本日はお忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ごくろうさまです。今日は、お彼岸のお中日でして、さすがに春らしくなってまいりました。 しかし、このあいだの東北地方の大地震を思うと、こころはとても春の気分とはいえません。恐ろしいことですね。地震のあとの大津波で、非常に悲惨なことになっております。お亡くなりになった方々、ご家族を亡くされた方々、被災なさった沢山の方々に、心より合掌いたします。 他人事ではありませんね。明日のことは分かりません。なにごとも、一期一会です。「仏法には、明日と云う事はあるまじき」という蓮如上人のお言葉が、改めて思われます。 一茶の句にも、こういうのがあります。 死にじたく、いたせ いたせ と、桜かな 「死にじたく」というのは、あの世への旅じたくのことです。「旅じたく、いたせいたせと、桜かな」。「旅立ちの準備はできているか、それでいいのか、忘れ物はないか、大事なことを忘れていないか」と、桜のころには、しきりと思われる。そういう句ですね。 いかがですか。年に一度の桜、来年もまた見られるか、あるいは、これが見納めか。そんな思いで、桜を見上げていると、「人生、このままで終わっていいのか」という問いかけが、こころの深みから浮かび上がってきませんでしょうか。 「人生、このままで終わっていいのか、何か大事なことを忘れていないか」。桜のころには、こんな問いかけが、しきりと心に浮かんでくる。それは、とりもなおさず、聞法へのお催促を頂いているということではないでしょうか。 それで今回は、その心の奥底からのお催促のままに、「聞法…自分を聞く」という題で、お話させて頂こうと思います。どうぞ、しばらくのあいだお付き合いください。 さて、さきほども申しましたが、東北から関東にかけて、大変なことになっていますね。テレビでも、あれからずっと一日中、その様子を伝えています。 家や田畑が跡形もなく流されてしまい、道路や橋が壊され、電気もガスも、水道も電話もとまって、復旧のめどもたっていない。毛布も、水も食料も、医薬品も、非常に不足している。そのうえ、原発も、どうなるか分からない。 沢山の遺体が収容されないまま残され、行方不明の人の数も分からない。家族や親戚や友人を亡くされた方々の、嘆き悲しみ、悩み苦しむ姿が、連日、放送されています。 本当に気の毒で、見ておれません。とても他人事とは思えなくて、なにか自分に出来ることはないか、なにが自分に出来るのかと、考えてしまいます。と同時に、被災なさった方々の姿を、お茶の間のテレビで見ていることには、なんとも言えない罪悪感を感じています。 人が食べられないときに、自分が食べていることだけでも、罪深いことなのに、家族も財産も流されて、寒い避難所で苦しんでいる人々の姿を、暖かい部屋のなかで、お茶を飲みながら見ているのですよ。わがことながら、とても、正気とは思えません。問われているのは、私自身です。 新聞やテレビには、多くの人々が助け合う姿や、援助の手をさしのべる人々のことが伝えられています。そんな様子を聞くたびに、「ああ、人間っていいなあ」と思いますね。人はひとりでは生きていけません。寂しいときには、手を握ってもらっているだけでも、有り難い。 人が助け合うことは、素晴らしいことですし、大事なことです。ですが、それが全てということではありません。人生には、人の温もりだけでは解決できない大問題があります。それは、「いずれは死なねばならない」という問題です。 現に大きな災害の起こっているときに、こんなことを言うのは心苦しいのですが、人は、病気で死ぬこともあれば、地震で死ぬこともあるのですよ。人は、たとえいくつまで生きても、いずれは死ぬのです。 他人事ではありませんよ。実際、私たちも、地震で死ぬかもしれません。近い将来、東海沖地震、東南海沖地震が起こると言われていますね。京都の場合、問題なのは、津波ではなく、火災です。京都は、戦災に遭っていませんから、古い家が沢山残っています。古い建物は建材が乾燥しているうえに、密集して建っていますしね。消防車が入れないような狭い道も沢山あります。地震で水道管が破裂したら、もうどうしようもありません。 地震だけではありません。思わぬ事故もあれば、犯罪に巻き込まれることもある。もともと、この世は、何が起こるか分からないところなのです。 普段、忘れていますけれどね。私たちは、何が起こるか分からない世界に、いつ終わるか分からない「いのち」を生きているのです。分かっていることは、たとえいくつまで生きても、いずれは死ぬということだけです。 