本日は、お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労様です。ことんと寒くなりましたね。暑かった夏のあとですので、温度の落差が身に染みますが、お変わりなくお過ごしでしょうか。まあ、どうぞ、お楽にお座りください。 本日は、親鸞聖人の祥月命日のお勤めであります「報恩講」ですが、今回は、昭和63年11月3日に亡くなりました前々坊守・正覚院釋尼妙操の二十三回忌を、併せて勤めさせていただきました。この法要に会うご縁を皆様とともに頂けましたことを、有り難く存じております。 最近といいましても、今年の7月ですが、門前に掲示板を設置いたしました。入ってこられるときに、お目にとまったかもしれませんが、今は、「合掌は、仏の願いを、受け止める姿」という言葉が掲げてあります。 お念仏の教えにご縁を頂いてから、いろんな言葉に出逢いまして、支えられ、励まされてまいりました。そういう言葉の力を、ご縁のある方々に、少しずつ、お裾分けしようと思いましてね。今は、週に一度の間隔で、新しい言葉に変えております。 ときどき、通りがかりの人から、「読むのを楽しみにしています」なんて、声をかけていただきましてね、有り難いことと思っております。 先週は、「ご恩報謝とは、恩を返すことではなく、ご恩を無駄にせぬことである」という、小山法城先生の言葉でした。これは報恩講に向かって掲げた言葉です。 先々週は、「先祖のおかげで、いのちがある。社会のおかげで、くらしがある。念仏のおかげで、よろこびがある」という言葉でした。 この言葉を掲げたのは、べつに、先祖供養や、社会奉仕を勧めたかったからではありません。そうではなくて、思いは、「念仏のおかげで、よろこびがある」という言葉の方にありました。 私たちは、お念仏の教えに出逢うご縁を頂きました。このご縁が、「念仏のおかげで、よろこびがある」というところに、大きく開いていくことを願って、本日は、「ご縁」という題で、お話させて頂きます。どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。 さて、もう何十年も昔のことですが、そこの紫野高校に通っていたときのことです。通学の途中で、ふと見ると、道に、握りこぶしほどの大きさの石が、ころがっているんです。その石を、何気なく、ぽんと蹴ろうとしたんですが、ちょっと待てよと思いまして、立ち止まってしまいました。 もし、この石を蹴ったら、石のある場所が変わる。場所が変わったために、この石が、自動車にはじかれて、通りがかりの誰かに当たってケガをさせるということになるかもしれない。 しかし、この石を蹴らなかったら蹴らなかったで、石がここにあることで、誰かがケガをすることになるかもしれません。 この石が当たって、誰かが大けがでもしたら、その人の人生が変わってしまいます。一人の人生が変わるということは、その人の家族の人生が変わるということです。さらには、その影響は、社会へと広がり、世界が変わってしまう。 さあ、大変なところに立たされた。世界のためには、どうすればいいんだろう。自分の責任は、どうなるんだ。「蹴るべきか、蹴らざるべきか」と、しばらくのあいだ、そこから動けませんでした。 石をにらみつけて、道端にたたずんでいる高校生って、人が見たらどう思ったでしょうね。結局、その石を蹴ったのか、蹴らなかったのか、憶えていないんですが、後年、仏教を学んでから、そのとき考えたことは間違いではなかったと、知りました。 「因果(いんが)」という言葉をご存じのことと思いますが、「因」というのは何かが起こるための原因のことで、「果」というのは、そこから生まれた結果のことです。 物事が起こるには、必ず、その原因となるものがありますが、原因(因)と結果(果)は、一対一で対応しているわけではありません。 たとえば、こういうことです。皆さんが、今日は報恩講だから、お参りしたいと思ったとします。これが原因(因)だとすると、お参りしたいと思えば、必ず、お参りできるという結果(果)が生まれるかというと、そうではありませんね。 時候の良い秋の日曜日ですからね、さまざまな行事と重なることもある。子供たちから孫をあずかってくれと頼まれたら、お参りできませんし、急な来客があっても、出られませんね。家を出ても、途中で体調が悪くなったり、事故にあったりしたら、やっぱり、お参りできなくなります。 皆さんが、今日、ここにお越しになれたのは、ただ単に、お参りしようと思ったから、お参りできたのではないですね。さまざまな条件が積み重なって、お参りすることができたのです。 