釋昇空法話集・第52話

浄土の慈悲

仏のいのちを人生の受け皿として

(2012年9月22日 永代経法話)
 ようこそお参りくださいました。ご苦労さまです。今日は、秋のお彼岸のお中日です。春のお彼岸から、ちょうど半年たったわけですが、6月22日に前住職が逝去いたしましたことで、常になく慌ただしくも物思う半年でございました。

 その折りには、お同行の皆様にも、大変お世話になりました。お陰さまで、8月5日に満中陰を勤めさせて頂きまして、ひとまず一段落したところでございます。この場をおかりしまして、まずは御報告、御礼申し上げます。有り難うございました。

 皆さんも、大切なご家族を亡くしたという経験がおありではないかと思います。あるいは、そういった亡くなられた方々の供養のためと思われて、今日、ここにお参りになっている方もおられるかもしれませんね。ですが、仏教は、お亡くなりになった方をお祀りするための教えではないのですね。

 これまでにも何度もお話してきたことですが、仏教は、御利益祈願や、先祖供養のための教えではないのです。そうではなくて、仏教というのは、私たちが、「いのちの真実」に気づくための教えなのですよ。

 「いのちの真実」というのは、一言でいえば、私たちはみな「仏のいのち」を生きている「いのちの仲間」だということです。私たちはみんな、「仏の子」なのですよ。

 ところが実際には、私たちは、我が身大事な「煩悩」に妨げられて、「損だ、得だ」と、いがみあって生きている。それで、生きづらくて仕方がないのです。

 「亡き人に 迷うなと 拝まれている この私」。どなたの言葉か存じませんが、まことに、そのとおりですよ。ご先祖様、仏様は、どうか「いのちの真実」に気づいてくれと、願ってくださっている。その願いを、両手を合わせて、きちんと受け止めていくのが、私たちの法要なのですよ。

 今日は永代経法要ですのでね、お亡くなりになった方々、ご先祖様、仏様の願いをしっかり受け止めまして、「浄土の慈悲」という題で、私たちの「いのちの真実」のお話をさせて頂こうと思います。

 前回、「この51話でひとくぎり」と申しましたわりには、区切り映えがいたしません。いつもながらの思いつくままの、まとまりのない話でございますが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、「いのちの真実」というと、これですね。これは、地蔵盆でね、私たちはみんな、「仏のいのち」を生きている「いのちのなかま」なのだということを、子どもたちに話したいと思いましてね、作ったものです。

 以前にも、ご覧頂いたかと思いますが、初めてご覧になった方もおられるかもしれませんので、ちょっとご説明いたしますと、これは、海の上に、島が浮かんでいる絵です。丸い島、四角い島、三角の島ですね。

 目に見える世界では、島は、みんな、姿も形も名前も違います。ですが、実際には、海に浮かんでいる島というのは、世界中探しても、どこにもなくて、丸い島も、四角い島も、三角の島も、みんな、目に見えない海の底でつながっていて、「ひとつ」なのです。

 私たちも、これと同じなのです。目に見える世界では、「私」と「あなた」は、別の人間です。姿形も名前も違う。生まれも、年齢も、経験も、出来ることも、好き嫌いも、みんな違います。

 ですが、目に見えない「いのち」の奥底では、みんな、つながっていて「ひとつ」なのです。私たちは、大きなひとつの「いのち」を生きているのです。

 私たち仏教徒が、仏様と呼んでいるのは、この大きな「いのち」のことなのです。つまり、私たちは、「仏のいのち」を生きているということです。私たちは、みんな、「仏のいのち」を生きている「いのちのなかま」なのですよ。

 人間だけでなくて、犬もネコも、草も木も、「いのち」あるものはみんな、「仏のいのち」を生きている「いのちのなかま」です。仏教で言う「一切衆生、悉有仏性」というのは、このことですね。これが、「いのちの真実」です。

 毎年、地蔵盆で、子供たちに、この絵を見せることにしております。今年も、地蔵盆で、これを見せましたらね、「ああ、それ知ってる!」という子供が何人もいました。それでね、「この絵、説明できるかな?」と言いましたら、「下でつながってるんや!」と言ってくれましたよ。ちゃんと伝わっているのですね、大事なことが。

