本日はお忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労様でございます。どうぞお楽にお座りになってください。私も、ちょっと失礼して、座らせて頂きます。 年のせいか、このところ、少々、体調がよろしくないもんで、かえって健康の有り難みを思いますね。まあ、私のようなものが、年のせいなどと申しますと、笑われるかもしれませんが、来年は還暦でしてね。あまり若いとはいえません。干支(えと)が一回りして、体調も一節越えるところまできています。 それで、このあいだ、何十年ぶりかに健康診断を受けましてね。いろいろ検査をしてもらったわけですが、結果は、とりたてて何処も悪くないということでした。 ですが、何処も悪くないといわれても、現に体調がよくないわけでしてね。それで、素人考えですが、これはおそらく更年期障害だろうということで、ひとり納得したようなわけです。男にも、更年期があると思います。お医者さんは、どうおっしゃるか知りませんがね。 それで、あるところへお参りに行きまして、この話をしておりましたら、「ごえんさん、更年期障害って、もうちょっと若いときに出るもんと違いますか」と、おっしゃるものですからね、「いや〜、私、晩生(おくて)なもんで…」と、申し上げておきました。 しかし、まあ、健康なあいだには、なかなか健康であることの幸せに気づけないというのも、情けない話ですが、生きているあいだに、人間に生まれてきたことの幸せに気づけないというのは、もっと情けない話ではないかと思いますね。 もっとも、人間に生まれてきたということが、そのまま幸せかどうかは分かりませんけれど、私たちは、人間に生まれてきただけでなく、縁あって、仏法を聞くことができたのです。これは、まことに幸せなことだと思います。 いつもお話いたしますように、仏教が教えているのは、私たちは、人間に生まれてきたのに、まだ人間としての生、人生を生きていないということです。私たちはまだ、人間として目覚めていない。仏教の言葉で言えば、私たちは、「生死(しょうじ)の夢」を見ているのです。 この「生死の夢」から覚めたときに、本当の人生が始まるのですが、もとより夢を見ているとは思っていない私たちには、なかなか仏法が聞こえてきません。ですが、今は聞こえてこなくとも、聞いた話は、心のどこかに残るものだと思います。 そこで今回は、「生まれてきてよかった」と、いつか目覚める日の来ることを願って、「生死の夢」という題で、お話をさせて頂こうと思います。なにしろ更年期ですので、はなはだまとまりのない話になってしまうかもしれませんが、どうぞ、しばらくの間、お付き合いくださいますよう、お願いいたします。 さて、仏法の話をしようというわけですが、仏法の話というのは、まことに分かり難いですね。自分で話していて、こんなことを言うのもなんですが、とくに真宗の話は分かりにくいのです。 かなり前のことですけれど、禅仏教の大家の鈴木大拙先生が、「ことに真宗は、分かり難いのです」とおっしゃっているのを読みまして、妙に納得したことがありますが、まあ、話としては、そんなに難しいことを言っているわけではありません。ただ、お念仏しなさいと言っているだけなのです。 お念仏したら、どうなるのか。親鸞聖人の「現世利益和讃」には、「南無阿弥陀仏をとなふれば、この世の利益(りやく)きはもなし」とあります。「この世の利益」というのは、現世利益(げんぜりやく)のことです。真宗は現世利益を言わないと思っておられる方もありますがね。 以前、近くの商店街の方が、配達にこられて、こうおっしゃった。「ごえんさんとこは御東ですか。うちも御東ですね。真宗では現世利益をいいませんので、ご先祖様のことはお寺さんにお願いしてますけど、商売のことは恵比寿さんにお願いしてます」と。 「あの世のことは仏さま、この世のことは神様」って、役割分担が決まっているようで、思わず笑ってしまいましたけれど、真宗にも現世利益はあります。現世利益を言わない宗教はありません。ただ、真宗の現世利益は、分かり難いうえに、懐が潤うとか、腹の足しになるというものではありませんので、なかなか求める方がおられないのでしょうね。 これは以前聞いた話ですが、あるお寺で、法話が終わったあと、お参りしていた小学生がね、「ごえんさん、仏さまは、ぼくに何をくれるんや」と聞いた。