その、さまざまな条件を、仏教では、「縁(えん)」といいます。皆さんが、今日、お参りにお越しになれたのも、お参りができる「縁」があったからです。 「因」というのは何かが起こるための直接的な原因のこと。「縁」というのは間接的な原因、つまりは、さまざまな条件や事情のことです。この「因」と「縁」が揃ったところに、結果(果)が生まれるわけです。 生まれた結果(果)が、今度は原因(因)となって、新たな「因縁」の網の目を生み出していきます。物事は、たったひとつの「因」で起こるわけではないのです。たくさんの「因縁(いんねん)」が集まって、「果」が生じるのですね。 この「因」と「縁」とをあわせて、一言で「縁」と言うこともあります。全ては、無数の「縁」によって、生まれてきたことなのです。 「私」が生まれてきて、今ここにいるということも、そうですよ。誰にでも両親がありますが、その両親にも両親があったのです。もちろん、その両親にもまた両親があった。かくして、「縁」の網の目は、どこまでも続いているのです。 ちょっと余談ですがね、以前、インターネットのニュースで見たことですが、2500年ほど前の儒教の祖である孔子の子孫が、現在、200万人ほどいるのだそうです。 京都市の人口が150万人くらいですから、桁外れに巨大な親戚関係ですが、孔子様の家系だけでなく、私たちの家系もみんなそうなのですよ。ただ、家系図が残っていないだけなのです。 ある数学者の計算によると、およそ800年ほど昔にさかのぼると、今の日本人はたいてい親戚になる、ということです。800年前というと、親鸞聖人や、法然上人の時代ですね。 私たちは、みんな、過去のどこかでつながっている。それだけでなく、現在只今も、私たちは、みんな、どこかでつながっているんですよ。 以前、親戚の女の子の結婚式に出席ましたら、卒業以来会ったこともなかった、私の高校時代の同級生が、新郎の知人ということで出席していて、驚いたことがあります。似たようなことは、皆さんにも、ご経験がおありだと思いますが、世間は、意外に狭いのですね。 ある研究によりますと、知人を6人ほど間に挟んだら、世界中の誰とでも、つながりがつくのだそうです。知人が知人を紹介するというかたちで、つなげていくのですが、間に6人挟まっているということで、これを「六次の隔たり」といいます。 たとえば、皆さんが、どこか遠くに旅をなさって、旅館でね、「紫雲寺の住職って、知ってる」と聞いたとします。「いいえ、知りません」と言われたら、「知ってそうな人に、順番に、この話をつないでほしい」と言ってください。 そうするとね、だいたい6人までで、「ああ、小学校の同級生だった」とか、「ああ、法話を聞きに行ったことがある」というような人にぶつかるというのです。 以前、テレビでも、何度か、これを実験したようです。聞くところによると、日本最西端の与那国島(よなくにじま)から明石家さんまさんまで、7人でたどりついたそうですし、西アフリカの小さな国から笑福亭鶴瓶さんまで、14人でつながったそうです。 仏教とは直接関係ありませんけれど、こんな話も聞いておくと、私たちのつながっている無数の「縁」の網の目を、ずっと身近に感じられるのではないでしょうか。 私たちは、宇宙が始まって以来の、無数の「縁」によって、今ここに、いるのです。また、私たちの身の上に、日々起こってくることも、宇宙が始まって以来の、無数の「縁」によって、起こったことなのです。 自分の身の上に、起こったことは全て、無限の彼方から、無数の「縁」によって、とどけられたものなのです。なぜ起こったのかといっても、分かりません。 けれど、起こったことはすべて、良いことも悪いことも、人間として育っていく気づきの「ご縁」として、受け止め、受け入れていく。それが、私たち、お念仏の教え(浄土の教え)を頂いたものの、生き方なのです。 仏教は、人生は苦しみだと、説いています。仏教の言葉で言えば、「一切皆苦(いっさいかいく)」です。この苦しみから解放されることが、仏教のテーマです。 ですが、苦しみから解放されるということは、苦しいことが無くなるということではありません。そうではなくて、苦しいことを、受け止め、受け入れることができるようになるということです。 仏教では、人生の苦しみを、八つ挙げています。まず個人的な苦しみが、四つあります。「生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)」です。 「生・老・病・死」というのは、「生まれてくること、年老いていくこと、病気になること、死んでいくこと」です。