本日は、お忙しいところを、ようこそお参り頂きました。ご苦労様でございます。今年の夏は、とこぎり暑かったですね。気象庁によりますと、明治31年に統計が始まって以来、いちばん暑い夏だったそうですが、皆さん、お変わりありませんか。 今日は、お彼岸のお中日です。まだ昼間は暑いですが、朝夕の風には、秋の気配が感じられるようになりました。どんなに暑い夏でも、いずれは終わって、秋になる。人生も、そうでしょうね。 季節の移り変わるときには、ことさら諸行無常が露わになります。そんなとき、昔の仏教徒は、限りある「いのち」を思い、仏の世界「彼岸(ひがん)」を思った。それで、この時期を、「彼岸」と呼んで、仏縁を深めたのでしょうね。 「彼岸」というのは、川の向こう岸のことです。「彼岸」というのは、仏の覚(さと)りの世界のことです。それに対して、川のこちら側の岸を「此岸(しがん)」といいます。「此岸」というのは、私たちの暮らしている迷いの世界のことです。 迷いの世界にあって、仏の世界を思う。「此岸」にあって、「彼岸」を思う。「彼岸」を思うと、今を生きる力が湧いてくる。それが、仏教徒でした。 私たち現代人は、目に見えない向こう岸への関心を失いつつあります。ですが、「彼岸」に背を向けてしまうと、あとは「此岸」しかありません。自分自身を「此岸」の迷いの世界に閉じ込めてしまわないために、「彼岸」を思うこころを大切にしたいと思いますね。 そこで、今回は、お彼岸でもありますし、「彼岸と此岸」という題で、お話してみたいと思います。 もうそろそろ理屈っぽい話はやめたいと思っておりますが、相変わらずの、いささかまとまりのない話です。どうぞしばらくのあいだ、お付き合い下さいますよう、お願いいたします。 さて、過ぎ去ってしまえば何十年も、あっと言う間だったような気がいたしますが、子どもの頃は、死ぬのがとっても恐かったことを覚えています。死ぬことが恐かったというより、次に地獄に生まれることが恐かったですね。 当時はまだ、「嘘をついたら地獄の閻魔さんに舌を抜かれるぞ」なんて言葉が、結構日常的に聞かれました。悪いことをしたら地獄に落ちる。何が「悪いこと」なのかよく分かりませんでしたが、親に知られたら叱られそうなことが「悪いこと」なら、結構心当たりがありましたからね。 閻魔様のところには浄玻璃(じょうはり)の鏡というものがあって、この前に人が立つと、生前の善悪の行為が全て映し出されるといいます。 まるで24時間監視カメラの映像が残っているようなものでして、閻魔様の前では、嘘は通らないのです。さあ、どうしよう。地獄の恐ろしい責め苦を思うと、目がさえて、なかなか眠れない。そんなことも、ありました。今は昔の物語のようなものですが、大事な経験たっだようにも思います。 去年でしたか、紫雲寺のホームページをご覧になって、奈良から訪ねてこられた方がありました。私より一回りほど年配にお見受けしましたが、その方は、ご自分のお母様の書き残された文章をお持ちになって、見せてくださいましてね。 お仏壇の引き出しを片付けていたら出てきたということですが、それは、お母様ご自身の、安心(あんじん)を得るまでの経緯を記された、覚え書きでした。 お許しを頂いておりますので、ちょっとご紹介しますと、そのお母様のお名前は〈きみえ〉さんとおっしゃいました。 〈きみえ〉さんは、幼い頃から非常に身体が弱かったので、信仰心の厚かったご両親は、「この子はとても長生きできそうにないから、勉強なんかはいいから、仏法を聞かせねばならない」とお考えになって、物心がついたころから、御寺に連れて参るようになった。 そのうち〈きみえ〉さんも御寺でのお話が聞き分けられるようになり、七、八歳のころから、「地獄は恐い、なんとしてもお浄土に参りたい」と思うようになった。「お浄土に参るには、信心を頂かねばならない」ということで、ここから〈きみえ〉さんの必死の聞法が始まったわけです。 聞いても聞いても、すっきりしない。聞けば聞くほど難しく、どうしたらいいのか、どう聞いたらいいのかと、苦しみばかりがつのってくる。死にもの狂いで聞法しても、阿弥陀様が、こんな私を助けてくださるとは、とても思えない。 こんなに苦しいんだったら、いっそ仏法なんかはじめから聞かねばよかったと思ったことも、阿弥陀様を怨(うら)んだこともあったけれど、安心(あんじん)をもとめる思いやまず、ひとことも聞き逃すまいと、まるで喧嘩腰(けんかごし)の聞法が続いたそうです。 かくして31歳の正月のこと、大雪をついてお参りした、あるお寺でのお説教を聞いて、とうとう腹の底が抜けた。 