ごえんさんは、思わず言葉に詰まったそうです。 その話をお聞きになったある先生が、「私なら、仏さまは何もくれない。ただ私自身をくださると答える」と、おっしゃったそうです。 私は、この答えに賛成ですが、はたして小学生が納得してくれるでしょうか。小学生どころか、大人が聞いても、ほとんど、分からないのではないかと思いますけれど、真宗の話というと、たいてい、こういう話になってしまいます。 「お念仏が分からない」という話をよく聞きますけれど、お念仏は、分かるものではなくて、ただ称えるだけなのです。ですから、分からないのは、おそらく、お念仏ではなくて、「私自身をくださる」という、ご利益の方ではないかと思いますね。 私たちは、「ご利益」というと、仏様や神様に、何かお願い事をして、そのお願い事がかなうことだと思っております。「何をくれるんや」でなくて、私たちには、欲しいものが、すでに決まっているんですね。 毎年、初詣で、全国の神社仏閣にお詣りになる方は、のべ9000万人もおられるそうですが、日本の総人口は1億2000万人くらいですから、のべにしても9000万人というと、ものすごい数です。そのお願い事のトップは病気平癒、二番目が商売繁盛、三番目が家内安全だそうです。 ちなみに、初詣のお賽銭って、一人平均どのくらいだと思われますか。以前、本で読んだ話ですが、ある先生が川崎大師の世話方さんにたずねたところ、一人平均6円だそうです。一人平均6円で、商売繁盛から世界平和までお願いしようというのですから驚きますが、おそらく、これが、私たち現代人のバランス感覚なのでしょうね。 まあ、それはともかく、お寺や神社にお詣りして、「私自身をください」とお願いする人は、まず、ありません。私たちは、たいてい、自分のことは自分が一番よく知っていると思っております。知りたいのは、自分のことではなくて、幸せになる方法であり、人生で成功する方法なのですね。 私たちが聞きたいのは、たとえば、こうすれば、お金持ちになれるとか、こうすれば、病気が治るとか、こうすれば、幸せになれるとかいった話なのです。実際、書店に行くと、そういう本が山積みになっています。 どこの書店でも、なぜか仏教書のコーナーの横にありましてね、これも現代人のバランス感覚かと思うと、少々気がかりですが、読んでみると、どれも分かりやすいですね。こうすれば人生に成功すると、ストレートに書いてあります。 最近流行っているものに、嫌なことがあっても、いつも前向きに、「ついてる、ついてる」と言え。感謝することが何もなくとも「ありがとう、ありがとう」と言い続けろというのがあります。 そうすれば、本当に「ついてる」ことが引き寄せられてきて、「ありがたい」ことが起こってくるというのです。これなんか、非常にシンプルです。成功哲学のお念仏ヴァージョンみたいなものですかね。 最近読んだ本では、『夢をかなえるゾウ』というのが、けっこう面白かったですね。なるほどなあってことが書いてあります。脱線するようですが、ちょっとご紹介しますと、こういう話です。 夢を実現できずに、しょぼくれている青年のもとに、突然、ガネーシャという、ゾウの姿をしたインドの神様が現れて、「自分、本気で夢かなえたいと思うんやったら、ワシが教えたる」と言うのです。何故か大阪弁でね。私は、笑福亭鶴瓶さんをイメージしました。 その神様が、まずは、こう言うんです。「靴、みがけや」と。「ええか? 自分が会社行く時も、営業で外回りする時も、自分がカラオケ行ってバカ騒ぎしてる時も、靴はずっと気張って支えてくれとんのや。そういう自分支えてくれてるもん大事にできんやつが成功するか、アホ!」ってね。なるほどなあってところがありますでしょう。 「トイレ掃除をしろ」というのもあるんですよ。「トイレを掃除する、ちゅうことはやな、一番汚いところを掃除するっちゅうことや。そんなもん誰かて、やりたないやろ。けどな。人がやりたがらんことをやるからこそ、それが一番喜ばれるんや。一番人に頼みたいことやから、そこに価値が生まれるんや」と。「お金持ちのトイレはピカピカ」なんて、どこかで聞いたことがありますね。 「身近にいる一番大事な人を喜ばせる」というのも、なかなか聞かせます。こうです。「人間ちゅうのは不思議な生き物でな。自分にとってどうでもええ人には気い遣いよるくせに、一番お世話になった人や一番自分を好きでいてくれる人、つまり、自分にとって一番大事な人を一番ぞんざいに扱うんや。