本日は、お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労様でございます。お彼岸になって、ようやく涼しくなってまいりましたね。まあ、秋風にさそわれて、そろそろ夏の疲れが出てくるころかもしれませんが、皆さんは、如何でしょうか。 先日、久しぶりに秋風を感じて、「お彼岸が近づいてきたなあ」と思っていたときに、彼岸花のことが、ふと心に浮かびましてね。 彼岸花というのは、ちょうど今頃、田んぼの畦道や土手に咲いている赤い花で、曼珠沙華とも言います。とくに珍しい花ではありませんので、どなたもご存じのことと思いますが、よく見ると、なかなか綺麗な花ですね。 お彼岸は、春と秋にあるのに、春の花ではなくて、秋の花が、彼岸花と呼ばれている。これは、なかなか意味のあることかと思います。 彼岸というのは、本来、仏の世界のこと、永遠の世界のことですから、人の一生を季節にたとえてみても、心浮かれる春にではなく、心静まる秋にこそ相応しいでしょう。 まあ、春にも、彼岸桜という花がありますように、人生の春にも、いのちの不思議を思い、彼岸を思うときはあるのですが、すぐに人生の夏がきて、忙しくなり、慌ただしくなるものですから、たいていは、いつのまにか紛れてしまうものです。 彼岸を思うというのは、やはり、ひととし越した人生の秋になってからでしょうね。人生の秋には、おのずと彼岸の世界への思いが生まれてくる。そして、歳をとるにつれて、いのちの気づきが深まり、優雅に人生を降りていき、ついには、彼岸の世界、永遠の世界へと帰って行く。それが、「いのち」の自然な姿ではないかと思います。 そこで、今回は、「花によせて」という題で、「彼岸を思い、いのちの花を咲かせる」という話をさせて頂こうと思います。いつもながら、思いつくままの、はなはだまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくの間、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。 さて、さきほど、「人生の秋には、彼岸を思うのが、いのちの自然な姿だ」と申しましたけれど、実際には、なかなか、そうはいきません。現代社会では、人生の秋になっても、なかなか彼岸への思いなど生まれてきませんね。むしろ、誰もが、いつまでも人生の夏にしがみついている。 政治の世界でも、ビジネスの世界でも、「成長、発展をめざす」と言う人ばかりでしょう。「成長、発展、右肩上がりの上り坂」。それが、現代社会の合い言葉です。 ですがね、そんな上り坂ばかりのところなんか、世界中探しても見つかりませんよ。坂を上っていけば、どこかで下りになっているに決まっています。それでも、大きく成長することしか頭にないというのなら、それはガン細胞の考え方ではないでしょうかね。 情報も増加するばかりですが、増えれば良いというわけではないですね。今の五歳の子どもの情報量は、江戸時代の人間が一生の間に受け入れる情報量と同じだ、という話を聞いたことがあります。私たちの頭は、消化しきれない膨大な情報の洪水で、オーバーヒートして、ヒューズが飛びかけている。体裁ばかりの「ゆとり教育」など、それこそ、焼け石に水ですよ。 お釈迦様は、「世界は燃えている」とおっしゃいましたが、まさしく、世界は煩悩の炎で燃え上がっている。いわば、私たちは、炎の燃えさかる火炎地獄にいるようなものです。 実際、新聞やテレビを見ておりますと、現代社会は、地獄の様相を呈している。虐待や殺人のニュースが出ていない日はない。親が子を殺し、子が親を殺し。夫が妻を殺し、妻が夫を殺す。このあいだは、80何歳かの妻が、90何歳かの夫を刺し殺した、という事件までありましたね。 そんな事件の話を聞きますと、社会がどうの犯罪がどうのという以前に、どんなに苦しかっただろうと、その人たちのこころで燃えていた地獄の炎に、自分まで、あぶられる思いがいたします。 現代の日本では、交通事故で亡くなる人が、年間1万人、自殺で亡くなる人が、3万人もいるのです。現代社会では、いのちが、どんどん軽く扱われるようになってきている。これはまさしく非常事態です。 燃えさかる火炎地獄のなかで、いのちへの感性が乾いてきている。