ようこそお参りくださいました。お忙しいところを、ご苦労様でございます。 今年は例年より暖かいようでして、ストーブもどうかと思いましたが、お座りになっておられると寒いかもしれませんので、一応、つけております。お暑いようでしたら消しますので、おっしゃってくださいね。お陰さまで、腰のほうは、かなり良くなりましたが、用心して、座らせて頂きます。 さて、本日は「報恩講」です。「報恩講」というのは、浄土真宗をお開きになった親鸞聖人の祥月命日のお勤めです。親鸞聖人は、弘長2年(1262年)11月28日にお亡くなりになりました。今から745年前のことです。4年後の2011年には、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌(ごえんき)」をお迎えいたします。 東本願寺では、その御遠忌に向けて、「今、いのちがあなたを生きている」という言葉を、テーマ(課題)として掲げております。本願寺の塀にも大きく掲げられておりますので、ご覧になったかもしれませんね。 「今、いのちが…」という今回の話の題は、その言葉から頂きました。内容から申しますと、「いのちの尊さに気づいて、人間として生きよう」という話です。 いつもより、ちょっとお若い方むけの話かもしれませんが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。 さて、今、私たちは生きております。つまりは、いずれ死ぬ日がやってくるわけですが、かつて国連が、「人生の最期に、あなたが頼りにするものは何ですか?」というアンケート調査をやったことがあるそうです。 その結果はどうだったかと言いますと、欧米の人たちは、「1.信仰、2.家族、3.友達、4.財産」の順だった。実に85%の人が「信仰」と答えたそうです。欧米の人たちが最期にすがるのは神様なんです。 では、日本人はどうだったかと言いますと、「1.財産、2.家族、3.友達、4.信仰」の順だった。半分以上の人が、「財産」つまりはお金を頼りにしていて、「信仰」と答えた人は、わずか4%ほどだったそうです。これ、どう思われます。 日本人は、世界的に見ると、非常に珍しい考え方をする国民だということですが、まあ、「最期に頼るのは、お金」と言うだけあって、お金だけはしっかり貯め込んでいるようですね。 昨年、国連大学研究所が発表した「世界の個人の富の状況」という調査によりますと、平均すれば、日本人は一人あたり約2000万円分の財産を持っていて、日本は世界一豊かな国なのだそうです。まあ、あるところには、あるということでしょうが、豊かなら幸せかというと、そうでもないのです。 これも昨年のことですが、イギリスで発表された「国民の幸福度」という研究によりますと、世界178カ国の国民の感じている幸福度を順位付けしたところ、日本は半分より下の90位だったそうです。 ちなみに、1位はデンマークです。アメリカは23位、ドイツは35位、イギリスは41位、フランスは62位で、全体的に見れば、「資本主義の国」「人口の多い国」「福祉政策の充実していない国」で、「国民の幸福度」が低くなる傾向があるそうです。 世界一豊かなはずの日本が、まさかの90位という結果には、当のイギリスの研究者も驚いたそうですが、もともと、お金があれば幸せになれるというものではありませんね。資本主義社会では、競争に勝ち抜いて、豊かになったら幸せになれると考えられていますけれど、本当は、そうではないのです。 「幸せ」というのは、「もうこれで満足だ」という、心穏やかな状態のことですが、お金を追いかけて、お金に追いついた人はいないのです。100万円欲しいと思っていた人が、100万円手に入れたら、次は1000万円欲しくなる。欲には限りが無くて、いつまでも満足できないものなのです。 生活するためにお金は必要ですけれど、お金を追いかけても幸せにはなれません。世間ではよく、「金が無いのは首がないのと同じ」などと言いますけれど、首が無かったら、お金があっても仕方がないでしょう。大事なのは、お金よりも首の方です。