お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労様でございます。いつまでも残暑が続いているような気がしますが、今年の夏は、暑かったですね。 今年の暑さのピークは、お盆の最終日の8月16日だったそうですが、毎年、お盆参りに伺いますと、「ご院さんは、暑いのに、きちんと衣を着て大変ですね」と気遣ってくださることがよくあります。 私自身は、あまり暑さ寒さが気になるほうではありませんので、「まあ、夏ですから、こんなもんでしょう」なんて申しておりましたが、今年はちょっと違いましたね。「まあ、夏ですから、こんなもんでしょう」というところまでは、去年と同じなんですが、そのあとが違いました。 去年までは、「ご院さんは、お若いから、暑さが堪(こた)えんのでしょう」という言葉が返ってきた。ところが今年は、「歳を取ると、鈍(にぶ)くなるんですわ」と言われましてね。思わず笑ってしまいました。 ちょっとすみませんが、椅子に座らせてもらいます。梅雨時に腰を痛めましてね、長い間立っておれませんので、失礼いたします。整体の先生に見てもらっておりますが、その先生が途中でギックリ腰になってしまわれましてね、いささか手間取っております。 腰痛は、私の持病みたいなものですが、このごろは、膝が痛んだり、坐骨神経痛になったりで、どうも具合が悪い。目も悪くなりましたね。まあ、順調に老化が進んでいるだけで、なにも不思議はないわけですが、それにしても、歳を取るというのは、なかなか大変なことです。 「女の人生で一番難しいことは、いい婆さんになることだ」と言った人がいますが、そういうことなら、男でも同じでしてね。「男の人生で一番難しいことは、いい爺さんになること」でしょう。 ですがね、綾小路きみまろさんではないですが、「老婆は一日にして成らず」です。いい婆さんだって、いい爺さんだって、一日にして成れるわけではない。やはり、日々の心がけというものが大事です。 まあ、歳を取っていく当人としては、「いい爺さん、いい婆さん」と言われることより、いつも、こころ安らかでおれたら、何よりかと思いますね。おそらく皆さんも、そうお考えではないかと思いますが、それにしても、やはり、日々の心がけが大事でしょうね。 そこで今回は、こころ安らかに歳を取っていくための心がけを、仏教にたずねて、ご一緒に考えてみたいと思っております。講題は、「心がけ、命がけ」といたしました。 いつもながらの、とりとめもない話になってしまうかもしれませんが、どうぞしばらくの間、お付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。 さて、このあいだ、仙崖義梵(せんがいぎぼん)という江戸時代の禅僧の水墨画集を、ぱらぱらとめくっておりましたら、こういう作品にであいました。「老人六歌仙」というものです。まずは、これからご紹介いたします。 プリントをお手許にお配りいたしておりますので、そちらをご覧頂きながら、お聞きください。六人の老人の姿を描いた上に、歌が六首添えてあります。それを読んでみますね。
しわがよる ほくろがでける 腰曲がる
手は振るう 足はよろつく 歯は抜ける
身に添うは 頭巾 襟巻 杖 目鏡
聞きたがる 死にとむながる 淋しがる
くどくなる 気短かになる 愚痴になる
又しても 同じ話に 子を誉める 平安時代の六歌仙をもじったものですけれど、なかなか面白いでしょう。これはね、老人をからかった歌ではなくて、歳を取るということを、よくよく考えてみましょうという歌なのです。 前の三首は、そんなに説明もいらないと思いますが、歳を取ると身体はこんなふうになるという歌です。 『しわがよる ほくろがでける 腰曲がる 頭がはげる ひげ白くなる、 手は振るう』。久しぶりに頂いた葉書の字が震えていたりすると、ああ、歳を取られたなあと思ったりしますね。
『足はよろつく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目はうとくなる』。 『たんぽ』というのは「湯たんぽ」のことです。『おんじゃく』(温石)というのは、石を温めて布でくるんだもので、懐炉(かいろ)のようにして使ったものです。『しゅびん』というのは「溲瓶」(しびん)のことですね。 それに続く後の三首は、心の状態を歌っています。こちらは、ちょっと説明しておきますかね。『聞きたがる』。なんでも聞きたがるのですよ。「さっきの電話、誰から? 何の用やったん? どこ行くの? なにしに行くの?」 よくありますね。 