お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労さまです。本日は報恩講(ほうおんこう)です。ご承知のように、報恩講というのは、親鸞聖人の祥月命日のお勤めです。 親鸞聖人がお亡くなりになりましたのは、今から747年前のことでして、2年後の2011年には、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌(ごえんき)」をお迎えいたします。 その同じ2011年に、浄土宗でも、「浄土宗宗祖法然上人800年大遠忌」をお迎えになります。法然上人は、親鸞聖人のお師匠様ですね。 法然上人は、親鸞聖人より40歳年上でしたが、親鸞聖人のほうが10年長生きなさいましたので、没年では、ちょうど50年違うわけです。それで、50年ごとの御遠忌法要が、いつも同じ年に勤まるわけです。 浄土宗では、今回の大遠忌を迎えるにあたって、シンガーソングライターの〈さだ・まさし〉さんに、記念曲の制作を依頼なさいました。浄土宗はお金があるんですね。 まあ、それはともかく、浄土宗の宗務総長さんが、〈さだ〉さんの大ファンで、「法然上人のこころ」を歌い上げてほしいと注文なさったそうです。その歌が完成して、今年の6月に、知恩院で奉納法要がありました。「いのちの理由」という歌です。 人の出会いの縁を歌った、なかなかいい歌でしてね。聴いているうちに、「ご遠忌法要が同じ年にあるのも何かのご縁。これは、ひとつ、この歌を味わいながらお話させて頂こう」と思いましてね、「いのちの理由」という曲名を、今回の法話の題に頂きました。 あるいは、〈さだ〉さんの思いとは違うかもしれませんが、仏法として、この歌を味わいたいと思っております。いつもながらの、いささかまとまりのない話になるかもしれませんが、どうぞ、しばらくの間お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。 さて、今回は、いつもと趣を変えまして、まず、〈さだ〉さんの「いのちの理由」という歌を聴いていただいてから、話を進めていきたいと思います。 歌詞を、お手元のプリントに印刷してありますので、ご覧になりながら、お聴きください。お目障りかもしれませんが、説明の便を考えまして、各行の後ろに番号を付けております。 「いのちの理由」
私が生まれてきた訳は (1)
春来れば 花自ずから咲くように (9)
私が生まれてきた訳は (13)
夜が来て 闇自ずから染みるよう (21)
私が生まれてきた訳は (25)
(さだまさし、アルバム『美しい朝』より いかがですか。最後にオーケストラが入って盛り上がるのは、浄土宗さんへの配慮だそうですが、まあ、それはともかく、共に生きる人との出会いの縁から、歌は始まります。 人の出会いの縁といいますと、まずは「親子の縁」や「夫婦の縁」を思うわけですが、親子であれ夫婦であれ、人の出会いというものは、まことに不思議なものですね。 親子というのはもっとも親密な関係だと思いますが、意識のうえでは、べつに、この子にしようとか、この親にしようなんて、選んだ覚えもないのに、親子になるんです。これは考えてみれば、実に不思議なことですね。 夫婦でも、そうですよ。恋愛結婚でも、世界中の男の中から、この男を選んだとか、世界中の女の中から、この女を選んだなんてことはありませんね。何十年も別々に育った見知らぬ二人が、落としたハンカチを拾ってあげたとか、知り合いの紹介だとかいった程度の理由で、生涯をともにすることになるのです。 これは、はたして偶然なのかというと、どうも、偶然というだけでは何か割り切れないものが残るんですね。偶然というより、むしろ、その二人には、出会わねばならない何か必然のようなものがあったのではないか。ということで、その「何か分からない必然のようなもの」を、仏教徒は「縁(えん)」と呼んだんですね。 その「縁」は、何処から来たかといえば、過去世からなんです。「袖触れ合うも多生(たしょう)の縁」という言葉がありますでしょう。