となると、今回の大震災が、私たちに問いかけている本当の問題は何か、見えてきませんか。新たな地震対策やネットワーク作りも大切ですが、それは社会の問題です。 そうではなくて、私たち一人一人に問われている問題は何か。それはです、「いつ終わっても大丈夫という生き方をしているか」ということではないでしょうかね。 それで思い出したのですが、35歳で脊椎カリエスで亡くなった明治の歌人、正岡子規は、亡くなる少し前の日記に、こう書いています。 「余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということはいかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りということはいかなる場合にも平気で生きていることであった」(『病床六尺』)と。 「いつ死んでも大丈夫」ということは、とりもなおさず、「いつまで生きていても大丈夫」ということなのです。子規は禅宗の人でしたから、この境地を「悟り」と言っていますが、真宗の言葉で言えば、「安心(あんじん)です。 つまりは、「いつ終わっても大丈夫な生き方をしているか」というのは、私たちに人生を問う、宗教的な問いなのですね。 「いかなる場合にも平気で生きている」というのは、何も感じないということではありません。そうではなくて、悲しいときには悲しいままに、苦しいときには苦しいままに、生きていけるということ。悲しいことがあっても、苦しいことがあっても、それに潰(つぶ)されずに生きていけるということです。 脊椎カリエスという病気は、激痛をともなう病気だそうですが、呼吸が苦しく、寝返りもうてず、傷口から膿があふれてくるという状態のなかで、わずか35歳の若者が、と言っては失礼かもしれませんが、私たちより、うんと若い人がね、これだけのことを言っているのですよ。 私たちには、なかなか、そういう生き方はできません。けれども、仏教は、「そういう生き方ができない自分だとはっきり知ったら、必ず、そういう生き方ができる」と言います。禅問答のようですが、要は、自分自身を、はっきり知ることが大事だということです。そちらの方向へ、話を続けることにいたします。 仏教の最大のテーマは、自分自身を知ることです。聞法するというのは、仏法に自分を聞くことなのです。 私たちはたいてい、自分のことは自分が一番よく知っているように思っておりますけれど、本当は、そうではないのですね。私たちが一番知らないのは、自分自身のことなのですよ。 「自分とは何か」を、とことん掘り下げていくこと。それが仏法の本筋なのです。それは、「自分を問題にする」ということ、「自分の内を見る」ということですが、私たちは、たいてい、その反対に、自分の外ばかり見ているのですね。 たとえば、あれが手に入ったら幸せ、これが手には入ったら幸せと、外の世界に「幸せ」を追い求めているのが、私たちでしょう。 ですが、そういう欲望は、常に上方修正されていって、際限がありません。自転車を手に入れたら、次はオートバイが欲しくなる。オートバイを手に入れたら、次には自動車が欲しくなるというようにです。 あれが欲しい、これが欲しいという「物欲」だけではありませんね。私たちには様々な欲望があります。「食欲」、「性欲」、「名誉欲」、「権力欲」といった、おなじみの欲望ですね。 「名誉欲や権力欲なんて関係ない」とおっしゃる方もありますけれど、そうではありません。褒(ほ)めてもらって嬉しい、貶(けな)されて腹が立つというのは、「もっと褒めて、もっと褒めて」という「名誉欲」があるからです。 また、「私の言うことを聞いてくれない、あれをしてくれない、これをしてくれない」と、いらいらしているのは、人を自分の思うように動かしたいという「権力欲」があるからですよ。 私たちの心のなかには、こういった様々な欲望が複雑にからみあってうごめいています。あるいは、うごめいていると言うより燃えていると言った方がよいかもしれません。この私たちの心なかで燃えている炎を、仏教では「煩悩」と呼んでいます。 煩悩というのは、いつもお話いたしますように、ひとことで言えば、「他の誰よりも我が身が可愛いという、こころの働き」のことです。いわゆる「エゴ」のことですね。 私たちのこころは、この煩悩に支配されているので、何でも自分の思い通りにしたいのです。ですが、そうそう自分の思い通りにはなりません。それで、腹が立って、苦しくて仕方がないということになるのです。 煩悩というのは、私たちの心を苦しめ悩ます「毒」なんです。