「何であんたにいちいち説明せんならんのや」と思っても、黙っているわけにもいきませんから、困ったものですが、京都の挨拶などは、この点、結構垢抜けていますね。「お出かけですか」。「はい」。「どちらまで」。「ちょっと、そこまで」。これでおしまい。 『死にとむながる』。要するに、死にたくない、死にたくないと思うわけです。まあ、口ではたいてい、そうは言いませんけれどね。「私は、もういつお迎えがきても」なんて言っている。 ところが、ちょっとでも身体の調子が悪いとなると、すぐに医者にとんでいく。「何ともないですよ」なんて言われようものなら、「あれはヤブだ」と、次々に医者のはしごをする。「ちょっと血圧が高めですから、お薬を出しておきますね」なって言ってもらうと、もう安心してしまって、もらってきた薬などほったらかし。 『淋しがる、心は曲がる、欲深くなる』。これも、よくあることですね。「息子が冷たい、孫が声をかけてくれない。あれは嫁が悪いからや。結局、頼りになるのは金だけや」。そんな思いでいるものですから、ちょっと優しくしてくれる人にだまされて、虎の子をなくしてしまったりする。難儀なことですね。
『くどくなる 気短かになる 愚痴になる 出しゃばりたがる 世話やきたがる』。 まあ、いちいち説明しますと、それこそ『くどくなる』ので止めますけれど、江戸時代に言われたことが、現代にも、ちゃんと当てはまっているところが面白いですね。 前の三首で歌われているのは、老人の「あるがまま」の姿です。後の三首で歌われているのは、老人の「わがまま」な姿ですね。思いますにね、老人が嫌がられるのは、身体が不自由になるからではないのですよ。そうではなくて、身体が不自由になる分、「わがまま」が強くなるからです。 自分で出来なくなったことは、ひとに頼ろうとする。ところが、ひとは、そうそう自分の思うようには動いてくれません。そこで、「あれをしてくれない、これをしてくれない」と言うようになる。 そんな老人を「くれない族」というそうですがね。「私に話してくれない」とか、「私の気持ちが分かってくれない」とか、「くれない、くれない」と言っている自分に気づいたら、要注意です。 自分の姿はなかなか見えないものですから、「人のふり見て、我がふり直せ」と言いますけれど、ふりだけ直そうとしてもダメなのです。心が変わっていないと、すぐに地が出てしまいます。 私たちは、「我が身が可愛い」ものですから、何でも自分の思い通りにしたいのです。それで、「私が、私が」と、「私」を前に押し出して「わがまま」になるものですが、もともと、この世は、思い通りにならないものなのです。 私たちは、思い通りにならないものを、思い通りにしようとするから、苦しいのです。「私が、私が」と、「私」を握りしめているから、苦しくて仕方がないのです。こころ安らかに生きたいと思うのなら、その手を緩めたらよいのですよ。 「私が、私が」と、「私」を握りしめている手を緩めて、楽になりましょう。実は、そのことを教えているのが、仏教なのです。仏教は、人生は旅だと教えています。そこから話を続けます。 さて、もともと、「この世は、ままならない」ものなのです。というのも、この世は、私たちの持ち物ではないからです。私たちは、この世に生まれてきましたけれど、この世をもらったわけではないのです。 私たちは、この世を旅する「旅人」です。つまりは、この世の「主(あるじ)」ではなくて「客」なのです。「客」だと思えば、ご馳走が出なくても仕方がないし、お茶一杯でも「ありがたい」でしょう。 そのことを忘れていると、この世の本当の姿が見えてきません。お茶一杯の幸せに気づけるほど謙虚であること。それが、まずは、まっとうな旅人の「心がけ」です。 もともと、私たちは、何も持たずに、裸で生まれてきたのです。お茶一杯でも、この世から与えられたものなのです。謙虚になって、この世の与えてくれるものを、両手を合わせて受けとめていく。そこに、はじめて、この世の本当の姿が見えてくるのです。 この世の本当の姿とは何かというと、それはですね、「私」は、自分の力で生きているのではなくて、本当は、「私」を生かす無数の「因縁」(いんねん)の働きによって、「生かされて、生きている」ということです。 何であれ、目に見えない無数の因縁が積み重なった結果として起こるのです。この目に見えない因縁の働きのことを、「お陰さま」と言います。 全ては「お陰さま」で、起こるべきご縁を頂いたから起こったことなのです。自分にとって都合の良いことが起こっても、それは決して、自分の手柄ではないのです。そのことへの気づきの言葉が、「お陰さまで、ありがとうございます」です。 