釋昇空法話集・第49話

ひとすじの道

彼岸へとつづく道

(2011年9月23日 永代経法話)
 お忙しいところを、ようこそお参りいただきました。ご苦労様でございます。去年の夏も暑かったですが、今年の夏もまた、本当に暑かったですね。年々夏が暑くなっているみたいで、気になりますけれど、皆さんは、お変わりなくお過ごしでしたでしょうか。

 今日は、お彼岸のお中日です。「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、このところようやく、朝夕の風に、秋の気配が感じられるようになりましたね。紫雲寺では、例年この秋の彼岸にあわせて、永代経法要を勤めております。

 私たち真宗門徒の「永代経」は、亡き人をご縁として勤まる法要ですが、いわゆる「先祖供養」ではありません。つまり、亡くなった誰かのために、お経を読んでもらうとか、お供えをするとか、そういうことではないのですね。

 「それなら何のために勤めるのか」と言いますと、それはですね、この迷いに満ちた世の中で、こころ安らかに歩める「ひとすじの道」に出会うためなのです。

 こころ安らかに生きていける道、そして、こころ安らかに死んでいける道。私たちが、そんな道に出合えること。それこそ、先に亡くなったご家族の願いであり、ご先祖様の願いであり、仏様の願いなのですよ。

 今回は、永代経法要ですからね、そんな亡き人々の願い、仏様の願いを、きちんと受け止めて、その「ひとすじの道」という題で話をさせて頂こうと思います。

 今年は、親鸞聖人の750回御遠忌の年ですが、私が皆さんの前でお話させて頂くようになって、今回が49回目、次回の報恩講が50回目となりますのでね、私自身にとりましても、ひとつの節目の年のように思っております。

 そういうわけで、今回と次回は、これまでお話させて頂いたことの「おさらい」になるような話になればと思っております。いつもながらの、いささか理屈っぽい話ですが、どうぞしばらくのあいだお付き合い下さいますよう、お願いいたします。

 さて、いつもお話しすることですが、まずは、「私たちの法要は何のためにあるのか」というところからお話しようと思います。

 永代経だけでなく、一周忌でも、三回忌でも同じですが、法要というのはなぜお勤めするのですかと、お尋ねしますとね、たいていは、「亡くなった方の冥福(めいふく)を祈るため、追善供養(ついぜんくよう)のため」とおっしゃいます。皆さんは、いかがですか。

 「冥福」というのは、「冥土での福」、つまり「死後の幸せ」のことです。お亡くなりになった方が、死後の世界で幸せになられますようにと、祈る。それが、「冥福を祈る」ということです。

 その「冥福を祈る」ために、なにか善いことをしようというのが、「追善供養」です。亡くなった人の代わりに、何か善いことをして、冥土での幸せに役立とうということですね。

 つまりは、「冥福を祈る」というのも、「追善供養する」というのも、亡くなった方の幸せを願って、残された人々が、何かをすることです。いわゆる「先祖供養」も、そうですね。

 ところが、私たち真宗門徒は、亡くなった方の死後の幸せを祈るということは、しないのです。というのも、私たちは、死んだら、いのちの故郷に帰っていく、浄土に帰って行くと、教えて頂いていますからね。亡くなった人のことは、心配ない。それで、いわゆる「先祖供養」は、しないのです。

 ですが、「先祖供養」をしないなんて言いますとね、「先祖を大事にしないと、バチがあたるぞ、先祖がたたるぞ」なんて言う人もいるのです。しかし、まあ、「先祖がたたる」などということは、まず、ありませんよ。

 というのはですね、私たちも、近い将来、ご先祖様と呼ばれる日がやってきますからね、そのときのこととして、ちょっと想像なさってみてください。

 この世の縁が尽きて、いのちの故郷、「浄土」へと帰っていった。そのお浄土から振り返って見たら、残してきた可愛い子供や孫の姿が見えた。ふと、お仏壇を見たら、あら、ホコリで一杯や。お花も枯れてるやないか。お墓を見たら、まあ、草ぼうぼう。