つまり、私たちが、悩み苦しむ原因は、私たちの内にあるのですが、なかなか、そんなことに気づけませんよね。 いかがですか、皆さん。ご自分の心の中を見つめてみることは、おありですか。私たちは、たいてい、「あいつは、あんなことを思っているのでないか、こんなことを考えているのではないか」と、人の心ばかり、見つめていましてね。 たまに自分の心を見ることがあっても、「よけいなことを言っちゃったかな、どうもひとこと多くいていかんな」とか、「あの仕事がうまくいかなかったのは、根回しが悪かったからだ」といった、反省のレベルまでです。 自分の姿は、鏡がないと、自分の目では見られないように、自分の煩悩は、自分では見られないのですよ。そもそも、見ようとしているのが、煩悩の目なのですからね。見ようとしても、どうしても自分の都合のよいようにしか見えないものです。 たとえばです、今年のお正月に、「のどかなり、願いなき身の、初詣で」という言葉を門前の掲示板に掲げておりましたら、「どういう意味か分からない」とおっしゃる方がおられました。 この方は、「初詣というのは、お寺や神社に、お願いごとに行くことだ」と思っていらっしゃってね、「願いがないというのは、いい身分ですな」と、笑われてしまいました。 「あれが欲しい、こうなりたい、という願いがあることが、生きる張り合いであって、そういう願いが実現することが、幸せなのだ」と、思っていらっしゃる。そういう目で見ると、この句が愚かに見える。自分は正しいとなると、自分と違っているものは間違っているということになりますものね。 皆さんは、いかがですか。「のどかなり、願いなき身の、初詣で」。これは、そんなに分かりにくい句でしょうかね。「のどかでいいなあ、あれが欲しい、こうなりたいなんて欲望のない、初詣は、のどかだなあ」ということでしょう。 ちなみに、初詣のお願い事のトップスリーは、「病気平癒、商売繁盛、家内安全」だそうです。なかには、「万事よろしく」という人もあるそうですが、それはみんな、自分にとって都合の良いことが起こりますようにというお願いです。これは、煩悩の願いですよ。 そういう煩悩に支配されている自分を否定していくのが仏教です。煩悩の願いをかなえたり、煩悩に迎合したりするのは、仏教ではありません。となると、それは仏教ではないというものが、いろいろ見えてきますね。 「加持祈祷(かじきとう)、合格祈願(きがん)、交通安全のお守り、火除けのおふだ、厄除(やくよ)け、厄払い、縁起もの、おみくじ、占い、先祖供養、水子供養」等々。 お気持ちは分かりますけれど、それは違うのです。みんな煩悩の望むままに、心が外に向いているでしょう。本来、こういったことは一切しないのが、仏教です。浄土真宗は、在家仏教ですが、こころはお釈迦様の直系なのです。 浄土真宗は、先祖を大切にしますが、いわゆる先祖供養はいたしません。このことは、秋の永代経法要のおりに、改めて、お話いたします。 話を戻します。仏教のターゲットは、心の中の煩悩です。その煩悩に支配されている自分を否定していくのが仏教なのです。 仏法は、自分には見えない自分の姿を、映し出してくれる鏡です。聞法するというのは、仏法に自分自身を聞いていくことなのです。 仏法の話は、面白いかどうかではなくてね、「自分のこととして聞く」。「いま自分のことが話されているのだ」という思いで聞くことが大事です。 「お姑さんに聞いてほしい話や」なんて他人事として聞いたり、「なるほど、そういう理屈か」なんて知識として聞いたりしたのでは、仏法を聞いたことにはなりません。大事なのは、「自分はどうなのだ」ということです。 仏法の鏡に映った自分の姿を、何度も何度も見つめているうちに、煩悩に支配されているこころの様子が、だんだんはっきり見えるようになってくる。それが、聞法を重ねるということです。 仏法に自分を聞く、そして自分の姿が見えるところに立たせてもらう。そのことを親鸞聖人は、「深信自身(じんしん・じしん)」という言葉で示しておられます。これは、「仏法に照らして、自分自身を深く知る」ということ。「仏の光に照らし出された自分自身の姿を、しっかり見る」ということです。 仏法が目指しているのは、自分が見えるようになること、煩悩まみれのお粗末な自分が見えるようになることなのです。ただ、そんな自分の姿が本当に見えたら、煩悩がなくなるのかといえば、そうではありません。 親鸞聖人は、こうおっしゃっています。