釋昇空法話集・第45話

仏道を歩む

朝夕のお勤めとお念仏

(2010年3月21日 彼岸会法話)
 本日は、お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労様でございます。温かくなってきました。春ですね。昨日は、朝から、庭のビワの木で、ウグイスが綺麗な声で鳴いておりました。梅がないので、ビワにウグイスでしたけれど、なかなかの風情でした。

 あちこちで、そろそろ桜も咲き始めましたが、芭蕉の句に、「さまざまの こと思い出す さくらかな」というのがあります。

 「物思う秋」なんて言いますが、物思うのは秋だけではありませんね。春でも秋でも、季節の移り変わるときには、諸行無常が露わになるせいですか、なんとはなしに、過ぎ去った年月(としつき)が思われ、人生の行く末が思われるような気がいたします。

 この紫雲寺の住職を継承しましてから、今月で、まる17年になります。速いものですね。去年、還暦も過ぎました。ちゃんと生きてきたかといえば、まことに心許ないのですが、仏法にご縁を頂いたお陰で、ため息にも不安にも支えられて日暮らしできることを、有り難く存じております。

 このように、お同行の皆さんの前でお話しさせていただくのも、45回目になりました。お話をさせて頂くことは、私にとりましても大事な聞法のご縁です。ですが、話の準備をする間に、よく思うことですが、聞法だけでは、どうしても理屈に傾くのですね。

 何でもそうですが、理屈だけ分かっても、さほど意味はありません。たとえば、水泳でも、そうですね。水泳の話をいくら聞いても、泳げるようにはなりませんし、泳ぐ喜びも分かりませんね。お話をしていて、いつも気がかりなのは、この点なんです。

 「親の言うことを聞く」という言い方がありますが、「聞く」という言葉には、「従う」という意味があります。本当に「聞く」ということは、聞いたことを受け入れて、実践することなんです。

 仏法を聞く者は、仏法を実践する者なんです。仏教では、その実践を「行(ぎょう)」と言います。「行」のない聞法は、さほど意味がありません。

 そこで今回は、私たちの聞法が実(みのり)あるものとなることを願って、「聞法」を支える「日々の行」について、お話したいと思います。話のタイトルは「仏道を歩む」です。

 これまた、いつもながらの理屈っぽい話でして、はたして聞いて頂けるかどうか、はなはだこころもとないのですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げておきます。

 さて、信仰というのは、理屈ではなくて、生活のスタイルだと思います。「今は昔」と言った方がよいかもしれませんが、私たちが子どものころは、お仏壇に手を合わせてからでないと、ご飯を食べさせてもらえませんでしたし、到来物(とうらいもの)は、まずお仏壇に供えてから、そのおさがりを頂いたものです。理屈なしで、そういうものだったのです。

 以前、本で読んだ話ですが、仏教評論家の〈ひろ・さちや〉さんは、子どもの頃、おばあさんから、「仏様に手を合わせるとき、お願い事をしてはいけない」と言われて育ったそうです。お願い事をしたら、もう一度やりなおしをさせられた。

 それで、あるとき、「なんでお願い事したらあかんのや」と聞いたら、おばあさんは、こう言った。「知らん。私もそう言われて育ったんや。ともかく、あかんもんは、あかんのや」と。

 仏法は、理屈を超えた世界ですから、ときには、「あかんもんは、あかんのや」と言うことも大事です。ですが、そんな理屈抜きの言葉を、ちゃんと子どもに聞き入れてもらうには、大人が、信仰に生きていないとダメなのですね。私たちは、どうでしょうかね。

 このあいだ、あるお宅で、野球の試合に出かけるお孫さんに、おばあさんが、こうおっしゃっているのを聞きました。「仏さんにお願いしたか? 私も勝てるようにお願いしとくで、しっかりやっといでや」と。まあ、おばあさんの気持ちは、分かりますがね。

 「何十年も生きてきたら、神も仏もないことくらい、分かりそうなものだ」と、エッセーに書いておられた小説家がおられますが、おそらく、このお孫さんが仏様に手を合わせなくなるのも、時間の問題でしょうね。