この「生・老・病・死」を「四苦(しく)」と呼んでいます。 この四つの苦しみに、「怨憎会苦(おんぞうえく)、愛別離苦(あいべつりく)、求不得苦(ぐふとくく)、五取蘊苦(ごしゅうんく)」の四つを加えて「八苦」と言います。 「怨憎会苦」というのは、怨(うら)みに思っている憎らしい人とも会わねばならない苦しみです。「愛別離苦」というのは、愛するものと別れる苦しみです。「求不得苦」というのは、求めても得られない苦しみです。この三つは、人とか物とかいった対象のある苦しみです。 で、最後の「五取蘊苦」ですが、これは、身心を煩悩に支配されている苦しみです。「取」というのは煩悩のことです。これは八つ目の苦というのではなくて、他の七つの苦を、総括して言ったものです。苦をいくつかに分けて言ったけれど、その根本は、すべて煩悩なのだ、ということです。 煩悩というのは、他の誰よりも自分が可愛いという、こころの働きのことです。煩悩に支配されている私たちは、なんでも自分の思い通りにしたいのですが、そうはいかないものですから、苦しいのです。 つまりは、人生が苦しいのは、思い通りにならないものを、思い通りにしようとするからだ、ということです。 怨みに思う憎い人に会いたくないと思っても、思うままになりません。愛するものとの別れも、そうです。これは必ずやってきます。こういった苦しみを、どう受け止めるかと、何かあるごとに、思うのですね。 先月、岐阜県でしたか、工場の解体現場を通りかかった女の子が、倒れてきた壁の下敷きになって亡くなるという事故がありましたね。 あの女の子が亡くなった、本当の原因はなにかと考えても、私たちには分からないのですね。解体方法や、安全管理に問題があったそうで、業務上過失致死という扱いになるようですが、それは法的な判断です。 もちろん、法的な判断は必要です。ですが、それは本当の原因ではないですね。さきに申しましたように、原因(因)と結果(果)は一対一では対応していません。 作業員が、誤って壁を倒したことが原因だったと、法的には判断されるでしょうけれど、誤って壁が倒れても、そこに、女の子が通りかからなかったら、事故は起きなかったのです。 壁がそのとき倒れたのには、無数の「縁」がかかわっているはずです。同じく、女の子が、そのとき、そこを通りかかったのにも、無数の「縁」がかかわっているはずなのです。 その二つの「縁」の流れが重なった理由は分からない。ただただ、悲しい「めぐりあわせ」だった、悲しい「因縁」だった、としか、私たちには言えません。 原因と結果に一対一の対応を見て、誰かが罪に問われたとしても、それは、残された家族の、思い通りの解決にはなりませんね。残された家族の、思い通りの解決とは、女の子が、無事に家に帰ってくることだからです。 ときどき聞かれることがあります。「こんな場合、仏教では、どうすればいいと言っていますか」と。ですが、その問いには、応えられません。仏教は、人生のマニュアルではないからです。 一人一人が、仏法に問いかけ、耳を澄ましていくしかないのです。何が起こっても、その人が気づいている深さでしか受け止められません。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、「いのちの真実」への気づきが深まっていくしかないのですね。 いつもお話することですが、私たちはみな、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰って行くのです。浄土は、みんなの、いのちの故郷なのです。浄土から旅だったものが、また、浄土へ帰って行く。人生は旅なのです。 もともと、「この世は、ままならない」ものなのです。というのも、この世は、私たちの持ち物ではないからです。私たちは、この世に生まれてきましたけれど、この世をもらったわけではないのです。 私たちは、この世を旅する「旅人」です。つまりは、この世の「主(あるじ)」ではなくて「客」なのです。「客」だと思えば、ご馳走が出なくても仕方がないし、お茶一杯でも、ありがたいでしょう。 そのことを忘れていると、この世の本当の姿が見えてきません。お茶一杯の幸せに気づけるほど謙虚であること。それが、まずは、まっとうな旅人の心がけです。以前にもお話したことですね。 もともと、私たちは、何も持たずに、裸で生まれてきたのです。お茶一杯でも、この世から与えられたものなのです。謙虚になって、この世の与えてくれるものを、両手を合わせて受けとめていく。そこに、はじめて、この世の本当の姿が見えてくるのです。 