 と、まあ、そんなことがあったとしましてね、皆さんなら、どう思われますでしょうか。「とんでもない奴らだ、これはひとつ、バチをあててやらねばならん、痛い目にあわしてやらねばならん」と思われますでしょうか。おそらく、そうではないでしょうね。

 それはね、「ああ、仏様も大事にできんようになったのか、お念仏も忘れているわ」と、悲しい思いや、寂しい思いはするかもしれませんが、それでもやっぱり、残してきた可愛い子供や孫の幸せを願うのが、私たちではないでしょうかね。

 ご先祖様も、きっとそうに違いないのです。といいましても、お仏壇やお墓はどうでもいいということではありませんがね。それはまた、別の話です。

 私たちは、先に亡くなった、お父さんや、お母さんや、ご先祖様の、幸せを願って、手を合わせているように思っていますけれど、本当はね、そんな私たちの方こそ、先に浄土に帰っていった人々や、ご先祖様、仏様に、幸せを願われているのですよ。

 ですからね、私たちが、こうやって合掌している姿は、亡き人々の幸せを願っている姿ではないのです。そうではなくて、亡き人々や、仏様が、私たちに向けてくださっている「願い」を、きちんと両手で受け止める姿なのですよ。

 「私たちのお念仏は、請求書ではなく、領収書だ」とおっしゃった方がおられましたが、まことに、そのとおりです。亡き人を案じている私たちこそ、亡き人に案じられている。その、亡き人の願い、仏様の願いを受け止めるためにあるのが、私たちの法要なのですよ。

 もっとも、私たちは、ご先祖様、仏様に願われるまでもなく、ひたすら我が身の幸せを願って生きていますが、そんな私たちが願っている幸せというのは、我が身にとって都合の良いことが起こることです。ですが、自分にとって都合の良いことは、他の誰かにとって都合の悪いことかもしれません。

 たとえば、身近なところで言えば、小学校の運動会で、一等になって喜んでいる子供の後ろには、ビリになって泣いている子供がいる。また、自分が試験に合格して喜んでいるときには、他の誰かが落ちて泣いているのではないですか。

 私たちは、競争社会に生きておりますから、自分の幸せが、誰かの涙や悲しみと引き替えになっているかもしれないということに、非常に鈍感になってしまっています。

 ですが、そんな、誰かの涙や悲しみと引き替えに手に入るような「幸せ」を、ご先祖様や、仏様が願っておられるはずがない。そう思われるでしょう。

 それなら、ご先祖様や、仏様が願っておられる「幸せ」とは何かといえば、それは、「法要」という言葉そのものに、示されているように思いますね。

 「法要」とは、「法の要(かなめ)」と書きます。ここでいう「法」とは、仏法のことです。つまり、仏法が生活の要となるように、仏法の話を聞く、聞法する。そのための大事なご縁が、私たちの「法要」なのですね。

 仏法を生活の要として生きる。それは、聞法を重ね、念仏を称える生活をするということですが、そういう生活をするなかに、おのずと浮かび上がってくる「ひとすじの道」がある。

 その道は、自分の死を前にしても変わらない、生ききることができ、死にきることのできる道、人生を全うできる道なのです。ご先祖様、仏様が願っておられるのは、私たちが、そんな「ひとすじの道」と出会うことなのだと思いますね。

 いかがですか、今の私たちの生活に、「要」はあるでしょうか。今の私たちは、「ひとすじの道」を歩んでいるでしょうかね。

 もちろん、私たちは、私たちなりに、筋の通った、まっとうな行き方をしていると、思っているはずですがね。そこに、しっかりした「要」がないとね、ひとつひとつは筋が通っていても、全体としてバラバラということにも、なりかねません。

 たとえばです、結婚式は、大安の日にする。世間一般の習慣でして、別に、おかしいことではない。式場は、きれいなキリスト教の教会に決めた。別に、おかしいことではない。

 子供が生まれたら、近くの神社に、お宮参り。七五三にも、神社にお参り。12月にはクリスマスを祝い、家族が亡くなったら、お坊さんに来てもらって、仏式でお葬式。別に、おかしいことではない。

