釋昇空法話集・第43話

自分に出遇う

腹は立つもんや

(2009年9月23日 永代経法話)
 長い連休の最終日で、お疲れかもしれませんが、ようこそお参りくださいました。ご苦労様でございます。

 今日は、お彼岸のお中日でして、さすがに、秋らしくなってまいりましたね。例年より10日ほど早いように思いますが、もうキンモクセイの花が咲き始めました。

 毎年思うことですが、8月のお盆が過ぎますと、あとは速いのですね。9月のお彼岸に永代経が勤まり、11月に報恩講が勤まる。それでもう、ぱたぱたと、慌ただしく一年が終わっていくような感じがいたします。

 人生もそうでしょう。前半よりも後半の方が、うんと速く過ぎていきますよね。そのことに気づいたら、 一日一日が大切でしょう。

 何事も一期一会です。お盆も、お彼岸も、報恩講も、来年また会えるとは限りませんからね。どの法要も、毎年の年中行事としてこなしたというのではなくて、何かひとつでも、この法要に会えてよかったというものがあれば、有り難いですね。

 本日は永代経法要ですが、私たち真宗門徒の永代経法要は、お亡くなりになった方々の回向のためにあるのではありませんね。そうではなくて、お亡くなりになった方々をご縁として、仏法を聞かせて頂く。それが、私たちの永代経法要です。

 永代経法要だけではなくて、私たちの法要は全て、仏法を聞くためにあります。仏法を聞く。何のために仏法を聞くのかといえば、それは、自分自身への気づきを深め、「いのち」の真実に目覚めるためなんです。

 仏教は、「いのち」の真実を説く教えです。その「いのち」の真実に目覚めたとき、私たちは、本当の自分に出遇うのです。

 それで、今回の話は、「自分に出遇う」という題にいたしました。いつもながらの、いささかまとまりのない、理屈っぽい話ですが、どうぞしばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、私たちはたいてい、自分の事は自分が一番よく知っていると思っておりますから、「自分に出遇う」なんて言われても訳が分からん、と思われるかもしれませんが、本当は、私たちが一番知らないのは、自分自身のことなんですよ。

 私たちには、自分が見えていません。自分の目で、自分は見えないのです。それだけでなく、私たちは、自分が見えていないことに気づいてもいないのです。それほど自分が見えていない私たちに、はたして、「自分の人生」というものがあるのでしょうか。

 仏法は、そんな私たちの姿を映しだしてくれる「鏡」です。仏法は、私たちのこころが煩悩に支配されていることを教えてくれています。煩悩というのは、他の誰よりも我が身がかわいいという、こころの働きのことです。つまりは「エゴ」のことです。

 仏法の鏡に映った自分を何度も何度も見つめているうちに、エゴに支配されているこころの様子が、だんだんはっきり見えるようになってくる。それが、聞法を重ねるということなんです。

 聞法を重ねているうちに、だんだん見えてきませんか。私たちは、他人には厳しくて、自分には甘いということがです。

 たとえばね、ズボンにかぎ裂きができたとき、自分のズボンなら何といいますか。「釘に引っかかって、ズボンが破れた」と言いませんか。子供さんや旦那さんのズボンなら、何と言います。「釘に引っかけて、ズボンを破った」と言いませんか。

 「ズボンが破れた」というのは、「自分は悪くないのに、ズボンが勝手に破れた」ということですが、他人の場合だと、そうはいきませんね。「また破ったの! 何度言ったらわかるの!」って、こんなこと、子供さんにおっしゃったことありませんか。

 もうひとつ言いましょうか。食卓で、お婆ちゃんが粗相をしたら、「まあ、おばあちゃん! お汁をこぼして、汚い! ちゃんとお椀を持ってちょうだいって言ってるでしょう!」と大声を出しているお母さんが、自分の場合には、「あら、手がすべって、お汁がこぼれたわ」となる。

 同じことでも、他人の場合は、「破った」「こぼした」と責めるくせに、自分のことなら、「破れた」「こぼれた」ですよ。自分のことは、無意識にかばっていて、ぜったい悪いと言いませんね。悪いと言わないだけでなくて、たいていは、悪いと思ってもいません。

 以前、こんなことがありました。あるお宅に月参りにうかがいまして、お勤めが終わりましたら、待ち構えていたように、そこの奥さんが、おっしゃるんです。「ご院さん、私、腹が立って、腹が立って、ちょっと聞いてもらえますか」と。それで、お話を聞きましたら、こういうことでした。