たとえば……親や」と。身につまされませんかね。 もうひとつだけ、「感謝しろ」というのを読んでみます。「身の回りにあるモノ、ともだち、恋人、親、日々出会う人、動物、空気や水、緑、それもこれも全部、自分が生きるために存在してくれてるもんや。当たり前のようにそこにあるけど、ほんまは有難いものなんや。 朝起きた時でも、寝る前でも、いつでもええ。親にでも、ともだちにでも、モノにでもええ。世界をかたちづくっている何にでもええから、感謝するんや。足りてない自分の心を「ありがとう」って言葉で満たすんや。ありがとう、ありがとう、みんなのおかげで私は満たされています。幸せです。そうやって感謝するんやで」と。 どうです。ひょっとすると、これ、学校の教科書として使えませんかね。読み物としても、なかなか面白いですよ。関心のある方は、お読みになってみてください。 仏教は成功哲学ではありませんが、私は、ガネーシャの教えのような成功哲学を、一概に否定しようとは思いません。この世に生まれてきたものが、この世での成功や幸せを願うのは、あたりまえのことです。ですが、成功、成功と、無邪気に成功を追い求めておれるのは、若くて元気なうちだけではないかと思いますね。 仏教は成功哲学ではありません。では、仏教というのは何なのかと申しますと、仏教というのは、自分自身を知りなさいという教えなんです。 私たちは、ことあるごとに、「自分のことは自分が一番よく知っている」と言いますけれど、私たちが、一番分知らないのは、自分自身のことなんですよ。私たちは、目が外を向いているものですから、世間のことばかりが気になって、なかなか自分自身を深く見つめることができないんです。 実際、自分のことは見えていませんね。たわいもないことですが、このあいだ、こんなことがありました。新聞を見ておりましたら、「相続税28億円脱税」という記事が目にとまりました。読んでみますと、大阪の二人のおばあさんが、車庫に50億円ものお金を隠していたというのです。 なんとまあと思いまして、家内にこの話をしましたら、「おばあさんって、いくつなんです」と聞くんです。「たしか、64と55だったと思うけど」と答えましたら、家内は笑いましてね、「私らと、同じくらいやないですか」と言うんです。私も思わず笑ってしまいましてね。 まあ、こんなたわいもない話なら、笑ってすみますが、私たちは、自分が見えていなくて苦しんでいることが多いのですよ。 以前、こんな話を聞いたことがあります。あるおばあさんが、お手継寺のごえんさんに、こうおっしゃったそうです。「若いもんらには、言いたいことがいっぱいありますんやが、私がひとこと言ったら、家のなかが無茶苦茶になってしまうと思うて、物言わんと我慢してますんや」と。 それを聞いたごえんさんは、こうおっしゃったそうです。「おばあさん、たしかに若いもんは勝手気まましてるかもしれん。そやけどな、ひとこと言うただけで、家のなかが無茶苦茶になってしまうような、そんな恐ろしいあんた自身が問題ではないか」と。 私たちは、つねに、「自分は正しい、自分は間違っていない」と思っております。間違っているのは私ではなくて、私の思い通りにならない若いもんの方だと思っているんですね。 「自分は間違っていない」と言いつのる人は、それほど不安なんだと思いますが、仏教では、こういう思いを、「我執(がしゅう)」と言います。我執は、煩悩(ぼんのう)から生まれてきます。 煩悩というのは、いつも申しますように、「他の誰よりも我が身がかわいい」という、心の働きのことです。私たちは、この煩悩に心を支配されて苦しんでいるのに、そのことに気づいていないのですね。 私たちは、「人生様々、人それぞれ」と、思っておりますけれど、煩悩にとっては、この世には、ふたつのことしかありません。「自分にとって都合の良いこと」と、「自分にとって都合の悪いこと」です。 「自分にとって都合のよいこと」というのは、たとえば、病気が治る、お金が入る、入学試験に合格する、昇進する、大嫌いな同僚が左遷される、といったようなことですね。「自分にとって都合の悪いこと」というのは、病気になるとか、試験に落ちるとか、そういったことです。 いわゆる現世利益は、この煩悩の喜ぶことなんです。ご利益信仰は、煩悩の信仰です。