つまりは、「金よりいのち」なんですよ。 私たちは、「いのち」を授かったお陰で、生きているのです。ですが、生きているというだけなら、犬でもネコでも、生きています。人間として生まれてきた私たちは、人間として生きてこそ、生まれてきた甲斐があるというものです。そうは思われませんか。 「人間として生きる」ということで、以前、面白い話を聞いたことがあります。昔、石川県に高光大船という有名なお坊さんがおられましたが、その方の話です。 石川県ではお嫁さんをもらう前の長男のことを、あんちゃんと言うそうですが、高光先生は、一度も聞法したことがない村のあんちゃんから、「両親が、仏法聞け、仏法聞けて言うんで、うっとうしいてかなわんのやが、仏法って何や。難しいこと言われても分からんで、一言で教えてくれ」と言われましてね、「仏法は鉄砲の反対じゃわいの」とお応えになった。 「鉄砲は、生きとるもんをドスンと殺すのが鉄砲じゃろ? 仏法はなあ、死んだものを生かすのが仏法じゃ」と、おっしゃった。そうしたら、あんちゃんは、「なんじゃ? あの棺桶に入っとんのを生かすのが仏法か?」と聞いた。まあ、そう聞きますわね。 そしたら先生は、「あほ言え、あんなもんは抜け殻や、死んだもんではないわい。死んだもんというのは、お前さんのようなのを言うんじゃ」とお応えになった。 さあ、あんちゃんは怒りましてね、「ばかにすんな、オラ、ちゃんと生きとるわい。ほら見てみい」と言って、手と足を動かして見せた。すると先生は、こうおっしゃった。 「それは、動いとるだけじゃ。生きとるんじゃない。お前さんの商売で言えば(あんちゃんは国鉄に勤めていたんですが)、石炭を機関車にパクッパクッとほおり込んでやると、定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。あれは動いとるんで生きとるんでないわいの。 お前さんも三度三度のマンマを口の中へ入れてやると、習慣という定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。それは動いとるんで生きとるんじゃないわいの」と。この一言を聞いて、あんちゃんは、はっと気づいたんだそうです。 「仏法って何や」と聞かれて、「仏法は鉄砲の反対じゃ」と答えられた。これは非常に有名な話でして、いろんなところで紹介されておりますが、私は、松扉哲雄先生のご法話で、うかがいました。 さすが高光先生だと思いましたが、先生の話を聞いて、はっと気づいたあんちゃんも、たいしたものですね。このあんちゃんは、それから真剣に聞法なさったそうですが、私たちは、どうですかね。手と足を動かすだけで、生きていると思っていませんかね。 私たちの日常生活というのは、ことのほか平凡なものです。今日やることの9割までが、昨日やったことと同じです。ひょっとすると、私たちも、毎日毎日、世間の価値観の上に敷かれた習慣のレールを、カタコトカタコト走っているだけではないでしょうかね。 人間として生きるということは、人の道を歩むということですが、私たちは、煩悩の暗闇のなかにいるものですから、人の道が見えていないのです。仏法というのは、その「人の道」を照らし出してくれる光です。 闇夜に歩いていたら、稲光がした。畦道を歩いていたつもりが、田んぼのなかだっだ。 そんなものでしてね、光がないと、道を踏み外していても気づけないのです。人の道を踏み外しているのを、「人でなし」というのですが、私たちは、どうでしょうかね。 日本は、労働賃金の安い外国で製品を作り、あちこちの森林や農地を破壊しながら、ひたすら豊かで便利な生活を追い求めてきました。そんな日本人は、外国人から、エコノミックアニマルと呼ばれましたね。エコノミックアニマルというのは、お金のことしか考えていない「ひとでなし」という意味なのです。 「周囲の人たちと正しく付き合っているならば、ひとり裕福になれるわけがない。周囲の人たちを欺くことなしに、裕福になれる道はないのだから」。これは、アメリカ先住民のナバホ族の長老の言葉です。