あの「たしょう」は、「多少」ではなくて、「多生(他生)」なんです。 つまりは、道で見知らぬ人と袖がちょっと触れ合うようなささいなできごとでも、それは単なる偶然ではない。生まれ変わり死に変わりして、連綿と続いてきた幾つもの生のどこかに、今日、袖が触れ合うことになるべき原因があったのだ、と。そう考えるのですね。 仏教では、全ての出来事には、原因があると考えますから、この世で偶然に見えることも、決して偶然ではなくて、長いいのちの流れのなかで見れば、必然なんだと見る。全てを「ご縁」と見る。それが、仏教徒の受け止め方なんですね。 生まれてきたことも、親兄弟との出会いも、夫婦の出会いも、みんな、偶然ではないんです。必然なんです。生まれてきたのは、そんな出会いのためなんです。それは、幼い子供には、直感的にわかる、いのちの自然な感覚なのかもしれません。 こんな詩があります。田中大輔君という3歳の男の子の詩です。その子がつぶやいたことを、お母さんが書き取ったものですが、「ママ」という詩です。 ママ
あのねママ
ボクね ママにあいたくて (川崎洋編『子どもの詩』より) お母さんは、この言葉を聞いて、感動なさったに違いありません。そして、「私も、この子に出会うために、生まれてきたんだ」と、思われたかもしれませんね。 思えば、同じ時代、同じ世界に生まれてくるだけでも、奇跡でしょう。そのうえに、人生が交差して、出会うとなれば、よほどの「ご縁」があるとしか思えませんね。同じ時代、同じ世界に生まれてきても、ほとんどの人とは出会わないのですからね。 しかし、人の出会いは、幸せな出会いばかりではありませんね。苦しい出会いもあれば、悲しい出会いもある。ときには、傷つける出会いも、傷つく出会いもあるのです。ですが、どんな出会いも、偶然ではない。「ご縁」に軽い重いはあっても、どんな出会いにも、出会うべき「ご縁」があるに違いない。 人生に偶然はない。そう受け止めることが大事です。偶然というのは、意味がないということでしょう。私たちは、意味のない人生は、生きられません。生まれてきたことに、そして、人との出会いに、必然を感じてこそ、私たちは、自分の人生に、主体的に関わっていけるのですよ。 人は、出会いによって、学び、成長していきます。ですが、幸せな出会いばかりでは、学べませんね。苦しい出会いもあってこそ、あるいは、出会いのあとの悲しい別れもあってこそ、私たちは、学ぶのです。 いつもお話しすることですが、私たちは、同じ時代、同じ世界に生まれてきた「いのちの仲間」です。私たちが、同じ時代、同じ世界に生まれてきたのは、たがいに助け合い、学び合うためなんです。何のために、助け合い、学び合うのかといえば、それは、「しあわせになるために」です。 この歌にも、「しあわせになるために、誰もが生まれてきたんだよ」(11) 、「しあわせになるために、誰もが生きているんだよ」(23)とありますね。 私も、そのとおりだと思いますけれど、「しあわせになる」というのは、エゴの大好きな言葉でもあります。ですからね、要注意ですよ。そこで、「しあわせ」について、少し考えてみることにいたします。 さて、皆さん。皆さんは、しあわせですか。「しあわせ」って、どんなことだと思われますか。お金があることですか。欲しい物が手に入ることですか。綺麗なお家に住めることですか。温泉旅行に行けることですか。ご馳走が食べられることですか。 ある人に聞きますとね、「しあわせ」って、健康で、お金があることなんだそうです。お金があったら、何でも手に入る。健康だったら、何でもできる。なかなか心惹かれる意見ですが、皆さんも、そう思われますか。「そうだ、そうだ」と思われるかもしれませんが、まあ、それは、煩悩の見る夢でしょうね。 健康は、いずれ損なわれますし、何でも手に入るほどのお金を持ったら、不安で仕方がないですよ。それにね、昔から、「お金は貯めて置いていく、罪は作って持って行く、仏法聞かずに落ちていく」といいますよ。死ぬことは計算に入っていますかね。 仏法は、しあわせになるための教えです。ですが、その「しあわせ」とは、欲望が全て満たされるとか、何でも自分の思い通りになるとかいった、煩悩の見る夢のことではありません。そうではなくて、煩悩の暗闇から、光の中に出ていく「しあわせ」のこと、「いのち」本来の味わいである「しあわせ」のことですよ。 この歌でも、そんな「しあわせ」が歌われています。こうですよ。