「どうすれば、どうなれば」と求めてきたけれど、自分の力でどうにかなるものなら、自力で仏になればよい。どうにかなるような自分ではなかった。どうにもならない、地獄に堕ちるしかない自分なんだと、心の底からうなずけたとき、〈きみえ〉さんは阿弥陀様の光のなかにいた。おおよそ、そういう内容です。 私は、この文章を読みましたとき、とっても懐かしい思いがいたしました。昔は、人は、地獄と極楽の間に立たされて、地獄に落ちてはならんという緊張感のなかで、懸命に極楽を求めたものです。 地獄があると思えばこそ、人は真剣になったのです。ですが、目は地獄の方には向けられていない。「こんな浅ましい自分は弥陀の誓願に漏れているのではないか」と、眼は自分の方に向けられているのです。ここが大切なところでしょうね。 「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」の「穢土(えど)」は、我がこころにあるんです。 相田みつをさんに、こんな詩があります。「ひとりしずか」という詩です。
浄玻璃(じょうはり)の 地獄が有るか無いかということよりも、こういう思いが少しも無い人は、仏法にご縁がないかもしれません。仏法を聞こうというのも、こころに不安があればこそですからね。 仏法は、安らかなこころで生き、安らかなこころで死んでいける教えです。仏法は、この世に受けた生を大切にする教えなんですが、昔から、この仏法の真意が、よく分からなかったみたいですね。 万葉集に、大伴旅人(おおとものたびと)の、こんな歌があります。 「この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 吾れはなりなむ」(この世に生きている間さえ楽しければ、来世に、虫に生まれようが、鳥に生まれようが、私は一向にかまわない)。 いつの時代でも、煩悩に支配されている私たちは、煩悩に”ノー”という仏法よりも、煩悩に”イエス”という「福・禄・寿(ふく・ろく・じゅ)」の方に惹(ひ)かれやすいのです。 「福」というのは、幸福のこと。「禄」というのは、所得のこと。「寿」というのは、寿命のことです。つまりは、運が良くって、楽しくて、実入りが多くて、健康で長生きすることですが、これに”ノー”と言える人は、まず、いないでしょうね。 実際、お同行のお家にお参りに伺うと、玄関口に、祇園さんの厄除(やくよ)け「ちまき」がくくってある。なかに入ると、壁にはお不動さんの「火よけ札」、柱には恵比寿さんの招福「くまで」、床の間には「御朱印軸」が掛かり、鴨居の上には「神棚」、お仏壇のなかには「宝くじ」、なんてこともありますが、皆さんのお宅はいかがですか。 福の神を招くのも結構ですが、福の神は、貧乏神と兄弟で、いつも仲良く連れだって歩いているといいますけれど、ご存じでしょうかね。 仏法も、決して「福禄寿」に”ノー”というわけではなくて、そんなものにこだわるなといっているだけです。「福禄寿」にこだわっていては、安らかなこころではおれませんからね。 こだわりのもとは、煩悩です。煩悩というのは、「他の誰よりも我が身が可愛い」という、心の働きのことです。言葉を換えて言えば、煩悩というのは、「私が、私が」という自己中心の考えで、物事に執着するエゴイズムのことです。 昔は、仏教の影響もあって、「私が、私が」と自分を押し出すことは、はしたないことと考えられていましたが、今は、変わりましたね。むしろ、自分を主張することが、良いこととして、奨励されるようになってしまいました。 以前にもお話いたしましたが、ちょっと前までは、交差点で行き交う車が擦(こす)れたりしたら、乗っていた人は、互いに、「すみませんね、大丈夫でしたか」と、謝り合ったものでした。 ところが、「外国では決してそんなことはしない」と、そそのかす人がいて、世界に通用する国際人になるため、私たちは、「お前が悪い」と怒鳴り合うようになってしまったのです。 今は、「すみません」と謝ったら、事故の責任を認めたことになるそうで、損得勘定ばかりしている現代人には、とても譲れないということでしょう。 ちなみに、お互いに謝り合ったら五分五分に納まるところを、「お前が悪い」と大声出して、七分三分に持ち込んだとして、実際に得するのは誰だと思われますか。得をするのは、保険会社ですよ。 五分五分であれ、七分三分であれ、支払いは保険会社がします。大声で怒鳴りあっているのは、保険会社の利益を守るために、代理戦争をしているようなものなのですが、気づいておられましたでしょうかね。 