釋昇空法話集・第40話

愚者になりて

ひとすじの道

(2008年9月23日 永代経法話)
 本日は、お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労様でございます。今年の夏は、去年より暑かったように思いますけれど、もう今日はお彼岸でして、かなり秋らしくなりましたね。

 今年は、4月からずっと、庫裏(くり)と本堂の改修工事をしておりましたが、おかげさまで、このあいだ、ようやく終わりました。4月から9月まで、足かけ6ヶ月もかかりましてね、平成の大工事といったところです。

 まあ、大工事というわりには、見かけは変わりませんでね。いったい何処を工事したのかと申しますと、外の階段に手すりが付いたほかは、もっぱら「床の下、天井の裏、壁の中」なんです。

 まことに地味な工事なのですが、実は、寺が傾きましたものでね。……経済的に傾いているのは常(つね)のことなのですが、物理的に、建物が傾きましてね。それで、耐震工事をかねて、土台から補強してもらったようなわけです。

 天井も床も抜いて、柱や梁(はり)や筋交い(すじかい)を増やしまして、かなり丈夫になったようです。棟梁には、「大工として、まだまだ気になるところもある」そうですが、まあ、さしあたって、出来るだけのことはしたということで、ひとまず一段落です。

 少ない予算のなかで、棟梁には、たいへんご苦労いただきまして、有り難く存じております。また、お力添えを賜りました御同行有志の方々にも、この場をお借りしまして、ご報告、御礼申し上げます。有り難うございました。

 この本堂は、白壁を全部塗り替えましたので、ちょっと明るくなりましたでしょう。本堂は、念仏の道場といいまして、私たちの大切な修行の場です。道場が明るくなると、気分も明るくなって、お念仏も出やすいかもしれませんが、いかがですか。

 私たち真宗門徒にとって、一番大事なことは、聞法することと、お念仏を称えることです。ところが、月参りや御法事にうかがって思うことですが、なかなかお念仏は聞こえてきませんね。『阿弥陀経』や『正信偈』や、ときには『御文』まで付いて読まれる方が、お念仏となると、はたと口を閉ざしてしまわれる。

 皆さんは、いかがですか。お仏壇に向かいましてね、手を合わせて、頭を下げる。これは、たいていの方が、お出来になる。ところが、お念仏は、そうではない。御法事なんかでね、 「では、ご一緒にお念仏を称えましょう」と申しますと、「そんな馬鹿なもの、死んでも称えるか」というような顔をなさる方もある。

 法然上人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」とおっしゃったそうです。それで思いますにね、お念仏が称えられないのは、おそらくは、「賢い」からではないでしょうかね。「賢い」というのは、自分の頭を頼りにしているということですが、お念仏は頭では納得できませんからね、「賢い」と、お念仏は出てきません。

 お念仏は、いのちの真実へと通じる道です。この道は、つねに開かれているのに、「賢い」頭が邪魔をして閉ざしている。とすれば、これは、なんとも残念な話です。そこで本日は、いのちの真実への道が開かれることを願って、「愚者になりて」という題で、お話させて頂こうと思います。

 いつもながらの、まとまりのない、理屈っぽい話でございますが、どうぞ、しばらくの間、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げておきます。

 さて、今日は「永代経法要」ですが、 「永代経法要」が9月で、次の「報恩講」が11月というのは、ちょっと残念な気もいたします。と申しますのは、庭のキンモクセイが、あいだの10月に咲くからなのですよ。

 10月には、小さな黄色い花がいっぱい咲いて、爽やかな香りが漂います。とりたてて珍しい花ではありませんけれど、ひとりで楽しんでいるのも勿体ないような気がしましてね。

 春はサクラ、秋はキンモクセイ。咲いているのは一週間ほどなのですが、そんな花を見ていると、ふと、「あと何年生きられるか」と思ったりします。

 「何年」というと、何か余裕があるようにも思えますけれど、本当は、「あと何年」でなくて、「あと何回」なんですよ。あと何回、サクラに会えるか、あと何回、キンモクセイが見られるかということなのですよ。

 物思う秋といいますけれど、限りあるいのちを思うと、残された時間の大切さが身に染みます。人生の終わりを思うときほど、人生を深く考えるときはありませんね。かけがえのない、大切な人を亡くしたときも、そうでした。おそらく、皆さんにも、ご経験がおありのことと思います。