また、成功哲学というのは、煩悩の支配する社会のなかで成功する方法を教えるものです。つまりは、煩悩の喜ぶ世渡りの方法を教えているのが、成功哲学です。 私たちは、煩悩に支配されていますから、煩悩に即した教えは、分かりやすいのです。お願いすればかなうとか、こうすれば成功するというのは、ものすごく分かりやすいでしょう。「そんな馬鹿な」と思っている人でも、困り切ったときには、「ひょっとしたら」と思ったりするのです。煩悩は、誰にでもありますからね。 そんな煩悩に支配されている私たちは、成功を求め、幸せを求め、「自分に都合のよいこと」が起こるように、一所懸命に努力しているわけですが、そうそう「自分に都合のよいこと」ばかり起こりはしませんよね。それで、私たちは苦しんだり、悩んだりしているのです。 それにです、たとえ、どんなに成功しようとも、幸せであろうとも、人生の終わりには、いちばん「自分にとって都合の悪いこと」が、待っているのです。死ですね。私たちの、あらゆる努力を御破算にしてしまうのが、死です。 勝ち組だとか、負け組だとか言ってみても、私たちはみんな、結局は、負けるために生きているようなものです。おそらく、煩悩は、このことを知っているのですよ。だからこそ、煩悩に支配されている私たちは、死ぬことなど考えないようにして生きているのです。 ですがね、私たちにとって、100パーセント確実なものは、ふたつしかありません。それは、いつかは死ぬということと、今生きているということです。私たちにとって、確かなものは、このふたつだけなのです。これが、私たちの本当の現実なんです。 この現実から目をそむけて生きているのは、現実逃避です。煩悩は、現実から目をそむけて、夢を見ているのです。煩悩に支配されている私たちは、いわば、その煩悩の夢のなかに閉じ込められているようなものなんです。 私たちは、煩悩の夢のなかに閉じ込められたまま、何度も何度も、生まれ変わり、死に変わりを繰り返してきたのです。六道世界を輪廻しつづけてきたのです。「生死の夢」を見ているというのは、このことです。 「死ねば終わりだ」という物語を作って生きている現代人には、それこそ、夢物語のように思えるかもしれませんが、私は、以前、この「生死の夢」の恐ろしさに気づいて、愕然としたことがあります。 月に一度、京都の南の方にまで、逮夜参りに行くことがあるのですが、そのときのことです。国道一号線を走っていて、赤信号で止まりました。信号の横に、ラーメン屋さんがあって、そこには縦長の大きな電飾看板が立っていました。 看板の周りをグルグルグルグルと、電球の光が回っている。なんとはなしに、それを見ているうちに、急に恐ろしくなって、思わず目をそらせていました。信号が変わって、心底ホッとしました。あのグルグル回り続ける電飾のように、たとえようもなく虚しい、無意味なことを、延々と繰り返しているのが、六道輪廻なんです。 私たちは、究極の牢獄に閉じこめられているのです。こんなところで、豊かだとか、幸せだとか言ってみても、それは、囚人が、自分の独房の広さを自慢しているようなものなんです。 お釈迦様も、親鸞聖人も、命がけで、この延々と生まれ変わり死に変わりを繰り返す牢獄から自由になる道、「生死出ずる道」を求めておられた理由は、これなんだと、改めて思い知らされたような出来事でした。 私たちが、成功だ、幸せだと、無邪気に騒いでいるのは、「生死の夢」を見ているのです。たとえ、「夢なら覚めるな」というような、幸せな夢を見ているとしても、それも「生死の夢」のひとこまにすぎないのです。 仏教は、そんな「生死の夢」にうなされている私たちを、目覚めさせようとしているのです。「死ねば終わりだ」と思っておられる方も、最後には、身ぐるみ剥がされてしまう、虚しいゲームにうなされていることに変わりないんですよ。 私たちは煩悩に支配されているのです。ですが、私たちは、いのちの奥底では、煩悩に支配されていないんです。「一切衆生、悉有仏性(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)」という仏教の言葉は、そのことを教えてくれているのです。 私たちのいのちの奥底には、「仏性」がある。仏性というのは、煩悩の無い「いのち」のことです。煩悩の無い「いのち」は、仏のいのちです。私たちは、みんな、本当は「仏のいのち」を生きているんです。