ようこそお参りくださいました。ご苦労様でございます。また皆様とともに、聞法のご縁を頂きましたことを、有り難く存じております。 ようやく春めいてまいりまして、今日はお彼岸のお中日です。お彼岸の頃は時候が良いので、お出かけやすいですね。お墓参りや、お寺参りをなさるのにも、良い時候です。皆さんも、もうお墓参りをなさったかもしれませんね。 まあ、私たち門徒は、常々、人は亡くなるとすぐにお浄土へ帰って行くと、教えて頂いております。亡くなった人は、「千の風になって、大空を吹きわたっている」わけでも、お墓のなかに居るわけでもないんです。 ですが、それでも、お墓参りって、なんかいいですね。お墓にお参りすると、亡くなった人のことを、いろいろ思い出しますし、過ぎ去った時間、残された時間のことを思い、いずれ人生が終わるということを、思いますね。人生が終わると思うと、生きている今がいとおしくなりませんか。 生きている今がいとおしいというのは、生への未練とはちょっと違います。それは、死を見つめ、死を受け止めるところから生まれてくる、今を喜び、いのちを尊ぶ思いなんですよ。 私たちは、科学万能の時代に生きていますので、死ねば終わりだと思っております。そんな私たちには、死は恐ろしいだけで、見つめることなどできませんが、死を安らかに見つめる生き方もあるのです。 安らかな眼差しのなかで、死の不安が、生きるエネルギーに変わっていく。生きている今がいとおしい。今回は、そんな生き方を、ご一緒に考えてみたいと思います。 話の題は、「生きる力」です。あるいは、思いつくままの、とりとめもない話になるかもしれませんが、どうぞ、しばらくの間、お付き合いくださいますよう、お願いいたします。 さて、このあいだ、久しぶりに映画を観ましてね、『おくりびと』という映画です。いま話題の映画ですから、もうご覧になったかもしれませんが、葬儀の際に死者を棺(ひつぎ)に納める納棺師を主人公にした映画です。 今回は、この映画を手がかりにして、話を進めることにいたします。まずは、ご覧になっていない方のために、あらすじを申しますと、こういう話です。 東京で失業した主人公は、妻をつれて、故郷の山形に戻り、仕事を探します。「年齢問わず、高給保証、実質労働わずか、旅のお手伝い、NKエージェント」という広告にひかれて面接に行くと、仕事は「旅のお手伝い」ではなくて、「安らかな旅立ちのお手伝い」、つまりは遺体を棺に納める仕事でした。 妻にも話せず、戸惑いながらも、見習い納棺師として働き始めますが、そのうち、町の噂となって、ショックを受けた妻は、実家に帰ってしまいます。 辞職を思いますが、社長の人柄にほだされて、なんとなく仕事を続けるうちに、様々な別れに出会い、この仕事の大切さに目覚めます。 妊娠したことに気づいて戻ってきた妻は、ふたたび仕事を辞めるように迫りますが、身近な人の死に際して、夫の仕事にふれ、その仕事を理解し、尊敬するようになっていきます。そんな話です。 主人公を演じるのは本木雅弘、社長は山崎努です。納棺の際の、二人の所作が実に美しいのです。登場人物の表情や心情。冬の庄内平野。久石譲の音楽。ユーモアも適度にちりばめられて、ともかく美しい映画です。 「美しすぎて、現実的ではない」とおっしゃる方もありますけれど、私は、この映画を、自分の経験したいくつもの別れと重ねて観ましてね、全編に漂う透明な光に感動し、美しさに救われる思いがいたしました。 平成12年に、47歳で、家内の兄が亡くなりましたときには、この映画のような納棺師のお世話になりましてね。私は、たまたま法衣をとりに京都に帰っておりまして、納棺に立ち会うことはできなかったんですが、みんな感動しましてね、本当に有り難かったです。 肌も見せずに湯灌して、袈裟衣をまとわせる。そんな納棺師の美しい所作を見て、ようやく、若くして亡くなった家族の旅立ちを受け入れて頷けるような気がしたといいます。故人に捧げられるハッとするほど美しい所作。それは、残された者にとって、ひとつの救いでした。 