私たちは煩悩に支配されていますから、もともと、「自分が一番可愛い」というエゴイズムから逃れることはできないのですが、今や、グローバル化した経済最優先の競争社会になって、ますます、そのエゴイズムが肥大化してきたのです。煩悩の闇が深まったということですね。 最近の新聞やテレビを見ておりますと、「本当に、闇が深まってきたなあ…」と、つくづく感じますね。子どもを飢え死にさせて、親が遊び回っていたとか。何十年も前に、親が出て行ったまま、どこにいるのか分からないとか。親の死体が、押し入れや箪笥から出てきたとかね。考えられないような話ですが、経済最優先の世界では、遅かれ早かれ、こんなことが起こってくるんですよ。 たとえばです。お考えになってみてください。子どもにとって、親から一番言われたくないセリフは、「誰のお陰で飯が食えているんだ」という言葉だそうですが、もしも、そんなふうに言われて育ったら、どうなるでしょう。言われなくとも、そんな雰囲気の中で育ったら、どうなるでしょうね。自分で稼いで食べられるようになったら、親なんか邪魔なだけではないでしょうかね。 「誰のお陰で飯が食えているんだ」というのは、稼ぎ手の自分が一番偉い、自分の稼いでくるお金が他の家族のいのちを左右できるという考え方です。つまりは、「いのちより金が上だ」ということです。 誰が悪いというより、問われているのは、こんな「いのちより金」の社会を作ってきた私たち自身ではないでしょうかね。どこで聞いた話か忘れましたが、「お前が悪いと指差すと、残りの3本の指は、自分を指差している。自分が3倍悪い」と言った人がありました。こういう気づきは大事だと思います。 煩悩に支配された私たちの世界「此岸」は、「諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)」の世界です。つまりは、くだいて言えば、この世には「絶対といえるもの」は無いということです。 私たちは、何でも、「上か下か」、「大か小か」、「重いか軽いか」、「美しいか醜いか」、「苦か楽か」、「善か悪か」というように、二つに分けて物事を考えますね。「善か悪か」と考えて、「善」とか「悪」とか、どちらかに分けられたときに、私たちは「分かった」と言うのです。ですが、それは相対的なものを比べているだけなのですね。 たとえば、「あの人は悪い」といっても、もっと悪い人もいるでしょう。「善い人だ」といっても、もっと善い人もいるはずです。「上見りゃきりない、下見りゃきりない」というだけのこと。つまり、私たちの考えることは、全て相対的なのです。そこには、絶対的なものはないのです。 「お金」だって絶対的なものではありません。一万円札を印刷するのに、10円かかるそうですが、その10円のものを一万円として通用させているのは、社会の約束です。約束が反故になったら、ただの紙です。 そういうものに基づいている社会の枠組みというものは、いわば、張りぼての映画のセットのようなもので、かりそめのものなんですよ。 もちろん、そういった枠組みなしで社会で生きていくことはできませんけれど、役に立つとか立たないとか、得だとか損だとか、勝ったとか負けたとかいった、社会の枠組みのなかだけで生きていると、本当のものが見えてきませんよ。 「人間は本当のものが分からないと、本当でないものを本当のものにしようとする」。これは、金子大栄先生の言葉ですが、私たちは、本当に確かなものを知らないから、かりそめのものを確かなものとして握りしめようとするのです。 私たちは、こころのなかに本当に確かなものが無いから、煩悩に振り回されるのです。それで、「お金」であれ、「健康」であれ、「学歴」であれ、「社会的地位」であれ、 何でもかんでも、いつも比べてばかりいるのです。 私たちはたいてい、自分は正しいと思っていますから、自分と違った考え方をする人がいると、それは間違っていると考えてしまいます。本当は、自分とその人は、違うというだけなのですがね。自分にとって「悪い人」でも、他の人にとっては「善い人」かもしれませんよね。 そんな相対的なものを絶対視してしがみつかないためには、本当に確かな世界、絶対の世界を知らないと、だめなのですね。その本当に確かな世界、絶対の世界というのが、川向こうの岸「彼岸」なのです。 「彼岸」というのは、仏の覚りの世界のことです。浄土の教えの言葉でいえば、極楽浄土のことです。極楽浄土というと、苦しみのない楽園のようにイメージされる方が多いのではないかと思いますが、いかがですか。 実際、お経にも、何の苦しみもない、文字通り「極めつけの楽園」のように書いてありますから、昔は、「極楽がそんなに素晴らしいところなら、早く往生したい」と、自殺した人が沢山あったといいます。 