そのことに気づきなさいと、教えているのが、仏教なんです。 「仏のいのち」は、私たちのいのちの奥底にあるのです。「仏のいのち」に気づく道は、限りある自分自身のいのちを見つめるところからしか始まりません。 私たちのいのちは、限りがあるのです。限りあるいのちを強く意識するところからしか、自分自身を深く見つめる目は生まれてきませんね。 私たちが、自分自身のことを見つめずに、「成功だ、幸せだ」と、無邪気に騒いでおれるのは、おそらく、明日も、明後日も、生きていると思っているからではないでしょうかね。 「死ぬことなど考えても仕方がない、今を力一杯に生きるだけだ」とおっしゃる方もありますけれど、生と死は、コインの裏表なんです。死を考えない生なんて、人生の表面だけを撫でたような、薄っぺらいものになりませんかね。 世間という、いわば、平面世界で、仏のいのちに触れることはできません。仏のいのちに触れるには、いのちの奥底へと、降りていくしかありません。自分自身を深く見つめるということです。そこから立ち上がってくる「気づき」を支えてくれるのが、聞法とお念仏の生活なんですよ。 さて、最後に、聞法とお念仏の生活について、少しお話しておこうと思います。まずは、ちょっと妙なことをお聞きしますが、私の後ろに、ホワイトボードがありますね。このホワイトボードから、一番遠くにいるのは誰だと思われますか。…それは、この私なんです。 私は、ホワイトボードに背を向けています。このまま前進したら、このホワイトボードに出会えるのは、地球を一周してからです。背を向けているというのが、一番遠い位置なんです。 「仏法は、自分の姿を映す鏡だ」とおっしゃった方がおられますが、鏡があっても、そっちの方を向かないとね、なんにもなりません。せめて、三面鏡をのぞいておられる時間の、半分でもと、思うのですがね。 「仏法を聞いても、ちょっとも喜べない」ということを、よく聞きます。それは、そうでしょうね。「自分に都合のよいこと」が起こってくるのを、待ちかまえていても駄目ですね。「自分に都合の良いこと」が起こってくるのを待ちかまえている、そういう自分に気づくことが、聞法なんですよ。 私たちには、死ぬまで、煩悩があります。何かあると、すぐに、がたがたと、「自分にとって都合のよい」ほうに傾きます。そのことに気づく、こころのアンテナ作りが、聞法なんです。つねに自分自身への問題意識を持つことが大事ですね。 皆さんのご家庭には、たいてい、お仏壇が在ると思いますけれど、毎日、お仏壇に向かうということは、大事ですよ。来月の命日まで閉めたままというのではね。 私たちは、自分自身を深く見つめて、「仏のいのち」に触れようとしているのです。「仏のいのち」って、見たことがないでしょう。その、私たちがまだ見たこともない「仏のいのち」を、仮に、目に見える姿で表したものが、お仏壇のなかのご本尊なんです。 お仏壇の前に座ったら、ご本尊の方に、ちゃんと顔を向けてくださいね。「顔を向ける」というのは「面向く(おもむく)」ということ、「赴く(おもむく)」というのは、そちらの方に行くということです。ご本尊に顔を向けるというのは、「仏のいのち」に赴くことなんです。 仏さまに向かったら、そのひとときは、悩みも、苦しみも、みんな仏さまにあずけて、仏さまの願いを、両手で受け止めればいいのだと、私は思っています。お念仏を、称えるのです。お念仏は、私が「生死の夢」から目覚めることを願って、仏さまのくださった智慧です。 お念仏とは何かと、よく聞かれます。お念仏には、いろんな解釈があるようですけれど、どう言ってみても、みんな理屈です。私たちは、理屈で助かるわけではありません。 お念仏は、ただ、声に出して称えるだけなんです。嬉しいときにも、悲しいときにも、苦しいときにも、楽しいときにも、そして、何もないときにも、お念仏なんですよ。お念仏は、壊れた扇子のように、ばらばらになった、私たちの生活を、一点でおさえる「要釘」です。 ときどき、『歎異抄』には、「念仏申さんと思い立つこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり」と書いてあって、声に出して称えよとは書いてないというようなことを、おっしゃる方があります。 これは、「念仏申さんと思い立つこころのおこるとき」なんでして、「こころをおこしたとき」ではないのです。