釋昇空法話集・第36話

思秋期

人生設計の耐震疑惑

(2007年3月21日 彼岸会法話)
 お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労様でございます。

 今日は良いお天気で、有り難いことですが、今年は妙で、大寒に暖かかったかと思うと、彼岸の入りに雪でしてね。桜の開花宣言ももたついているようですが、同志社の桜が、ちょっと咲いたみたいですね。

 桜はいいですね。桜を見ておりますと、人生の喜びも悲しみも包みこんでしまう、いのちの光が見えるような気がしましてね、毎年、近くの公園の桜が咲くのを、心待ちにしております。

 「散る桜、残る桜も、散る桜」。これは良寛さまの辞世の句ですが、去年の桜は、福井の岳父と一緒に見た最後の桜でした。岳父は散って、私は残ったわけですが、私もまた、散る桜なのです。

 そんな思いもありまして、昨年の秋から、少し身辺整理をしようと思いましてね、もう二度と読むこともないだろうという本を、かなり処分いたしました。

 古本屋さんに引き取ってもらったわけですが、買い取り価格が、私の思っていた金額とぴったり一致したのです。かえって意外な気もしましたが、「それでいいんだ」という、メッセージのようにも思えました。

 何かを次々に手に入れていくのが、人生の前半なら、手に入れたものを徐々に手放していくのが、人生の後半なのでしょうね。もちろん、持ち物を処分すればよいというわけではありませんけれど、身軽になっていくことも、人生の後半が自覚できて、それなりに気分が良いものです。

 人生には、大切な時期が二回訪れてきます。それは人生の山の上り口にある「思春期」と、下り口にある「思秋期」です。これはともに、心理学の用語で、何かと問題の起こりやすい時期だと考えられておりますけれど、仏教徒から見れば、人生に起こってくる問題は、気づきへのご縁でもあります。

 そこで今回は、そのあたりのことを、ご一緒に考えてみたいと思っておりますが、なにぶん「思春期」は遠くなりましたので、身近な方を採って、「思秋期」という題にいたしました。

 岩崎宏美さんの歌の話ではありません。いつもながらの、いささかまとまりのない、理屈っぽい話でございますが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げておきます。

 さて、私は、今年で58歳になります。口では、「いまだ青春に至っていない」などと言ってはおりますけれど、もう立派に中年です。

 人生を季節にたとえれば、中年期は、夏と秋にまたがった時期です。人生の秋にさしかかると、能力的にも体力的にも、自分の限界が見えてきます。疲れが取れにくくなったり、記憶力が衰えてきたり、以前は楽々とこなせたことに結構苦労したりするようになってきますね。

 そういう変化には、徐々に気づいていくというより、あるとき、ふと気づくもののようです。私事ですが、以前は、立ったままで足袋をはいておりましたのに、いつのまにか、座ってはくようになっていました。それに気づいたときには、はっきり、中年を自覚しましたね。

 目も、だんだん老眼になってきました。字を読むときには、ちょっと離さないと、分からない。離したら分かるのですが、こうなったら、「話(離)せば分かる」人になったというそうですね。

 まあ、それはともかく、世間的に言えば、かくして人生のピークが過ぎていくわけですが、俗な言い方をすれば、人生のピークというのは、人生でいちばん美味しいところです。人生の中頃過ぎに、「人生のいちばん美味しいところは、もう食べてしまったのだ」と言われても、納得できないのが普通でしょう。

 「え、これだけなの」、「人生って、こんなものだったの」、「自分は、いったい、何のために生きているのだろう」、「人生の本当の目的とは何なんだろう」、「何か、人生でいちばん大事なことを、自分はやっていないんじゃないか」。そんなふうに思いはじめると、だんだん不安でたまらなくなってくる。

 「こころ」のなかには、涼しい秋風どころか、秋口の台風が吹き荒れている。これが、いわゆる「中年の危機」とか、「中年クライシス」とかいわれているものなのですが、この「中年の危機」が訪れてくる時期を、「思秋期」といいます。