 五歳になる外孫さんの七五三の御祝いに、子供用の着物を新調して送ってやった。しばらくして、七五三の写真を送ってきたけれど、その着物を着ている写真がなかった。お孫さんは、洋服を着ていたんですね。それでね、きっと嫁さんが着せなかったんやと、腹が立って、電話をかけたんだそうです。

 で、こうおっしゃるんです。「そしたらね、ご院さん。子供が着たがらなかったんで洋服にしたて、言いよりますね。そんなアホなことありますかいな。五歳の子供が、そんなこと言いますか。あれは嫁が着せなんだんですわ。

 これまで、いろんなもん買うて送ってやったんですけど、いっぺんもええ顔したことないんですね。何が気に入らんのや言うてやったら、息子が電話に出てきましてな、そんな言うんやったら、何にもしてもらわんでもええて、言いますんや。親の心、子知らずや。腹立ちますやろ、ご院さん。

 息子は、あんな子やなかったんですわ。結婚するまでは、よう言うこと聞くええ子やったんです。あんななったんは、嫁のせいですわ。腹立ってしょうがないんで、いっかい聞いてもらお思いまして」と。まあ、こういう話でした。いかがです。皆さんとは関係ない話ですか。

 まあ、それはともかく、それでね、「いや、奥さん、気持ちは分からんでもないんですけど、奥さんは、仏法を聞いてこられたんやから、腹が立って仕方がないというときには、何で腹が立ったんやろと、ちょっと考えてみるということが大事でないですかね」と申しましたら、その奥さん、ちょっと首をひねってこうおっしゃった。「腹が立ったんは……嫁が悪いからですわ」と。

 「目の中に入れても痛くないほど可愛い孫を、腹を痛めて産んでくれた嫁のことが、死ぬほど憎い」って、珍しくもない話ですが、自分が見えないというのは、実に難儀ですね。

 私たちは、我が身大事なエゴに支配されています。ですから、何でも自分の思い通りにしたいし、自分の都合が一番大事。「自分は偉い、自分は正しい、自分は間違っていない」と、自分が大事で仕方がない。何があっても、自分は悪くない、悪いのは相手だということになる。仏法を聞いていないと、そんな自分が見えません。仏法を聞いて、はじめて見えてくる。

 「結婚するまでは、よう言うこと聞くええ子やった」と言いますが、「よい子」って、どんな子ですかね。親の言うことを聞き、親を大切にし、親を喜ばせ、親の世間体がよくなるような、勉強のできる、おとなしい、親にとって「都合のよい子」ではないですか。

 「いろんなもん買うて送ってやった」のに、いい顔をしないので腹が立つというのもね、自分がしてやったことを相手が喜ばないのが、面白くないということではないですか。

 もう、お分かりでしょう。「買ってやった、送ってやった」というのはね、相手を喜ばせたいからではなくて、自分が喜びたいからしたことですよ。腹が立つというのは、つまりは、相手が自分の思い通りにならないので、気に入らないということです。

 私たちは、悩むことや苦しむことがあると、その悩みや苦しみの原因は、みんな自分の外にあると思いがちですが、そうではないのですね。原因は、私たちの内にあるのです。

 私たちのこころはエゴに支配されているので、何でも自分の思い通りにしたいのです。ですが、そうは自分の思い通りにはなりませんからね、それで、腹が立って、苦しくて仕方がないということになるのです。

 私たちの苦しみの原因は、こころをエゴに支配されているところにある。仏法は、そのことを教えているんです。その「こころがエゴに支配されている」という教えを、自分のこととして聞く。それが、自分を仏法の鏡に写すということなんですよ。

 「自分のこととして聞く」。ここが大事なところですよ。「お姑さんに聞いてほしい話や」なんて他人事として聞いたり、「なるほど、そういう理屈か」なんて知識として聞いたりしたのでは、仏法を聞いたことにはなりません。仏法は、自分を聞く教えなんです。

 聞くには耳が大事なんですが、私たちは、えてして、耳より口が達者でしてね。鏡に映しだされるお粗末な自分など見つめていたくないものですから、すぐに、「ああいう場合はどうか、こういう場合はどうか」と、自分の現実とは違う場所に疑問符を立てていったりするものです。ですが、そういう実りのない議論をしているあいだは、自分を見る目が育たないのですね。

