、みずみずしいウエットなものなのです。

 こころはドライになりすぎた。ひからびたドライなこころからは、涙も出てこない。今の人は、泣かないですね。泣くことがあっても、どうも、こころからではなく、その場の雰囲気で泣いているようで、涙の出所が浅いように思えるのですが、如何でしょうかね。

 昔の人は、よく泣き、よく笑ったように思います。「男は三年に片頬」なんて言いまして、男は滅多に笑うものでないという教えもありましたが、それは、支配階級の武家の作法でして、庶民のものではありません。

 武家には、人前で感情を露わにできない立場というものがある。影響力が大きい立場にいると、うっかり物も言えません。ましてや、泣いたり笑ったりなんて、できたものではない。

 ですが、「三年に片頬」のお武家さんであっても、こころが乾いていたわけではないでしょう。熊谷直実が法然上人の前で、ボロボロ涙をこぼして泣いたという有名な話がありますが、そういった話は、いくらでもあります。

 喜びであれ悲しみであれ、こころが大きく震えたときには、おのずと涙があふれ出てくる。そんな、みずみずしいこころ、人としての「情」を回復することが、私たち現代人には必要だと思います。

 このあいだ、外国のお坊さんの本を読んでおりましたら、「死んだ子を泣くのは愚かだ」と書いてありました。私は、そういう考え方に、共鳴できません。家族のない出家には分からないのかもしれませんが、同じ仏教徒でも、相当感覚がちがうようですね。

 こんな話を聞いたことがあります。ある有名な妙好人のお婆さんの話です。幼い孫が亡くなったとき、このお婆さんは、孫にとりすがってボロボロと涙をこぼし、大声で泣いた。それを通りがかりに覗いた、こころない人が、「お念仏を喜んでおっても、泣くんかい」とからかった。すると、お婆さんは、こう怒鳴り返した。「やかましい。わしの涙は真珠の涙じゃ。お前らの涙とは違うわい」と。

 私には、この話の方が、よく分かる。仏教は、泣きも笑いもしない、無感覚なロボットを作るための教えではないのです。そうではなくて、仏教は、本当の涙、こころからの涙が流せる人になる教えだと、私は思っております。

 仏教では、人の「いのち」を、よく「花」にたとえます。花が咲くには、みずみずしい土壌が必要です。みずみずしいこころという土壌があってこそ、いのちの花は咲くのです。

 そんな「いのちの花を咲かせたい」という歌がありましたね。沖縄の有名な歌手、喜納昌吉(きな・しょうきち)の、「花」という歌です。みなさんも、よくご存じの歌だと思います。

 この歌を初めて聞きましたときには、これは仏教の歌だと思いましたが、その話はあとにいたしまして、まず歌詞を読んでみたいと思います。歌詞をプリントして、お手許にお配りいたしておりますので、それをご覧になりながら、お聞きください。繰り返しが多いので、太字で印刷したところだけ読みます。

花 〜すべての人の心に花を〜 (作詞・作曲/喜納昌吉)

(1) 川は流れて どこどこ行くの
    人も流れて どこどこ行くの
    そんな流れがつくころには
    花として 花として 咲かせてあげたい
    泣きなさい 笑いなさい
    いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

    泣きなさい 笑いなさい
    いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

(2) 涙流れて どこどこ行くの
    愛も流れて どこどこ行くの
    そんな流れをこの胸に
    花として 花として 咲かせてあげたい

    泣きなさい 笑いなさい
    いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
    泣きなさい 笑いなさい
    いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

(3) 花は花として 笑いもできる
    人は人として 涙も流す
    それが自然の歌なのさ
    こころのなかに こころのなかに
    花を咲かそうよ

    花として 花として 咲かせてあげたい
    泣きなさい 笑いなさい
    いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

    泣きなさい 笑いなさい
    いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

    泣きなさい 笑いなさい
    いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

 人生は、川のように流れていく。右へ左へ振れながらも、いつかは海に流れつく。その川の流れが尽きるころには、いのちを花として咲かせてやりたい。喜びも悲しみも、こころに花を咲かせるもとなのだ。こころから泣きなさい、笑いなさい。そんなみずみずしいこころのなかに、いつの日か、いのちの花を咲かそうよ。いのちの花が咲いても、人は、笑いも泣きもするものだ。それがいのちの自然な姿なのだから。