 この人生の節目を乗り越えるのは、容易なことではありません。中年期に、自殺をする人が、非常に多いのも、この問題と無関係ではないでしょう。

 なかには、目をそむけて、酒や、ギャンブルや、浮気に走る人もありますし、目をとじて、「生涯現役」と叫ぶ人もあります。振り返って、もう一度、若さを取り戻そうとする人もいます。最近、「アンチ・エイジング」なんて、よく聞きますが、まあ、それだけ中年期の人が増えてきたということでしょうね。

 何でも個人差がありますから、それほどはっきり意識されない場合もあるでしょうけれど、程度の差はあれ、「思秋期」は、誰にでも訪れてきます。この「思秋期」への対応の仕方によっては、人生の後半だけでなく、人生そのものが変わってしまいます。

 人生の中頃で、こんな大問題が起こってくるということは、いわば、人生設計に耐震疑惑があるということかもしれませんが、大きな問題が起こってくるのは、何かが大きく変わる必要があるからではないでしょうか。

 そうだとすると、いったい何が変わる必要があるのか。それを知るためには、「思秋期」が訪れてくるまで、私たちは、どんなふうに生きてきたのかを考えてみるしかありません。

 さて、私たちの人生は、よく、山にたとえられます。この山の頂上あたりが「中年期」です。私たちは、ひたすら、この山に登ってきたのです。

 山を登っていくというのは、「あの一本杉まで、あの大きな岩まで、あの山小屋まで」と、次々に前方に目標を設定して、そこにたどり着こうとすることですが、人生の山登りも、これと同じですね。

 「あの高校に、あの大学に、あの会社に」と、将来に目標を置いて、そこにたどり着こうと努力するのが、人生の山を登っていくということです。若いころには、これはこれで、大事なことです。

 ですが、「中年期」を過ぎると、能力も体力も限界が見えてきますし、だんだん人生の先行きも見えてきますから、この生き方を続けていくことは難しいのです。

 峠を越えると、ほのかに人生の終わりが見えてきます。将来に目標を置いて、そこにたどり着こうと努力するといっても、かんじんの将来が頼りなくなってきます。

 人生がいつかは終わることくらい、子供でも知っていますが、それは山の向こうにあって、見えないものですから、切実感がありませんでした。そこで、その問題は、ひとまず棚上げになっていたのです。

 中年期は、人生の棚卸しの時期だといわれますが、そのとき棚から下りてくるのが、この大荷物、人生が終わっていくという大問題です。

 「中年期」になるまでは、「この先、どうやって生きていくか」が大問題で、いろいろ頑張ってきたわけですが、今度は、「この先、どうやって死んでいくか」が大問題になってくるわけです。

 「思秋期」の問題は、つきつめていけば、この死の問題なのです。「思秋期」が訪れてくるのは、この問題をどうするのか、という問いかけだと思います。

 はっきりした理由もないのに、こんなことをしていていいのだろうか、自分の人生はこれでよかったのかと、不安や焦りが生まれてくるのも、この時期です。

 何かを変える必要があるときに、問題が起こってきます。「思秋期」は、生き方を問うているのです。死ぬことを忘れて生きてきた、それまでの生き方を問うているのです。変わっていかねばならないのは、生き方なのです。

 「生き方」というと、おそらく、皆さんは、現在が未来をつくっていくとお考えではないかと思います。ですが、私たちは、実際には、そういう生き方をしていないのです。

 これまでは、たとえば、半年後に大学に入学するために、現在、遊びたくても我慢して勉強するとか、5年後に家を建てるために、現在、欲しいものがあっても我慢して貯金するという生き方をしてきたと思いますが、いかがですか。

 では、そんな私たちは、現在と未来の、どちらを大事にしてきたのでしょうか。

 お分かりにくいかもしれませんので、さきほどの例を、もう一度、取り上げます。半年後に大学に入学するために、現在、あそびたくても我慢して、勉強する。これなら、どうでしょう。半年後という未来か、現在か、どちらを大事にしていますかね。

 そろそろ、お分かり頂けたかもしれませんね。私たちは、つねに、現在より、未来を大事にしているのです。

 もう少し考えてみますとね、明日、お葬式に行くか、結婚式に行くかで、今日、準備する服装が違いますでしょう。そうすると、今日の行動は、何によって決まるかといえば、明日の目的ですね。つまり、未来の目的によって、現在の行動が決まる、ということなんです。