 そうですね、ひとつひとつとって見れば、別に、おかしいことではない。ですが、全体として見たら、バラバラで、わけがわからない。

 目に見える「たとえ」で言えば、こうです。これは扇子ですが、扇子の骨を一箇所で止めているこの釘を「要釘(かなめくぎ)」と言います。一本一本の骨はまっすぐですが、要釘がないと、バラバラで、扇子の形をなしません。こんなふうにです。生活に「要」がないというのは、そういうことなのです。

 まあ、私たちの生活には、しっかりした「要」はなくとも、「損得勘定」という筋金が入っていますからね、それなりに、ひとすじの道を歩んでいるように、見えるのですけれど、それは、やっぱり、どこまでも続いている「ひとすじの道」ではない。

 たとえば、いい大学を出たほうが、いい会社に就職できると思って、一所懸命に勉強する。自分の車を持ちたい、家を持ちたいと、一所懸命に働く。私たちはたいてい、そんなふうに、何か目標を決めて、そこに向かって行くものですから、ひとすじの道を歩んでいるように見えるのです。

 ですが、たまたま受けた検診で病気が見つかって、あと半年の命ということになったりすると、まっすぐに歩いてきたはずの道が、そこでグズグズになってしまいます。

 いよいよ自分が死ぬということになると、どんな人生の目標も、趣味も、生き甲斐も、みんな色あせてしまい、力を無くしてしまいます。

 損得勘定でいえば、自分の死は究極の大損ですよ。どんなに恵まれた、得の多い人生でも、最後は大損して、ご破算になる。とすると、これは考えるだけでも恐ろしい。

 人生の最後には、破滅が待っている。そのことを、こころの底では知っているものですから、私たちは、死ぬことなど考えないようにして暮らしている。つまりは、私たちは、人生をごまかしながら生きているということです。

 ですが、損得勘定の延長上には「死」があるだけだとすれば、人生にとって一番大事なことは、損得ではないでしょう。そうではなくて、人生にとって一番大事なことは、死と向かい合っても変わることのなく歩み続けていける、「ひとすじの道」に出会うことだと思いますね。

 それは、親鸞聖人の言葉で言えば、「生死出ずべき道」ということになろうかと思います。「生死出ずべき道」とは、私たちの暮らしている、この迷いの世界から解放される道のことです。

 親鸞聖人は、奥さんの恵信尼の手紙によりますと、「後世(ごせ)のたすかる縁」を求めてご苦労なさった。「後世のたすかる縁」というのは、死によってプツンと切れてしまわない道のことですね。そして、親鸞聖人は、法然上人のもとで、ついに、「生死出ずべき道」に出会われたのです。それが、「お念仏の教え」です。

 「お念仏の教え」というのは、「あの世のこと」を知るための教えではありません。そうではなくて、「お念仏の教え」は、「この世の現実」と「いのちの真実」を知るための教えなのです。

 「いのちの真実」というのは、なにかと言えば、それは、私たちはみな、「仏のいのち」を生きているということです。そのことを、仏教では、「一切衆生、悉有仏性(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)」と言います。

 「いのち」に、私のいのち、あなたのいのち、はないのです。私たちはみんな、「仏のいのち」を生きているのです。自分だけの「特別ないのち」というのは、ないのです。「いのち」は、本質的に、平等なのです。これが、「いのちの真実」なのです。

 ところが、いつもお話いたしますように、私たちのこころのなかには、「煩悩(ぼんのう)」というものがあるために、私たちは、「自分は特別だ」と思っている。そこから、「迷い」が生まれるのです。

 私たちのこころも、私たちの社会も、すべて、この迷いのもとである煩悩に支配されています。私たちの悩みや苦しみの本当の原因は、この煩悩にあるのです。これが、「この世の現実」です。

 煩悩は、私たちの「いのちの平等性」を覆い隠しています。それで、私たちは、自分を特別な存在として、人を差別し、「損得勘定」しているのです。

 煩悩の支配する社会は、おのずと上昇志向の社会になってしまいます。上下でいえば上を、損得でいえば得を求めるのが、煩悩ですからね。学歴であれ、家柄であれ、職業であれ、健康であれ、なんでもそうです。私たちは、上をめざし、特別な自分に成ろうと努力している。それが、迷いなのですよ。