 最近は、仏教ブームだそうでして、沢山の仏教書が出版されています。いわゆる団塊の世代が停年を迎える時期でもあり、「そろそろ仏教でも」という熟年の方も結構おられますね。

 「いい年して仏教も知らんようでは恥ずかしいから、仏教の本を読んでいます」とか、「そろそろ仏教の話でも聞いて、ちょっとはましな人間にならんとな」なんて、よく聞きます。

 ですが、そういう方は、おそらく、仏教というものを誤解なさっているのではないかと思いますね。仏教は、自分を見る目を育てる教えでしてね、仏教を聞いても、「ちょっとはましな人間」になんかなりませんよ。ここは、大事なところですから、よくお聞きくださいね。

 たしかに、自分を見る目は、聞法を重ねるなかに育ってくるものです。ですが、私たちは、その仏法の話を聞いているのは、エゴに支配された自分だということを忘れがちなんですね。そんな私たちは、エゴにだまされて、どんな話を聞いても、いつのまにか自分に都合のよい話に、持ち替えてしまうんですよ。

 たとえば、皆さんは、「自分自身を知ることが大事だ」とお聞きになって、自分の行いを「反省する」ことが大事なんだと、そういうふうに受け止めておられませんか。また、そういう反省を重ねることで、「よりよい人間」になっていくことを説いているのが仏法だと、思っておられませんか。似ているようにも見えますが、それは仏法ではないのです。

 まず、「反省」というのは、自分の行いを振り返って、過去の失敗を繰り返さないように考えることですね。たとえば、仕事の接待なんかで、「あのときはきっと、馴れ馴れしくしすぎたから、嫌われたんだ。今度は、もう少し礼儀正しくしよう」と考えたりすること。それが、反省ですね。

 ですが、それは、よくよく考えてみれば、「自分の思い通りの結果が出せなかった理由」を考えている、ということではないですか。「自分の思い通りにしたい」というのは、エゴの思いでしたよね。つまり、私たちはたいてい気づいていませんけれど、「反省」というのは、エゴのすることなんですよ。

 となると、反省を重ねて、「よりよい人間」になろうとか、「ちょっとはましな人間」になろうとかいったことも、あやしくなってきませんか。

 「よりよい」とか「まし」とかいうのは、「ランクが上がる」という意味でしょう。財産であれ地位であれ、教養であれ名声であれ、あるいは、その他の何であれ、「ランクが上がる」というのは、エゴが大好きなことなんですよ。

 ランクが上がるほど価値が高いというのは、エゴの支配する世間の価値観です。出世間の法である仏法には関係ないのですが、エゴに支配されている私たちは、エゴにだまされて、仏法もランクの世界だと思いがちです。それでね、「聞法を重ねたら、よりよい人間になって、腹も立たなくなる」なんて思ったりするので、難儀なんですよ。

 こんな話を聞いたことがあります。本山の同朋会館でのことです。あるおばあさんが、教導のお坊さんに、こう言った。「自分は長年仏法を聞いてきて、お陰さまで腹が立たんようになりました」と。すると、そのお坊さんは、「そらよかったなあ」と言うかと思ったら、そうではなくて、「うそつくな」と言ったんです。そしたら、たちまちおばあさんが怒ったということです。

 仏法は、よりよい人間になるための教えではないのです。仏法は、自分を知るためにあるんです。仏教で説く、「自分を知る」というのは、反省することでなくて、内省することなんです。内省というのは、自分の内側に目を向けて、自分のこころを観察することです。反省はエゴのすること。内省は、そんなエゴを見つめることです。

 私たちは、エゴを何とかして、よりよい人間になろうとするから、エゴにだまされるのです。エゴは、私たちの手に負えません。そんなエゴには、手を出さないのです。そうではなくて、こころのなかでエゴが動いたら、すぐに気づくということが大事なんです。

 この「気づく」ということが、なかなか難しいのですが、善悪、損得、正邪なんかを考えているときには、要注意です。つまりは、あらゆるプラスとマイナスのものに、「エゴ」は、つねに自分をプラスの側において考えますから、それが「気づく」手がかりです。

 腹が立ったときなどは、「気づく」のに最高のチャンスですよ。「なんだ、あの言葉遣いは!」とか、「勉強するのは、あなたのためよ!」なんて、大声を上げそうになったときは、「気づき」のチャンスですよ。

 エゴが動いたことに気づいて、エゴに支配されている自分をじっと見つめるだけです。気づいて見つめるだけですよ。反省するのではないんですよ。反省は改善を目指すものです。自分の都合に合わせて、次の手を考えるのが、反省です。いろいろ反省ばかりしているから、気づきが深まらないのです。