 これはつまり、大事なのは、つねに、未来で、現在は、未来次第だということです。たとえていえば、現在が、未来の家来になっているようなものです。未来が主人(主)で、現在が従者(従)だという主従関係にあるわけです。

 ところが、人生で100パーセント確実なことは、いつかは死ぬということと、今生きているということだけなのです。その間のことは、全部、確率の問題で、確かなことはひとつもありません。極端な話ですが、今日、結婚式の服装を準備していても、明日は、お葬式になるかもしれないのです。

 つまりです、私たちは、つねに、確かな現在より、どうなるか分からない未来を大事にして、生きてきたということです。

 これは、「未来が現在を決める、現在は未来のためにある、大事なのは、現在より未来だ」という思考パターンですが、こういう思考パターンで、何十年もやってきますと、これが「生きるということ」なのだと思い込んでしまいます。「生き方」といえば、これしか考えられないようになってしまうということです。

 「未来の目標に向かって、行動する」。そういう「生き方」では、未来に目標を置かないと、現在の行動が決まりません。「生きるためには、目的が必要だ」。「人生の目的は何か」という問いも、この思考パターンから生まれてくるものです。

 ですがね、思考パターンというのは、単に、「考え方の癖(くせ)」に過ぎません。「人生の目的を求める」のも、「考え方の癖」なのです。そのことに気づくことが大事です。生き方を変えるというのは、この「考え方の癖」を手放していくことなのです。

 つまりは、「未来よりも現在を大事」にしていくということですが、最近は、よく、「今が大事だ」と言われるようになりましたから、前もって、誤解のないように申し上げておきます。

 「現在を大事にする」というのは、「今を楽しめばいい」ということではなく、「未来に結果を求めない」ということなのです。つまり、たとえば、ゴルフをしても、スコアを求めないということです。練習場に行っても、上達を求めないということですが、そういう生き方ができますか。

 とてもできないと思われるかもしれませんが、そういう生き方のなかにこそ、「いのちの真実」が明かされてくるのです。いのちが輝き、本当の喜びを知るのです。

 「現在を大事にする」ということは、いわば、未来が主人(主)で、現在が従者(従)だという、これまでの主従関係を解消して、「現在」が、みずから「主(あるじ)」となっていくということです。

 現在が主(あるじ)となれば、不確かな未来に予定されていた喜びが、全て現在に集約されてきて、いのちが輝きます。「すでに全てが与えられている」という「いのちの真実」に気づき、本当の喜びを知るのです。「随所に主(あるじ)となる」という臨済禅師の言葉も、このことを言っているのです。

 ですが、これは世間の考え方とは異なりますから、そういう新たな生き方をしていくには、「世間の評価を求めない」ということも大切になります。それはまた、過去に受けた世間の評価にもこだわらないということでもあります。

 「現在を大事にし、世間の評価を求めない」。実は、これは、「世間の評価を求めず、自分を生きる。未来に結果を求めず、今を楽しむ」という、仏教に説かれている生き方に通じています。

 私たちは、世間の人として「成長」していきます。そして、中年からは、徐々に世間を離れて、出世間の人として「成熟」していく旅が始まるのです。その「成熟への道」を説いているのが、仏教です。では、その仏教の話に続けることにいたします。

 さて、私たちは、人生の山を、どこまでも上っていこうとします。私たちが、悩み苦しむのは、それができないからです。

 私たちは、人生を、よく旅にたとえますが、仏教でも、人生は旅だと考えます。人生は、家から出て山を上り、山を下って家に帰る旅です。もともと旅というのは、そういうものでしょう。

 私たちは、山の頂上が旅の目的地だと考えますけれど、仏教では違います。そうではなくて、「山をきちんと下りてこれたら、おのずと人生の旅は完成する」と言っています。山で遭難して、旅を完結できない人がいることを思えば、よくお分かりになるかと思います。