なんでも、乾くと軽くなる。濡れたタオルは重いですが、乾いたら軽くなるでしょう。それと同じように、欲望の炎にあぶられると、こころは乾いて、ひからびてくる。ひからびたこころには、いのちが軽く映るのです。 こころは、本来、もっと湿っているものです。その湿っているこころを、「情」と言います。「情」という漢字は、「立心偏に青い」と書くでしょう。青いというのは、若いということ。若いというのは、みずみずしいということです。こころというのは、本来、みずみずしいウエットなものなのです。 こころはドライになりすぎた。ひからびたドライなこころからは、涙も出てこない。今の人は、泣かないですね。泣くことがあっても、どうも、こころからではなく、その場の雰囲気で泣いているようで、涙の出所が浅いように思えるのですが、如何でしょうかね。 昔の人は、よく泣き、よく笑ったように思います。「男は三年に片頬」なんて言いまして、男は滅多に笑うものでないという教えもありましたが、それは、支配階級の武家の作法でして、庶民のものではありません。 武家には、人前で感情を露わにできない立場というものがある。影響力が大きい立場にいると、うっかり物も言えません。ましてや、泣いたり笑ったりなんて、できたものではない。 ですが、「三年に片頬」のお武家さんであっても、こころが乾いていたわけではないでしょう。熊谷直実が法然上人の前で、ボロボロ涙をこぼして泣いたという有名な話がありますが、そういった話は、いくらでもあります。 喜びであれ悲しみであれ、こころが大きく震えたときには、おのずと涙があふれ出てくる。そんな、みずみずしいこころ、人としての「情」を回復することが、私たち現代人には必要だと思います。 このあいだ、外国のお坊さんの本を読んでおりましたら、「死んだ子を泣くのは愚かだ」と書いてありました。私は、そういう考え方に、共鳴できません。家族のない出家には分からないのかもしれませんが、同じ仏教徒でも、相当感覚がちがうようですね。 こんな話を聞いたことがあります。ある有名な妙好人のお婆さんの話です。幼い孫が亡くなったとき、このお婆さんは、孫にとりすがってボロボロと涙をこぼし、大声で泣いた。それを通りがかりに覗いた、こころない人が、「お念仏を喜んでおっても、泣くんかい」とからかった。すると、お婆さんは、こう怒鳴り返した。「やかましい。わしの涙は真珠の涙じゃ。お前らの涙とは違うわい」と。 私には、この話の方が、よく分かる。仏教は、泣きも笑いもしない、無感覚なロボットを作るための教えではないのです。そうではなくて、仏教は、本当の涙、こころからの涙が流せる人になる教えだと、私は思っております。 仏教では、人の「いのち」を、よく「花」にたとえます。花が咲くには、みずみずしい土壌が必要です。みずみずしいこころという土壌があってこそ、いのちの花は咲くのです。 そんな「いのちの花を咲かせたい」という歌がありましたね。沖縄の有名な歌手、喜納昌吉(きな・しょうきち)の、「花」という歌です。みなさんも、よくご存じの歌だと思います。
この歌を初めて聞きましたときには、これは仏教の歌だと思いましたが、その話はあとにいたしまして、まず歌詞を読んでみたいと思います。歌詞をプリントして、お手許にお配りいたしておりますので、それをご覧になりながら、お聞きください。繰り返しが多いので、太字で印刷したところだけ読みます。 花 〜すべての人の心に花を〜 (作詞・作曲/喜納昌吉)
(1) 川は流れて どこどこ行くの
(2) 涙流れて どこどこ行くの
(3) 花は花として 笑いもできる
泣きなさい 笑いなさい