地球という限りある世界のなかで、一番豊かな国だということは、本当は、恥ずかしいことなんですよ。 今や世界一豊かになった日本には、いじめや、虐待や、殺人や、解決の糸口も見つからないような、さまざまな問題が山積みしています。「最近の若い者は無茶苦茶やな、なんでこんなことになったんやろ」なんて言葉をよく聞きますけれど、そんな若者を育ててきたのは、誰ですかね。 私たちは、常に、社会のことばかり問題にします。政治が悪い、学校制度が間違っている、企業の体質が問題だ。たしかに、それはそうでしょうけれど、みんな他人事ですね。私たちは、大事なことを忘れているのではないでしょうか。それは、自分自身を問題にするということです。 私たちは、生きていると思っていますが、自分を問題にせず、自分のことを知らずに生きているのなら、それは、ただ動いているだけではないですかね。ただ動いているだけなら、人間として生きているとは言えません。 私たちは、よく、「自分のことは自分が一番よく知っている」と言いますけれど、本当は、そうではないのですね。私たちは、まだ人間として生きていないのです。 そのことに気づいて頂くために、ひとつ詩を読んでみたいと思います。「一番好きなもの」という詩です。皆さんのお手許にも、プリントにしてお配りいたしておりますが、これは、関本理恵さんという方が、18歳のときに書かれた詩です。 一番好きなもの
私は高速道路が好きです
こんな私を助けて下さい いかがですか。これは自分自身を見つめた人の詩です。私たちは、おそらく、「好き」という言葉に抵抗を感じるのではないかと思いますが、それは、自分を知らないからです。 よく考えてみてくださいね。私たちは、殺人であれ、詐欺であれ、自動車事故であれ、新聞で読み、ニュースで聞き、ワイドショーで見て、週刊誌で読む。嫌いだったら、そんなことしないでしょう。違いますかね。 世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだとき、あのシーンを何度見ました。あのシーンを見ながらワクワクしていた人や、心の中で「もっとやれ!」と叫んだ人も、少なくないでしょう。イラク戦争の生中継を、お茶の間のテレビの前に、釘付けになって見ていたのではないでしょうか。 「好きで見ているわけではない、関心があるだけだ」とおっしゃるのなら、どのような関心なのでしょうか。私たちには、自分自身や家族に関わりがない限り、殺人事件であれタレントの結婚式であれ、たいした違いはないのではないでしょうか。 単調な毎日に退屈している私たちは、日常的でない出来事に関心があります。つまりは、何であれ、刺激を求めて、無責任に眺めているだけの野次馬なのです。それが、「歴史を歴史として、過去を過去と感じ、無感情な時の流れに」いるということです。 高速道路も、スモッグで汚れた風も、魚の死んでいる海も、ごみでいっぱいの街も、みんな、私たちが、豊かさを追い求めた結果です。いかがですか。豊かなことを、嫌がる人はいないでしょう。 「環境に優しい」という言葉が流行っておりますけれど、どうして、「自分に厳しい」と言わないのでしょうね。環境破壊の原因は、便利で快適な生活を追い求める、私たち一人一人のこころのなかにあるのですが、気づいておられますでしょうか。 環境破壊は、「もっと欲しい、もっと欲しい」という、私たちのこころから生まれます。つまりは、私たちの心を支配している「煩悩(ぼんのう)」が、環境破壊の本当の原因なのです。今日のお土産に、ひとつ、言葉遊びをお教えいたします。