 これが、「いのちの真実」、つまりは、「いのちの秘密」です。目に見えない世界のことですからね。この「いのちの秘密」を知っているということが、私たちにとって、生きていくうえでも、死んでいくうえでも、とっても大事なことなのです。

 ですが、たいていの現代人は、子供のときに、こういう絵を見ることもなく、こういう話を聞くこともなく育ちますからね、目に見えない世界のことは、ご存じない。つまりは、目に見える、この水平線から上の世界が全てだと思っている。

 ここから上の、目に見える世界では、「あなた」と「私」は別の人間です。自分と他人は違うということになれば、おのずと、自分と他人を比べるようになります。「大きい」とか「小さい」とか、「上」だとか「下」だとか。「損」だとか「得」だとかね。  自分と他人を比べると、おのずと、「他の誰よりも我が身が可愛い」ということになりますからね、そんな自分にとって、生きていくうえで一番大事な判断基準は、「損か、得か」ということになってくる。

 かくして、私たちは、「損か、得か」という物差しを握りしめて、自分にとって「得」になることがあれば「幸せ」、「損」になることがあれば「不幸せ」と、なんでもかんでも「損得勘定」で生きているうちに、一生が終わってしまうのです。

 で、お考え頂きたいのですがね。どなたの人生でも、最後には「死」が待っているわけですが、この「死」は、損得勘定で言えば、「損」でしょうか、「得」でしょうか。「損・得」で言うのなら、損も損、大損ではないですかね。

 人生の算盤(そろばん)で、どんなに大きな数を入れていても、最後は「御破算(ごわさん)」になる。どんなに恵まれた、「得」の多い人生でも、最後は大損で終わる。

 人生を振り返ったり、自分の死を考えたりするのは、人間だけだと言われておりますが、なにかご縁あって、自分の死を見つめたときに、これは、おかしいのではないか、「損か、得か」という物差しで、人生を計るのは、間違っているのではないかと、気づけると、いいのですがね。なかなかね、ご縁がないとね。

 思いますにね、いわゆる「宗教」に欺されたりするのも、損得勘定で人生を考えているからですよ。たとえばね、どうも仕事がうまくいかないとか、病気がなかなか治らないとか、自分の思い通りにならないことがあってね、見てもらったら、「それは三代前のご先祖様の供養ができていないから」なんて言われるわけですよ。どうかと思いますがね。

 このあいだも、北山通りをバイクで走っていて、信号で止まりましたら、横に立て看板がありましてね、こう書いてありました。「水子観音、水子供養。恐ろしき水子の障り、世に出られぬ哀しき水子の供養。開運招福、大黒天」と。その看板を出しているお寺の名前も書いてありましたが、損得勘定を離れられないお寺もあるようで、困ったものです。

 仏教というのは、欲望の世界を有利に生きるための教えではないのです。そうではなくてね、仏教は、欲望の世界のなかにありながら、「いのちの真実」に目覚める教えなのです。つまりは、欲望の夢から覚めて、本当の自分を取り戻す教えなのですよ。

 私たちは、生きている限り、煩悩から逃れることはできませんけれど、「いのちの真実」への気づきを深めていくことで、欲望を人生の羅針盤にすることから免れることができるのです。

 そのことが分かっておりませんとね、お墓参りをしたり、お仏壇にお供え物をしたりすることが先祖供養だと思ってしまうのですよ。そういうことが仏教だと思っているとね、なんやかんやと一所懸命にやりながらも、「仏事に迷う」ということになるのです。

 本当の先祖供養はね、いつもお話いたしますように、私たち自身が「いのちの真実」に目覚めて、「ああ、生まれてきてよかった、ようこそ産んでくださった」と、そういう広い世界に立たせてもらうことなのですよ。

 「いのちの真実」に目覚めるというのは、本当のことに気づくということです。本当のこととは、私たちは、「仏のいのち」に支えられて、生かされて生きているということです。私たち現代人は、自分の力で生きていると思っているようですが、そうではないのですね。

 それは理屈で考えても分かりますでしょう。呼吸をするのも、心臓が動くのも、自分の力でやっているわけではない。私たちが眠っている間も、呼吸は続き、心臓は休むことなく動き続けている。