 いつもお話するように、仏様に手を合わせるのは、自分の願い事をするためではないのです。そうではなくて、合掌は、仏様の願いを両手で受けとめる姿なんです。自分の願い事で頭がいっぱいになっていると、仏様の願いが聞こえてきませんよ。

 誰の句でしたか、「のどかなり 願いなき身の 初詣(はつもうで)」というのがあります。仏様の願いは、この句のように、私たちがのどかに心安らかに生きられることなのです。その仏様の願いを「本願(ほんがん)」と言うのです。

 「幸せ」という言葉は、どこかに欲望の影を引きずっているようで、あまり使いたくないのですが、かつて、私たちは、この、のどかに心安らかに生きられることを「幸せ」と言ったのです。

 ところが、今や「幸せ」のグローバル化が進んで、豊かで便利な生活や、何でも自分の思い通りになることを「幸せ」と言うようになってしまいました。こうなっては、まさに、神も仏もありませんね。

 以前、こういう話を聞いたことがあります。ある人が、神社に初詣に行って、おみくじを引いたら「大凶」だった。それで、新年早々縁起でもないと、「大吉」が出るまで何度もおみくじを引いた。それでも腹の虫がおさまらなくてね、社務所に走って、「けったくそわるい! 正月くらい、凶と大凶のくじを入れるな!」と、ねじこんだということです。

 お笑いになるかもしれませんが、これ、まんざら他人事ではありませんよね。自動車に交通安全のお札を貼り、カバンにお守りを下げる。占いの本を読み、名前の画数を調べ、「よく見る」という人を訪ね、節分には恵方巻(えほうまき)をかじり、結婚式は大安に挙げ、葬式は友引を避ける。

 寿命が尽きて死ぬことがあっても、「友引」で死ぬということはないのですが、自分だけ損をしたくないと思ってか、何かと縁起をかついだり、ラッキーアイテムにこだわる人が多い。いかがですか、皆さんは。先日も、こんな話を聞きました。

 先月の、平成22年2月22日には、郵便局なんかに、日付スタンプを押しに行かれた方が結構おられたそうです。何故かと聞くと、「日付がぞろ目になるのは滅多にないことで縁起が良いから」だそうです。

 その日の2時22分に、鉄道の駅の自動発券機へ、日時の印刷された入場券を買いに走った人もおられたそうです。ご丁寧に、それも2枚。

 たしかに、平成22年2月22日、2時22分なら、2が八つも並ぶぞろ目ですしね。「滅多にないから縁起が良い」と思う人もいるでしょうけれど、それならね、今日、平成22年3月21日というのは、何度でもある珍しくもない日なんですかね?

 ぞろ目になる日はまたあるでしょうけれど、今日という日は、一日限りで二度とありません。私たちは二度と返ってこない大切な一日一日を生きているのですよ。いかがですか、そのことに気づいておられましたでしょうかね。

 私たちは、宇宙が始まって以来、まだ誰も経験したことのない、まっさらな一日を生きているんですよ。

 「迷える者は、道を問わず」(荀子、大略篇)という言葉があります。「自分は間違っていない。これでいいんだ、分かっているんだ」と思っている人は、迷っているとは思っていないのですから、「これでいいんだろうか」と、道を尋ねたりしません。

 豊かで便利な生活や、何でも自分の思い通りになることが「幸せ」だと思っている人は、おそらく、自分は間違っていないと思っているのでしょうね。

 けれど、人は、いつまでも若くて健康なわけではないのです。いつまでも生きているわけではないのですよ。そのことに気づいたとき、「これでいいのだろうか」と思うのではないでしょうかね。

 「自分は、これでいいのだろうか」。これは、心安らかに生きたいと願う人の問いかけでしょう。この問いかけを受け止めてくれるのが、仏法なんですよ。仏法は、心安らかに生きるために、「いのちの真実」への気づきを深めていく教えなんです。