しかし、それは考えてみると、おかしな話です。「もっと楽しい世界に行きたい」ということなら、煩悩の思うがままではないですか。極楽往生というのは、快楽を求めることなのでしょうか。そうではないでしょう。 親鸞聖人は、そういう誤解を避けるためでしょうか、「極楽」という言葉はほとんど用いておられません。その代わりに、「浄土」とか「無量光明土(むりょうこうみょうど)」とおっしゃっています。 では、その「浄土」とは、どんなところかというと、親鸞聖人は、86歳のときの「自然法爾(じねんほうに)の事」というお手紙で、おおよそ、このようなことをおっしゃっています。
「浄土というのは、色も形もない世界です。色も形もないというのは、絶対(自然:じねん)という意味です。色や形があっては、絶対とは言えません。 いかがですか、皆さん。これが、親鸞聖人が伝えて下さった浄土の教えです。「浄土に往生する」というのは、楽園に生まれるということではなくて、「覚りを得る」ということなのです。これは、仏教の本道ですね。違うのは、自力の修行を否定されたことです。その理由は、こういうことです。 私たちの世界「此岸」は、比較相対の世界です。私たちが、「善だ悪だ」、「楽だ苦だ」、「白だ黒だ」といっても、それは程度の問題にすぎません。私たちの世界には、絶対の悪も、絶対の善もないのです。 「白もまた一種の黒である」と言った哲学者がいましたが、まことに、そのとおりですね。 お経には、「善いことをすれば楽しい天に生まれ、悪いことをすれば苦しい地獄に生まれる」とあります。それは、相対的な行為(善悪)からは、相対的な結果(苦楽)しか生まれないということなのです。 私たちは相対的な世界(六道輪廻の世界)に閉じ込められていて、自分の力では、そこから出られない。自力では、「彼岸」に渡れないということです。 お経には、「覚るというのは、善も悪も超えることだ」とも説かれています。仏教で言う「中道(ちゅうどう)」というのも、白と黒のあいだの灰色をさすわけではありません。白も黒も超越してしまった世界、私たちには考えても分からない世界のことです。 そんな私たちが「彼岸」に渡れるのは、向こう岸からの働きかけがあればこそなのです。その向こう岸からの働きかけを、「他力」というのですね。 私たちが、いつも、『正信偈(しょうしんげ)』に続けてお勤めする「浄土和讃」の三首目に、こうありますね。
解脱(げだつ)の光輪きはもなし 「光触かぶるものはみな、有無をはなるとのべたまふ」とは、「仏の光に触れた者はみな、有るとか無いとかいった相対世界をはなれる」ということです。 無心にお念仏を称えていると、煩悩でガチガチに固まったこころに、仏の世界から一条の光が差し込んできて、絶対の世界、浄土へと導いてくれる。この光にたとえられている仏の力が、他力です。 同じく「浄土和讃」の四首目には、「難思議(なんしぎ)を帰命せよ」(私たちの考えることのできない仏に、たよりなさい)とあります。 なぜ、そんな「他力」が働いているのかということは、私たち人間には、考えても分からない不可思議なことだから、考えてはいけない。親鸞聖人は、そう諭されています。 親鸞聖人は、その不可思議な世界を、「無量光明土(むりょうこうみょうど)」と呼んでおられますが、それはおそらく、聖人が、その浄土の光を、実際に感じておられたからではないでしょうかね。 ときどき、「そんな浄土は本当にあるのか」というお尋ねをいただきますが、浄土は「有る」とか「無い」とか言えない「絶対の世界」なんです。 先ほどもお話いたしましたが、私たちは何でも、「有るのか無いのか」、「善か悪か」、「生か死か」というように、対になった言葉で物事を考えますね。「有るのか無いのか」と考えて、「有る」とか「無い」とか、どちらかに分けられたときに、私たちは「分かった」と言うのですね。 そんな私たちですから、「絶対」という言葉も、「相対」という言葉と対になった反対語だと思ってしまうのですね。それで、よく混乱するのです。 そうではないのです。「絶対」という言葉は「対になるものが無い」という意味です。つまり、絶対の世界というのは、「善・悪」も「生・死」も超えた世界、対立するもののない世界なのです。「有る」とか「無い」とか、分けられないから、私たちの頭では「分からない」世界なのです。「絶対」については、考えられないから、考えない。それが仏法のスタンスなのです。 考えても分からないものは、感じるしかないのです。ですが、それでも、グズグズ考えてしまうのが、私たちの業(ごう)の深いところですね。 