ですが、この映画が、世界中で評価されたのは、納棺師の所作が美しかったからではなくて、やはり、全編に漂う透明な光に、多くの人が感動したからだと思いますね。 観た人は、この透明な光に、生きるエネルギーをもらったんですよ。出演者の一人、余貴美子さんは、こう言っています。「死という場面がいっぱいあるのですが、逆に、いのちが喜んでいるという気分になりました」と。死が、生を輝かせたということでしょうね。 主演の本木雅弘さんは、インタビューのなかで、こう話しています。「死は誰にでも平等に訪れる。生と死は同価値であり、死を目の当たりにすることで、生の尊さを感じ直すことができると思った」と。本当に、そうですね。 昔は、生まれるということも、死ぬということも、生活の場にありました。この寺でも、台所の横の六畳間で、私の弟が生まれ、その同じ部屋で、祖母が亡くなりました。 今は、ほとんどの人が、病院で生まれ、病院で亡くなりますから、生活の場で、誕生や死をリアルに実感するということが、なくなりましたね。そんな、死のリアルな実感がないところには、いきいきとした生の実感は生まれてこないのではないでしょうか。 もちろん、そういう意味では、『おくりびと』に描かれている死も、リアルな死ではありません。ですが、この映画には、いま失われつつある人間としての感情の尊さを、思い出させてくれるものがあるんですね。 永遠に死なないのなら、生きることは問題になりません。いのちが大切なのは、生きることが尊いのは、死ぬからなんです。生と死は、反対のことのようですが、実は、一枚のコインの裏表なんです。表だけの100円硬貨って、想像できないでしょう。死あればこその、生なんですよ。 私たち現代人は、できるだけ死を考えないようにしています。あたかも、死を考えなければ、死を遠ざけておれるかのようにです。ですが、生のない死もなければ、死のない生もありませんね。生は、死があって、はじめて成り立つのです。 その死を否定して生きるということは、生を否定することと同じなんです。死を認めない人生には、生きているという実感が乏しいのです。ひょっとすると、そのことに私たちも、うすうす気づいているのかもしれません。 『おくりびと』に、こんな場面がありました。山崎努演じる社長が、暖炉の火で炙った「フグの白子」を頬張りながら、こう言うのです。 「生き物は、生き物を食って生きている。死ぬ気になれなきゃ、食うしかない。同じ食うのなら、うまいほうがいい。…うまいんだなあ〜、こまったことに」と。 この言葉を聞いて、思い出しましてね。福井の岳父の通夜のとき、息がつまるほど悲しかったのに、台所でつまんだオニギリは、おいしかったんです。自分の正体を見たようで、涙がこぼれました。まあ、これは余談です。 この、「同じ食うのなら、うまいほうがいい」と振り切ってしまわないで、「…うまいんだなあ〜、こまったことに」というところに収まってくるところが、なんとも味があって、いいですね。 「うまいんだなあ〜、こまったことに」。生きている喜びと悲しみが凝縮されたような言葉です。山崎努が言うと、自分を見つめる微妙な距離感に哀愁が漂いましてね、人生経験の奥行きを感じましたが、この言葉に、死をわきにのけて生きていることへの、ためらいのようなものを感じたのは、私だけでしょうか。 人は、死を前にして初めて、何が大切で、何が大切でないかが分かるのではないでしょうかね。私たちは、自分の死と真剣に向き合うということは、なかなかありませんけれど、たとえば、余命半年だとリアルに想像できたとしたら、どうでしょう。 それまで大切だと考えていたことが急につまらなく思えたり、考えてもいなかった何かに気づいたりして、自分にとって本当に大事なことと、そうでないことが見えてくるのではないでしょうかね。 死を前にすると、生だけを前提にして成り立っていた価値は、すべて色あせてしまいます。たとえば、お金です。