 欲望の満足を「幸せ」と呼ぶなら、「幸せ」は、逃げ水のようなものです。豊かで便利な生活といっても、きりがありません。携帯電話のモデルチェンジひとつ見ただけでも、分かりますよね。何でも自分の思い通りにしたいといっても、そんなことは不可能です。「幸せ」を追い求めている限り、まことの安らぎに至ることはできません。

 「幸せ」を追い求めるこころは、常に波立っていますが、「気づき」というのは、一枚の落ち葉にも波紋を広げるような、静かなこころに訪れるものなんです。波立っているこころに、静けさを取り戻していく。それが、「行」なんです。ようやく、「行」の話にたどり着きましたね。

 仏法に「いのちの真実」を聞くことが、聞法です。ですが、聞いただけでは、なかなか腑に落ちませんね。聞いただけなら、それはただの知識なんです。知識は、身体を通して、はじめて腑に落ちます。つまり、知識は、「行(ぎょう)」によって、智慧になるのです。

 私たち門徒には、滝に打たれるとか、山に登るとか、そういった特別な修行はありません。私たちは、ひたすら聞法するだけです。蓮如上人も、「ただ仏法は聴聞にきわまることなり」(『御一代記聞書』)とお示しになっておられます。

 私たちは、そういう伝統のなかにいるものですから、「行」と言われてもピンとこないかもしれませんが、真宗門徒にも、大切な「日々の行」があるんです。それは、朝夕の『正信偈(しょうしんげ)』のお勤めと、お念仏です。聞法の伝統を支えてきたのは、実は、この「日々の行」なんですよ。

 伝統としては、門徒のご家庭では、全国どこでも、この「日々の行」が行われていることになっておりますが、いかがですか。「え、門徒って、そんなことやってるの?」というのでは困りますが、昔どおりにはいかないことも、あるかもしれません。生活習慣が昔とは違うということもあるでしょうからね。

 以前、「朝食はパンですから、お仏飯(おぶっぱん)は、どうしましょう」と聞かれたことがあります。御本山では、「各家庭で考えてください」ということですので、ある御寺さんに尋ねてみましたら、「オブッパン、と言うくらいですから、パンでもいいでしょう」ということでした。私たちの宗派では、「お仏飯(おぶっぱん)」とは言わずに、「お仏供(おぶく)」と言いますがね。

 まあ、それはともかく、「行」というのは、頭ですることではなく、身体ですることです。もっとはっきり言えば、「行」というのは、頭でいろいろ考えないようにするために、身体に集中することなんです。

 いつもお話しすることですが、私たちは、つねに頭の中で、何かを考えています。「過去」のことを考えて、悔やんだり、「未来」のことを考えて、不安になったりして、「今」にとどまっていることが、ほとんどありません。

 そんなふうに、もうどうしようもない「過去」と、まだどうなるか分からない「未来」を、頭のなかで、ウロウロ彷徨ってばかりいるものですから、いつも、こころが穏やかでないのです。

 「考える」というのは、頭のなかで、言葉を使ってすることですから、私たちは、つねに頭のなかで「おしゃべり」をしていると言っても同じことです。この頭のなかの「おしゃべり」を止めるために、身体ですることに集中するのが、「行」なのです。

 私たちは、「となえる」ことに集中します。「正信偈のお勤め」がそうですね。お勤めを「勤行(ごんぎょう)」と言いますでしょう。お勤めは「行」なんですよ。お勤めをしながら、他のことを考えていたのでは、「行」にはなりません。『正信偈』の意味も、考えない方がいいでしょうね。考えないためにするのが「行」なんですから。

 「お念仏」も、「行」として、となえることができます。ずっと前ですが、お念仏をとなえる瞑想行を、ご紹介したことがありました。調べてみましたら、今からちょうど16年前の、春のお彼岸で、お話しております。

 あのときは、「いったい真宗の話をしているのか、禅宗の話をしているのか」と、結構お叱りを受けましたが、以前、曹洞宗の板橋興宗(いたばし・こうしゅう)先生と東邦大学の有田秀穂(ありた・ひでほ)先生の、『われ、ただ足るを知る』という対談集を読んでおりましたら、同じようなことが書いてありました。