「ありがとうございます。皆さんのお陰です」。高校野球なんかでも、よく聞く言葉ですね。実際、自分の力だけで勝てたわけではありませんね。指導してくれた人も、支えてくれた仲間も、応援してくれた家族もいたはずです。さらには、数え切れない様々な成り行きが、自分を勝利に導いてくれた。つまりは、「皆さんのお陰」なのです。 全ては「お陰さま」です。私たちは、自分で生きているのではなくて、「生かされて、生きている」のです。これが、この世の本当の姿です。そのことが分からないのを、「世間知らず」と言うのです。 ですが、まあ、若いあいだは、こころから「お陰さま」と言うことは、難しいでしょうね。若いあいだは、自分を中心にして描ける円が、だんだん大きくなっていきますから、どうしても、自分の手柄だと思いがちです。 たとえば監督から、「お前ひとりの力で勝ったと思うな」と叱られて、「はい」と素直に言ったとしても、やはり、こころのどこかで、「俺が頑張ったからだ」と思っていたりするものですよ。 若いあいだは、「世間知らず」で「わがまま」なものなのです。ですが、そういう時期があることも大事ですね。あんまり早くに、円を閉じてしまっては、小さな人間になってしまいますからね。まっとうな経験を重ねて、歳を取っていけば、いずれは分かってくる。そう信じたいですね。 しかし、なかなか、まっとうに歳を取っていくということは、難しいことです。大人になっても、「お陰さまで」と言っているのは、たいてい、何かが「自分の思い通り」になっているときだけではないですか。たとえば、家を新築したとか、子どもが大学に受かったとかね。 ですが、本当は、何であれ、「自分の思い通り」になっているときが、一番危ないのですよ。「自分の思い通り」になっているときには、知らないうちに、自分が、この世の「主」になっていることが多いですからね。 かなり前のことですが、「お陰さまで、うちはうまいこといってます」と、いつも言っていた方がおられましたが、実際は、ワンマンだったもので、奥さんも子供たちも、しかたなく、その人の言うことをきいていただけなのです。その人は、自分の思いを押し付けて、みんなに我慢させているのに気づいていなかった。 子供たちは、大きくなってから、みんな親に反抗しまして、大変なことになっていますけれど、当人は、いまだに自分が悪かったとは思っていないようでしてね。「なんで、子供ら、あんな悪うなったんですやろ」とばかり言っています。親にとっても子供にとっても、悲しいことですね。 相田みつおさんの詩集に、「いいことはおかげさま、悪いことは身から出たさび」という言葉がありますけれど、自分の姿は、なかなか見えないものですね。 思えば、子供は、親の姿を映す鏡です。自分では、なかなか分からない自分の姿を教えてくれるのが、子供ですよね。子供が自分の思い通りにならないのは、「生かされて、生きている」ことを忘れて、この世の「主」になってしまっている自分を、教えてくれているのではないでしょうか。 そのことに気づけたら、「思い通り」にならないことも、ありがたい。「思い通り」にならないことも、また、「お陰さま」ではないでしょうか。 私たちは、ひとりで生まれてきて、ひとりで死んでいきます。いわば、この世の旅は、ひとり旅です。 私たちは、行く先も決めずに、ふらりと旅に出たくなることがありますが、そんなひとり旅は、たいてい、自分を知るための旅でしょう。おそらく、人生のひとり旅も、そうなんでしょうね。 自分を知る。「生かされて、生きている」ことを知る。その気づきを深めながら、「いのちの故郷(ふるさと)」へと帰っていく。「浄土」へと帰っていく。そんな旅が、人生ではないでしょうかね。 歳とともに、「生かされて、生きている」ことへの気づきが深まっていけば、「私が、私が」と、「私」を握りしめている手も緩んできて、だんだん楽になっていくはずなんですがね。 最近は、長生きするようになったせいか、いつまでも、身体も心も若い老人が、多いですね。枯れずに折れるというのは、必ずしも幸せとは思えませんが、どうでしょうね。 まあ、いずれにせよ、幸運にも長生きしたら、歳を取って老人になり、いずれは、死なねばなりません。私たちは、死ぬというのは、「いのちの故郷(ふるさと)」に帰っていくこと、浄土へと帰って行くことだと、教えて頂いております。 ですが、そのことが、本当に腹に落ちていないと、こころ安らかに歳を取っていくことができません。浄土の教えが腹に落ちる。それは、まさしく、「命がけの一大事」です。話は、そこに続きます。 さて、最近の世論調査によりますと、「何か信仰をお持ちですか」という質問に、「はい」と応える人は、3割ほどだそうです。