泣きなさい 笑いなさい 人生は、川のように流れていく。右へ左へ振れながらも、いつかは海に流れつく。その川の流れが尽きるころには、いのちを花として咲かせてやりたい。喜びも悲しみも、こころに花を咲かせるもとなのだ。こころから泣きなさい、笑いなさい。そんなみずみずしいこころのなかに、いつの日か、いのちの花を咲かそうよ。いのちの花が咲いても、人は、笑いも泣きもするものだ。それがいのちの自然な姿なのだから。 これはすごい歌ですね。仏教と同じことを言っている。こんな歌を作った喜納昌吉(きな・しょうきち)というのは、いったいどんな人かと調べてみましたら、沖縄の民族芸能、エイサーを蘇らせた、沖縄民謡の大家だといいます。 エイサーというのは、沖縄民謡に合わせて、太鼓をたたきながら踊る、一種の盆踊りですが、盆踊りというのは、もともと踊り念仏から生まれたものです。今から400年ほど前に、袋中(たいちゅう)上人という、京都の浄土宗のお坊さんが、沖縄に漂着して、踊り念仏を伝えた。それがエイサーの始まりです。 袋中上人のお墓は、京阪三条駅の北にある浄土宗のお寺、壇王法林寺(だんのうほうりんじ)にありますが、エイサーの底流には、お念仏の教えがあったのです。それで、納得いたしました。この歌を聞いて、仏教の歌だと思ったのも、不思議ではない。 ちなみに、この「花」という歌は、1986年に、仏教国のタイで、ヒットチャートNo.1になっています。ところが、日本でヒットして、レコード大賞特別賞を受賞したのは、その10年後の1996年でした。ひょっとすると、日本人のこころは、タイの人々のこころより、10年分も乾いているということかもしれませんね。 ところで、この間、ちょっと面白い話を聞きましてね。「こころ」は何処にあるのか、その「こころ」の働きは何か、という話です。解剖学者の三木成夫先生の話ですが、結論から申しますと、「こころは心臓にあって、季節の変化を感じている」というのです。もう少し詳しく申しますと、こうです。 「考える頭は頭脳にある。では、感じる心は何処にあるか。植物は、頭脳も神経も筋肉も持っていないのに、季節の変化を感じることができる。とすれば、季節の変化を感じるのは、頭脳や神経や筋肉の働きではないはずだ。 人間から、頭脳や神経や筋肉を取り去ると、内臓が残る。季節の変化を感じるのは、この内臓の働きに違いない。内臓の中心になっているのは心臓だから、ここが、感じる心のセンターだろう」(趣意)と。まさしく解剖学的発想ですが、なかなか面白い考え方だと思いますね。 感じるこころは心臓にある。心臓は、季節の変化、つまり「宇宙のリズム」を受信して、頭に伝える中継基地です。考える頭は頭脳にある。頭脳は、心臓から中継されてくる「宇宙のリズム」を解読して、適切な行動を選択するコントロールセンターです。三木先生によると、そういうことになります。 たしかに、昔は、「こころは心臓にある」と考えられていました。「心」(こころ)という漢字は、心臓をかたどった象形文字です。ところが、解剖してみると、どうも、それらしいものが見つからない。そのため、西洋医学では、心臓は、血液を送り出すポンプにすぎず、「感じる」のも「考える」のも、ともに頭脳の働きだということになってしまいました。 ですが、怒りで「腹が煮えくりかえる」とか、気の毒で「胸が痛む」とか言うように、感情は、内蔵と深い関係がある。また、心臓の移植手術を受けると、性格や好みが変わったり、記憶が混乱したりするという報告がありますから、心臓も、ただのポンプではないでしょう。とすると、「こころは心臓にある」という考え方も、無視できないように思いますね。 まあ、それはともかく、私が面白いと思いましたのは、三木先生が、「こころの働きは、季節の変化を感じることだ」と考えておられる点です。「季節の変化」というのは、「宇宙のリズム」です。生きものにとっては、「いのちのリズム」です。さきほどの喜納昌吉(きな・しょうきち)さんの言葉で言えば、「自然の歌」です。 私たちには、感じるこころと、考える頭があります。考える頭は、頭脳です。人間は、他の動物と比べて、頭脳が桁違いに発達しています。そのお陰で、人間は、いろいろ考えることができるようになり、こころが感じる「自然の歌」を、自覚的に受け止めることができるようにもなりました。 他の動物は、「自然の歌」のままに踊っているだけですが、人間は、「自然の歌」を自覚的に受け止めて、笑ったり、泣いたりできるようになったのです。生命は、人間にまで進化してきて、はじめて、こころと頭をつなぐ回路を持つようになったのです。 ところが、考える頭の働きが強まっていくと、だんだん頭の中だけの世界を作り上げるようになっていき、「自然の歌」を感じているこころを無視するようになります。頭が、こころを無視して、暴走している。その状態を、仏教では、「煩悩の炎」が燃えていると言います。 