 これはすごい歌ですね。仏教と同じことを言っている。こんな歌を作った喜納昌吉(きな・しょうきち)というのは、いったいどんな人かと調べてみましたら、沖縄の民族芸能、エイサーを蘇らせた、沖縄民謡の大家だといいます。

 エイサーというのは、沖縄民謡に合わせて、太鼓をたたきながら踊る、一種の盆踊りですが、盆踊りというのは、もともと踊り念仏から生まれたものです。今から400年ほど前に、袋中(たいちゅう)上人という、京都の浄土宗のお坊さんが、沖縄に漂着して、踊り念仏を伝えた。それがエイサーの始まりです。

 袋中上人のお墓は、京阪三条駅の北にある浄土宗のお寺、壇王法林寺(だんのうほうりんじ)にありますが、エイサーの底流には、お念仏の教えがあったのです。それで、納得いたしました。この歌を聞いて、仏教の歌だと思ったのも、不思議ではない。

 ちなみに、この「花」という歌は、1986年に、仏教国のタイで、ヒットチャートNo.1になっています。ところが、日本でヒットして、レコード大賞特別賞を受賞したのは、その10年後の1996年でした。ひょっとすると、日本人のこころは、タイの人々のこころより、10年分も乾いているということかもしれませんね。

 ところで、この間、ちょっと面白い話を聞きましてね。「こころ」は何処にあるのか、その「こころ」の働きは何か、という話です。解剖学者の三木成夫先生の話ですが、結論から申しますと、「こころは心臓にあって、季節の変化を感じている」というのです。もう少し詳しく申しますと、こうです。

 「考える頭は頭脳にある。では、感じる心は何処にあるか。植物は、頭脳も神経も筋肉も持っていないのに、季節の変化を感じることができる。とすれば、季節の変化を感じるのは、頭脳や神経や筋肉の働きではないはずだ。

 人間から、頭脳や神経や筋肉を取り去ると、内臓が残る。季節の変化を感じるのは、この内臓の働きに違いない。内臓の中心になっているのは心臓だから、ここが、感じる心のセンターだろう」(趣意)と。まさしく解剖学的発想ですが、なかなか面白い考え方だと思いますね。

 感じるこころは心臓にある。心臓は、季節の変化、つまり「宇宙のリズム」を受信して、頭に伝える中継基地です。考える頭は頭脳にある。頭脳は、心臓から中継されてくる「宇宙のリズム」を解読して、適切な行動を選択するコントロールセンターです。三木先生によると、そういうことになります。

 たしかに、昔は、「こころは心臓にある」と考えられていました。「心」(こころ)という漢字は、心臓をかたどった象形文字です。ところが、解剖してみると、どうも、それらしいものが見つからない。そのため、西洋医学では、心臓は、血液を送り出すポンプにすぎず、「感じる」のも「考える」のも、ともに頭脳の働きだということになってしまいました。

 ですが、怒りで「腹が煮えくりかえる」とか、気の毒で「胸が痛む」とか言うように、感情は、内蔵と深い関係がある。また、心臓の移植手術を受けると、性格や好みが変わったり、記憶が混乱したりするという報告がありますから、心臓も、ただのポンプではないでしょう。とすると、「こころは心臓にある」という考え方も、無視できないように思いますね。

 まあ、それはともかく、私が面白いと思いましたのは、三木先生が、「こころの働きは、季節の変化を感じることだ」と考えておられる点です。「季節の変化」というのは、「宇宙のリズム」です。生きものにとっては、「いのちのリズム」です。さきほどの喜納昌吉(きな・しょうきち)さんの言葉で言えば、「自然の歌」です。

 私たちには、感じるこころと、考える頭があります。考える頭は、頭脳です。人間は、他の動物と比べて、頭脳が桁違いに発達しています。そのお陰で、人間は、いろいろ考えることができるようになり、こころが感じる「自然の歌」を、自覚的に受け止めることができるようにもなりました。

 他の動物は、「自然の歌」のままに踊っているだけですが、人間は、「自然の歌」を自覚的に受け止めて、笑ったり、泣いたりできるようになったのです。生命は、人間にまで進化してきて、はじめて、こころと頭をつなぐ回路を持つようになったのです。