 お葬式に行きますとね、遺影が飾ってあります。あの写真を見るたびに、思うのです。「ああ、この人にも、子供のときがあったのだ、…この人にも、若い時があったのだ」とね。

 遺影の前には、棺(ひつぎ)がある。棺のなかには、長い長い物語が詰まっている。その物語の最後の場面に、私自身が重なって見えてくるのです。

 ひとごとではないのです。いつの日か、死の床から、家族を見上げるときが来る。いとしい人々を、下から見上げる日がやって来るのですよ。それを思うたびに、「大丈夫か、それでいいのか」という声が、聞こえてくるような気がします。「そんなふうに生きていて、大丈夫か」。皆さんは、いかがですか。

 私たちは、何も問題がないときには、ことさら人生について考えたりしませんが、連れ合いだとか、子供だとか、そういった大切な人を亡くしたりしますとね、それまで疑ってもみなかった自分の人生観が、すべてひっくりかえってしまって、一体それまでの人生は何だったんだろうと、愕然としたりするものです。そんなとき、誰もが人生を考えてしまいますね。

 かけがえのない人の死は、人生を考える大切なご縁です。ですが、そのご縁が本当に生かされることは、まれなんです。たいていの場合、何かが違うのではないかと思っても、それが何なのか分からないまま、明日からの収入の道を考えたり、不慣れな家事をこなしたりするのに精一杯でね、そうこうするうちに、なんとなく新たな状況に馴染んでしまうものなのですね。

 どんなに、かけがえのない大切な人の死であっても、それは、自分の死ではなく、他者の死なのです。残された者には、忙しく慌ただしい日常が待ち構えているのです。大切な人を亡くした時に感じた人生への疑問も、だんだん、その生活の喧噪のなかに埋もれていってしまいます。

 しかし、それで終わったのでは、あまりに勿体ない。かけがえのない大切な人の死を、無駄にしないために、たとえ年に一度でも、大切な人の死を、聞法のご縁として、自分を見つめ、人生を考えるひとときを持つ。それが、私たち門徒の「永代経法要」です。

 「永代経」といいますとね、お亡くなりになった方の供養のためにお勤めしている、と思っておられる方もおられるかもしれませんけれど、私たちの「永代経」は、そうではないんです。

 仏教は、本来、先祖供養のための教えではありません。『歎異抄』にも、「親鸞は父母の孝養のためとて一返にても念仏もうしたることいまだそうらわず」と、はっきり記されています。

 清らかな浄土に帰って行かれた人々のために、汚れた娑婆にいる私たちが出来ることなど、何もありません。私たちの法要は、すべて、私たち自身の聞法のためにあるのです。そのなかで、特に、亡くなった大切な人をご縁として聞法させて頂く法要が、「永代経法要」です。

 明日のことも分からない諸行無常の世の中で、「永代」というのは妙かもしれませんが、永代経法要の「永代」という言葉には、「いのちある限り聞法する」という決意と、「子々孫々まで、末永く聞法のご縁がありますように」という願いが込められているのです。

 聞法というのは、仏法の話を聞くということですが、何のために聞法するのかと言えば、それは、「いのちの真実」への気づきを深め、心安らかに生きるためなのです。ですが、それには、まず、限りあるいのちに気づく必要があります。心安らかに生きる道を求めるのは、生きていることの不安に気づいた人だけです。

 「現代は、こころの時代だ」なんて言いますけれど、実際には、経済最優先の時代ですね。成長、発展、金儲け。「ゆとり教育なんてやっていたら、経済競争に負けてしまう。金が無いのは、首が無いのと同じだ」という社会の中で、私たちは、人生経験を積み重ねてくるのです。

 そういった社会に生きる私たちの「人生設計」や「人生観」には、いちばん大事なことが、抜け落ちているんです。それは、「死ぬ」ということです。いのちあるものは、必ず死ぬのです。ですから、死ぬことを抜きにして、人生を考えることはできないのです。

 私たちが「人生」と呼んでいるものを、仏教では「生死(しょうじ)」といいます。「生」だけが人生ではなく、「死」も人生だということです。

 いつもお話することですが、この世で100パーセント確実なことは、ふたつしかありません。それは、「いつかは死ぬ」ということと、「いま生きている」ということです。これが、私たちの「いのちの現実」なんです。ですが、はたして私たちは、この「いのちの現実」を踏まえて生きているでしょうか。