「凡夫というは、無明煩悩(むみょう・ぼんのう)、われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心、多く、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、止まらず、消えず、絶えず」(『一念多念証文』)と。 「私たち凡夫の心には、苦しみの根源である煩悩が満ちている。その煩悩は、常に動き続け、死ぬまで無くならない」ということです。つまり、煩悩に支配されている自分の姿が見えても、煩悩は無くならないということです。 それなら、そんな自分の姿が見えることに、どんな意味があるのか。ちょっと先走った話になってしまいますが、それはですね、そんな自分の姿が見えているのはなぜかと考えてみると、分かります。 たとえば、煩悩まみれで真っ黒になった、お粗末な自分の姿が、この黒い丸だとしますとね。この黒い丸は、こんなふうに、ホワイトボードを背景にして、はじめてはっきり見えるようになるでしょう。 煩悩まみれの真っ黒な自分の姿が見えるのは、煩悩のない真っ白な世界があるからです。煩悩のない世界というのは、仏の世界です。 つまり、煩悩まみれの、お粗末な自分の姿が見えるということは、とりもなおさず、自分が仏の手のひらにいることに気づくということです。 自分自身への気づきが深まっていくと、ついには、仏の手のひらの上にいることに気づく。煩悩の身のままで、仏に包み込まれていることに気づくのですね。「煩悩即菩提(ぼんのう・そく・ ぼだい)」です。 これが、私たちの「いのちの真実」です。仏教は、この「いのちの真実」に気づいて、こころ安らかに生きよと教えているのですが、それには、なによりも、自分のなかにうごめいている煩悩(エゴ)に、気づくことが大事なのですね。 聞法を重ね、お念仏を称える生活の中で、少しずつ、自分の心のなかにあるエゴの動きに気づくようになっていきます。反省するのではないのです。気づくのです。 反省というのは、頭で考えることです。頭で考えることには、どうしても煩悩がからみついています。考えずに、ただただ気づくことが大事です。 ですが、考えないことなどできませんから、お念仏を称えるのです。すぐに考えようとする煩悩の働きを鎮めるのが、お念仏なのです。 なにかが起こって腹が立ったときなどに、「あ、いけない」と反省するのではなくて、「あ、動いた」と、エゴの動きに気づくことです。気づいたら、反省が始まるまえに、お念仏。それだけで、エゴの働きは鎮まっていきます。 念仏詩人、榎本栄一さんの詩に、こういうのがあります。「木の上」という詩です。 「木の上」
うぬぼれは 煩悩は、鎮まっても、無くなりませんね。ちょっと目を離すと、またぞろ動き始めます。ですが、そんな煩悩の動きに気づくのが、だんだん速くなりますよ。 私たちにできることは、煩悩に気づくことだけ。反省するのではないのです。反省ばかりしているから、気づきが深まらないのです。 煩悩のままに「生かされて生きている」、「煩悩即菩提」というのは、その気づきが深まっていく果てに、行きつく境地のことです。 「生かされて生きている」という気づきの境地は、「エゴの自分」(我)が否定されて姿を消している境地です。それは、すなわち「無我(むが)」の境地です。つまりは、「悟り」というのも、「安心」というのも、「生かされて生きている」という気づきの境地のことですね。 「ままならぬ ままならぬまま み手の中」。煩悩の身のままで、仏に包み込まれているということ。「いのち」に、生かされて生きているということ。それは、話で聞くことではなく、聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、体得されることなのです。 私たちは、浄土から生まれてきて、また、その浄土へ帰るのだと、お教え頂いています。これもまた、仏の手のひらの温もりに気づかないと、煩悩の夢に終わるのではないでしょうか。 思えば、浄土往生を求めるのも煩悩でしょう。生かされて生きていることに、本当に気づいたら、浄土往生を求めることもなく、「いのち」に任せて、満足に心安らかに、生ききり、死にきる人生が開けてくる。親鸞聖人が、晩年におっしゃった「自然法爾(じねんほうに)」とは、そういう境地のことではないでしょうか。 全てを「いのち」にお任せして、全てを受け入れる。それは、「私が必要とすることではなく、私に必要なことが起こってくる。私が必要とするものではなく、私に必要なものが与えられる」という、「いのち」への無条件の信頼です。この「無条件の信」を深めていくこと、それが「信仰の生活」なのです。 