ほどなく死ぬということになれば、いくらお金を持っていても、ほとんど意味がありませんものね。 それを踏まえて、兼好法師の『徒然草』に、ある大金持ちの言葉として、こんなことが書かれています。「人は経済的に豊かでないと生きる甲斐がない。豊かになるには、なによりも心がけが大事なんだ。死ぬことなど考えていたのでは、金持ちにはなれない。豊かになろうと思うのなら、まかりまちがっても、人生は無常だなどと考えてはいけない」(217段、取意)と。 兼好法師は笑っているんでしょうね。まあ、お金も大事ですが、こんなふうに考えてみることも大事ではないでしょうか。 一万円札を作るのに10円かかる。10円のものを一万円だというのは約束なんで、約束が反故になったら、ただの紙です。そういうものに基づいている社会の枠組みというものは、いわば、張りぼての映画のセットのようなもので、かりそめのものなんですよ。 もちろん、そういった枠組みなしで社会で生きていくことはできませんけれど、役に立つとか立たないとか、得だとか損だとか、勝ったとか負けたとかいった、社会の枠組みのなかだけで生きていると、大事なことが見えてきませんよ。 ときには、人生が無常であることに思いをいたす。そうすると、張りぼてのセットは色あせて、いのちの真実が見えてくるのではないでしょうかね。『おくりびと』が、人々に感動を与えたのは、そこなんでしょうね。 映画を観て、作家の、あさのあつこさんは、こんなふうに言っておられます。「はじめまして、ひさしぶり、さようなら、また会おうな。そんな何気ない言葉一つ一つがたまらなく愛しくなる。明日もまた生きていこうと思う。生きていけると思う。そんな映画だった。巡り会えた事に感謝したい」と。 インターネットで、いろいろ見ましてもね、ほとんどの方が、同じような感想を持たれたようです。「別れの映画を観て、改めて、人と人とのつながりに光を感じた」。「いのちが喜んだ」。「亡くなった人と、また会えると聞いて、希望を感じた」。「慰められた」。 ご覧になった皆さん、おそらく素晴らしい経験をなさったんだと思います。ですが、私たちは、本当に「また会える」世界を持っているでしょうか。どうでしょう。「また会える」という言葉に、確信はありますか。慰めや気休めでは、悲しいでしょう。 そうではないですよ。実はね、この「また会える」という言葉に、まことの「いのち」をもたらす教え、それが仏教なんですよ。 仏教は、汚れた現実の世界を離れて、清らかな真実の世界に生まれる道を説く、出世間の教えです。私たちの現実世界を「穢土(えど)」と言います。「穢土」というのは、「煩悩で汚れた世界」のことですが、それは、言葉を換えて言えば、「生にしか、生きることにしか、価値を置かない世界」のことなんです。 それに対して、清らかな仏の真実世界は、生と死が一つになった世界です。これを仏教の言葉では、「一如(いちにょ)」と言います。さきにも申しましたが、もともと、生のない死もなければ、死のない生もないのです。生と死は分けられない。生と死は一つなんです。その真実のままにある世界が、「一如」です。 この「一如」を、私たち門徒は、「浄土」と呼んでいます。この「浄土」こそが、私たちが「また会える」世界なんです。「みんな、また、お浄土であえるよ、お浄土で会おうな」。『阿弥陀経』に「倶会一処(くえいっしょ)」とあるのは、このことです。 いつもお話いたしますように、私たちは、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰って行くのです。浄土は、私たちの、いのちの故郷です。 聞法とお念仏の生活のなかで、この「いのちの故郷」を確かにしていくのが、私たち念仏者の生活なんです。「また会おうな」という言葉は、そんな生活のなかでこそ、いのちのある言葉となっていくのですよ。 ときおり、「浄土は、何処にあるのか」とお尋ねいただくことがあるのですが、浄土は「有る」とか「無い」とか言えない「絶対の世界」なんです。 