「煩悩」というのは、「こころの濁(にご)り」のことです。 「環境に優しく」ではなくて、「自分に厳しく」です。問題は、常に「自分」にあるのです。自分を見つめることが大事です。自分を見つめていたら、イラク戦争の生中継を見ながら、ポテトチップスなんか食べておれないはずですよ。 そして後半の数行です。人の苦しみ死んでいく姿を見ても、涙も出ない。「こんな私を助けて下さい」。こんな私に、「いのちの尊さ」を教えて下さい。これはね、「私は人間なんだ、人間として生きたいんだ」という、悲痛な叫び声ですよ。 私たちは、「戦争が大好き」なんて人がいると、「いっぺん、いのちの尊さを教えてやらなあかん」なんて思ったりするものですが、それが、他人事として見ているということなんですよ。自分はどうかと、自分を見つめることが大事です。 無感情な時の流れに生きている私たちも、心の奥底では、「こんな私を助けて下さい」と叫んでいるのです。そのことに、私たちは、まだ気づいていませんけれど、たとえ気づいていなくとも、人間として生まれてきたものは、みな、人間として生きたいという願いを持っているのです。それが、私たちの「いのち」の願いだからです。 「いのちの尊さ」に気づくことができるのは、人間だけなのです。人間として生まれてきたものが、人間にしかできないことを成し遂げていく。「いのちの尊さ」への気づきを深めていく。そこにこそ、人間として生きる道があると思いますが、私たち現代人は、どうかといえば、残念ながら、「いのちの尊さ」に気づいていませんね。 その証拠に、何年か前に、中学生が、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問いかけたことがありますが、誰も答えられなかったでしょう。科学万能の時代に生きている現代人には、答えられないのです。というのは、「いのち」の問題は、科学の守備範囲にはないからなのです。 科学は、もともと宗教とセットになっているものなのです。科学は、目に見える世界を扱う。宗教は、目に見えない世界を扱う。これでワンセットなんです。「いのち」は、目に見えませんね。つまりは、「いのち」の問題は、宗教の守備範囲にあるのです。 私たちは、明治以降の近代国家への歩みのなかで、科学一辺倒の教育を受けてきたものですから、「目に見える世界が全てだ」と考えるようになってしまいました。そのために、「いのちの尊さ」に気づけなくなっているのです。 「いのち」も「幸せ」も、目には見えません。「いのちの尊さ」に気づき、「本当の幸せ」を知るためには、宗教教育が必要なのです。それは、私たち仏教徒にとっては、まず、聞法するということです。 聞法するというのは、「いのちの真実」を学ぶということなのですが、この話は、目で見た方が分かりやすいと思いますので、図をご覧になって頂きながら、お話しいたします。何度かご覧頂いたと思いますが、これは、私たちの「いのちの全体像」です。紫雲寺名物、「いのちの全体像」。紫雲寺の名物は、これと「おはぎ」です。
まあ、それはともかく、海底から立ち上がって海に浮かぶ島を、横から見たような形になっていますが、水平線から上が「目に見える世界」で、水平線から下は「目に見えない世界」です。水平線から上が、いわゆる「現実」の世界です。「いのちの真実」は、水平線から下にあります。 水平線から上の、「目に見える世界」だけで考えれば、私たちは、ちょうど海に浮かんでいる島のようなものです。ひとつひとつの島が、バラバラに海に浮かんでいる。名前も違えば、姿や形も違います。あなたは、あなた。私は私。私とあなたは、別の人間です。 ですが、海に浮かんでいるように見える島が、実際には、みんな海底でつながっているように、「いのち」の奥底では、「私」も「あなた」も、みんなつながっていて、「ひとつ」なのです。私たちは、ひとつの「大きないのち」を生きているのです。この「大きないのち」のことを、「仏」と言うのです。 つまりは、私たちはみんな、「仏のいのち」を生きているということです。仏のいのちが、私たちを生きているといっても同じことです。「今、いのちがあなたを生きている」というのは、このことを言っているのです。私たちは、みんな、仏のいのちを生きている「いのちの仲間」なんですよ。これが、私たちの「いのちの真実」です。 東井義雄先生の詩に、「ひとりでいるときも、ほんとうは、ひとりではない。竹藪の竹が、見えない大地の中で、つながりあっているように」(東井義雄『おかげさまの、どまんなか』所収「葉」より)というのがありますが、このことをおっしゃっているのだと思います。 いのちが尊いのは、いのちは、あなたのいのちも、私のいのちもなくて、ひとつだからです。