「ああ、お念仏を称えよう」というこころが起こったら、どうします。当然、称えるのではないでしょうかね。 「お念仏を称えたら、煩悩が無くなるか」とおっしゃる方もありますが、死ぬまで、煩悩は無くなりませんね。むしろ、煩悩に対して、何にもできないから、お念仏を称えるのです。 こころだけを変えようとしても、駄目ですね。信仰の「生活」と言いますでしょう。仏教は、学問ではなくて、生活なんですよ。生活というのは、理屈ではありません。日常的な習慣として、身体に覚えさせることですが大事です。 「信なくば、つとめてみ名を称ふべし、み名より開く、信心の華」という道歌があります。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、「仏のいのち」への道は、向こうから開いてくるのです。 その喜びを読んだ詩を、ひとつご紹介します。念仏者だった東井義雄(とうい・よしお)先生の、「支えられてわたしが」という詩です。 支えられてわたしが
ざしきに上がればざしきが
そればかりではない
ああそればかりじゃない (東井義雄『いのちとのふれあい』より) 「独り生まれて、独り死んでいくのだ」と思っていたけれど、そうではなかった。あらゆるものに、あらゆるいのちに、支えられて、わたしは生きているのだ。ああ、それだけではない。聞いても聞いても忘れてしまうわたしを支えて、気づけよ、気づけよと、どこまでも願いつづけてくださっている、ありがたい「いのち」だった、と。 私たちは、死を考えていると、何もかもむなしくなって、心が真っ暗になってしまいます。だから、誰も、死のことなど考えたくないのです。ですが、仏教は、その心の暗闇に光をさしこむ教えなんです。 仏教は、いのちの真実を伝え、いのちへの絶対の信頼を与えてくれる教えです。いのちの真実というのは、仏さまの手の平にのっているということです。その確信を得ると、「何があっても、何も無くても、大丈夫」と、こころ安らかに生きていけるようになるのです。 「仏さまは何もくれない。ただ」、煩悩に支配されていることも知らず、煩悩のおもむくままに迷い苦しんでいる私に、こころ安らかに生きていける「私自身をくださる」のです。これは、この世に生まれてきたものにとって、なによりの現世利益だと思いますが、いかがでしょうか。仏教のご利益、真宗のご利益が、お分かり頂けましたでしょうか。 さて、今日は、このへんで店じまいさせていただきます。 鈴木大拙先生でしたかね、「年をとらないと、仏法はわからない」とおっしゃったのは。暁烏敏(あけがらす・はや)先生は、晩年、「七十すぎにゃ信心なんてわからんわい」とおっしゃっていたそうですが、その暁烏先生が生涯の師と仰がれた清沢満之(きよざわ・まんし)先生は、数え年の41歳(満39歳11ヶ月)で亡くなっておられるのです。 思いますにね、なるほど、仏法は、年をとらないとわからないものなのでしょう。ですが、その「年をとる」というのは、高年齢になるという意味ではなくて、死を身近に感じるようになる、人生の終わりを強く意識するようになるという意味だと思いますね。 年齢とは関係なく、自分の死を強く意識するようになると、人は、変わるものだと思います。長年聞いてきた仏法が、聞こえてきたり、頭のなかに止まっていた仏法が、すとんと腹に落ちたりするのも、そんなときかもしれません。 ゾウの神様、ガネーシャも、こんなことを言っています。 「自分は今、『座っとる』だけや。この意味、分かるか? 確かに自分はこうやってワシの話を聞いとる。でもな、今、自分は何かを学んで、知識を吸収して、成長しとる思てるかもしらんけど、本当はな、成長した気になっとるだけなんや。 ええか? 知識を頭に入れるだけでは人間は絶対に変われへん。人間が変われるのは、『立って、何かをした時だけ』や」と。 どうぞ、皆さん、日々、口癖になるほど、お念仏を称えて頂いて、また、ご自身を深く見つめて頂いて、ご精進ください。 では、本日は、これで終わらせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますように、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…
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