 もちろん、「いつかは死ぬ」ということくらい、誰でも知っています。頭ではね。ですが、それは、今日ではない、明日ではない。今週ではない、来週ではない、と思っている。つまりは、さしあたって自分の問題ではないと思っている。違いますかね。

 また、私たちは、明日も明後日も、来週も再来週も、生きているつもりでいますから、「いま生きている」ことなど、あたりまえで、ほとんど問題にもなりません。

 つまり、私たちは、 「いずれは死ぬ」としても、さしあたって問題ではないし、「いま生きている」のは、あたりまえ、という生き方をしているわけです。それは、いわば、「いのちの現実」に背を向けた、現実逃避の生き方ですが、そのことに気づいてませんね、私たちは。

 私たちは、「いのちの現実」を踏まえたときに、つまりは、自分の死が視野に入ったときに、はじめて、人生を真剣に考えるようになります。死を思うと、生が輝いてきます。ですが、生がいくら輝いても、死への恐れは無くなりません。仏法は、そんな死への恐れを受け止めてくれる教えなのです。

 「死ぬからこそ、本当に生きる道を聞く」。これは金子大栄先生の言葉ですが、「いのちの現実」を踏まえて、死を思ったときに、はじめて、本当の聞法がはじまるということでしょうね。聞法を重ねるうちに、「いのちの真実」への気づきが深まっていきます。その気づきを深めてくれるのが、お念仏とともにある生活なんです。

 さて、人生を考えることは大事です。ですが、本当に大事なことは、考えても分からない。本当に大事なことは、感じるしかないのです。 本当に大事なことというのは、「いのちの真実」のことです。

 私たちは、浄土から生まれてきて、またその浄土へと帰って行くのです。浄土は、私たちの「いのちの故郷」です。私たちは、仏のいのちを生きていて、死ねば仏のいのちに帰って行くのです。これが「いのちの真実」です。目に見える世界のことは考えられますが、目に見えない世界のことは、感じるしかありません。

 ところで、考えるのも、感じるのも、主に、頭脳の働きですが、ご承知のように、私たちの頭脳は、右脳と左脳に分かれています。後ろ側から見た図を描きますと、こんなふうになっています。この二つの脳には役割分担があります。左脳は考える脳、右脳は感じる脳です。

 ごく大雑把に言えば、考える左脳を「頭」、感じる右脳を「こころ」と呼んでもいいかと思いますが、現代人は、ほとんどが左脳人間ですね。私たちは、考える人です。よくいえば、賢いのです。

 そんな私たちは、健康のことも、生き甲斐のことも、老後のことも、なにもかも、自分を守るために考えておかねばなりません。ですが、そういう、賢い私たちの社会が、うまくいっているのかと言えば、決して、そうではないですね。私たちの社会には、問題が山積みになって、出口の分からないような閉塞感が漂っています。

 それは、どうしてなのか。そこで、もういちど、脳の構造を振り返ってみますね。自然に無駄はないはずです。脳が二つに分かれているのには、理由があるはずです。

 最近、年のせいか、右側の耳が、目覚まし時計の音のような高い音が聞こえにくくなりましてね。左の耳は、ちゃんと聞こえるのですが、片方の耳だけですと、暗闇で目覚まし時計の音は聞こえても、どこに置いてあるのか、場所が分からないのです。それで、なるほどと思ったのですが、おそらく、脳が二つに分かれているのは、一定の方向を示すためなのでしょうね。

 砂漠や森林のような、方向の分からない場所で歩いていると、まっすぐ歩いているつもりでも、いつのまにか元の場所に戻ってしまうといいます。それは、軸足より、利き足の方が、歩幅がわずかに長いために、気づかないうちに、軸足側に、円を描いて歩いてしまうからです。

 これと同じことが、二つの脳のあいだで起こっているとしたら、どうでしょうか。現状で言えば、まっすぐ進んでいるつもりでも、考えすぎの頭に引きずられて、同じところをぐるぐる回っているということではないでしょうか。

 たとえば、右脳と左脳を、二つの車輪だとしますとね、二つが同じ大きさの車輪ですと、真っ直ぐに進めます。ところが、私たちは、一日の大半を頭の中で暮らしている「考える人」です。つまりは、左の車輪が大きくなっている。とすると、真っ直ぐ進んでいるつもりでも、知らないうちに、右へ右へと曲がっていって、いつのまにか元のところに戻ってしまいます。