とすれば、残りの7割ほどの人は、「死んだら終わりだ」と思っているということになるのでしょうね。 科学の時代に生きている、私たち現代人の多くは、目に見える世界が全てだと思っております。目に見える世界が全てだとすると、「私」というのは、この、目に見える身体のことだということになりますね。この身体が「私」の全てだとすれば、当然、「死ねば終わり」です。 ですが、まあ、「目に見える世界が全て」かどうかは、もともと科学的には証明できない事柄ですから、「死ねば終わりだ」と言っても、それは、「そう信じている」ということでしかありません。もしも、「そう信じているのだ」ということなら、「科学も一種の信仰だ」ということに、なりはしないでしょうかね。 私は、常々不思議でしかたがないのですが、「生まれてきたのは偶然で、死ねば終わりだ」と信じている人たちの目には、この世界がどんなふうに映っているのでしょうね。そういう人たちも、やはり、こころ安らかに生きたいと思うのではないかと想像するのですけれど、いったい何を拠り所に生きているのでしょうね。 私たちは、「人生は旅だ」と、教えて頂いております。いつもお話いたしますように、「旅」というのは、家から出て、どこかへ行き、また、その家に帰ってくることです。帰る家がなくて歩いているのは、旅ではなくて、ただ、彷徨(さまよ)っているだけです。 「生まれてきたのは偶然で、死ねば終わりだ」と信じている人たちも、「人生は旅だ」と考えているのでしょうか。もしも、同じように、「人生は旅だ」と考えているとしたら、どういう旅なのでしょうかね。 物心ついたときには、行き先の分からない列車に乗っていた。分かっているのは、この列車が、いつか何かにドカンとぶつかって、それでお終いということだけ。私には、こんなふうにしか、イメージできないのですけれど、どうでしょう。 まるで、パニック映画の暴走列車のようですが、もしも、そういうものだとすれば、はたして、そんな列車に、こころ安らかに乗っておれるものなのでしょうか。皆さんは、どう思われます。 私たちは、そうではないと、教えてもらっています。私たちは、この旅を終えれば、「いのちの故郷(ふるさと)」に、浄土に帰るのです。私たちの乗っている列車は、「いのちの故郷」に向かっているのです。 それで、ちょっと思い出したのですが、以前、永六輔さんの本で、こういう話を読んだことがあります。 永さんが、ある老人ホームに慰問に行かれて、面白い話を沢山なさった。ホームの人たちは、大いに笑って、楽しい時を過ごされたわけですが、お開きになっても、ひとりのお爺さんが、じっとその場から動かず、永さんを見つめている。 そこで、永さんが、「なんでしょうか」と尋ねると、そのお爺さんは、「あんたは、なんにも分かってない」と言うのです。「何が分かっていないのでしょうか」と問い返すと、こうおっしゃった。「あんたの話は、ほんとに面白うて楽しい。わしらは、そんな楽しい話を聞くと、この世に未練が残って、つらいんじゃよ」と。 「なるほど、そういうことなのか」と思った永さんは、次の慰問のときに、民謡のお師匠さんを連れて行って、各地の「故郷(ふるさと)民謡」を歌ってもらった。そうしたら、ホームの人たちは、みんな涙を流して、喜んでくださった、ということです。 「故郷(ふるさと)に帰る」という教えは、ありがたいですね。「故郷に帰る、故郷に帰る」。それが、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏」というお念仏なのですよ。 「南無(なむ)」というのは、「全ておまかせします」という意味です。「『いのちの故郷』へ帰るんだよ」と、阿弥陀様が教えてくださっている。その阿弥陀様を信じて、全ておまかせする。それが、私たちの称えているお念仏、「南無阿弥陀仏」なのです。 おそらく私たちは、いくつになっても、「死にたくない」と思うでしょうね。誰も、死にたくはないのです。ですが、「いのちの故郷」に帰るのだと、ほんとうに腹に落ちたら、「死にたくはない」けれど、「死んでも大丈夫だ」と思えるのではないでしょうかね。 ドイツの哲学者、ハイデッガーは、「死を肯定するものは、生に対して自由になる」と言ったそうですが、たしかに、「死んでも大丈夫だ」と、本当に思えたら、こころ安らかに生きられるに違いありませんね。 私たちの列車は、「いのちの故郷」に向かっています。こころ安らかに、旅をしましょう。とは言え、安らかになりすぎて、眠りこけてしまっては、せっかくの旅がもったいないですよ。