 仏教が言っているのは、「ほとんどの人は、どんどん上っていこうとして道に迷い、下りてくることなく人生を終わってしまう」ということです。迷いの山から下りてこないということですね。

 私たちは、「成長だ、発展だ、進歩だ」と、上り道を探し続け、見つからずに、悩み苦しむのです。そこで、「なんのために生きているのか」、「人生の目的は何か」と迷っているうちに、人生が終わってしまうのです。

 仏教では、「人生の目的」を説きません。「きちんと下りてこれたら、おのずと人生は完成する」と説いています。仏教は、山を下りるための教えなのです。

 山を下りるというのは、山を上る前の高さに戻っていくということですが、それは、ある意味で、子供に戻っていくということです。ちょっと先走ってしまいますが、どういう子どもに戻っていくのか、という話を先にしておきます。

 昔から、「七歳までの子どもは神様のもの」といいます。数え年で、七歳までは神の子なのです。まあ、私たちは仏教徒ですから、「仏の子」と言いましょうかね。

 「仏の子」は、未来のために現在を生きるということはありません。今日、泥いじりをしていても、それは明日、壁を塗る準備をしているわけではありませんね。ただそれが楽しいからしているのです。

 転けて泣いても、チョウチョウを見つけたりして、すぐ笑っている。「仏の子」は、過去を引きずったりもしないのです。

 「仏の子」には、過去・現在・未来という時間がないのです。「仏の子」は、「永遠の今」につながって生きているのです。仏の世界につながって生きている。仏の手の平に乗ったまま、この世界の不思議を楽しんでいるのです。

 スコアを求めないゴルフ、上達を求めないゴルフというのは、これなのです。子供に戻っていくというのは、いわば、この「仏の子」に戻っていくことなのです。

 ですが、これは、ひとつの「たとえ話」だとお考えください。というのは、「仏の子に戻っていく」というと、上り道で迷っている私たちは、「仏の子」というものを、未来にある目的地だと考えがちだからです。

 そうではありません。いつもお話いたしますように、私たちは、いつでも仏の手の平にいるのです。ところが、そのことを忘れてしまっているのが、私たち大人です。

 戻っていくというのは、子供に成ることではなくて、仏の手の平にいることを思い出し、「いのちの真実」への気づきを深めていくということなのです。

 浄土の教えにご縁を頂いた、私たちの生活は、聞法とお念仏の日暮らしです。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、いつとはなしに、「いのちの真実」への気づきが深まっていきます。

 お念仏を称えるのは、未来に浄土へ生まれるための目的行動ではありません。そうではなくて、お念仏は、「今」の私を支えてくれる力です。お念仏は、過去へ未来へと、さまよい出ていこうとする私を、「今」に引き戻してくれる力です。

 お念仏に支えられて「今」にいると、いのちの温もりが戻ってきて、ほのかに、仏の手の平を感じてくる。「仏の子」に戻っていくというのは、そういうことです。

 以前にもご紹介いたしました念仏詩人、木村無相さんに、こんな詩があります。「あそぼ」という詩です。皆様のお手許にお配りいたしましたプリントにも載せてありますので、ご覧になりながらお聞きください。

      おねんぶつさま
      あそぼ
      もうすぐ春よ

      ナンマンダブ
      ナンマンダブ
                     (「あそぼ」、『念仏詩抄』)

 「仏の子」のつぶやきです。「仏の子」の独り言を聞いているだけでも、こころに温もりが戻ってくるような気がしますが、いかがですか。

 年老いていくことは、「仏の子」に戻っていくこと。とすれば、「成熟」の道をたどって、仏の手の平に戻っていった老人の言葉を聞けば、私たちの戻っていく世界のことが、分かるでしょう。

 以前にもご紹介いたしました仏教詩人、坂村真民さんの詩に、こんなのがあります。「老いること」という詩です。

      老いることが
      こんなに美しいとは知らなかった
      老いることは
      鳥のように
      天に近くなること
      花のように
      地に近くなること
      しだれ柳のように
      自然に頭のさがること
      老いることが
      こんなに楽しいとは知らなかった
                        (「老いること」)