 板橋先生が、曹洞宗の管長をなさっていたとき、ある講話で、「悩みを断ち切るには、『となえごと』をすることです。そのときとなえる言葉として、日本人にはお念仏『ナンマンダ』がいい」とお話しになった。そのあとすぐに、「いつから管長は真宗の坊主になったのか」と、お叱りの電話があったということです。まあ、たしかに管長さんではね、具合が悪かったかもしれませんね。

 対談相手の、有田秀穂先生は、座禅や瞑想を科学的に研究なさっておられる方で、そのご研究の話も、非常に興味深いのです。ちょっとご紹介いたします。

 座禅中には、脳内でセロトニンという化学物質が沢山分泌されるそうです。このセロトニンを伝達物質としている神経(セロトニン神経)が、こころに静けさをもたらすらしいのです。

 私たちの脳には、ドーパミン神経、ノルアドレナリン神経、セロトニン神経という、3タイプの神経系がある。

 ドーパミン神経は、快感を追求する働きがあり、ノルアドレナリン神経は、不快感に対応する働きがある。

 刺激や報酬、好奇心の満足を求め、「もっと、もっと、行け行けドンドン」と、欲望をあおり立てるのが、ドーパミン神経。

 それに対して、失敗や破綻を恐れ、外からのストレスにおびえ、生き延びるための保身に汲々としているのが、ノルアドレナリン神経。

 そして、その二つの神経の働きを抑えるのが、セロトニン神経です。つまり、セロトニン神経には、快も不快も抑える働きがあるということです。

 そこから、仏教で言うところの、快にも偏らず、不快にも偏らない「中道」とか、「平常心」(禅語:「びょうじょうしん」)とか、「知足」というものに、このセロトニン神経が大きく関わっているのではないかと思われるのですね。

 このセロトニン神経は、何かを「となえる」、「お勤めをする」、「腹式呼吸で瞑想する」といったことで、鍛えて活性化することができるそうです。

 活性化されるのには、三ヶ月はかかるそうですが、セロトニンという化学物質は、蓄えることができないので、毎日する必要があるそうです。

 つまりは、「正信偈のお勤め」や「念仏瞑想行」を、「日々の行」として生活しているだけで、こころが穏やかに安定し、快にも偏らず、不快にも偏らない「中道」を歩むことができるということなんですね。

 身体の機能は全て、年齢とともに衰えていくのに、このセロトニン神経だけは、鍛え続けることができる。そのためには、毎日お勤めをするとか、「ナン・マン・ダブ」と3拍子のリズムで、お念仏をとなえるのが、非常に効果的なのだそうです。

 いかがですか、ご参考になりましたでしょうか。私は、医学的な専門知識がありませんので、ただ感心して読んでいただけですが、「正信偈のお勤め」や「お念仏」を毎日続けていると、こころが静かに安定してくるのは、確かですね。

 心が静かに安定してくるのは、頭のなかの「おしゃべり」が止まってくるからですが、一番こころが静かになるのは、「瞑想」がうまくいったときではないかと思います。こころが過去にも未来にも振れず、今ここに居るという状態です。それは「忘我」の状態ではなくて、意識は、はっきりしています。

   以前、ある方から、「自分は仕事をしているときが一番幸せです。仕事をしているときには、それに没頭していて、何も考えていません。心配事もみんな忘れています。これが仏教でいう『三昧(さんまい)』というものではないかと思いますが、『念仏瞑想行』というのも、こんなものですか」と聞かれたことがあります。

 たしかに、仕事であれ、読書であれ、音楽であれ、何かに夢中になっている状態も「三昧」と言いますけれど、何か具体的な対象があって、それに集中しているのは、「事三昧(じさんまい)」と言いまして、仏教で言う「三昧」とは違うように思います。

 具体的な対象があって没頭しているのは、それとひとつになって自分を忘れている、つまりは「忘我」の状態ですが、瞑想中は、そうではありません。瞑想中は、意識は極めてはっきりしています。言うならば、自分に集中し、自分とひとつになっている状態のように思います。

 「忘我」の状態でも、頭のなかの「おしゃべり」が止まっていますから、リフレッシュできるとは思います。ですが、そこには、「気づき」は訪れてこないのではないでしょうか。