私たちは、何でも考えるくせがついていますからね、幸せとか、生き甲斐とか、本来感じるしかないものまで、考えてしまうのです。「お金があれば幸せになれる」とか、「大学を出ないと幸せになれない」とかね。 お金のあるところには、トラブルも集まってきがちです。さっきもお話しましたでしょう。福の神は貧乏神と兄弟だって。大学を出ても、もらうのは卒業証明書だけでして、幸せの保証書をもらうわけではないのですよ。 考えていても、感じるというのはどういうことか、分かりません。体験したほうがいいのです。「今ここにあるいのち」を感じる方法を、ひとつお教えしますかね。 目を閉じて、太陽の光と風を同時に感じるのです。そうすると、思考が止まって、穏やかな感動が湧いてきます。「いのち」に触れるとは、こういうことかと、きっと思いますよ。 もう少し詳しく言いますと、少し風の吹いている、天気の良い温かい日に、外に出て目を閉じます。そして、額に太陽の光と風を同時に感じ、感じることに集中するのです。車などの通らない、危なくない場所で、お試し下さい。 さて、もう少しだけ、お付き合いください。 この世で、100パーセント確実といえるものは、二つしかありません。それは、「今生きている」ということと、「いずれは死ぬ」ということです。この二つに、両足をのせてしっかり立ったときに、確実な世界が見えてくるのですが、私たちは、そこに立ってはいませんね。 もちろん、「いずれは死ぬ」ことぐらい、誰でも知っています。頭ではね。ですが、それは、今日ではない、明日ではない、今週ではない、来週ではない、と思っている。つまりは、さしあたって、自分には関係ないと思っている。違いますかね。 「今生きている」ということも、そうですね。ある会合で、「生きることと死ぬことでは、どちらが大切ですか」とお尋ねしましたら、皆さん、「生きることだ」とおっしゃった。 「それでは、今朝目覚めたときに、ああ、今日も生きている、嬉しいなと思われた方はおられますか」とお尋ねすると、一人もなかった。生きていることが「あたりまえ」になっていて、命の実感をなくしている。私たちは、みんな、そうではないですか。 私たちは、過去を思って悔やんだり、未来を思って不安になったりしていて、なかなか、この「今」にいるということがありません。頭のなかで、もうどうしようもない過去と、まだどうなるか分からない未来とを、ウロウロしているものですから、こころがいつまでも温まらないのです。 お念仏を称えていると、そんな頭のなかのおしゃべりは、鎮まってきて、こころに温もりが戻ってきます。「いずれは死ぬ」ということをしっかり踏まえて、お念仏とともに、確かな「今を生きる」。そこに、浄土への道が開かれてくるのです。 私たちは、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰って行くのです。浄土は、私たちの「いのちの故郷」です。この世の縁が尽きたら、私たちはみな、浄土に帰っていくのです。 さきほど皆さんとご一緒にお勤めしました『阿弥陀経』に、「倶会一処(くえいっしょ)」と説かれています。「またお浄土で会いましょう」という意味ですね。みんな「いのちの故郷」に帰っていくのです。 「信心の無い者まで浄土に帰るはずがない」とおっしゃる方もありますけれど、それこそ、信心が有るとか無いとか比較相対する、この世界での考え方ではないでしょうかね。 死後のことだけをいえば、お念仏の教えに出逢っても出逢わなくとも、私たちが「お浄土」と呼んでいる「永遠のいのち」の世界へと、みんな帰っていくのです。人を選ばない。絶対というのは、そういうことでしょう。 問題は、死後のことではなく、今生のことなのです。念仏の教えに出逢うというのは、今生を生きるためにこそ大切なのです。 念仏の教えに出逢い、私たちのなかにある「仏のいのち」への気づきが深まっていくと、おのずと、この相対世界を握りしめていた手が緩んできて、こころ安らかに生きられるようになっていきます。 本当に確かなものに気づいてくると、世間の価値観にしがみつかなくなっていきますし、なによりも、しがみつきそうになったら、そんな自分に、すぐ気づくようになってきます。そのことに気づいたら、ハーッと呼吸も緩んで、楽になりますよ。 お金が有るとか無いとか、背が高いとか低いとか、手先が器用だとか不器用だとか、物覚えが良いとか悪いとか、そういった相対的なことは、だんだん、どうでもよくなっていきます。そして、人と比べなくなっていき、人を差別しなくなっていきます。 