そうなると、「いのちが必要としていること」と、「頭が欲しがっていること」の区別がつかなくなってしまいます。 如何ですか、みなさん。たとえば、みなさんが、日々、買い物に行ってお求めになるものは、「必要なもの」でしょうか、それとも、「欲しいもの」でしょうか。おそらく、「必要なもの」より、「欲しいもの」を、多く買っておられるのではないでしょうかね。 これはなにも、他人ごとで言っているわけではありません。私も、時々、インターネットのオークションを覗きます。そこには何十万点もの品物が出品されていて、見ていると、あれもこれも欲しくなります。ですが、一歩退いて見れば、「欲しいもの」の大半は、「必要ないもの」です。その、必要のない「欲しいもの」に、頭がしがみつくところから、様々な悩みや苦しみが生まれてくるのです。 考える頭が、感じるこころを無視して、暴走している。考える頭が幅をきかせて、感じるこころが隅っこに追いやられている。それが、つまりは、煩悩の炎にあぶられて、こころが乾いているという状態です。 みずみずしいこころを取り戻すために、必要なのは、頭が、こころとのつながりを回復することです。頭が、こころに耳を傾けることです。 これも、このあいだ聞いた話ですが、その「頭が、こころに耳を傾けている姿」をあらわしたのが、「思」(おもう)という漢字だそうです。 「思」という漢字は、「田」の下に「心」と書きますが、上にある「田」は、田畑の田ではありません。これはもともと、水滴のような、上の尖った丸のなかに、×を書いたもので、頭を上から見た形をあらわしています。上の尖ったところが鼻でしょうね。×は、おそらく、頭脳の位置を示したものでしょう。 つまり、「思う」という漢字は、「頭」が「心」と合わさっている状態、「頭が、こころに耳を傾けている」状態をあらわしているのです。こころに耳を傾けているとき、頭は、「考えている」のではなく、「思っている」のです。 私たち仏教徒は、「彼岸を思う、浄土を思う」と言いますが、「彼岸」は考えるものではない、「浄土」は考えるものではないのです。「彼岸」は思うもの、「浄土」は思うものなのです。 「思う」と「考える」は違うのです。それは、太秦・広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」(みろくぼさつ・はんかしいぞう)と、ロダンの「考える人」を見れば、直感的に分かります。有名なもので、ふたつとも京都にありますから、おそらくご存じのことと思いますが、いちど見比べて頂きたいと思います。
この弥勒菩薩像は、右足を左ひざに乗せて、半跏(はんか)の姿勢をとり、左手が左ひざに乗せられています。右ひじは右ひざのうえにあり、右手の人指し指と中指が、右頬に触れそうな位置に添えられています。「自然の歌」に耳を傾けている姿です。これが、「思う」という姿です。 からだは、わずかに右に傾いていて、全体に、静かで優しい印象を受けます。この、わずかに右に傾いている姿は、あるいは、「左脳」が「右脳」に寄り添ってくることを反映しているのかもしれません。 「考える」というのは、いつも申しますように、頭の中でオシャベリをすることですが、オシャベリをしているのは、言語中枢のある「左脳」です。この「左脳」が鎮まってくると、「左脳」の脳波が「右脳」の脳波に重なってきて、同じ波形を描くようになってきます。脳波計など無かった昔でも、なにか感じるものがあったのかもしれません。
つぎは、ロダンの「考える人」ですが、これは、ほおづえをついた独特の姿勢で座っているブロンズ像です。右手の甲をあごに当て、上体を強く左にねじって、右腕のひじを左ひざに置いています。左手も、同じく左ひざに置かれています。 以前、「あれは、右ひじがが左ひざに置かれているから、考える人なんだ。右ひじが、まっすぐ右ひざに置かれていたら、トイレに座っている人だよ」と言った人がありますが、私には、どう見ても、苦しそうな、不自然な姿に思えます。