この世の本当の姿とは何かというと、それはですね、「私」は、自分の力で生きているのではなくて、本当は、「私」を生かす無数の「縁」の働きによって、「生かされて、生きている」ということです。 いかがですか。「生かされて生きている」というのは、よく聞く言葉ですけれど、もうひとつピンと来ないのではないでしょうかね。このことが本当に分かったとき、こころから、「ご縁を頂いて」、「お陰さまで」と言えるようになるのでしょうね。 私たち現代人は、言葉でなんと言おうとも、本心では、自分の力で生きていると思い込んでいますからね。どうですか。ですが、本当は、そうではありません。 たとえば、この身体がそうです。呼吸をするのも、心臓が動くのも、自分の力でやっているわけではありません。私たちが眠っている間も、呼吸は続き、心臓は休むことなく動き続けている。 消化の働きも、免疫の働きも、そうですね。私たちは、自分で生きているのではないのです。私たちは、自分の意志ではない、いのちの不思議な働きによって、「生かされて生きている」のです。 以前、こんな話を聞いたことがあります。
深夜、東井義雄先生のお宅に、こういう電話がかかってきた。 私たちは、自分の意志で生きているように思っていますけれど、それは違います。私たちは、生かされて生きているのです。以前にもお話いたしましたが、人生の基本は、受け身なのですよ。 生まれたいと思った覚えもないのに、生まれていた。年を取りたいと思っていなくても、年を取る。病気になりたいと思っていないのに、病気になる。そして、死にたいと思っていなくても、死ぬのです。全ては、お与えなのです。 とすればです、人生の本当の味わいというのは、人生が与えてくれることを「ご縁」として、謙虚に受け止め、受け入れるところに感じられるものではないでしょうかね。 たとえば、生きるということは、年を取るということですから、ちゃんと年を取っていくというところに、人生の味わいがある。そうは思われませんか。 私たちが、苦しいのは、人生から与えられるものを、受け取ろうとしないからですよ。私たちは、「自分が、自分が」と、「自分」を握りしめている。握りしめている手には、なにも受け取れません。その手を緩めたら、きっと、こころ安らかに生きられますよ。 「こころ安らかに生きる」というのは、悲しみも苦しみもなく生きる、という意味ではありません。悲しみも苦しみもない人生というのは、考えられませんね。 そうではなくて、「こころ安らかに生きる」というのは、何があっても、自分の人生を受け容れて、歩み続けられるということです。お念仏は、そんな旅人の、こころの杖です。 お念仏は、ただ称(とな)えるだけです。親鸞聖人のお言葉に、「念仏は、悪を転じて徳となす智慧」だとあります。称えるお念仏には、人生を変えるほどの大きな力があるのです。 「悪を転じて徳となす」というのは、「救われない悪人を、一番に救われる人に変える」ということです。「転ずる」というのは、世間の物差しが、仏の物差しに変わるということです。 グズグズ考えて悩んでいたことが、どうでも良いことに思えるようになる。「自分の力で生きている」という思いが、「生かされて生きている」という気づきに変わる。苦しい人生が、安らかな人生になる。 これが、念仏の持っている「転ずる」という働きなのです。この働きは、ただただ「お念仏」を称(とな)えることによって、発動するものなのです。
以前読んだ鈴木大拙先生の本に、こんな話が紹介されていました。
父親は、それはうまい話だと、毎日、せっせと念仏を称えては、白隠さんに報告に来るようになったのですが、しばらくすると、はたと来なくなった。 念仏は、まずは称えるもので、理屈は後(あと)ですよ。薬は、効能書きを読まなくても効くものです。 念仏は、ただ称えるだけです。ですが、何かを考えながら、うわの空で称えるものではありません。今まさに声となって働いている「念仏」を聞くということが大事です。 念仏は、称えつつ聞くものです。称えてご覧になれば、分かります。称えているだけだと、いろんな思いが頭に浮かんできて、気がかりなことに引っかかってしまいます。職場で小言を言われたことだとか、月末の集金のことだとかね。そうなるともう、お念仏どころではなくなってしまいます。 人生に悩みの種は尽きませんものね。私たちはすぐに、グズグズ考えてしまいます。ですが、自分の称えている念仏に耳を傾けていると、グズグズ考えて悩んでいた「自分」が、だんだん消えていきますよ。気づきは、そんな念仏のあるところにやってくるのです。 聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、「いのちの真実」への気づきが深まっていくと、人生の意味がかわってきて、生き方が変わります。こころ安らかに生きられるようになっていきます。 ですが、さきほども申しましたように、生きているかぎり、辛いことや悲しいことが、なくなるわけではありません。辛いことがあれば辛いし、悲しいことがあれば悲しいのです。 辛いときには辛いままに、悲しいときには悲しいままに、お念仏をこころの杖として、いのちの故郷(浄土)への道を、歩き続けられる。それが、私たち、お念仏の教えに生きるものではないでしょうかね。 仏教詩人、坂村真民さんの詩にこういうのがあります。「かなしみ」という詩です。 かなしみ
なんとも言えぬかなしみが
なんとも言えぬかなしみが 私たちは、みな、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰って行くのです。帰って行く故郷があるということは、幸せなことです。辛いことも悲しいことも、いのちの故郷への土産話と、なればいいですね。 さて、今日の話は、「先祖のおかげで、いのちがある。社会のおかげで、くらしがある。念仏のおかげで、よろこびがある」という言葉からスタートしました。 「先祖のおかげで、いのちがある」と言いますが、仏教では、「生まれることは苦しみだ」と、説かれています。「生・老・病・死」という四苦の筆頭にあるのが、「生まれる苦しみ」です。 この世は、なにかと思い通りにはならない苦しい世界です。そんな世界に生まれてきたことを、「先祖のおかげで、いのちがある」と感謝できる。 また、いじめや、リストラや、不公平・不平等なことが一杯ある社会で、「社会のおかげで、くらしがある」と感謝できる。 それもこれも、全てを気づきの「ご縁」として、聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、人生の意味が転ぜられるからですよ。 こんな苦しい世界に「生まれてきたくなかった」という思いが、「生まれてきてよかった」という気づきに転ずる。それが、念仏の働きです。そこに開かれてくるのが、「念仏のおかげで、よろこびがある」という世界です。 仏法に「ご縁」があったということは、人生が変わることですよ。仏法に出逢わなかったら、たとえば、腹が立ったら、腹が立っただけ。仏法に出逢えてこそ、腹が立ったことが、気づきの「ご縁」になるのです。 私たちの修行の場は、日々の生活にあります。日々、この身に起こってくる様々なことを「ご縁」として、聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、気づきが深まっていきます。そこに、おのずと、苦しみを受け止め、受け入れる力と、人生の旅を最後まで歩き続ける力が、育っていくのですね。 私たちは、過去のことや将来のことを、頭のなかでグズグズ考えて、悩み苦しむものですが、そんなときには、どうぞ、お念仏に帰ってください。 悲しいときも、辛いときも、そうですよ。悲しいとき、辛いときに、黙ってこらえるのでなく、称える言葉があるというのは、ありがたいことですよ。 どうぞ、皆さん、ご一緒に、お念仏を称えてまいりましょう。日々、お念仏とともにある生活のなかで、皆さんとご一緒に、「生まれてきてよかった」というところに立たせてもらいたいと、こころより願っております。 今日は掲示板の話からいたしましたが、第一回目の掲示文は、金子大栄先生の「死ぬからこそ、本当に生きる道を聞く」という言葉に、「生涯聞法」という言葉を書き加えて、掲げました。 「死ぬからこそ、本当に生きる道を聞く」。「生涯聞法」。この二つの言葉は、いつも、こころに掲げておきたいと思っております。 すでにご案内いたしておりますが、来年は、親鸞聖人の750回御遠忌の記念行事として、1月から10月まで、毎月最終日曜日に、大人向けの日曜学校を開きます。皆様のご参加を、お待ちいたしております。 本日、法事の記念に差し上げましたのは、6年前の法事のときと同じ、星月菩提樹の腕輪念珠です。星月菩提樹の間に紫色の石が挟まれておりますが、これは「紫雲石」という珍しい石だそうです。紫雲寺にちなんで作って頂きましたので、お使い頂けると有り難く存じます。 本日は、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……
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