 それは、「他の誰よりも自分がかわいい」という煩悩に振り回されているだけなのですが、私たちは、ほとんど、そのことに気づいていませんでね。幸せになろうと、努力しているのだと思っているのですよ。

 まあ、そんな、あからさまな上昇志向のことは、置くとしましても、私たちは、こころの底に、煩悩という「差別の種」を持っているのですからね、私たちのすることには、どこかしら、差別のにおいがしますね。自分では、気づいていませんけれどね。

 たとえば、このあいだも、ある方が、こんなことをおっしゃいました。「ご院さん、奈良や和歌山は、台風でえらいことになってますなあ。家族なくした人や、家なくした人のこと思たら、ほんまに、私ら、喜ばなあかんと思いますわ」と。

 皆さんも、よくお聞きになる話ではないかと思いますがね。自分より不幸な人がいるから、それと比べれば自分は幸せなのだ。ということになれば、幸せを感じるためには、つねに自分より不幸な人が必要だ、ということになりませんかね。

 「同情」するというのも、そうですよ。私たちは、自分より不幸な人にしか、同情しませんでしょう。それに、同情しても、その同情が続くかどうかは、相手次第です。「同情して損した」なんて、言葉もありますしね。

 以前、電車のなかで、こんな話を聞いたことがあります。「え、あの人、火事に遭わはったんですか。まあ、お気の毒なことやなあ。え、ケガものうて、保険で、前より立派な家、建てはったてかいな。なんや、あほくさ」。

 たいてい意識してはいませんけれど、私たちは、なんでも「上から目線」で見ようとしています。ですから、逆に、上から目線で見られたりすると、不愉快になるのですよ。「同情されたくない」というのは、そういうことですね。自分は特別なのですよ。

 ちょっと余談ですが、この「自分は特別だ」という思いは、無意識的に、いろんなところに出るのですね。これは聞いた話ですが、たとえば、結婚式なり、同窓会なりの、集合写真を見るときでも、ほとんどの人が、最初に探すのは自分の顔だそうですね。皆さんは、どうですか。

 また、文具店で、かなり高価な万年筆の試し書きをしている人を見ていますと、たいてい、ご自分の名前をお書きになりますよ。100円ていどのボールペンなんかだと、たいてい、グルグルと螺旋を書いたり、縦横の線を引いたりするだけのようでして、ちょっと考えてしまいますけれどね。

 私たちの関心は、いつも、特別な自分にあるのですね。神様・仏様に「無病息災、家内安全、商売繁盛」を願うというのも、そうでしょう。自分の得になることが起こるように、神様・仏様を利用しようとしているだけですよ。私たちには、神様・仏様より、「オレ様」が大事なのです。

 ですが、差別する者は、差別される者でもありまして、特別な自分は、傷つきやすいのです。褒められれば、舞い上がり、貶されれば、落ち込む。そして、こころのなかに、プライドとコンプレックスを、溜め込んでいく。これは重い荷物ですよ、人生という旅路にとってね。

 特別な自分は、つねに褒められたい、感謝されたい。生きているあいだも、死んでからも、死に際もです。ところが、なかなか、そうはいきませんね。もともと、この世は、自分の思い通りにはならないものなのです。

 結局、私たちは、そんな特別な待遇を要求する自分自身を、持て余して、悩んだり苦しんだりしているのですよ。

 それはみな、自分のこころなかにあって、「いのちの真実」を覆い隠している煩悩のためなのですが、私たちは、そのことに、なかなか気づけないのですね。だからこそ、何度も何度も、仏法に聞いていくこと、聞法していくことが大事なのですよ。

 妙好人の源左に、こんな言葉があります。「聞いとけよ、聞いとけよ、そのうちに聞いたことがほんまになるでな」。聞いてきたこと、聞法してきたことが、ほんまになる。それは、私たちが、自分の迷いに気づき、「いのちの真実」に気づくときですね。