私たちは何でも、「有と無」、「善と悪」、「生と死」というように、対になった言葉で物事を考えますね。「有るのか無いのか」と考えて、どちらかに分けられたときに、私たちは「分かった」と言うんですね。 そんな私たちですから、「絶対」という言葉も、「相対」という言葉と対になった反対語だと思ってしまうんですね。それで、よく混乱するんです。 そうではないんです。絶対の世界というのは、善悪も生死も超えた世界、対立するもののない世界です。「有る」とか「無い」とか、分けられないから、私たちの頭では「分からない」世界なんです。 「絶対」については、考えられないから、考えない。それが仏法のスタンスなんですが、「お分かりいただけましたでしょうか」、…と言ってはいけないんでしたね。 私たちは、「生」だけに価値を置いていますから、価値のない「死」が苦しみや悩みのタネになるんです。悩むことをやめて、死をも受け入れられたとき、楽になる。そのすぐ先に、生と死が一つになっている「一如」があるんです。苦しみのない「極楽浄土」があるんです。 以前、ある老人施設に、職員も手に負えないほど気ままで頑固な寝たきりのお爺さんがいましてね。そのお爺さんが、ある日、「オレなあ、悩んでもどうにもならないことは、もう悩まないよ、悩んで解決のつきそうなことにだけ、悩むことにしたよ」と言って、仏様のような穏やかな人に変わったと聞きました。 いつもお話いたしますように、私たちが悩み苦しむのは、どうしようもない過去のことや、どうなるか分からない未来のことを考えてばかりいるからです。頭の中で、過去や未来に走り回ることをやめて、「今」にいることができたら、心は安らかになり、生きる力が湧いてきます。その「今」こそ、浄土への入口なんですよ。 こんな話を聞いたことがあります。アウシュビッツの強制収容所から解放された、フランクルという精神科医の話です。 フランクルは、死を見つめる日々のなかで、「日常の悩みを悩みたい」という思いにかられたといいます。家族や友人とのトラブル、仕事のこと、支払いのこと、そんな日常の悩みを、もういちど悩みたい。悩むことができるというのも、生きておればこその贅沢だった、と気づくんです。 ですが、フランクルは、収容所のなかで、自分ではどうすることもできない未来や、どうしようもない過去のことを思うことをやめました。すると急に、道端に咲いている草花や、空に浮かんでいる雲が、輝いて見えてきて、深く感動したのです。その「今」とひとつになった感動が、「生きる力」となったといいます。 私たちは、「生きる力」というと、「将来に希望があることだ」と思っていませんか。本当はね、そうではないんですよ。本来、「生きる力」というのは、将来に希望があるかどうかとは、関係がないんです。 たとえば、赤ん坊には、「将来への希望」なんて無いはずですが、「生きる力」が満ちているでしょう。それは、赤ん坊には、過去と未来がなくて、「今」しかないからなんですよ。 本来、人は、「将来への希望」を「生きる力」としてきたのではなくて、「今」とつながることで、「生きる力」を得てきたんです。さきほどの、アウシュビッツから生還したフランクルも、そうでしたね。 「今」とつながるというのは、人と人とのあいだで言えば、共感するということです。たとえば、悲しいときに、同じように悲しんでくれる人がいれば、救われませんか。「生きる力」が、すこし湧いてきませんか。 人を思うこころに、三つあります。「はげます、なぐさめる、みとめる」です。「はげます」というのは、未来にむかうこころ。「なぐさめる」というのは、過去にむかうこころ。「みとめる」というのは、今をだきしめるこころ、です。 つまり、「共感する」というのは、「みとめる」ということなんです。人の「今」を、そのまま抱きしめるということなんです。人は、他の人から、みとめられることで、生きられるんですよ。お互いにね。 意見が違っても、共感はできます。私たちには、大きな共通点があるからです。「いずれは死ぬ」ということと「今生きている」ということです。