 ところが、考える頭の働きが強まっていくと、だんだん頭の中だけの世界を作り上げるようになっていき、「自然の歌」を感じているこころを無視するようになります。頭が、こころを無視して、暴走している。その状態を、仏教では、「煩悩の炎」が燃えていると言います。

 そうなると、「いのちが必要としていること」と、「頭が欲しがっていること」の区別がつかなくなってしまいます。

 如何ですか、みなさん。たとえば、みなさんが、日々、買い物に行ってお求めになるものは、「必要なもの」でしょうか、それとも、「欲しいもの」でしょうか。おそらく、「必要なもの」より、「欲しいもの」を、多く買っておられるのではないでしょうかね。

 これはなにも、他人ごとで言っているわけではありません。私も、時々、インターネットのオークションを覗きます。そこには何十万点もの品物が出品されていて、見ていると、あれもこれも欲しくなります。ですが、一歩退いて見れば、「欲しいもの」の大半は、「必要ないもの」です。その、必要のない「欲しいもの」に、頭がしがみつくところから、様々な悩みや苦しみが生まれてくるのです。

 考える頭が、感じるこころを無視して、暴走している。考える頭が幅をきかせて、感じるこころが隅っこに追いやられている。それが、つまりは、煩悩の炎にあぶられて、こころが乾いているという状態です。

 みずみずしいこころを取り戻すために、必要なのは、頭が、こころとのつながりを回復することです。頭が、こころに耳を傾けることです。

 これも、このあいだ聞いた話ですが、その「頭が、こころに耳を傾けている姿」をあらわしたのが、「思」(おもう)という漢字だそうです。

 「思」という漢字は、「田」の下に「心」と書きますが、上にある「田」は、田畑の田ではありません。これはもともと、水滴のような、上の尖った丸のなかに、×を書いたもので、頭を上から見た形をあらわしています。上の尖ったところが鼻でしょうね。×は、おそらく、頭脳の位置を示したものでしょう。

 つまり、「思う」という漢字は、「頭」が「心」と合わさっている状態、「頭が、こころに耳を傾けている」状態をあらわしているのです。こころに耳を傾けているとき、頭は、「考えている」のではなく、「思っている」のです。

 私たち仏教徒は、「彼岸を思う、浄土を思う」と言いますが、「彼岸」は考えるものではない、「浄土」は考えるものではないのです。「彼岸」は思うもの、「浄土」は思うものなのです。

 「思う」と「考える」は違うのです。それは、太秦・広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」(みろくぼさつ・はんかしいぞう)と、ロダンの「考える人」を見れば、直感的に分かります。有名なもので、ふたつとも京都にありますから、おそらくご存じのことと思いますが、いちど見比べて頂きたいと思います。

 この弥勒菩薩像は、右足を左ひざに乗せて、半跏(はんか)の姿勢をとり、左手が左ひざに乗せられています。右ひじは右ひざのうえにあり、右手の人指し指と中指が、右頬に触れそうな位置に添えられています。「自然の歌」に耳を傾けている姿です。これが、「思う」という姿です。

 からだは、わずかに右に傾いていて、全体に、静かで優しい印象を受けます。この、わずかに右に傾いている姿は、あるいは、「左脳」が「右脳」に寄り添ってくることを反映しているのかもしれません。

 「考える」というのは、いつも申しますように、頭の中でオシャベリをすることですが、オシャベリをしているのは、言語中枢のある「左脳」です。この「左脳」が鎮まってくると、「左脳」の脳波が「右脳」の脳波に重なってきて、同じ波形を描くようになってきます。脳波計など無かった昔でも、なにか感じるものがあったのかもしれません。

 つぎは、ロダンの「考える人」ですが、これは、ほおづえをついた独特の姿勢で座っているブロンズ像です。右手の甲をあごに当て、上体を強く左にねじって、右腕のひじを左ひざに置いています。左手も、同じく左ひざに置かれています。

 以前、「あれは、右ひじがが左ひざに置かれているから、考える人なんだ。右ひじが、まっすぐ右ひざに置かれていたら、トイレに座っている人だよ」と言った人がありますが、私には、どう見ても、苦しそうな、不自然な姿に思えます。

 あの彫刻は、ダンテの「神曲」に発想を得て作られた「地獄の門」という大きな作品の一部です。現物が、東京・上野の国立西洋美術館にありますが、その「地獄の門」の上の方に座って、地獄を覗き込んでいるのが、この「考える人」です。