あなたを害することは、私を害すること。私を害することは、あなたを害することなのです。自殺してはいけない本当の理由、人を殺してはいけない本当の理由は、ここにあるのです。 「いのちの尊さ」は、この「いのちの真実」に気づかないと、分からないのです。聞法と、お念仏の生活のなかで、仏に出会わないと、分からないのですよ。 「我等の大迷は、如来を知らざるにあり」。これは清沢満之先生の言葉です。如来というのは、仏のことです。清沢先生が指摘されたように、私たちの世界が混乱しているのは、私たちが仏と出会っていないからなのです。 私たちが、なかなか、仏に出会えないのは、私たちのこころが、煩悩に支配されているからです。この図で言いますと、赤く塗ったところが、煩悩です。仏の上に、フタのように被さっているでしょう。煩悩は、私たちのこころを覆う闇です。 煩悩というのは、「他の誰よりも我が身が可愛い」という、こころの働きのことです。「我が身」というのは、水平線から上の部分のことです。「私は、あなたと違うんだ」ということですね。「私は正しい、私は間違っていない、私の都合が大事だ」。こういう思いは、みんな、煩悩から生まれてきます。 「幸せになるために、もっと豊かになりたい」というのは、この煩悩の願いです。私たちは、煩悩に支配されているために、この煩悩の願いを自分の願いとして生きているのです。私たちは苦しんでいるのは、そのためなんですよ。 ですが、真っ暗な洞窟の中で生まれ育った虫が、自分が闇の中にいることを知らないように、煩悩の暗闇に閉じ込められている私たちは、自分が闇の中にいることを知りません。 そんな私たちは、自分の苦しみの原因が、自分の煩悩にあるということにすら、気づいていないのです。このことに気づいていないことが、私たちの、一番大きな問題なんです。 実際、そうなんですよ。ひとつ、実例をお話ししましょうか。これも松扉先生のご法話でうかがった話なんですが、あるところに、共稼ぎの若夫婦がいて、ご主人のお母さんと一緒に暮らしていたんです。 もう、こう言っただけで、どんな話かお分かりになるでしょう。私たちは業(ごう)が深いですからね。他人のことは分かっても、自分のことは分からないので、難儀なんですよ。 まあ、それはともかく、そのお嫁さんは、市役所に勤めていたのですが、朝、家を出るとき、ただの一度も、お姑さんに、「行ってきます」と挨拶したことがなかったそうです。お姑さんは、腹が立って仕方がなかったけれど、三年間、我慢していた。 そうしたら、ある日のこと、いつものように挨拶もせずに出かけていくお嫁さんが、玄関口につないである犬に向かって、「ポチ、行ってくるよ」と言って、出て行ったんです。その一言を耳にしたとたん、お姑さんは、とうとうプツンと切れてしまった。 「なんじゃあ、ポチ行ってくる? そんなこと言う前に、まず挨拶せんならん者がここにおるんじゃあないか!」。「いったいお前さんが時間に遅れんと市役所に行けるのは誰のおかげや。私がちゃんと後始末しているおかげじゃ!」。「あんたの大事なムコさんを誰が産んで、誰が育てたと思うのや!」。 どこにでもある話のように思いますが、いかがですか。皆さん、笑っていらっしゃいましたが、お姑さんの、三年間の苦しみの原因は、お嫁さんにあると思われますか。 世間ではね、「えらい嫁さんやな、姑さんの気持ち、よう分かるわ。腹立つのも無理ないわ」と、たいていは、こうなるのですが、いかがですか。 まあ、お嫁さんも相当なものですがね。お姑さんは、おそらく、お嫁さんの方から挨拶するのが当然だと思っておられたのでしょうけれど、皆さんなら、どうなさいます。 「私やったら、嫁さんが挨拶せんでも、自分からしますわ。そのうち嫁さんも分かってくれますやろ」と思われますか。まあ、それはそれで結構なんですが、お嫁さんが分かってくれなくても、それ、三年間、続けられますかね。まず、無理でしょうね。 もしも三年間続けられたとしたら、あるいは、本当の原因に気づけるかもしれませんが、お姑さんの苦しみの原因は、「自分は嫁より偉い、自分は間違っていない」と思っているところにあるのですよ。