私たちにとって、この世で100パーセント確実なことは、この二つだけです。この共通点が、共感のベースです。 「私たちは、必ず死ぬのだ。…このことわりを知らない人々もいるが、このことわりを知れば、争いはしずまる」(『法句経、6』意訳)。これは、お釈迦様の言葉ですが、念仏詩人の木村無相さんの詩にも、こんなのがあります。「みな死ぬる 人とおもえば なつかしき」(「なつかしき」、『念仏詩抄』より)。 皆さんもね、誰かに腹が立ったとき、「ああ、この人も、いずれ死ぬんだなァ」と、ちょっと思ってみてください。あるいは、大きな声を出さずに済むかもしれませんよ。 『おくりびと』には、そんな、人と人との共感が満ちていました。諍いをしていた人たちも、みんな、相手のあるがままを認めて、「すまなかったね」「ありがとう」と和解して、送り、送られていきました。 死は対立を超えていくのです。そこに漂っていた透明な光は、「今」から漏れ出ている光、「浄土」から漏れ出ている光なんだと思いました。その光を見た人の「いのちが喜ぶ」はずですね。 気づいていませんけれどね、私たちは、常に、浄土から漏れ出る、仏の光のなかにいるんですよ。親鸞聖人は、仏の眼差しをはっきりと、お感じになった。仏法に偽りがないことを、身を以て証明していかれた。その生きられた御姿そのものが、仏法の保証書です。 その保証書には、「常照我(じょうしょうが)」と書かれているんです。「仏の光は常に私を照らしてくださっている」。ここの扁額に書かれている言葉ですね。これは、さきほど皆さんとご一緒にお勤めいたしました『正信偈』に出てくる言葉です。 私たちは、聞法とお念仏の生活のなかで、その光への気づきを深めていくんです。それが、私たち念仏者の生活なんです。 今回の話の最初に、「安らかな眼差しのなかで、死の不安が、生きるエネルギーに変わっていく。生きている今がいとおしい。そんな生き方がある」と申しましたのは、このことなんです。 私たちは、浄土から生まれてきて、またその浄土へと帰って行く、「いのちの仲間」なんです。この世で別れても、また浄土で会える。「倶会一処(くえいっしょ)」なんですよ。これは大事なことですね。送る人にとっても、送られる人にとっても。 人は、心安らかに死ぬために、死を超えて「生きる力」がいるんです。そのために大切なのは、送る人と送られる人との心がかようこと、共感することなんですね。「また会おうな」「うん、また会おうね」と。『おくりびと』にも、そんな別れの場面がありました。 主人公の知り合いの銭湯「鶴の湯」のおばさん(吉行和子)が亡くなって、棺が火葬場に運ばれます。そこには、「鶴の湯」50年来の常連さん(笹野高史)が、職員として働いていました。彼は、「ありがとう。さようなら」とつぶやいて、そっと竈(かま)の扉を閉じ、遺族に、こんな話をするんです。 「長いこと、ここにおるとつくづく思います。死は門だな、と。死ぬということは終わりじゃない。そこをくぐりぬけて次に向かう。まさに門です。わたしは門番として、ここでたくさんの人をおくってきた。いってらっしゃい、また会おうねっていいながら」と。 また会える世界がある。光の浄土がある。理屈を言えば、「ある」とか「ない」とか言えない世界のことですが、ときには、光として感じることがあると言います。そうなんですね。この映画に漂う透明な光を見ているうちに、かつて、別れの中で見た光のことを思い出しましてね。 以前にもお話いたしましたが、それは、家内の兄が最後の息を引き取ったときのことです。涙に息苦しくなって、ふと眼を上げると、義兄の寝台を囲むように、おおぜいの人が、涙にくれて立ちつくしている。親戚や、寺の総代さん方、義兄の友人や同僚の顔もある。 そんなにも多くの人が集まっているのに、不思議と、音がしない。あれっと思ったそのとき、人の姿がみなシルエットのようになって、明るい光に包まれ始め、痩せ細った義兄の身体からは、神々しい光が広がっているように感じました。 