 からだが不自然に左にねじられているのは、「左脳」の暴走を象徴している。「左脳」が暴走すると、地獄の門を覗き込むことになる。作者の意図とは違うかもしれませんが、私には、そんなふうに思えて仕方がありません。如何でしょうかね。

 まあ、「考える人」の話が出たから言うわけではありませんけれど、英語では、トイレに行きたくなったときに、「自然が呼んでいる」と言います。その自然の呼び声を無視していると、便秘になって苦しむことになる。

 こころは、自然のリズムを感じて、「トイレに行きたい」と言っている。それを無視して、「今はダメ」と考えているのは、頭です。私たちが苦しむのは、たいてい、頭が「自然の歌」に耳を傾けないからですよ。

 考えることも大切ですが、考えるだけでは、こころが乾いてしまいます。こころが乾いていたのでは、「自然の歌」が聞こえません。実際、私たちには、「自然の歌」が聞こえにくくなっていますね。最近とみに、私たちの生活から、季節感がなくなっているように思いますが、みなさんは、どう思われますか。

 大きなマーケットに行くと、どんな野菜でも果物でも、一年中手に入ります。そのうえ、日本ではできないような、外国の珍しい野菜や果物や、その他の様々な食品までが、あふれています。いのちを支えている大切な食べ物から、季節感がなくなってくれば、おのずと、私たちのからだもこころも、どんどん季節の変化に鈍くなってくる。これは問題だと思いますね。

 冬にイチゴが食べたいというのも、冬にイチゴを出荷したいというのも、ともに、こころが乾いているからです。いのちが、冬にイチゴを必要としているわけではないでしょう。「必要は、発明の母」といいますけれど、いまや、「煩悩が、発明の母」です。現代社会は、「いのちより金」の社会になってしまいました。

 ちなみに、お金のことしか考えていない状態を表しているのが、「貪」(むさぼる)という漢字です。「貝」という字はお金を表しています。「今」というのは、屋根の下にいることを表す字で、そこから、「覆い被さる」という意味で用いられます。ですから、「貪」(むさぼる)というのは、お金に覆い被さって、しがみついている姿を表しているのです。お金にしがみついていたのでは、季節の変化も、金儲けのヒントくらいにしか思えないでしょうね。

 昔は、そうではなかったのです。伝統的な東洋医学では、昔から、「医食同源」、「身土不二」(しんどふじ)と言います。「医食同源」というのは、健康の維持は食べ物でするということです。また、「身土不二」というのは、「自分が生まれ育った土地で、季節の変化に従ってとれる食物を食べることが、からだとこころにとって一番大切だ」という考え方です。

 私たちは、自然の恵みを通じて、「自然の歌」を聞くのです。代表的な自然の恵みは、食べ物です。食べ物というのは大事ですよ。真冬に、暖房をきかせて、アイスクリームを食べているようでは、なかなか「自然の歌」は聞こえてこないですね。

 「自然の歌」が聞こえていないものですから、まだ桃の花の咲いていない3月に「桃の節句」を祝い、梅雨の名残で星の見えにくい7月に「七夕さま」をおまつりしても、何とも思わない。ひょっとしたら、季節と連動している旧暦を復活させたほうが、良いのかもしれませんね。

 さて、そろそろ、このあたりで、まとめていきたいと思います。仏教詩人で有名な、坂村真民という方に、こういう詩があります。

   念ずれば 花ひらく

    苦しいとき
    母がいつも口にしていた
    このことばを
    わたしはいつのころからか
    となえるようになった
    そうしてそのたび
    わたしの花がふしぎと
    ひとつひとつ
    ひらいていった

 「花」というのは、「いのち」のことですね。念ずれば、いのちの花がひらく。「念ずる」というのは、文字の形のとおり、「心が今とひとつになっている」ことです。

 この「念」という字を、さきほどの「思」(おもう)という字と、並べてみてください。頭をあらわす「田」のところが、「今」になっているでしょう。

 「念ずる」というのは、頭が、過去へ未来へと走り回ることをやめて、完全に鎮まっている状態のことです。完全に、頭とこころがひとつになって、頭がこころを抱きしめて、「自然の歌」に聞き入っている。それが、「念ずる」です。