それが、煩悩に支配されて、苦しんでいるということなんです。 あの、念のために申し上げておきますが、私は、決して、お嫁さんの味方をしているわけではないんですよ。お姑さんの苦しみの原因は、お姑さん本人の「煩悩」にあると言っているだけなんです。その点、お間違えのないようにね。 で、お嫁さんが挨拶するようになったとしても、「自分は嫁より偉い、自分は間違っていない」と思っている限り、何度でも、同じような問題が起こってきます。本当のことに気づくまで、私たちの苦しみはなくなりません。 それは、仏教から言えば、「気づけよ、気づけよ」と、何度でも「気づきのチャンス」をもらっているということなのですが、煩悩の暗闇に閉じ込められている私たちには、「自分が間違っている」とは、なかなか思えないものですね。自分は高いところに立って、「あいつが悪い、こいつが悪い」と、人を裁いてばかりいます。仏教は、そんな自分を知るための教えなのです。 煩悩の暗闇に閉じ込められている私たちは、自分が暗闇のなかにいることにすら、気づいていません。仏法は、そんな自分の姿に気づかせてくれる光です。光を知らないと、闇が分からない。仏の光が差し込んできてこそ、闇のなかにいることに気づけるのです。 ですがね、よくお聞きくださいね。心の闇のなかに、仏の光が差し込んでくる。たしかに、そのことを救いと言うのですが、私たちは、たいてい、ここで、つまづいてしまうのです。光のなかに見えるものは仏だろうと予想してしまうのです。そうではないのですよ。 光のなかで見えるものは、煩悩に支配されている、醜い自分の姿なんです。見えてくるのは、「私は正しい、私は間違っていない」と、高いところに立って、他人のことばかり裁いている、お粗末な自分の姿なのです。 これは、なかなか気づけませんよ。「我が身大事」な煩悩が、自分が間違っているなんてことは、全力で、認めさせません。甘やかされて育った子どもが、決して、自分の非を認めないようなものです。 私たちは、自分にとって都合の悪いことに、救いなどあるはずがないと、思い込んでいる。ちょっとでも自分に都合の悪いようなことが見えそうになったら、そこで顔を背けてしまうのが、私たちなんですよ。 「挨拶せんだけやったら、まだ我慢できるけど…」とか「そら、私もわるいかもしれんけど…」とかね。この「…けど…」というのが曲者(くせもの)ですね。 「そう、そう。悪いのは私ですよ」というようなのは、論外ですが、私たちは、何とかして自分の非を認めないようにと、大変な苦労をしているのです。 ですが、本当に自分が間違っていたと知ったとき、それまでの苦労は、いっぺんに消えてしまいます。そのことを、救いというのです。これは、体験してみないと分かりません。 昔の妙好人の話ですが、ある人が、「仏法で救われるというのは、どういうことかいの」と聞いたところ、その妙好人は、「あんた、まだ救われたことがないじゃろ」と応えたといいます。「あんたは、まだ、お粗末な自分に気づいたことがないだろう」と言っているのですよ。 本当の救いというのは、嬉しくて舞い上がるような、ハイな気分になることではありません。間違っていた自分に気づくということには、どこか切ない思いがある、いわば、ビターテイストの味わいです。本当の幸せというのは、大人の味がするものなんです。 では、気づいたら終わりかというと、そうではないんですね。煩悩というのは、それほどヤワなものではありません。煩悩というのは、生きている限り、無くならないものなのです。 私たちは、気づいても、気づいても、いつのまにか、またぞろ暗闇のなかに戻ってしまっているものなのです。いつのまにか、「私は正しい、私は間違っていない」というところに立ってしまうのもなのです。救われたという経験すら、プライドの種にしてしまうのが、私たちなんです。だからこそ、常に、常に、聞法することが大事なのですよ。 聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、私たちが自分の間違いに気づくこと。