実際には、それは一瞬のことだったのかもしれませんが、静寂のなかで、みんなの涙を包み込む、柔らかな光があり、仏のまなざしを感じました。そのとき、私は、「今まさに、仏が法を説きたもうている場に出逢っているのだ」と知りました。 義兄は、みずから浄土へ帰ることで、いのちの真実を垣間見せてくれました。別れは、悲しく切ないだけでなく、神々しく、晴れがましくさえありました。この世の縁が尽きるまで生きていこうと思いました。生きる力をもらったと思いました。 『おくりびと』を観ながら、そんなことを思っていました。死には大きな力があります。仏法は、その力を、生きるエネルギーに変える教えなんだと、改めて思いました。 私たちは、仏法に学ばねばなりません。知識として、あるいは教養として、仏教を学ぶのではなく、仏法に、人生を学ぶのです。お念仏を、生活の要(かなめ)として、称えていくことが大事です。そこにこそ、私たち念仏者の生き方があるのですよ。 さて、ぼつぼつ店じまいにいたします。 「人は誰でもいつか、おくりびと、おくられびと…」。これは、さきほどの映画、『おくりびと』のキャッチフレーズです。死と生が向かい合うとき、そこには透明な光が漂います。その光に気づき、その優しい光を抱きしめるには、仏法に学ぶことが大事なんですよ。 近年、「生きているものの寿命は延びたが、死んだものの寿命は短くなった」と言われます。「あの人だったら、こんなとき、どう考えるだろう」。たしかに、そんなふうに、故人を思い出すことが少なくなりましたね。 「社会の変化が速くて、昔の人の経験は役に立たないからだ」と思われるかもしれませんが、社会は変わっても、仏法は変わらないのです。 故人を思い出すことが少なくなったのは、「仏法に生きた、あの人だったら、こんなとき、どう考えるだろう」と、そんなふうに思い出される「仏法者」が少なくなったということではないでしょうか。 かつて、曽我量深先生は、「仏教の近代化・現代化の要請」に対して、「仏教には近代も現代もありません。仏教は永遠です」とお応えになりました。 また、東昇(ひがし・のぼる)先生は、「宗教のことばは時代をこえてひびき、科学のことばは時代とともにかわる」とおっしゃいました。 私たちは、この、時代をこえてひびく言葉、永遠の教えに、人生を学ばねばならないと思いますね。 私たちは、お念仏の教えにご縁を頂いています。お念仏は、ただ称えるだけです。称えて救われるかどうかは、知りません。お念仏は、ただ称えるだけです。嬉しいときも、お念仏。悲しいときも、お念仏です。 お念仏を称えていると、お念仏を称えている時の自分が見えてきますね。「ああ、お念仏を称えているのは、腹が立ったときばかりやなァ」、なんてね。 こんな言葉を聞きました。「お前の腹立ち根性は瞬間湯沸かし器だ。何か気に食わぬことが起きたら途端にボッと燃えあがる。なぜか分かるかな。…種火がついているからだよ」。お念仏に、そんな種火の在処(ありか)を知らせてもらいました。業が深いってね。 昨年、体調が悪く、ひたすら苦しくて何もできない夜に、我知らずお念仏が出てきました。ありがたかったです。お念仏が称えられる幸せを、思いました。金子大栄先生がおっしゃった、「念仏を称えられることが救いです」という言葉を、ようやく実感させてもらいました。 お念仏は、ただ称えるだけ。こころが満たされ、楽になり、生きる力が湧いてくる。お念仏には、私を「今」につなげてくれる力があるんですよ。私には、それで十分です。そろそろ、理屈もやめませんとね。 では、本日は、これで終わらせて頂きます。長い時間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますように、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…
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