 「自然の歌」は、「宇宙のリズム」です。仏教では、この宇宙に遍満しているものを、「仏のいのち」と言っています。「宇宙のリズム」は、「仏のいのち」の鼓動です。

 私たち仏教徒にとって、「仏のいのち」は、「仏のこころ」です。「仏のこころ」を感じ、「仏のいのち」に共鳴していくところに、いのちの花は咲くのです。

 花は、季節の変化を感じて、咲く時を知ります。花は、「自然の歌」を聞いて、咲く時を知るのです。念ずれば、「自然の歌」が聞こえてくる。念ずれば、いのちの花がひらくのです。

 坂村真民さんは、お母さんにならって、いつのころからか、「念ずれば、花ひらく」ととなえるようになった。私たちは、「南無阿弥陀仏」(ナマンダブ)と、お念仏を称えます。「念ずる」というのは、「称える」ところから生まれてくるのです。

 仏教の話を聞いたり、本を読んだりして、「なるほどなあ」と感心しているだけでは、なんにもなりません。それは、他人のお金を数えている銀行員のようなもので、いくら感心しても、自分のものにはなりません。考えるだけなら、それは哲学ではあっても、信仰ではないのです。「お念仏」を称えるようになってこそ、信仰なのです。

 「お念仏を称えても、すこしも幸せな気持になってこない」という声をよく聞きますけれど、まあ、それはそうでしょうね。「お念仏を称えると、幸せになる」というのは、頭の考えていることです。

 私たちの考えている「幸せ」というのは、たいてい、自分にとって都合のよいことが起こることですが、お念仏は、そんな煩悩にとって都合のよい呪文ではありません。

 日々、お念仏をとなえる生活のなかで、「自然の歌」が聞こえてくると、頭で考えていただけの自分に気づくのです。「ああ、自分はまちがっていた、自分がまちがっていたのだ」と気づくのです。「昨日より.もっと愚かになったと思うたびに、智慧が深まる」と言った人がいますが、それがお念仏の功徳です。

 家内の里のお寺にも、「念ずれば、花ひらく」という、坂村真民さんの言葉を刻んだ石碑があります。その石碑の除幕式には、私も出席しておりましたが、集まった人々のなかに、しきりと感心している人がいる。「いい言葉やのお。やっぱり、一所懸命に念じておったら、願いが叶うっちゅうことやの」と。

 そうではないのですよ。「念ずれば、花ひらく」というのは、「一心に念じていたら、自分の願いが実現する」という意味ではないのです。そうではなくて、念じていると、「自然の歌」が聞こえてくる。宇宙に遍満している「仏のいのち」の鼓動が聞こえてくるのです。

 私たちは、「仏のいのち」と共鳴して、「仏のこころ」を知るのです。「仏のこころ」が私たちに届くこと。それが、仏の願いです。念ずれば、花ひらく。それは、自分の願いが実現することではなく、仏の願いが実現することなのです。

 「念ずれば、花ひらく」という言葉がお好きな方が、政界や財界にも沢山おいでになるそうですが、本当の意味をご存じだと、有り難いですね。

 昔は、「情」と書いて「こころ」と読みました。「情」というのは、青いこころ、みずみずしいこころですが、それだけではありません。「青」というのは、空の青、海の青に通じて、はてしないもの、「永遠」を表す文字でもあります。みずみずしいこころは、永遠を思うこころです。永遠を思うこころに、いのちの花は咲くのです。

 世間では、「楽しいのは若い間だけ。健康で生き甲斐もあって、働ける間が花だ」と、よく言われますけれど、そうではないのです。刺激に満ちた、賑やかな夏だけが、人生の花ではない。人生には、四季折々の花が咲く。秋には、彼岸の花が咲くのです。

 「おろかになるほど、のびやかになる」。それが、お念仏を称えるものの、体験する世界です。どうぞ、みなさん。ご一緒に、お念仏を称えてまいりましょう。そして、いつの日か、「生まれてきてよかったなあ」と思える花を、咲かせたいですね。川の流れが尽きるころまでには。

 では、本日は、これで終わらせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。

 つぎは、11月12日の「報恩講」でございます。またご一緒に聞法させて頂けるよう、念じております。本日は、お忙しいところをお運び頂きまして、有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…



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