 現代社会が、出口の見えない閉塞状態にあるのも、それなら分かるような気がします。いろいろな問題が、根本的に解決しないのは、私たちが考えてばかりいるからかもしれません。社会に犯罪が満ちあふれているのも、他人のことが考えられないからではなくて、感じられないからなのでしょうね。頭と心のバランスが狂っているのですよ。

 とすれば、もしも、右脳の働きと、左脳の働きが、ぴったりバランスがとれたら、ぐるぐる回る円軌道ではなく、まっすぐに延びた道が、現れてくるはずです。その道こそ、本来の「いのち」が指し示している私たちの進むべき道、「いのちの故郷」、浄土へと続く道ではないでしょうか。

 ユングという心理学者は、こういうことを言ったそうです。「現代人はイライラするのが当たり前だ。自分の向かう目的地のことをなにも知らないのだから」と。

 それは、そうでしょうね。二つの脳の働きが、ぴったりバランスがとれていたら、私たちが「浄土」と呼んでいる「いのちの故郷」への道が、目の前に開かれている。旅の目的地がはっきりしている。ところが、現代人は、バランスの狂った左脳人間で、ぐるぐる回る円軌道を歩いているものですから、目的地など、どこにも見えない。それは、イライラしますよね。

 では、二つの脳の働きのバランスをとるには、どうすればよいのか。それは、瞑想をすることです。深い瞑想状態にあるとき、脳波計で調べてみると、右脳と左脳が同調して、脳波が同じ波形を描いている、といいます。そのとき、前に開けている道は、まっすぐ「いのちの真実」へと続いているはずです。

 以前にもお話いたしましたが、座禅も念仏も、瞑想の一種です。どちらも、暴走している左脳の働きを鎮めることを目指しています。左脳の働きを鎮めるというのは、「考えるのをやめる」ということ、「はからいを捨てる」ということです。

 それは、賢い現代人からみれば、とうてい、受け入れることのできない道です。賢い人から見れば、考えないのは、愚か者です。

 ですがね、「いのちの真実」は、考えても分からない。感じることしかできないのです。それなら、頭をたれて、こころを開くしかないでしょう。愚者になるのです。頭のはからいを捨てて、いのちの働きに「おまかせする」のです。

 親鸞さまは、自ら「愚禿(ぐとく)」と呼ばれましたし、良寛さまは、自ら「大愚(たいぐ)」と呼ばれました。座禅も念仏も、賢い人の価値観、世間の価値観を捨てて、愚者になる道なのです。

 と申しますとね、皆さん、またまた考え込んでしまわれるかもしれませんね。「考えないって、どういうことか。これから帰るのに、考えずにボーッと道を歩いていたら、危ないではないか」なんてね。そうではないのです。私たちは、考えすぎているのです。それが問題なんです。

 私たちが苦しむのは、考えるからです。たとえば、腹が立つとか、不安だとかいうのも、考えるからです。目の前にいない人のことを考えているうちに、だんだん腹が立ってくる。「あいつはあんなことを言った」とか、「今度はこういうことを言うだろう」とかね。また、まだ起こっていないことを、いろいろ考えて、不安になる。考えるから、不安になる。そうでしょう。

 腹が立つとか不安だとかいったことは、私たちは単純に感情の問題だと思っておりますけれど、そうではありませんね。考える頭に引きずられて大きくなっていく不愉快な気分に、私たちは苦しんでいる。つまりは、「考えない」というのは、そんなふうに、私たちの苦しみを引き起こしている頭の過剰な働きを鎮めることでして、ボーッとしていることではありません。

 お釈迦様は、「第二の矢は受けない」とおっしゃいました。たとえば、誰かに面と向かって罵倒されたとします。そんな場合、誰でも不愉快になりますでしょう。これは「第一の矢」です。「第一の矢」は、誰の心にも刺さります。お釈迦様の心にもね。ところが、お釈迦様は、「第二の矢は受けない」とおっしゃっている。

 私たちは、不愉快なことがあったら、その場面から離れたあとも、いつまでもそのことを考えています。考えているために、どんどん腹が立ってきたり、憎しみの思いが湧いてきたりして、苦しむのですが、「第二の矢」というのは、その「考える」ことで生まれる苦しみのことです。