 こころが天地に広がり、いのちへの畏敬の念に頭がさがる。年をとって本当に謙虚になったとき、わたしは宇宙とひとつだった。そういう感動をうたった詩だと思います。

 「仏の子」のつぶやきを聞いて、感動し、共鳴するということは、私たちのなかにも、共鳴するなにかがあるということでしょう。「仏の子」のつぶやきに共鳴しているのは、やはり、私たちのなかにある「仏の子」なのでしょうね。

 世間のなかに、どっぷりと深入りしている私たちが、こういう世界に戻っていくのは、なかなか大変なことです。

 ですが、「どうすれば、いいのか」と問われても、困ります。というのも、手放していくのは、まさにその、「目標に到達するには、どうしたらいいのか」という、そういう「考え方の癖」なのですから。

 頭で考えると、どうしても、そういう「癖」にとらわれてしまいますから、いのちの働きにまかせる。仏の力にまかせる。それが、お念仏を称えるということですね。

 お念仏とともにある日暮らしのなかで、世間に向いていた目が、だんだん自分に向いてくるようになってきます。本当に自分が見えてきたら、おのずと、要(い)らないものは、はがれ落ちていきます。

 その、はがれ落ちていくもののなかに、「世間の評価を求める思い」や、「未来に結果を求める思い」も、入っているのです。残っているのが、「今を生きている自分」です。

 「今」を生きているのが、「仏の子」です。ですが、「仏の子」でも、いつも元気なわけではありません。不機嫌なときもあれば、転けて泣くこともあるのです。私たちが「仏の子」に戻っても、それは同じでしょう。

 坂村真民さんの詩にこういうのがあります。「かなしみ」という詩です。

      なんとも言えぬかなしみが
      潮(うしお)のように満ちてきて
      じっと寝ていられぬときがある

      なんとも言えぬかなしみが
      潮(うしお)のように引いていったあと
      まもられている自分に涙することがある
                           (「かなしみ」)

 人生には、いろんな問題が起こってきます。ときには、立ち直れないほど、悲しいこともあるでしょう。ですが、その悲しみの大波が引いたとき、身もだえしていた自分を支えてくれていたものがあったと気づけたら、また、歩き始めることができるのではないでしょうか。

 お念仏とともに歩んでいても、人生から悲しみや苦しみが無くなるわけではありません。ですが、私たちは、つねに仏の手の平の上にいるのです。悲しいときも、苦しいときも、仏は「私」を支えてくれている。そのことへ気づきを深めながら、仏のもとに戻っていくのが、人生の旅なんでしょうね。

 お念仏に生きる人は、揺れないのではなく、揺れても倒れないのです。人生の前半で、この教えに出会えたら、「思秋期」への耐震度も変わってくるのではないかと思います。そこで、その、仏法へのご縁の話を、もう少しだけ、させて頂きます。

 さて、最初の方で、人生設計に耐震疑惑がある、などと申しましたが、私たちはたいてい、設計図を持って生まれてくるわけではありませんから、人生設計のマスタープランは、いわば世間まかせです。

 世間のマスタープランでは、「自分で食べられるようになって、社会の役に立つ人になる」となっていますが、これは、どちらかといえば、人生の前半のことでしょうね。

 人生の後半について、何か言っていないかと探してみましたら、ひとつありました。「人生の経験を生かして、実り多い老後を楽しむ」というものです。

 この言葉の意味、お分かりになりますか。私には、どうも、「美しい日本」などという言葉と同様に、内容が定かでないように思えましたが、まあ、おそらく、「好きなようにしてください」ということなのでしょうね。

 となると、山登りの観光に出かけて、山頂で現地解散になったようなものです。そのとき道に迷わないように、それまでの「人生の経験」のなかに、仏法へのご縁が含まれていることが大切だと思います。

 私たちは、この世間に生まれてきたのですから、まずは、世間の人として「成長」していくことが大切です。ですが、「宗教のない教育は、賢い鬼を作る」という言葉もあるのです。

 子どもが、仏の手の平から離れて、世間に乗り出していくときには、スペースシャトルから、宇宙遊泳に出るときのように、「人生の命綱」を付けておくことが、家庭の務めではないかと思います。