しっかり目を開けて、生きている幸せを、よろこびましょう。最後は、そういう話です。 さて、何年か前のことですが、「生きることと死ぬこと」というテーマで話をしてほしいということで、ある大学に呼ばれたことがあります。 そのとき、皆さんの前で、「今日は、『生きることと死ぬこと』というテーマで話をするように言われておりますけれど、皆さんは、生きることと、死ぬことと、どちらが大切だと思われますか」とお尋ねいたしましたら、皆さんそろって、「生きることだ」とお応えになりました。それは、そうでしょうね。 そこで、「では、皆さん、今朝お目覚めになったときに、『ああ素晴らしい、今日も生きている、有り難い』と思われた方は、どのくらいおられますか」とお尋ねしましたところ、どなたも黙ってしまわれました。 「生きることが大切だ」と言いながら、今日生きていることに感謝していない。おそらく、私たちは、たいてい、そうなのでしょうけれど、それは何故かと言えば、生きていることが「あたりまえ」になっているからです。 誰でも、「あたりまえ」のことには、感謝できません。ですが、本当は、この世に「あたりまえ」のことなど、ひとつもないのですよ。私たちは、そのことに気づいていないだけなのです。 では、そのことに気づくのはいつかと言えば、それはです、生きているのが「あたりまえ」でなくなったとき、つまりは、「限りある身」を実感したとき、「死」と直面したときです。 27〜28年も前のことですが、井村和清というお医者さんが、31歳でガンでお亡くなりになりました。その後、井村先生の書き残されたものが本になって出版されました。『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』という本です。ご存じかもしれませんね。 その本のなかに、亡くなられる20日前に書き残された詩があります。「あたりまえ」という題の詩です。まず、これをご一緒に読んでみたいと思います。 あたりまえ
あたりまえ いかがですか、皆さん。私たちは、家に帰れば、夫が居るのがあたりまえ、妻がいるのがあたりまえ、子どもがいるのがあたりまえだと思っていませんでしょうか。本当は「あたりまえ」のことなんか、ひとつもないのですよ。 目が見えること、耳が聞こえること、呼吸ができること、食べられること、自分の足で歩けること、手で物がとれること、話ができること。みんなすばらしいことなのに、「そのありがたさを知っているのは、それを失した人たちだけ」。 この世に、「あたりまえ」のことなど何もない。生きていることは、決して、「あたりまえ」のことではないのです。もしも、あとわずかのいのちだと知ったら、そのことに気づいて、世界は輝いて見えるのではないでしょうか。 教育者で、詩人だった、東井義雄という有名なお坊さんがおられましたが、その東井先生が、75歳のときに、胃癌の手術で入院されたときのことを、こんなふうに書き残しておられます。 「それまで『あたりまえ』だと思っていた私たちの世界が、急に、光って見え始めました。病院の窓から見ると、道を歩いている人も、自転車で登校する中学生も、ホコリと騒音を撒き散らしながら走っているトラックまでもが、いのちにみちあふれた、すばらしいものとして、光って見えるのでした」と。(東井義雄『おかげさまのどまんなか』) いのちあるものは、必ず、死ぬのです。もちろん、そんなことは、誰でも知っています。ですが、私たちは、今日ではない、明日ではないと思っている。だから、生きていることが「あたりまえ」になっているのです。本当は、そうではないのです。今日かもしれない、明日かもしれないのです。 東井先生は、79歳のときに、交通事故で亡くなられましたが、本当に、いのちのことは分かりません。一寸先は闇です。 「メメント・モリ」という有名な言葉があります。これは、ラテン語で、「死を想え」「死を忘れるな」という意味の言葉です。死を想い、あたかも「末期の目」で見るように、世界を見れば、二度と帰ってこない一瞬一瞬が輝いてきます。 「無常というは、うつくしい…、無常というは、ありがたい…」(木村無相『念仏詩抄』)。これは、念仏詩人の木村無相さんの詩です。念仏瞑想のあとで、世界が光り輝いて見えたことがありますが、それがきっと、私たちの生きている世界の、本当の姿なのでしょうね。 「みな死ぬる、人とおもえば、なつかしき」。これも、木村無相さんの詩です。私たちも、眠りこけていないで、目を覚ましましょう。末期の目で世界を見れば、生きていることの幸せを、本当によろこべるでしょうし、憎い人のことも許せるかもしれません。 