 お釈迦様が、「第二の矢は受けない」とおっしゃっているのは、頭に引きずられて余計な苦しみを受けることはないということです。「考えない」というのは、こういうことをいうのです。とはいっても、どうしても考えずにはおれないのが私たちですから、難儀なのですが、 だからこそ、お念仏が大事なのですね。

 ちなみに、ときには、このような念仏や座禅によらなくても、同じような気づきが得られることがあります。たとえば、交通事故から奇跡的に生還した、ビートたけしさんの場合が、そうです。

 ビートたけしさんの書かれたもののなかに、『僕は馬鹿になった。』という詩集があります。この『僕は馬鹿になった。』というタイトルに、深い意味を感じますが、そのなかに、「騙されるな」という詩がありまして、その詩を読んだときは、思わず、うなりました。ちよっとご紹介しますと、こういう詩です。

      騙されるな

       人は何か一つくらい誇れるものを持っている
       何でもいい、それを見つけなさい
       勉強が駄目だったら、運動がある
       両方が駄目だったら、君には優しさがある
       夢をもて、目的をもて、やれば出来る

       こんな言葉に騙されるな、何も無くていいんだ
       人は生まれて、生きて、死ぬ
       これだけでたいしたもんだ

            (ビートたけし『僕は馬鹿になった。』より)

 すごい詩です。それこそ、「これだけでたいしたもんだ」と思います。仏教者にも、同じような言葉があります。高光大船先生は、「生きて足れり」とおっしゃっています。また、紀野一義先生は、「人間は生きていることが救いである」とおっしゃっています。

 本当に、すごいです。 「こんな言葉に騙されるな」というのは、「世間の価値観なんかみんな嘘だ、捨て去ってしまえ」ということでしょう。

 仏教の言葉で言えば、「世間虚仮(せけんこけ)」です。世間のことに真実はないという意味です。いわば、これは「この世」の全否定です。煩悩の支配する世間のことは、全部「ノー」なんです。

 その後には、「何も無くていいんだ」とありますね。「何も無くていいんだ」ということは、「何があってもいいんだ」ということでしょう。これは、「この世」の全肯定なんです。全部「イエス」なんです。

 「こんな言葉に騙されるな」という言葉と、「何も無くていいんだ」という言葉の間には、深い溝があるのです。実は、この溝を越えて、「全部ノー」から「全部イエス」へと翻る道が、「愚者の道」なのです。

 たけしさんが、交通事故から奇跡的に生還した直後に書かれた、「おいらが病床で考えたこと」という文章を読んだことがありますが、自分を見つめる目が鋭くて、仏教者の本を読んでいるような気がしました。実際、人は、死を強く意識すると、自分自身を深く見つめますね。

 機会があれば読んで頂いたらと思いますが、一種の臨死体験のあと、奇跡的に蘇生した、たけしさんが、病床で考えていたことは、「生と死」の問題だけだった。そのとき考えたことで、人生観が変わったとおっしゃっています。

 さきほどご紹介いたしました詩は、その事故の後に書かれたものです。毒舌家のたけしさんですから、ひょっとすると、事故の前でも、こういうことをおっしゃったかもしれませんが、事故の後で書かれた詩だけに、口だけではない迫力があります。

 おそらく、たけしさんは、自分を守ろうとしても何もできない状況のなかで、じっと死を見つめるところから生まれた火事場の馬鹿力のような「いのちの直感力」で、この深い溝を跳び越えたのではないかと想像しますが、この直感力は、健康が回復するにつれて薄れていったようです。

 その後お書きになったものをパラパラ読んでおりますと、そんな感じがしますね。今のたけしさんは、あのとき飛び越えた場所を探している求道者のようにさえ思えてくるのですが、どうでしょうか。

 さて、そろそろ店じまいにいたします。お念仏の教え、浄土の教えは、「愚者となって往生する」教えです。愚者になる。それは、頭のはからいを捨てて、いのちの働きに「おまかせする」ことなのです。仏法は、何かの奇跡を信じることではなくて、いのちの不思議を感じることを、教えているのです。

 お念仏とともにある生活のなかで、だんだん頭と心のバランスがとれてくると、私たちの歩いている道も、だんだん真っ直ぐになってくるでしょう。お念仏を称えながら生活することが、そのまま、仏道を歩むこと、浄土への道を歩むことなのです。

 念仏詩人の木村無相さんの詩に、こんなのがあります。「ひとすじの道」という詩です。

       ひとすじの道

        ひとすじの道
        涅槃(ねはん)にとおる
        ひとすじの道
        涅槃にとおる

        ひとすじの道
        ナムアミダブツ

                  (『念仏詩抄』)