 以前ね、外を歩いているときに、どこかから、こんな大声が聞こえてきました。「…私は正しいのえ! 私の言うてることが間違うてる思うんなら、世間の人に聞いてきなさい! あんたが笑われるだけやわ!」って。まあ、こうなると、おそらく、エゴが見えるどころではないでしょうね。

 エゴに支配されている自分を見るには、自分を外から見る視点を持たねばなりませんね。その、エゴの動きに目ざとく気づき、「自分の外に立って、自分を見る目」、それを育てるのが、仏法を聞くということなんです。

 そこで、腹が立つという話をもうひとつ。曽我量深という大先生がおられましたが、この先生の話は非常に難しくて分かりにくかったそうです。家内の父親からも、「先生の講演を聴きにいったことがあるが、考えながら訥々と話される方で、何を話しておられるのか、よう分からなんだ」と、聞いたことがあります。

 まあそれはともかく、その曽我先生の難しい御法話を、一番前に座って、30年間聞き続けたおばあさんがおられたそうです。それで、ある方が、「おばあさん、あなたは熱心に先生の話を聞いてこられたが、それで、何が分かりましたか」と、おたずねになった。

 すると、そのおばあさんは、「三十年曽我先生の話聞いてわかったことはただ一つ。腹は立つもんやということや」と、お応えになったそうです。

 いかがですか。「腹は立つもんやということくらい、誰でも知ってるがな。仏法聞いても、何にもならんのやな」と思われたかもしれませんが、「誰でも知っていること」なら、「聞いてわかったこと」とは言わないでしょう。

 「三十年曽我先生の話聞いてわかったことはただ一つ」。生きている限り、腹は立つもんだということ。生きている限り、エゴは消えない、煩悩は無くならないということです。腹立ちの根っこは自分のなかにある。そんな煩悩まみれの我が身が見えてきたということです。

 仏法が目指しているのは、自分が見えるようになること、煩悩まみれのお粗末な自分が見えるようになることなんです。そんな自分の姿が本当に見えたら、もう安心なんですが、そう言っただけでは、おそらく納得なさらないと思いますので、ひとつ、たとえ話をいたします。

 ここにボールがあります。ボールの中に閉じ込められていると、ボールは見えません。ボールの外に立てば、ボールが見えるようになる。そうなったらですね、ボールを支えている手も見えるでしょう。

 「ボールの中に閉じ込められていると、ボールは見えない」というのは、エゴに支配され、煩悩まみれでありながら、そんな自分が見えていない状態のことです。

 仏法を聞くことで、そんなボールを外から見る目が育つと、ボールを支えている手も見えるようになります。この、煩悩まみれの自分を、煩悩まみれのままに、包み込み、支えている手がある。仏の手があるのです。

 自分自身への気づきが深まっていくと、仏の手のひらの上にいることに気づく。煩悩の身のままで、仏に包み込まれている。「煩悩即菩提(ぼんのう・そく・ぼだい)」ですね。これが、私たちの「いのちの真実」です。仏教は、この「いのちの真実」に気づいて、安らかに生きよと教えているのです。

 こんな話をしますと、「なるほど、そういう理屈か」と、何か分かったような気になってしまうものですが、私たちは、理屈だけでは救われません。「いのちの真実」への道は、聞法とお念仏の生活のなかで、自分自身への気づきが深まらないと、開けてこないものなんですね。

 ところで、さきほど、「仏の手のひらの上にいる」と言いながら気になりましたのですが、「仏」という言葉は、現代人には、かなり抵抗があるみたいですね。あるいは、現代人を仏教から遠ざけているのは、この「仏」という言葉かもしれません。

 このあいだも、あるお宅にお参りしましたときにね、そこの若いご主人が、こうおっしゃるのですよ。「私は、仏様がどうのこうのなんて、仏教は信じていませんけれど、父親の残した仏壇と、父親のお墓は大切にしたいと思っています」と。

 若い人ばかりかというと、そうでもないようでね。先日、石川県出身の80代のおばあさんのお宅にうかがいましたら、こんなことをおっしゃっていました。「デイサービスやショートステイでいろんな人に出会いますけれど、仏様の話をする人は、ひとりもおられません。私が仏様の話をすると、妙な顔されます。どうなってますのやろ」と。