 私たちは、「特別な自分」という思いに苦しんでいるのです。ですからね、聞法を重ね、お念仏を称える生活の中で、「自分は特別ではない」、「自分は特別でなくていいのだ」と、本当に分かったら、きっと楽になりますよ。

 「特別な自分」ではなく、「あるがままの自分」を生きる。それは、「この世の現実」ではなく、「いのちの真実」を生きるということですね。

 それが、つまりは、「ひとすじの道」を生きるということです。その「ひとすじの道」を歩むことが、人生をごまかさずに生きるということです。

 お金も大事ですけれど、生きていくのに、そんなに多くは要りませんよ。沢山あっても、昔から、「お金は貯めて、置いて行く。罪は作って、持って行く。仏法聞かずに、落ちていく」と、言いますでしょう。

 「虎は死して皮を留(とど)め、人は死して名を残す」という言葉もありますが、名を残しても、何になるでしょうね。

 このあいだ、「10万年後の安全」という映画を観てきました。原発の使用済み核燃料が、生物に無害になるまでには、最低10万年かかるそうです。フィンランドでは、その放射性廃棄物を、10万年後まで地下に貯蔵しようとしています。そのプロジェクトをめぐって、未来の地球の安全を問いかけるドキュメンタリー映画です。

 その映画で、「10万年後に、この地球に人類がいるかどうか分からない」という言葉を聞きましてね、「本当だなあ、名前を残そうなんて思いは、何とも空しいなあ」と思いました。

 私たちには、たいてい、この「特別な自分」が生きていた証(あかし)を残しておきたいという思いがありますからね。それで、業績を残し、名前を残し、自分史を書き残し、子孫を残し、墓を残すことを考えるのですが、悠久の時の流れを思えば、そんなこと、どうでもいいことではないでしょうかね。

 「特別な自分」を手放していく。「どうでもいい」と手放していく。そうしたら、もっと、楽に生きられるのではありませんか。人生を難しくしているのは、「特別な自分」を握りしめている煩悩ですよ。

 このあいだ、「大往生なんか、せんでもええやん!」という題の本をみつけまして、目次も見ずに買いましたが、「死に際を飾ろう」などというのも、煩悩ですね。

 山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)でしたかね、人生の最後には威儀を正して死にたいと、皇居に向かって結跏趺坐(けっかふざ)していたら、だんだん苦しくなってきた。そばにいた人が、見かねて、「お釈迦様でもお亡くなりになるときは横になっておられたぞ」と言ったところ、「ああ、そうか」と、横になって亡くなった、ということです。

 「ああ、そうか」というのが面白いですが、こんな話もあります。江戸時代、九州の博多に、仙崖義梵(せんがいぎぼん)という有名な禅僧がおられましたが、その仙崖和尚の臨終のときのこととです。

 枕元で、お弟子さんが、「最後になにか一言お願いします」と言ったところ、仙崖和尚は、「死にとうない」と言った。それを聞いたお弟子さんは、あわてて、「もう一言」と言った。すると、和尚は、こう言った。「ほんまに」。

 苦しかったら横になる。死にたくなかったら、死にたくないで、いいではないですか。「どうでもいいこと」ですが、その「どうでもいいこと」を、「どうでもいい」と思えるようになるのが、仏法の功徳ではないでしょうかね。

 私たちはみな、「仏のいのち」を生きているのです。「仏のいのち」を生きる人生に、失敗も、成功もないでしょう。それを思うと、こころが軽くなりませんか。こころが軽くなったら、本当に大事なことが見えてきますよ。

 それは、人によって違うのかもしれません。本当の個性ある生き方というのは、そんな、人生には失敗も成功もないという気づきのうえに、始まるものではないかと思います。

 死後のことは、心配ありません。仏のいのちは、仏の世界へ帰って行く。浄土へ帰って行くのです。

 お念仏を称えながら、人生を味わい、特別な「オレ様」を手放していく。名もなく、本来の何者でもない自分となって、「仏のいのち」へと帰って行く。お浄土へと帰って行く。念仏の道は、浄土へと続いているのです。