それが、「仏の願い」です。仏は、私たちが仏と出会うことを、願っているのです。その「仏の願い」を自分の願いとして生きること。それが、信仰に生きるということです。 先ほどの図をご覧になれば、お分かりになるように、「仏」というのは、私たちの「いのち」そのもののことです。「仏の願い」は、私たちの「いのち」の願いなのですよ。 私たちが、自分の間違いに気づくことを、私たちの「いのち」そのものが願っているのです。とすれば、その願いのままに生きることが、人間としてのまっとうな生き方だとは、思われませんか。 「仏の願い」を自分の願いとして生きる。信仰に生きる。そこにこそ、人間として生まれてきた私たちが、人間として生きる道があると思いますね。 御遠忌のテーマにあるように、「今、いのちがあなたを生きている」のです。仏のいのちが、私たちを生きているのです。私たちは、生かされて生きているのです。自分の力で生きている人は、誰もいないのですよ。 聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、そのことに本当に気づいたら、「何のために生きているのだろう」という疑問など消えてしまって、「いのちの尊さ」に感動しますよ。 東井義雄先生の詩に、こういうのがあります。「目がさめてみたら」という詩です。お手許のプリントにも載せております。 目がさめてみたら
目がさめてみたら
いや 「劫初以来」というのは、「宇宙が始まって以来」という意味です。「目がさめてみたら」、何百億年かの宇宙の歴史のなかで、誰も見たことのない、まっさらな朝に出会っていた。 私は、何の努力もしていないのに、目がさめてみたら、宇宙がまだ経験したことのない、「まっさらな朝のど真ん中に、生きていた。…いや、生かされていた」。 この一日を生きることを、私は、「いのち」に願われているのだ。そのことに、初めて目がさめた。そのとき、東井先生は、仏の光になかに立っておられたのだと思います。 さて、これで本日の話は終わったようなものですが、店終いをしながら、もう少しだけ、お話しさせて頂きます。 私たちは、科学文明のお陰で、世界中から集められた沢山の品物と情報に囲まれて生きています。ですが、それで満足か、幸せか、といえば、そうではありませんね。 考えてみれば、沢山の品物であれ、情報であれ、みんな、外の世界のものなのです。私たちは、自分の外の世界しか見ていないのです。私たちは、自分の内の世界に目を向けることを忘れているのです。 「満足」であれ「幸せ」であれ、みんな、私たちの内にあるのです。そのことを忘れている私たちは、たとえ、宇宙のはてまで行けるようになっても、幸せにはなれません。 本当に、幸せになりたいと思ったら、深く生きることが大事です。深く生きるというのは、私たちの内にある「いのちの真実」への気づきを深めていくことです。 私たちが、深く生きて、本当の幸せに気づくこと。それが、仏の願いです。私たちは、仏に願われているのです。その仏の願いを、きちんと受け止める姿、それが合掌です。 合掌の姿は、何かを願っている姿ではありません。そうではなくて、私たちに向けられた「仏の願い」を、両手で大事に受け止める姿なのです。 何をしているときにも、合掌のこころを忘れない。何もしていないときにも、合掌のこころを忘れない。何もできないときにも、合掌のこころを忘れない。それが、仏の願いを自分の願いとして生きるということです。 私たちは、みんな、仏のいのちを生きている「いのちの仲間」なんですよ。そのことに本当に気づいて、お互いに合掌しあいながら生きられたら、いいですね。 では、本日は、これで終わらせて頂きます。長い時間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますように、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…
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