 「気づく」のは、あくまでも「自分」なんですよ。「自分」の無いところには、「気づき」もない。自分のこころが、鏡のように静まっているとき、世界は本当の姿を、そこに映してくれるのです。そのあたりのことは、ご自分で実践して、確認して頂くしかないのでしょうね。

 ところで、その実践についてなんですが、「日々の行」をするうえで、なにか大事なことはあるかと言えば、ひとつあります。それは、「行(ぎょう)をしないこと」なんです。

 修行の極意は、修行をしないこと。禅問答みたいですが、「行」に、「はからい」を持ちこまないということです。「はからい」というのは、頭で考えることです。何度も言うようですが、頭を使わないためにしているのが「行」なんですからね。

 たとえば、「悟りたい」とか、「目覚めたい」とか、「静かなこころになりたい」とか、そんなことを思ってする「行」は、本当の「行」ではありません。

 さきほどの、有田先生によれば、「悟りたい」とか「目覚めたい」なんてのは、ドーパミン神経を刺激し、「静かなこころになりたい」なんてのは、ノルアドレナリン神経を刺激するのではないですかね。それでは「静かなこころ」にはなりません。

 「行」に何も求めない。道元禅師が、「只管打坐(しかんたざ)」とおっしゃったのも、そのことでしょう。「只管打坐」というのは、「ただ坐るだけ、ひたすら座禅をするだけ」という意味です。何かのためにするのではなくて、ただするだけ。それが、「行」なんです。

 何も求めない、考えない。お念仏もお勤めも、ただとなえるだけです。「願い事」なし、「反省」なし、「理屈」なしです。極意だとか奥義だとか言っているのも理屈です。これも、なし。ただお念仏をとなえるだけ、ただ『正信偈』をお勤めするだけです。

 「さあ、これから行(ぎょう)をするぞ」というのは、すでに「はからい」ですが、これは、考えずにできるようになるまでは、仕方がありません。

 考えずにできるようになることを、「身につく」と言いますが、新たな習慣が「身につく」まで、有田先生は、「毎日やって3ヶ月かかる」とおっしゃっています。もっとも、3ヶ月を目標にしてやっていると、身につかないかもしれませんがね。

 「静かなこころ」は、目標ではなくて、自然に生まれてくる「結果」なんです。求めないで、「静かなこころ」でいると、気づきは向こうからやってきます。

 「目覚めの種を蒔く」のが聞法なら、「種を蒔く畑を耕す」のが「日々の行」です。「日々の行」によって、おのずと「いのちの真実」への気づきが深まっていきます。そういう日々の暮らしを重ねていくことが、「仏道を歩む」ということだと思います。

 さて、これでいちおう話は終わりなんですが、まあ、グズグズ、グチグチ考えて悩むのは、人間だけでしょうね。頭のなかの「おしゃべり」が止まれば、宇宙とひとつ。そんな「静かなこころ」に映る宇宙は、優しい目をしているかもしれません。

 このあいだテレビで、感動的な詩の朗読を聞きました。詩人の「静かなこころ」がしのばれる詩でした。今回の話にちなんで、ちょっとご紹介したいと思います。これは、いわば、今日の話の「ふろく」です。

 皆さんは、〈まど・みちお〉という詩人をご存じでしょうか。名前はご存じなくとも、「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね」とか、「しろやぎさんから おてがみ ついた」といった童謡はご存じでしょう。これは、〈まど〉さんの詩なんです。

 〈まど〉さんは、昨年の11月に満100歳の誕生日を迎えられまして、今年の1月3日に、その特別番組が放送されました。NHKスペシャル「ふしぎがり〜まどみちお百歳の詩〜」というタイトルの番組でした。ご覧になったかもしれませんね。

 〈まど〉さんの詩には、どれも、「静かなこころ」に映る「いのちの不思議」への気づきが表現されているように思います。とくに番組の中で朗読された「れんしゅう」という詩は、印象的でした。お手元のプリントにも印刷しておきましたが、その詩を、皆さんにもお聞き頂きたいと思いましてね。三國連太郎さんの朗読で、お聞きくだい。