 消化の働きも、免疫の働きも、そうですね。私たちは、自分で生きているのではないのです。私たちは、自分の意志ではない、「いのち」の不思議な働きによって、「生かされて生きている」のです。

 人生全体で見ても、そうですよ。生まれたいと思った覚えもないのに、生まれてきた。年を取りたいと思っていなくても、年を取る。病気になりたいと思っていないのに、病気になる。そして、死にたいと思っていなくても、死ぬんです。全ては、お与えなんです。

 私たちは、なんでも自分の思いどおりにしたいし、自分の思いを実現していくのが人生だと考えていますが、「生老病死」という人生の枠組みそのものが、すでに、「私」の思いを超えているのですよ。

 「わが身に、行きづまりはない。行きづまるのは、私の思いだけである」。これは、廣瀬杲先生の言葉です。まことに、真実を言い当てたお言葉だと思います。

 「人生は、根本的に、お与えなのだ」、「行きづまるのは、私の思いだけだ」と、理屈で知っただけでは何にもなりません。「わが身に、行きづまりはない」という、「いのち」への絶対の信頼がないと、「人生はお与え」だと言っても、その「お与え」を受け止めることができません。

 その、人生を受け止める「受け皿」を育てていくのが、信仰の生活なのです。聞法を重ね、お念仏を称える日暮らしのなかで、おのずと、「いのちの真実」への気づきが深まっていき、「いのち」への信頼が育まれてくる。そこに、人生の「受け皿」ができてくるのですね。

 逆に言いますとね、人生は、自分の気づきの深まりに応じてしか、受け止められないということでもあります。ですからね、「仏教では、こんなとき、どうしろと教えているのか」というような質問は、ほとんど意味がありません。仏教がどう教えていようと、自分自身の気づきが、そこまで深まっていないと、ただの言葉にすぎないからです。

 たとえば、『法句経』に、こういう言葉があります。「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である」と。

 話はよく分かります。やられたら、やりかえす。そんなことを繰り返していては、争いは止みません。争いを止めるには、怨みを捨てるしかない。ですが、それでは実際に、今、怨みを捨てられるかということになると、そんなことができたら苦労はしないということに、なりませんでしょうかね。

 インターネット上にホームページを開いておりますと、「こんなとき、仏教では、どうしろと言っているか、あなたなら、どうするか」といったお尋ねを、ときどき頂きます。

 たとえば、先日も、こんなお尋ねを頂きました。「目の前で家族が殺されたような場合でも、あなたは、人生には必要なことが起こってくるのだ、これも阿弥陀様のお与えだと受け止められるか? 相手を憎まずにおれるか?」、「また、乗っていた船が沈没しそうになって、救命ボートに乗れるのはあと一人というときに、船に残っているのが、あなたと、もう一人、赤の他人だとしたら、どうするか?」と。

 皆さんは、どう思われますでしょうかね。仏教は、自分自身を問う教えですから、仏教徒なら、「あなたならどうするか」ではなくて、「自分ならどうするか」と問うものでしょう。問い掛けの方向からして違うのですが、まあ、それはいいとしましてね。

 私は常々、船が沈んだらどうするかとか、家族が目の前で殺されたらどうするか、というようなことを考えながら暮らしているわけではありませんのでね、「そのときになってみないと分からない」とお応えしました。そうしたら、大変腹を立てられたようで、お叱りのメールを頂きました。

 しかしまあ、家族が目の前で殺されるというようなことは、可能性はゼロではないにしても、まず、ないでしょう。自分の現実問題でないことを、「こんな場合はどうする、あんな場合はどうする」と考えても、仕方がないと思うのですがね。

 とはいえ、「そのときになってみないと分からない」とお応えしたのは、冗談ではなくて、本心です。私たちは、仏法にご縁を頂いたのです。仏法にご縁を頂いたということは、聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、日々、仏法にお育てを頂くということです。

 お育てを頂くということは、明日の私は、今日の私ではないということです。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、人は常に変わっていく。ですからね、何かが起こったときに、どうするかは、実は、そのときまで分からないのですよ。さきほど、人生は、自分の気づきの深まりに応じてしか、受け止められないと申しましたのは、このことです。