 「仏様なんているわけない」とおっしゃる方もあります。それで思い出したんですがね、かなり昔のことですが、島田紳助とケント・デリカットのトークショーのような番組がありました。覚えておられるかもしれませんが、なかなかおもしろい番組でした。

 ケントは敬虔なモルモン教徒なんですが、それを紳助が、からかって言うんです。「ケント、お前なあ、神様がいるなんて本気で信じてるんか?」と。

 すると、ケントは、眼を白黒させて、こう言いました。「…そ、そんな、信じてなんかいないよ。でもね、紳助さん、もしも、もしもよ、いたらどうするのよ。困るでしょう、いたら!」と。

 お二人とも若かったですから、今ならどうおっしゃるか知りませんけれどね。このやりとりが、あんまりおかしかったものですから覚えているんですけれど、神様はともかく、仏様というのは、本来、こういう「いるのか、いないのか」という問題ではないんです。

 いつもお話しすることですが、仏様というのは、どこか遠い雲の彼方におられて、私たちの願い事をかなえたり罰を与えたりする、人間のような姿をした、偉い方のことではありません。

 そうではなくてね、仏様というのは、この私を支えている「いのち」そのもののことなんですよ。「いのち」には、色も形もない、善も悪もない、生も死もない。死ぬのは、色も形もある「からだ」でしてね、「いのち」が死ぬわけではないんです。

 この「いのち」を、浄土の教えでは「阿弥陀(あみだ)」と呼んでいます。「阿弥陀」というのは、古いインドの言葉で「アムリタ」といいますが、「アムリタ」というのは、「永遠」のことです。

 限りある私たちには、そんな永遠の「いのち」というものは、イメージできません。イメージできませんけれど、感じることはできるんですね。

 感じたことを言葉で伝えるには、「たとえ」を使うしかないんですよ。つまり、こんなふうにです。「〈いのち〉に触れたとき、どうだった」。「うん、何の不安もなくて、まるで母親の膝に抱かれているようだった」。

 自分が見えて「仏の手のひら」を感じたとき、つまりは、「いのち」に触れたとき、人は、大きな安らぎを感じ、無限の慈しみを感じ、尽きせぬ願いを感じたのです。昔の人は、そこに、いわば「理想の親」を感じて、阿弥陀様のことを「親様(おやさま)」と呼びました。

 煩悩まみれの自分を、そのまま支えてくれている「いのち」に、 できの悪い子供ほど可愛い「親の心」を見たんです。不出来な自分を支えてくれる、親様のご苦労に気づいて、懺悔(さんげ)と歓喜(かんぎ)の涙を流した。そして、自分にそそがれる、親様のまなざしのなかで、本当の自分に出遇ったのです。

 たしかに、阿弥陀様というのも、親様というのも、「たとえばなし」です。物語ですよ。ですがね、その物語には、「いのちの真実」が込められていて、人の魂を根底から揺さぶるだけの力があったのです。

 今や親子関係も変化して、古い「たとえばなし」は間に合わなくなってきています。ですが、「いのちの真実」に、古いも新しいもありません。言葉に迷わず、我が身に引き寄せて、自分のこととして、仏法に耳を澄ませば、聞こえてくるのではないでしょうかね。「いのち」の呼び声が。

 さて、私たちは、今日を反省し、よりよい明日につなげていくことばかり考えていて、そんなふうに生きていることそのこと自体を問題にすることは、まず、ありません。仏法が、指さして教えてくれているのは、そのことなんですよ。「自分が見えますか」ということです。

 念仏詩人の榎本栄一さんの詩に、こんなのがあります。「私の中」という詩です。

     私の中をのぞいたら
     お恥ずかしいが
     だれよりも自分が
     一番かわいいという思い
     こそこそうごいている

 「お恥ずかしいが」というのは、よりよい明日のための「反省」ではありません。そうではなくて、「どうしようもない」ので「お恥ずかしい」ということですよ。

 ここに「常照我(じょうしょうが)」という扁額があがっています。「仏は常に私を照らしてくださっている」という意味です。私たちは、仏法を聞いて、仏の光に照らし出されて、はじめて、自分の姿が見えるんです。

 とはいえ、自分が見えても、煩悩が無くなるわけではありませんね。仏の光に照らされて、見えたのは、煩悩まみれの自分なんです。ですがね、そんな煩悩まみれの自分が見えたとき、私たちは、まさに仏の光のなかにいるんですよ。