あの彫刻は、ダンテの「神曲」に発想を得て作られた「地獄の門」という大きな作品の一部です。現物が、東京・上野の国立西洋美術館にありますが、その「地獄の門」の上の方に座って、地獄を覗き込んでいるのが、この「考える人」です。 からだが不自然に左にねじられているのは、「左脳」の暴走を象徴している。「左脳」が暴走すると、地獄の門を覗き込むことになる。作者の意図とは違うかもしれませんが、私には、そんなふうに思えて仕方がありません。如何でしょうかね。 まあ、「考える人」の話が出たから言うわけではありませんけれど、英語では、トイレに行きたくなったときに、「自然が呼んでいる」と言います。その自然の呼び声を無視していると、便秘になって苦しむことになる。 こころは、自然のリズムを感じて、「トイレに行きたい」と言っている。それを無視して、「今はダメ」と考えているのは、頭です。私たちが苦しむのは、たいてい、頭が「自然の歌」に耳を傾けないからですよ。 考えることも大切ですが、考えるだけでは、こころが乾いてしまいます。こころが乾いていたのでは、「自然の歌」が聞こえません。実際、私たちには、「自然の歌」が聞こえにくくなっていますね。最近とみに、私たちの生活から、季節感がなくなっているように思いますが、みなさんは、どう思われますか。 大きなマーケットに行くと、どんな野菜でも果物でも、一年中手に入ります。そのうえ、日本ではできないような、外国の珍しい野菜や果物や、その他の様々な食品までが、あふれています。いのちを支えている大切な食べ物から、季節感がなくなってくれば、おのずと、私たちのからだもこころも、どんどん季節の変化に鈍くなってくる。これは問題だと思いますね。 冬にイチゴが食べたいというのも、冬にイチゴを出荷したいというのも、ともに、こころが乾いているからです。いのちが、冬にイチゴを必要としているわけではないでしょう。「必要は、発明の母」といいますけれど、いまや、「煩悩が、発明の母」です。現代社会は、「いのちより金」の社会になってしまいました。 ちなみに、お金のことしか考えていない状態を表しているのが、「貪」(むさぼる)という漢字です。「貝」という字はお金を表しています。「今」というのは、屋根の下にいることを表す字で、そこから、「覆い被さる」という意味で用いられます。ですから、「貪」(むさぼる)というのは、お金に覆い被さって、しがみついている姿を表しているのです。お金にしがみついていたのでは、季節の変化も、金儲けのヒントくらいにしか思えないでしょうね。 昔は、そうではなかったのです。伝統的な東洋医学では、昔から、「医食同源」、「身土不二」(しんどふじ)と言います。「医食同源」というのは、健康の維持は食べ物でするということです。また、「身土不二」というのは、「自分が生まれ育った土地で、季節の変化に従ってとれる食物を食べることが、からだとこころにとって一番大切だ」という考え方です。 私たちは、自然の恵みを通じて、「自然の歌」を聞くのです。代表的な自然の恵みは、食べ物です。食べ物というのは大事ですよ。真冬に、暖房をきかせて、アイスクリームを食べているようでは、なかなか「自然の歌」は聞こえてこないですね。 「自然の歌」が聞こえていないものですから、まだ桃の花の咲いていない3月に「桃の節句」を祝い、梅雨の名残で星の見えにくい7月に「七夕さま」をおまつりしても、何とも思わない。ひょっとしたら、季節と連動している旧暦を復活させたほうが、良いのかもしれませんね。
さて、そろそろ、このあたりで、まとめていきたいと思います。仏教詩人で有名な、坂村真民という方に、こういう詩があります。 念ずれば 花ひらく
苦しいとき 「花」というのは、「いのち」のことですね。念ずれば、いのちの花がひらく。「念ずる」というのは、文字の形のとおり、「心が今とひとつになっている」ことです。 この「念」という字を、さきほどの「思」(おもう)という字と、並べてみてください。頭をあらわす「田」のところが、「今」になっているでしょう。 「念ずる」というのは、頭が、過去へ未来へと走り回ることをやめて、完全に鎮まっている状態のことです。完全に、頭とこころがひとつになって、頭がこころを抱きしめて、「自然の歌」に聞き入っている。それが、「念ずる」です。 「自然の歌」は、「宇宙のリズム」です。仏教では、この宇宙に遍満しているものを、「仏のいのち」と言っています。「宇宙のリズム」は、「仏のいのち」の鼓動です。 