 たとえば、家庭に仏壇があることも、お念仏を喜ぶ、おじいちゃんや、おばちゃんがいることも、「人生の命綱」になるでしょう。

 社会の変化が激しいので、老人の存在意味が薄れたといわれますが、それは違うと思いますね。もしそうなら、それはただ、老人が「仏の子」になっていない、成熟していないということではないでしょうか。

 蓮如上人も、「仏法には、若い頃に、親しんでおきなさい」とおっしゃっています。そういう「人生の命綱」が付いていたら、「思秋期」の大問題に出会ったときも、なにかのメッセージとして、ご縁として受け止められるかもしれません。

 「思秋期」は、だいたい「更年期」に重なっています。「更年期」は、人生の折り返し点が来たという、身体からのメッセージではないでしょうかね。「更年期」が始まったら、仏法の教えを思い出して、そろそろ、山を下りる準備にかかるときではないかと思います。

 男にも更年期がありますけれど、女の更年期のほうが、ずっとはっきりしています。女は、それだけ「いのち」の根源につながっているパイプが太いのでしょう。女はスゴイ、と思いますね。

 子供が小さかったころ、「ただいま」と、遊びから帰ってきた。「おかえり」と言うと、「おかあさんは」と聞く。「ちょっと、お使い」と応えたら、「なんや、だれもいないのか」。……父親は透明人間ですかね。

 いや、あるいは、そうなのかもしれませんね。女には、「いる」という働きが強いのです。それに対して、男には、「する」という働きが強い。存在する女、行動する男、とでも言いましょうか。

 存在するのに、とりたてて目的はいりませんけれど、行動するには目的がいる。そういう人生前半の思考パターンは、なかなかしぶといですから、人生後半への適応は、目的にこだわりがちな男に分(ぶ)がわるい、ということかもしれませんね。

 今年は、2007年です。戦後まもなくのベビーブームのときに生まれた人々、昭和22年から昭和24年までに生まれた、いわゆる団塊の世代の第一陣が、退職し始める年です。大変な時代に生まれた子どもたちです。ひょっとすると、命綱がついていないかもしれません。どうか、退職後に、立ちすくむ団塊世代でないよう、念じております。

 さて、もう話は終わったようなものですが、最後に、坂村真民さんの詩を、もうひとつだけ、ご紹介いたします。「ひとつの歴史」という詩です。

      しんみんさん
      何一つ読まなくてもいいんだよ
      じっと坐って
      風の音をきいているのも
      一つの歴史だよ

      しんみんさん
      何一つしなくてもいいんだよ
      じっと坐って
      天地と呼吸を合わせているのも
      一つの歴史だよ

      しんみんさん
      虫が泣いているだろう
      星が光っているだろう
      あれも一つの歴史だよ

      瞬間を真実に生きてさえおれば
      それが尊い歴史になるんだよ
                       (「ひとつの歴史」)

 魂にしみ通ってくるような、静かな光のある詩ですね。私の好きな詩です。こういう詩を説明する言葉は、私には無いのですが、いのちの静かな充足を感じます。

 「しんみんさん」という呼びかけが、なんとも優しい。ですが、その呼びかけには、深い悲しみをも感じます。喜びだけでなく、いのちの奥底にある、深い悲しみをも知ることが、人生が完成していくということかもしれませんね。

 あなたが、「本当のあなた」になっていくこと。それが、「尊い歴史になる」。「もう、年を取って、なんにもできんようになりました」などと、おっしゃっていないで、大事な仕事を完成していきましょうね。

 さて、本日は、これでお終らせて頂きますが、昔から、「人の一生は、棺桶の蓋を閉めるまで分からない」と言います。私たちは、「成長」から「成熟」への道を歩んでいるのです。「今が人生の頂点」などという言葉は、そのときまで、ポケットにでもしまっておいたほうが、いいのではないかと思いますね。

 どうぞ皆さん、棺桶の蓋が閉まるまで、ご一緒にお念仏を称えながら、「成熟」の道を歩いてまいりましょう。それが、私たち門徒の歩む道です。

 本日は、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂けるよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……



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