「春来れば 花自ずから咲くように (9)、秋くれば 葉は自ずから散るように (10)」 草や木は、自然の営みに全てをゆだねて、一瞬一瞬をあるがままに生きている。それぞれの「いのち」を生きている。それは仏教の言葉でいえば「自然法爾(じねんほうに)」です。私たちの受け止め方として言えば、「他人と比べない、世間を気にしない」ということでしょうね。 私たちがなかなか「しあわせ」になれないのは、ひとつには、他人と比べるからです。世間を気にするからですよ。 世間の価値観で、他人と比べるから、自分が不幸に思えるのですね。あんな車をもっていない、あんな家に住んでいない自分が、不幸に思えるのですよ。ですが、生きるというのは、本来、そういう比較の問題ではないでしょう。 草や木は、季節の移り変わるままに、花が咲き、葉が落ちる。そこには「いのち」そのものの輝きがある。「柳は緑、花は紅(くれない)」なんですよ。 柳が桜を気にしますか。柳は柳、桜は桜。全てが、それぞれの「いのち」を生きることで、輝いているんです。私たちも、そうなんですよ。誰と比べることもなく、それぞれの「いのち」を生きることで、輝くのです。 そんな「しあわせ」になるために、誰もが生まれてきたんですよ。「いのち」のままに輝いて生きるために、生まれてきたんですよ。 人間として生まれてきた私たちは、本来、そんな「しあわせ」を生きられるようになっているのです。私たちはみな、そんな「しあわせ」を生きるために、生まれてきたのです。そのことに気づきなさいと、仏法は教えているのです。 しかしです、「他人を気にしない」というだけでは、ただの独り善がりです。仏法は、そんなことを教えているわけではありません。そうではなくて、仏法は、「他人を気にしない」と言ったそのあとに、さらに声を強めて言うのです。「自分を知りなさい」と。問題は他人ではない。問題は自分なんだ、と。 自分を知る。前回は、「自分に出遇う」という話をいたしましたが、本当は、人は、自分を知ると、生きていることの悲しみに出遇うことになるのです。 ですが、その深い悲しみの底から、生きていることの喜びが生まれてくる。それは、「生かされて生きている」ことに目覚めた喜びです。本当の「しあわせ」は、そこにあると、仏法は説くのです。 〈さだ〉さんは、そういう思いで書かれたかどうか分かりませんけれど、この歌にも、悲しみから喜びが生まれるという意味のフレーズがありますね。
「悲しみの花の後からは 喜びの実が実るように」(12) 私たちの日常的な感覚から言えば、「悲しみ」から「喜び」が生まれてくるということは、まず、ありませんね。悲しみは悲しみ。喜びは喜びです。「親が死んだあと、調べてみたら、大きな財産が残っていた」、なんてのはダメですよ。 そうではないのです。「悲しみ」から「喜び」が生まれてくる。この「悲しみ」というのは、実は、自分の本当の姿を知った悲しみのこと、生きていることそのことの悲しみなんです。それは、こういうことです。 私たちは、「自分のことは自分が一番よく知っている」と思っておりますけれど、本当は、そうではないんですね。 たとえばです、私たちは、たいてい、自分のことを、善人だとまでは思わなくとも、けっして悪人だとは思っていませんね。むしろ、悪いことなんか、何もしていないと思っている。 しかし、人間は罪を造らないで生きていくことはできないのですよ。生きるためには、食べねばなりませんでしょう。食べ物は、肉や魚だけでなく、米も野菜も、みんな生きていたものなんです。私たちは、生き物のいのちを奪わずには生きられないのです。 ですから、仏法を聞いて、つまり、「いのちの真実」を聞いて、自分のいのちも、食べ物のいのちも、同じ「いのち」なんだと、本当に気づいた人は、罪の意識に苦しむに違いないんです。 それなら、食べずにおれるかといえば、生きようとするかぎり、食べずにはおれないんです。思えば、生きるということは、計り知れないほど罪深いことなんですよ。 念仏者の榎本栄一さんに、そのことへの気づきを詠んだ、こんな詩があります。「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)」という詩です。 罪悪深重