 考えすぎの現代人には、感じるということが、一番大事です。 「お念仏を称えたら、救われるのか」とか、「浄土は在るのか無いのか」とか、考えても仕方のない問いに頭を悩ませているより、お念仏を称えてください。

 仏教にも詳しかった、ある有名な小説家は、「…ぼくは死ぬ一秒前に「南無阿弥陀仏」で救われるつもりです…」とおっしゃっていたそうですが、これも考えすぎではないでしょうかね。大事なのは、理屈よりも、お念仏を称えることです。

 「心がけます」とおっしゃる方が多いのですが、心を変えることは難しいのです。さしあたって心を変えなくてもいいですから、お念仏を称えてください。身体の習慣が変われば、こころも変わります。現代では「心身」と書きますが、昔は「身心」と書きました。昔の人は、身体が先だと知っていたのですよ。

 「調身、調息、調心」という言葉がありますが、身体と心をつなぐのは呼吸です。お念仏を称えていると、呼吸が変わってきます。吐く息が長くなり、ゆっくりとした呼吸になってきます。そうなると、心も穏やかになってきます。息の仕方が変われば、生き方も変わるのです。

 腹が立ったら、お念仏。悲しいときにも、お念仏。嬉しいときにも、お念仏。何にもないときにも、お念仏。

 お念仏が、法事や、お葬式のような、特別な日の、よそ行きの作法ではなく、日常の生活そのものになってくれば、きっと、生きる力がわいてきますよ。

 「日常の平凡な生活こそ、人生の檜舞台である」。これは梅原真隆先生の言葉です。とりたてて何もない普通の日々を輝かせるのが、お念仏の教えなのです。

 お念仏とともに歩み、今日という真っさらな一日に感謝できたら、今日生きていることが素晴らしいと思えたら、人生に、それ以上のことは何もないと思いますね。 

 さきほどの木村無相さんの詩に、こんなのもあります。「しあわせ」という詩です。

       しあわせ(二)

         ひとすじの道に
         出たものは
         しあわせ

         ひとすじの道を
         行くものは
         しあわせ

         ひとすじの道で
         死ぬものは
         しあわせ

                  (『念仏詩抄』)

 この「ひとすじの道」へのご縁を、皆さんの大切な方々は、結んでいってくださったのです。どうぞ、そのご縁を大切になさって頂きますように。そして、お念仏とともにある生活のなかで、「いのちの真実」への気づきが深まっていきますように。

 インドに、こういう話が伝わっています。この世界の最初の人間は、「ヤマ」という男と、「ヤミー」という女でした。二人は夫婦となりましたが、夫のヤマが先に死んでしまいました。残されたヤミーは、悲しくて悲しくて、「ヤマが死んだ、ヤマが死んだ」と、いつまでも泣き叫んでいました。

 それで困った神様は、ヤミーのために、「夜」を創ってやりました。それまでは昼しかなかった。そこに、夜ができた。昼の次に夜が来るようになり、一日が夜で区切られるようになった。つまりは、時間というものが生まれたのです。

 ヤミーは、毎日毎日、泣きました。「ヤマが死んだ」……「きのう、ヤマが死んだ」……「おとつい、ヤマが死んだ」……「三日前に、ヤマが死んだ」……と。だんだん泣き声が小さくなっていき、いつしか、ヤミーは、ヤマの死を受け入れることができるようになった、と。そんな話です。

 悲しみにも、「日にち薬」が効きます。時が経つにつれて、どんなに深い悲しみも、少しずつ薄れていくものです。それは有り難いことなのです。ですが、本当は、悲しみが薄れただけではね、勿体ないですよ。悲しみは薄れていっても、気づきが深まっていきませんとね。

 いつの日か、お浄土で再会なさったとき、「あの時は、悩み苦しんだけれど、あなたが結んでいってくれたご縁のお陰で、有意義な人生が送れました。本当に有り難う」と、感謝できたら、先にお浄土に帰っておられた方も、きっとお喜びになることと思いますね。どうぞ、「お念仏の教え」へのご縁を、大切になさってください。

 では、本日は、これで終わらせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。

 つぎは、11月9日の「報恩講」でございます。またご一緒に聞法させて頂けるよう、念じております。本日は、お忙しいところをお運び頂きまして、有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…



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