 先日、大谷祖廟の暁天講座で、こんな話を聞きました。あるお寺の子供さんが、お寺の門前で遊んでいて、タクシーに引かれて亡くなった。ご院さんは、腹が立つやら哀しいやらで、持って行きようもない苦しみのなかで、「あいつを殺してやりたい」と思うのですね。

 警察の取り調べもあってか、タクシーの運転手は、なかなか謝りにも来ない。となると、ますます腹が煮えて、「殺してやる、殺してやる」という思いばかりが高まってくる。で、何日かたって、ようやく謝りに来た。

 土下座をして謝る運転手を見て、ご院さんは、思わず、自分でも信じられないようなことを言った。「あんたも大変やな」と。

 ご院さんは、このとき、自分の口から出た言葉に驚かれたそうですが、私は、この話に感動しましてね。暁天講座で聞いた他の話は、みんな忘れてしまいましたが、この話だけはこころに残りました。

 と言いますのは、この「ご院さん」は、立派だとか、門徒のお手本だとか、そういうことではないのです。そうではなくてね、言った本人も驚いた、「あんたも大変やな」という言葉は、人間の口から出たには違いないのだけれど、これは仏の声だと、はっと気づいたからです。

 この絵のここから上の、目に見える世界では、この「ご院さん」と「運転手さん」は別の人間です。「あなた」と「私」は別というこの世界では、「運転手さん」は加害者で、「ご院さん」は被害者です。

 「ご院さん」のこころは、大事な子供を殺された怒りや怨みで、煮えくりかえっている。そんなところに、「あんたも大変やな」というような言葉は出てきませんよ。

 この言葉は、「あなた」と「私」がひとつであるような、目に見えない「いのち」の深いところから、浮かんできたものに違いない。それは、この仏の世界、お浄土ですね。

 煮えたぎる「ご院さん」のこころに、お浄土から一陣の風が吹いてきた。その風が、「あんたも大変やな」という言葉となった。その言葉には、「運転手さん」だけでなく、「ご院さん」自身も、救われたのではないでしょうかね。

 昔はね、こんなふうに、ふと、お浄土からの風に吹かれて、他人(ひと)を思いやるこころが生まれることを、「仏心(ほとけごころ)が起きる」と言いました。最近は、とんと聞かなくなった言葉ですが、残念ですね。

   仏心(ほとけごころ/ぶっしん)とは、仏の慈悲のこころ(大慈悲心/だいじひしん)をいいます。また、仏心というのは、一切衆生に本来備わっている「仏性」(ぶっしょう)のことでもあります。仏性というのは、いつもお話いたしますように、私たちの「いのち」そのもののことですね。私たちは、「仏のいのち」を生きているのです。

 ですが、「仏のいのち」を生きている、「仏の慈悲」に支えられて生きている、と言われましてもね、私たちには、そんなふうに感じられません。それは、私たちが、まだ、この水平線から上の世界で生きているからですよ。

 この水平線から上で、目に見える世界が全てだと思っているあいだは、私たちは「仏のいのち」を生きているのだと聞いても、それは、ただの言葉にすぎません。

 それが、仏法にご縁があると違ってくるのです。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、「いのちの真実」への気づきが深まっていくと、別の世界がひらけてきましてね、「生かされて生きている」という感動や、「すでに救われている」という実感が生まれてくるのです。

 「救われる」という言葉を、私たちは誤解しております。「救われる」というのは、自分の思いがかなうということではないのです。給料が上がるとか、病気が治るとか、嫌いな隣人が引っ越していったとか、そういうことではないのです。

 この世は、もともと、思い通りにはならないところなのです。そのことを、仏教では「一切皆苦」といいますけれど、この、思い通りにならない世界で、思い通りにならないながらも、一歩一歩、歩き続ける力をもらうこと、それが「救われる」ということなのです。

 この「仏のいのち」に触れて、「生かされて生きている」という気づきが生まれると、人生が与えてくれるものを、その気づきの上に受け止められるようになる。つまりは、この「仏のいのち」が、人生の「受け皿」になる。そこに、人生の全てを受け止めて、生きられる力が生まれてくる。それが、「救われる」ということです。