小林一茶に、「いざさらば 死にげいこせん 花の雨」という句があります。「桜の花に雨が降って、いまにも散りそうだ。さあ、いまこそ自分も、死を見つめよう」という句です。 「死んだら終わりだ」と思っていたら、恐ろしくて、「死にげいこ」など出来ません。死を想えば、この世への未練に苦しむだけでしょう。ですが、「死んでも大丈夫」と信じている私たちには、「死にげいこ」ができるのですよ。これも、ありがたいことですね。 さきほどの、「あたりまえ」という詩をお書きになった、井村先生は、クリスチャンでした。病床の先生は、奥さんの手をつかんで、「倫子(みちこ)、泣くな……お前は掌(てのひら)を合わせるのを嫌がったけれど、掌を合わせてごらん……」とおっしゃったそうです。きっと、最愛の奥さんに、大切なことを伝えておきたいと思われたのでしょうね。その二日後に、先生は、「ありがとう、ありがとう」と言って、亡くなっていかれたそうです。 私たちは、日々、お念仏を称えながら、合わせた掌(てのひら)に、生まれてきたことの幸せ、生きていることのよろこびを受け止めていく。それが、私たち、念仏者の生き方なのです。 私たちは、今ここに、「生かされて、生きている」のです。ですが、どんなことでも、果てしない過去から続いてきた、目に見えない「因縁の網の目」のひとつとして起こってくるのです。その網の目が、たったひとつ違っていても、「今」は無いのです。 たとえば、皆さんのご両親が出会っておられなければ、皆さんは、今ここにはおいでにならないのです。思えば、今ここに「私」が生きているということは、有り得ないほどの奇跡なのです。そのことに気づけないと、ほんとうに、もったいないと思いますね。 さて、これで話は終わりですが、いろいろお話いたしましたので、もう一度簡単にまとめておきます。 まず、ひとつめ。他人は自分の思い通りにはならないということです。他人どころか、一番自分の思い通りになるはずの自分の身体でさえ、自分の思い通りにはならないでしょう。たとえば、五十肩にでもなれば、自分の肩であっても、自分の思い通りには動いてくれませんね。このことに気づいただけでも、少しは愚痴が減るのではないでしょうか。 愚痴ばかり言っていると幸せが逃げていきます。愚痴を聞かされて嬉しい人はありませんが、それよりも、その愚痴を、一番近くでいつも聞いているのは、自分の耳なんですからね。「自分は不幸だ、不幸だ」と、四六時中、自分に言って聞かせているわけですから、幸せになるはずがありません。これは、心して、やめたほうがいいと思いますね。 ふたつめ。私たちは、自分の力で生きているのではなく、「生かされて、生きている」ということです。私たちは、この世の旅人です。謙虚になって、この世の与えてくれる好意に気づき、「お陰さまで、ありがとうございます」と言うこと。それが、まっとうな旅人の心がけです。 みっつめ。私たちは、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰っていくのです。浄土は、わたしたちの「いのちの故郷(ふるさと)」です。その「いのちの故郷」と、私たちをつなぐ言葉が、「お念仏」なのです。お念仏を称えて、「いのちの故郷」に、便りをだしましょう。 よっつめ。この世に、「あたりまえ」のことは、何もないということです。生きていることは、決して、「あたりまえ」のことではないのです。そのことに気づくためには、自分の死を想うことです。死を想い、あたかも「末期の目」で見るように、世界を見る。つまりは、「死にげいこ」をするということですね。 「ありがとうと言うようになったら終わりが近い」といいますが、「終わりが近い」という目で見れば、「ありがとう」という言葉が、自然に出てきます。夫や妻や子供の、後ろ姿や横顔を、じっと見つめていたら、「ありがとう」か「ごめんなさい」しか、浮かんできませんよ。 お念仏を称える生活のなかで、ときには「死にげいこ」をなさってみてください。そうすると、世界と自分の、本当の姿が見えてきます。死は、生を映す鏡です。この世に、「あたりまえ」のことなど何もないのです。この世に生まれてきて、今ここに、生かされて生きているのは、奇跡です。 では、本日は、これで終わらせて頂きます。長い時間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますように、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…
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