      れんしゅう

        きょうも死を見送っている
        生まれては立ち去っていく今日の死を
        自転公転をつづけるこの地球上の
        すべての生き物が 生まれたばかりの
        今日の死を毎日見送りつづけている

        なぜなのだろう
        「今日」の「死」という
        とりかえしのつかない大事がまるで
        なんでもない「当たり前事」のように毎日
        毎日くりかえされるのは つまりそれは

        ボクらがボクらじしんの死をむかえる日に
        あわてふためかないようにと あの
        やさしい天がそのれんしゅうをつづけて
        くださっているのだと気づかぬバカは
        まあ この世にはいないだろうということか

 いかがですか。夕日を眺めていて、ふと気づいた。「今日」という一日の終わりは、どこか「死」に似ている。そのとき生まれた詩です。三國さんの朗読が、全てを語ってくれているようで、説明はいりませんでしょう。

  最後の、「気づかぬバカは まあ この世にはいないだろうということか」という言葉は、自分自身に向けられたものです。この言葉には、おそらく、その日まで気づかなかった自分への、驚きや、恥ずかしさも、込められているのでしょうね。

 〈まど〉さんは、ご自分を、何にでも不思議を感じる「ふしぎがり」と呼んでおられます。〈まど〉さんには、誰もが見過ごしている「いのちの不思議」に気づく目があるのです。それは、静かに「今」を見つめる目、「内」を見つめる目なんですね。

 仏教は、「いのちの真実」への、気づきの教えです。「いのちの真実」への気づきを深めていくのは、「今」を見つめ、「内」を見つめる、静かな眼差しです。この「静かな眼差し」は、「日々の行」によって、おのずと育っていくものなんです。

 朝夕のお勤めと、お念仏。この「日々の行」は、私たち真宗門徒の大事な伝統です。これからも、生活のスタイルとして、大切に伝えていきたいと思いますね。

 さて、店じまいです。この寺は、京都でも有数の小さな貧乏寺なんですが、インターネット上にホームページを開いていることもありましてか、ご覧になった方などが、ちらほら訪れてくださるようになりました。有り難いことです。

 そういう方々をお迎えするたびにね、寺の住職というのは、文字通り「寺に住んでいるのが仕事(職)」なんだなあと、つくづく思います。

 しかし、ただ住んでいるだけなら、わがやの犬も住んでいるわけでして、このへんが悩ましいところなんですが、まあ、住職としての自覚が問われるところかもしれませんね。

 来年、平成23年は、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌(ごえんき)」をお迎する年です。御遠忌らしい大法要というのは、どうも難しいようですので、こんな貧乏寺でも、できそうなことは何かないかと考えましてね、御遠忌記念の「紫雲寺日曜講座」というのはどうかと、思いつきました。

 毎月一回、最終日曜日にでも、『正信偈』をご一緒にお勤めして、短い法話を聞いて頂き、「念仏行」を実践して、ご一緒に「おぜんざい」でも頂く。(親鸞聖人は、アズキがお好きだったそうでしてね。)そういう集いを持つのはどうか。まあ、いわば、日曜学校の大人版ですね。

 私たち門徒には、日々の生活のなかで、仏様の方に顔を向ける習慣を持つことが大切ですから、そういう生活のきっかけにでもなればと、思っております。はっきり日程が決まりましたら、ご案内を差し上げたいと思っております。

 このあいだ、〈まど・みちお〉さんの詩集を読んでおりましたら、「つけものの おもし」という詩がありました。その詩は、こういう言葉で始まっています。

 「つけものの おもしは/ あれは なにを してるんだ/ あそんでいるようで/ はたらいているようで……」。

 この詩を読んでから、漬け物石に、妙に親近感を抱くようになりましたが、まあ、こんなことを言っているようでは、はたして、どうなりますことやら。

 では、本日は、これで終わらせて頂きます。どうぞ、日々のお勤めと、お念仏を大切になさってくださいね。

 長い時間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますように、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…



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