私たち仏教徒にとって、「仏のいのち」は、「仏のこころ」です。「仏のこころ」を感じ、「仏のいのち」に共鳴していくところに、いのちの花は咲くのです。 花は、季節の変化を感じて、咲く時を知ります。花は、「自然の歌」を聞いて、咲く時を知るのです。念ずれば、「自然の歌」が聞こえてくる。念ずれば、いのちの花がひらくのです。 坂村真民さんは、お母さんにならって、いつのころからか、「念ずれば、花ひらく」ととなえるようになった。私たちは、「南無阿弥陀仏」(ナマンダブ)と、お念仏を称えます。「念ずる」というのは、「称える」ところから生まれてくるのです。 仏教の話を聞いたり、本を読んだりして、「なるほどなあ」と感心しているだけでは、なんにもなりません。それは、他人のお金を数えている銀行員のようなもので、いくら感心しても、自分のものにはなりません。考えるだけなら、それは哲学ではあっても、信仰ではないのです。「お念仏」を称えるようになってこそ、信仰なのです。 「お念仏を称えても、すこしも幸せな気持になってこない」という声をよく聞きますけれど、まあ、それはそうでしょうね。「お念仏を称えると、幸せになる」というのは、頭の考えていることです。 私たちの考えている「幸せ」というのは、たいてい、自分にとって都合のよいことが起こることですが、お念仏は、そんな煩悩にとって都合のよい呪文ではありません。 日々、お念仏をとなえる生活のなかで、「自然の歌」が聞こえてくると、頭で考えていただけの自分に気づくのです。「ああ、自分はまちがっていた、自分がまちがっていたのだ」と気づくのです。「昨日より.もっと愚かになったと思うたびに、智慧が深まる」と言った人がいますが、それがお念仏の功徳です。 家内の里のお寺にも、「念ずれば、花ひらく」という、坂村真民さんの言葉を刻んだ石碑があります。その石碑の除幕式には、私も出席しておりましたが、集まった人々のなかに、しきりと感心している人がいる。「いい言葉やのお。やっぱり、一所懸命に念じておったら、願いが叶うっちゅうことやの」と。 そうではないのですよ。「念ずれば、花ひらく」というのは、「一心に念じていたら、自分の願いが実現する」という意味ではないのです。そうではなくて、念じていると、「自然の歌」が聞こえてくる。宇宙に遍満している「仏のいのち」の鼓動が聞こえてくるのです。 私たちは、「仏のいのち」と共鳴して、「仏のこころ」を知るのです。「仏のこころ」が私たちに届くこと。それが、仏の願いです。念ずれば、花ひらく。それは、自分の願いが実現することではなく、仏の願いが実現することなのです。 「念ずれば、花ひらく」という言葉がお好きな方が、政界や財界にも沢山おいでになるそうですが、本当の意味をご存じだと、有り難いですね。 昔は、「情」と書いて「こころ」と読みました。「情」というのは、青いこころ、みずみずしいこころですが、それだけではありません。「青」というのは、空の青、海の青に通じて、はてしないもの、「永遠」を表す文字でもあります。みずみずしいこころは、永遠を思うこころです。永遠を思うこころに、いのちの花は咲くのです。 世間では、「楽しいのは若い間だけ。健康で生き甲斐もあって、働ける間が花だ」と、よく言われますけれど、そうではないのです。刺激に満ちた、賑やかな夏だけが、人生の花ではない。人生には、四季折々の花が咲く。秋には、彼岸の花が咲くのです。 「おろかになるほど、のびやかになる」。それが、お念仏を称えるものの、体験する世界です。どうぞ、みなさん。ご一緒に、お念仏を称えてまいりましょう。そして、いつの日か、「生まれてきてよかったなあ」と思える花を、咲かせたいですね。川の流れが尽きるころまでには。 では、本日は、これで終わらせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。 つぎは、11月12日の「報恩講」でございます。またご一緒に聞法させて頂けるよう、念じております。本日は、お忙しいところをお運び頂きまして、有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…
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