私はこんにちまで (榎本栄一「罪悪深重」『詩集 煩悩林』より) 「自分は正しい、自分は偉い」と思っていたのに、仏の光に照らされて、煩悩(エゴ)まみれのお粗末な自分の姿が見えた。自分の頭には、煩悩(エゴ)の角がはえていた。自分は鬼なんだ。 食べ物のことだけではありませんね。「自分は間違っていない、悪いのは相手だ」と、はらわたが煮えくりかえって、不平不満や愚痴ばっかり言っているのも、気づいてみれば、鬼ですよ。 「悲しみから喜びが生まれてくる」という、この「悲しみ」とは、そんな「自分に出遇った」人の、こころの底から湧いてくる「悲しみ」のことなのです。それは、生きていることそのことの「悲しみ」なのです。仏教の言葉で言えば、「罪悪深重の自覚」を得た悲しみです。 ですが、前回にもお話いたしましたように、本当の自分が見えたら、その自分を支えている仏の手も見えるようになるのです。こんなふうに、手のひらにボールを乗せてお話しましたね。ボールが見えたら、ボールを支えている手も見えるでしょう。 つまりは、自分自身への気づきが深まっていくと、煩悩の身のままで、仏に支えられて、「生かされて生きている」ことに気づくということです。これは大事な気づきです。自分は鬼だったという、深い悲しみが、仏の手に支えられていることに気づいた瞬間、大きな喜びに変わるのです。 「仏」という言葉に抵抗のある方は、「宇宙」だとお考えになってみてください。「生かされて生きている」ということは、「生きることが願われている」ということです。私たちは、「宇宙」から、「生きることを願われている」のですよ。生まれてきたということは、そういうことでしょう。そんなことに気づいたら、「喜び」の心が湧いてきませんかね。 宮城しずか先生は、こうおっしゃったそうです。「その喜びに目覚めない悲しみは、愚痴である」と。「生かされて生きている」ということを知っても、喜びのこころが湧いてこないようなら、まだまだ、自分の本当の姿が見えていない、ということでしょうね。 私たち現代人は、自分の力で生きていると思い込んでいるようですが、そうではありませんね。それは理屈で考えても分かります。呼吸をするのも、心臓が動くのも、自分の力でやっているわけではありません。私たちが眠っている間も、呼吸は続き、心臓は休むことなく動き続けている。 消化の働きも、免疫の働きも、そうですね。私たちは、自分で生きているのではないのです。私たちは、自分の意志ではない、いのちの不思議な働きによって、「生かされて生きている」のです。 人生全体で見ても、そうですね。生まれたいと思った覚えもないのに、生まれてきた。年を取りたいと思っていなくても、年を取る。病気になりたいと思っていないのに、病気になる。そして、死にたいと思っていなくても、死ぬんです。人生の基本は、「受け身」なんですよ。 私たち現代人には、「人生はチャレンジだ、努力すれば何でもできる」と思い込んでいるところがありますので、「受け身」なんて言葉は、それこそ、受け入れられないかもしれませんが、そうなんですよ。 何でも基本が大事です。人生も、そうですよ。人生の基本は「受け身」なんです。ですからね、人生の本当の味わいというのは、人生が与えてくれることを、謙虚に受け止め、受け入れるところに感じられるものではないでしょうかね。 たとえば、生きるということは、年を取るということですから、ちゃんと年を取っていくというところに、人生の味わいがある。そうは思われませんか。 年を取りたくない、いつまでも若くありたいなんて、アンチエイジングに躍起になっているのは、人生を拒否して、人生から逃げ回っているということになりませんかね。 