 「自分が見えても、歩いてきた道がかわるわけではないけれど、歩く足取りがかわる」。これは、ある先学の言葉ですが、さきほどの榎本さんの詩にも、こういうのがあります。

     お念仏をいただいて
     別に人間が変わったわけではないけれど
     ウロウロしても
     楽に生きていけます

 「見る」というのは「エゴ」の目のこと。「見える」というのは、仏の光に照らされて「見える」ということ。つまりは、「自分が見える」というのは、仏の光のなかにいるということです。思いますにね、この「自分が見える」ということが、仏法の全てではないでしょうか。

 有名な妙好人・浅原才市(あさはら・さいち)の肖像画が残っていますが、そこに描かれている才市の頭には、鬼のような角が2本はえています。「(煩悩の)角がはえていないと、私の肖像ではない」と言って、才市さんが、描き加えさせたものだそうです。(左図、法名 釋秀素)

 また、讃岐(さぬき)の庄松(しょうま)という妙好人に、こんな話が伝わっています。ある人が、有名なお坊さんのお説教を聞いたあとに、「今日のお説教は実に有り難かった。お陰で日頃の邪見の角(つの)が落ちた」と言った。庄松は、これをそばで聞いていて、こう言ったそうです。「また、生えにゃよいが、角があるまんまと聞こえなんだか」と。

 煩悩が無くなるのではなくて、煩悩の角がはえたままの自分が見えるようになる。仏の光のなかで、「自分に出遇う」。そこから始まるのが、本当の自分の人生なんです。

 いかがですか、私たちは、仏法を聞いても、角がはえている自分が見えないでしょう。そんな私たちのなかでは、いのちの歯車が空回りしているのです。それで、「あれもしてやったのに、これもしてやったのに」と、腹が立って仕方がないということになるのです。

 昔の人は、うまいこと言いましたよ。「してやった、やってやった、やったやったで地獄行き」。「地獄への道は善意で舗装されている」と。これは、他人をとがめるための言葉ではなくて、自分を見るための鏡言葉です。

 聞法とお念仏の生活のなかで、そんな「地獄行きの自分」が本当に見えたら、その地獄行きの身のままに、「生かされて生きている」というところへ、人生が大きく開かれてくるのですが、そのあたりのことは、次回にお話しさせて頂くことにいたします。

 では、本日は、このあたりで店じまいにいたします。今回は、「自分に出遇う」という話でしたが、私たちが、「自分の人生は、これでいいんだろうか、これでよかったんだろうか」と真剣に考えるようになるのは、いつでしょうかね。人生の終わりが見えてきたときでしょうかね。

 21日は敬老の日でしたが、厚生労働省の発表によると、100歳以上の高齢者は4万人を超えているそうです。たしかに、身近なところで考えても、長命の方がたくさんおいでになりますけれど、「あと10年くらいは大丈夫」なんておっしゃる方を見るたびに、思うんですよ。「本当に、自分は見えないもんだなあ」と。

 死神はね、前で待っているわけではないんですよ。死神は、後ろからそっと近づいてきて、ポンポンと肩をたたくんですよ。「あんたの番だよ、さあ、行こうか」ってね。

 ちょっと余談ですがね、以前、原付バイクで銀閣寺の近くを走っているときに、白バイに捕まったことがあります。白バイというのはね、サイドミラーに映らない死角のなかを、音もなく、後ろから近づいて来るんですよ。そして、思ってもいないときに、ポンポンと肩をたたくんです。その瞬間に、死にましたね。私の財布のなかの虎の子が。…ああ、死神って、こうなんだと思いましたね。

 まあ、それはともかく、死神は、後ろからそっと近づいてきて、ポンポンと肩をたたくんですよ。それが今日かもしれない、明日かもしれないって、考えたこと、おありですか。

 「死ぬことを 忘れていても みんな死に」という川柳がありますが、死ぬことを忘れて生きているあいだは、人生は始まっていないのではないでしょうか。

 毎田周一先生は、何か書いてほしいと、揮毫を頼まれるたびに、「お前も死ぬぞ」とお書きになったそうです。「お前の人生は始まっているのか」という問いかけでしょう。はたして、私たちの人生は始まっているのでしょうかね。いちどじっくりと、お考え頂きたいところです。

 聞法が大事ですよ。次回は、11月8日の報恩講でございます。ぜひ、また、皆さんとご一緒に聞法させて頂けるよう、念じております。本日は、ようこそお参りくださいました。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……。



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