浄土は、絶対の世界です。浄土は、差別の無い世界なのです。「そんな世界なんか理想にすぎない」と思われるなら、どうぞ、浄土を、理想として、こころに掲げてください。 以前、宮崎駿監督は、インタビューのなかで、こんなことをおっしゃっていました。「理想を失わない現実主義者にならないといけない。理想のない現実主義者なら、いくらでもいるんです。理想がない現実主義者って、最低ってことだからね」と。 聖徳太子が、「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」とおっしゃったように、この世のことは、全て相対的なことで、確かなことは何もありません。 ですが、世間の法を捨てるだけなら、無法になります。こころに仏法を抱いて、世間を握りしめない。死後を阿弥陀仏に委ねて、今をこころ安らかに生きる。それが、お念仏の教えにご縁を頂いた、私たちの生き方なのですよ。 さて、またまた理屈っぽい話になってしまいまして、申し訳ありません。こんな理屈っぽい話ばっかりしているからでしょうね、なかなか大事なことが分かってもらえないのは。 このあいだも、あるお宅にお参りにうかがいましたら、「ごえんさん、うちの猫も六道輪廻しますんか」と聞かれましてね、思わず溜息がでそうになりました。 鎌倉時代の『沙石集(させきしゅう)』という本に、こんな話がでているそうです。これは金子大栄先生の本で知った話です。
鎌倉時代に真観上人という高僧がおられましたが、そこに、一人の老僧がやってきて、こう問いかけました。 これは決して他人事ではありません。自戒の念をこめて、忘れてはいけない話だと思っております。 それにしても、いろんなご質問を頂戴しますけれど、たいていは、納得できる(理論的整合性のある)理屈を聞きたいだけで、理屈を超えた世界を求めているわけではないようですね。門徒さんの勉強会なんかでも、知識と理屈の競い合いになっては、どうかと思います。 「実践するつもりなら、学ぶことは、わずかでよい」と言った人がありますが、大事なことですね。 『歎異抄』には、親鸞聖人のお言葉として、こうあります。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」(親鸞においては、『ただ念仏だけを称えて阿弥陀仏に救われなさい』という、法然上人の教えを頂いて、信じているだけです)と。 妙好人の源左さんは、何か話してくれと人々からせがまれると、よくこう言ったそうです。「何も知らんけなあ、たった一つよりないだいなあ」と。 「ただお念仏を称える」。大事なことは、たったこれだけなんです。おそらく、この、たったひとつの智慧を求めていない人が、沢山の知識を求めるのでしょうね。 私たちは、考えすぎるから、迷うのです。考えてばかりいないで、お念仏を称えて、仏様と向き合うことが大事ですよ。 さて、そろそろ店じまいです。以前、こんな話を聞きました。 あるご院さんが、お説教で「倶会一処」の話をなさって、お参りになっていたおばあさんに、声を掛けられた。「おばあさん、お浄土に帰ったら、またおじいさんに会えるでな」。すると、そのおばあさんは、こういった。「そやから、死にとうないんや」。 まあ、そうとう身勝手なおじいさんだったのかもしれませんが、私たちは、みんな、大なり小なり身勝手なものです。この「身(み)」がありますからね。 私がものを食べても、皆さんのお腹がふくれるわけではない。みんな「身」が違いますからね。誰でも、この身が大事。苦しいのはイヤ、辛いのはイヤ、楽(らく)したい、美味いものが食べたい。それは勝手なものですよ。 ですけどね、お浄土に帰るときは、この身を置いて行くんですよ。それでね、お浄土に身勝手は無いんです。 「身」のなくなった世界に帰れば、そんな身勝手な人とご縁があったのは何故だったのかということも分かるかもしれませんし、いろんな出会いがあった意味にも気づけるかもしれません。まあ、そういうこともあって、次回は、「ご縁」についてお話させて頂こうかと思っております。 次回は、11月14日の「報恩講」でございますが、今年の「報恩講」には、昭和 63年に亡くなりました祖母、正覚院釋尼妙操の23回忌も併せて勤めさせて頂く予定でおります。どうぞ、また、お参り下さい。 本日は、理屈っぽい話に長い時間お付き合い下さいまして、有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……
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