私たちは、自分の力で生きているのではなく、支えられ、「生かされて生きている」のです。ですが、「生かされて生きている」ということは、理屈で分かっても、さほど「喜び」は生まれてきませんね。今の私たちが、そうでしょう。違いますかね。 「自分は正しい、自分は偉い」と、自分を握りしめているあいだは、謙虚にはなれません。人生が与えてくれることを、謙虚に受け止め、受け入れることができてこそ、喜べるのです。基本が大事です。しかし、何でも基本が一番難しいのですけれどね。 聞法とお念仏の生活のなかで、自分の殻(から)が割れて、謙虚になったとき、私を生かそうとしてくださっている総てのものに、自ずと手が合わさりますよ。感謝せずにはおれなくなりますよ。 「感謝」というのは、「謝を感じる」と書きます。「謝」というのは、これ一字だと「あやまる」と読みます。本当の「感謝」というのは、「ありがとう」だけではなくて、「ありがとう」と「ごめんなさい」が合わさった気持ちのことなんですよ。 念仏詩人の木村無相さんに、こんな詩があります。「自炊」という詩です。 自炊
たなの上で
こんな (木村無相「自炊」『念仏詩抄』) ネギが、大根が、人参が、こんなおろかなわたしのために、「いのち」をめぐんでくれる出番を待っている。思えば、「勿体ない」ことです。私たちは、大自然の「めぐみ」で生かされて生きているのです。 食べ物だけではありませんね。私たちは、無数の「いのちのなかま」に支えられて生きているのです。そのことへの気づきを、お医者さんで、念仏者の、米沢英雄先生は、こんなふうに記しておられます。「吹けば飛ぶような この命をいかすのに 天地宇宙総がかり」と。人生に、この気づき以上の「しあわせ」はないと思いますね。 前回、永代経の話の終わりに、「聞法とお念仏の生活のなかで、そんな『地獄行きの自分』が本当に見えたら、その地獄行きの身のままに、『生かされて生きている』というところへ、人生が大きく開かれてくる」と申しましたのは、このことなんですよ。 さて、もう少しだけ、お話させていただきます。「支えられている」とか「生かされて生きている」というのは、いわば「依存」しているということですが、仏教は、本質的に、人に自立する力を与える教えなんです。 依存と自立なんて、反対の言葉ではないかと思われるかもしれませんが、人は、依存を単純に排除して自立するわけではありません。依存できるからこそ、自立できるんです。たとえば、親に十分甘えられた子供は、自立が早いということがありますね。 また、イギリスのウィニコットという児童精神科医は、こんなことを言っています。「子どもは誰かと一緒にいるとき、一人になれる」と。 この「誰か」というのは、誰でもいい誰かではなくて、子どもにとって特別の人、無条件で受け止めてくれる母親のことですよ。 子どもは、絶対的な信頼のおける母親が、そばにいてくれて、その眼差しを感じているときに、安心して、自由に遊びに没頭できる、一人になれる。「一人になれる」というのは、自立的に自分の人生を生きることができるということです。 私たちも、そうなんですよ。昔の人は、仏様のことを「親様(おやさま)」と呼びましたが、そんな親様の眼差しを、はっきりと感じられたからこそ、安心して生きられたのですね。 支えられ、生かされて生きていることを、本当に喜べた人は、安心して生きられ、安心して死ねるのです。お念仏に生きる人には、不安がないんです。 念仏詩人の榎本栄一さんに、こんな詩があります。「あるく」という詩です。 あるく
私を見ていてくださる人があり 「私を見ていてくださる人」、「私を照らしてくださる人」というのは、仏様のことですね。仏様が見ていてくださるので、私は、くじけずに、今を生きられるのです。 「天命に安んじて、人事を尽くす」。これは清沢満之(きよざわ・まんし)先生の言葉です。これもまた、「仏の絶対他力に支えられておればこそ、少しの不安もなく、人事を尽くすことができる」という心境を言った言葉ですね。 〈さだ〉さんの歌の、最後の4行を読みます。