江戸時代の禅僧、良寛和尚に、こういう言葉があります。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」。有名な言葉ですが、これも同じ事を言っているのだと思いますね。 これは、無気力で投げ遣りな生き方から生まれた言葉ではないでしょう。「死ぬ時がきたら死ぬのがよいことなのだ」。そう言い切れるのは、「いのち」への無条件の信頼があるからだと思います。 これは、文政11年(1828年)に越後を襲った三条地震のおりに、自分も被災した良寛和尚が、知人に送った地震見舞いの手紙にある言葉です。 今の私には、被災地の方々に、この言葉を伝えることは、できません。ですが、私自身に向けてなら、この言葉を伝えて、頷(うなず)くことができるように思います。 蓮如上人は、こうおっしゃっています。「時節到来という事、用心をもしてその上に事の出来候を、時節到来とはいうべし」と(蓮如上人御一代記聞書)。地震であれ、なんであれ、どんなに用心していても、起こるときには起こってしまうのです。 「力の及ばざるところは如来の領分なり」(清沢満之)。今週の掲示板に掲げている言葉ですが、この言葉のとおり、「いのち」のことは「いのち」にお任せするしかありません。 死ぬ時節は、「いのち」だけが知っている。死ぬときか死ぬときでないのかは、「いのち」にお任せです。そして、もし、それが死ぬときなら、それは、浄土へ帰るとき、魂の故郷へ帰るときなのです。 「倶会一処(くえいっしょ)」という言葉があります。『阿弥陀経』にある言葉で、「また浄土で再会しよう」という意味です。帰って行く時は違っても、また同じ世界で、再会できる。そのことが本当に納得できたら、「何が起こっても、生きていける」、と思いませんか。 ふらふら流されないように生きるには、人生の要(かなめ)となるものがいります。要がなかったら、流されるだけです。その要となるもの、それが、仏法です。 私たちは、生活ばかり考えてきたから、人生を問われているのです。「これでよかったか、いつ終わっても大丈夫か」と、問われているのですよ。 大震災を受けて、ご本山では、御遠忌法要を一部とりやめました。「こんなことをしていてよいのか」と、遠慮なさったのでしょうが、社会人のつとめと、宗教人のつとめは、違うのです。むしろ、こんなときだからこそ、十分に仏法を味わうことが大事ではないでしょうか。 ひとつ何かあったら仏法どころではない自分がいる。「そんな自分に気づいているか」と、大震災から問われているように思います。 では、今日はここまでにして、店じまいにかかることにいたします。 私たちは、ものの豊かな、快適で便利な生活をすることが「幸せ」だと思っていますが、ものが豊かになれば、欲望も大きくなり、不平や不満もつのっていきますね。 それでも、私たちは、もっと科学技術が進んで、もっと物が豊かになれば、幸せになれると思っている。どう見ても、煩悩中毒の症状なのですが、この根は深いですね。 医学が進歩したおかげで助かったという人に、「よかったね」と声かけながら、「いずれ助からない日がくるけれど、そちらのほうは大丈夫?」と思ったりします。問題が先送りされただけではね。 「忙しい、忙しいと、特急人生。途中はみんな通過、通過。そして中身はからっぽ」。これは、松扉哲雄(しょうひ・てつお)先生の言葉です。 日々、忙しい、忙しいと、過ぎていく。それで、心安らかに満足して、生ききり、死にきれますか。それが、問題です。 私たちは、何が起こるか分からない世界に、いつ終わるか分からない「いのち」を生きているのですよ。 仏法に自分を聞く。この「いのち」の真実を聞く。そして、「いのち」にまかせて、「いかなる場合にも平気で生きておれる」ところに、立たせてもらいましょう。 地震によって頂いた、このたびの大きなお催促を、無駄にしては、本当に勿体ないですよ。どうぞ、皆さん、ご一緒に、聞法とお念仏の生活を、させて頂きましょうね。 では、本日は、これで終わらせて頂きます。次回は、秋の永代経法要です。半年ほど間があきますけれど、ぜひ、また、皆さんとご一緒に聞法させて頂けるよう、念じております。 また、今月27日には、親鸞聖人750回御遠忌記念の日曜講座(第三回)を開催いたしますので、皆さん、どうぞご参加ください。お待ちいたしております。 本日はようこそお参りくださいました。有り難うございました。ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダブ……、有り難うございました。
紫雲寺HPへ |