 浄土は、私たちの「いのちの故郷(ふるさと)」です。私たちの歩んでいる道は、向こう岸の浄土へと続いている。彼岸へと続いているのです。

 ですが、そのことを知っているのと、知らないのとでは、この世での、人生の味わいが違います。「後生(ごしょう)の一大事」というのは、そのことですね。

 人生の最後に、「ああ、もうすぐ故郷だ」と、こころ安らかに歩み続けられる道。それが、親鸞聖人のおっしゃっている「生死出ずべき道」だと思います。

 「生まれてきてよかった」と本当に思えるのは、その「ひとすじの道」に出会ったときではないでしょうかね。

 では、このあたりで、店じまいにいたしましょう。

 今日は、法要は何のためにあるのかという話から始めましたが、昨年でしたか、「三回忌と二十三回忌をいっしょに勤めたい」という方がおられましてね。

 まあ、そういうことは、まま、あることですから、ちょっと聞いてみたのです。「三回忌と二十三回忌では、どちらが重い法要だと思われますか」と。

 すると、どうやら、「三回忌の方が重い」と思っていらっしゃったようでした。けれど、それは、違うのですね。二十三回忌の方が、うんと重いのですよ。

 たしかに、どんなに深い悲しみでも、時間とともに、薄れてきます。それは、本当に、有り難いことです。その、時間とともに薄れていく悲しみを基準に考えたら、「二十三回忌より三回忌の方が重い」ということになるでしょうね。

 ですが、時間とともに、悲しみが薄れてくるということは、自然の流れでして、法要とは関係有りませんね。

 私たちの年忌法要は、亡くなられたお身内をご縁として勤める法要です。それは、亡くなられた方が、最後に結んでいってくださった、仏法へのご縁を、感謝する法要ですよ。

 大切な人を無くした悲しみは、年々薄れていっても、大切な方が結んでいってくださったご縁のお陰で、「いのちの真実」への気づきが、年々深まってくる。その、深まってくる気づきに感謝して勤めるのが、私たちの年忌法要ですよ。

 年忌法要は、回を重ねるごとに、重くなっていきます。ですから、「三回忌より二十三回忌の方が、うんと重い」のです。実際、「うんと重い」と言えるほど、気づきが深まっていると、有り難いですね。

 聞法を重ね、お念仏を称える生活の中で、気づきが深まって、「ひとすじの道」に出会えた人は、幸せです。「ひとすじの道」に、迷う人はいない。この世の旅で、迷うことのない道に出会えたら、もう安心ですよ。

 「聞いとけよ、聞いとけよ、そのうちに聞いたことがほんまになるでな」。これは、その「ひとすじの道」に出会った人の言葉です。両手を合わせて、しっかりと受け止めて頂きたい言葉ですね。

 私たち門徒のお墓には、「南無阿弥陀仏」と彫るか、「倶会一処(くえいっしょ)」と彫ります。「倶会一処」というのは、また、お浄土で会いましょう、「いのちの故郷」で再会しましょうという意味です。

 いつかまた、亡くなった大切な方と、お浄土で再会するのです。そのときに、「あなたを亡くしたときには、本当に悲しかったけれど、あなたが結んでいってくださった、仏法へのご縁のお陰で、本当に、有意義な人生を送れました。有り難うございました」と、報告できたら、先にお浄土に帰られた方も、きっと喜んでくださるだろうと思いますね。

 ご恩報謝という言葉があります。ご恩に報いるということですが、それは、ご恩を返すということではありません。そうではなくて、ご恩を無駄にしないということなのです。

 先立たれた大切な方々の、ご恩を無駄にしない。それこそが、本当の親孝行、本当の先祖供養ではないでしょうかね。どうぞ、大切な方々が結んでいってくださった「お念仏の教え」へのご縁を、大切になさってください。

 では、本日は、これで終わらせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。

 つぎは、11月13日の「報恩講」でございます。またご一緒に聞法させて頂けるよう、念じております。本日は、お忙しいところをお運び頂きまして、有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…



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