私が生まれてきた訳は (25) 〈さだ〉さんは、ここに歌われている「私」という言葉に、あるいは、法然上人をイメージなさっているのかもしれません。ですが、私は、私たちを見まもってくださり、支えてくださっている「仏様」を、イメージいたしました。 私たちは、みんな、「いのち」の奥底に「仏性(ぶっしょう)」があります。仏性というのは、仏になる可能性のことですが、「いのち」あるものには、全て仏性があるんです。ですが、ご縁がないと、この仏性が目覚めないのですね。 仏性が目覚める一番大きなご縁は、仏法に出遇うことです。いのちあるものには、全て仏性がある。犬にもネコにも、仏性はあるんです。ですが、仏法に出遇えるのは、人間だけなんですよ。 本当の「しあわせ」は、仏性が目覚めることにある。私たちは、みんな、「しあわせ」になる可能性を持って、生まれてきたんですよ。そのことを教えているのが、仏法なんです。 私たちは、すでに仏法に出遇っているんです。どうぞ、このご縁を大切にして頂きますように。人間に生まれてきた「しあわせ」を知るためには、仏法を聞くことです。聞法することが大事ですね。 では、このへんで、そろそろ、店じまいにかかります。 いろいろお話してきて、こんなことを言うのも、なんですが、自分を見つめるというのは、実に、難しいことですね。こころの闇は、途方もなく深いです。 自分のこころの闇を見つめているつもりが、いつのまにか、自分のこころの闇で、人のこころを量りながら、何か分かったような気持ちになって暮らしている。 本当に情けないことなんですが、そんな自分に気づいたときは、お念仏を称えることにしています。お念仏を称えて、何になるのか。何にもなりません。「なるようになる」ということを、思い出すだけです。 「なるようになる」というのは、いいささか横着な言い方ですが、「いのち」を信じるということです。自分の思うようにはならないかもしれませんが、ご縁のままに、「なるようになる」のです。 まあ、若いあいだは、「これも何かのご縁」なんて、なかなか思えませんけれど、年とともに、「ああ、ご縁だなあ」と思うことが多くなってきましてね。生かされて生きている「いのち」の不思議を思いますね。 人は誰でも、しあわせに生きたいと願っていますけれど、生きている「しあわせ」に気づいている人は、どのくらいいるでしょうね。生きている「しあわせ」に気づいたら、生きるのが楽になりますよ。「幸せ、幸せ」と、しあわせを求めなくてすむようになりますからね。 生きている「しあわせ」に気づくためには、どう生きればよいのか。おそらく、どう生きてもいいし、何をしてもいいんでしょうね。お念仏とともにさえあればね。それが、私たち、門徒の生き方なんですよ。 いわば、私たちは、千手観音(せんじゅかんのん)のように生きればいいんです。千手観音像には、たいてい42本の手が付いているそうですが、どの手も、いろんな向きに伸びて、いろんなことをしていますね。ですが、真ん中の2本の手だけは、身体の中心で合掌しているんですよ。 どう生きてもいいし、何をしてもいいんです。40本の手はね。生きる姿の中心に、合掌のこころがあれば、いずれ気づきが深まって、仏の光を感じるときが来ますよ。 この世に「しあわせ」というものがあるわけではないんです。「しあわせ」は、ただ感じるものなんです。 聞法とお念仏の生活のなかで、その「しあわせ」を感じる能力が育っていくんです。仏法は、生まれてきたことの「しあわせ」に気づかせてくれる教えなんですよ。聞法とお念仏の生活が、大事ですよ。 では、本日は、このあたりで終わらせて頂きます。長い時間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますように、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…
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