 ですからね、年老いていくなかにも「救い」があり、病気のなかにも「救い」がある。そして、死んでいくなかにも「救い」があるのです。

 そんなふうに、「仏のいのち」に触れて「救われた」人には、なにか他の人にはない「明るいもの」があるのですね。その明るさが、おのずと、他の人が救われていく「ご縁」となる。そういう本当の「救い」を、『歎異抄』(第4章)では、「浄土の慈悲」という言葉で表しています。

 この言葉は、今回の話のタイトルとして掲げた言葉ですが、『歎異抄』には、こう記されています。「浄土の慈悲というのは、念仏によって、すみやかに浄土に生まれ、仏となって、その大いなる慈悲のこころで、思いのままに人々を救うことをいう」(意訳)と。(原文:「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」)

 この「念仏によって、すみやかに浄土に生まれ、仏になって」というのは、死後のことではなくて、「いのちの真実」への気づきが、この「仏の世界」にまで深まることを言っているのです。

 また、「思いのままに人々を救う」というのは、この煩悩まみれの「私の思いのままに」ではなくて、「念仏によって、すみやかに浄土に生まれ、仏になった」私の思いのままにということ、つまりは、「仏の思いのままに」「いのちの願いのままに」ということです。

 「仏のいのち」に触れ、この身が「仏のいのち」の働く場になると、おのずと、この煩悩の支配する暗闇の世界のなかで、一隅を照らす光となる。その光が、暗闇の中で迷っている人々の足元を照らすことになるのですね。

 「人の為と書いて、偽りと読む」。この言葉を門前掲示板に掲げておきましたら、通学途中の小学生や中学生が、大声で読んでね、「おーお、納得!」なんて言っている声が聞こえてくるのですよ。なにか思い当たることがあるのかもしれませんね。

 自分と他人を区別して、他の誰よりもわが身が可愛いという、この世界では、人の為と言っても、つきつめれば自分自身の満足のためでしょう。

 ですがね、いのちの奥底では、「私」も「あなた」もなくて、「仏のいのち」があるだけです。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、「いのちの真実」への気づきが深まっていくというのは、この、「私」も「あなた」もない「仏のいのち」への気づきが深まっていくことなのです。

 ここまで気づきが深まって、はじめて、「あなた」の悲しみは「私」の悲しみ、「あなた」の喜びは「私」の喜びという、本当の共感が生まれるのですね。「あんたも大変やな」という、さきほどの「ご院さん」の言葉も、この世界から吹き込んできた風から生まれた言葉なのだと思いますね。

 私たちにとって、本当に大事なことは、「念仏によって、すみやかに浄土に生まれ、仏になって」、この暗闇の世界を照らす光となることなのですよ。

 それは、とりもなおさず、「仏のいのち」が、私の人生を受け止める「受け皿」となることです。私たちは「仏のいのち」を生きているのですから、「仏のいのち」を信じて、つまりは、自分の「いのち」を信じて生きられるようになることが大事だということですよ。こんな大事なことを、学校では教えてくれませんね。

 子供たちに、「学校の先生を尊敬していますか」とたずねると、「はい、尊敬しています」と応える子供の割合は、どのくらいかと言いますとね、全世界の平均では70パーセントだそうです。それに対して、日本では、たったの20パーセントなのだそうです。

 「いじめ」の問題なんかで、学校の対応を見ていても、「なるほど、これではな」と思いますね。「学校は、対策ばかりで、悲しみがない」とおっしゃった方がおられましたが、本当に、そうですね。

 「悲しみがない」。それは、「あなた」の悲しみは「私」の悲しみ、「あなた」の喜びは「私」の喜びという、「いのちの仲間」としての共感が、学校にはないということです。学校だけではなくて、目に見える世界が全てだという現代社会では、どこでもそうでしょうね。本当に大事なものが、育っていないのです。

 目に見える世界が全てだと思っているから、「仏のいのち」のレベルで人生を受け止めるという、人生の「受け皿」が育っていない。そのために、「生老病死」を受け止めることができず、不安や、恐れや、怒りや、憎しみばかりが、大きくなっていく。違いますかね。

 私たちは、煩悩を捨ててしまうことはできませんけれど、損得勘定だけで生きているとね、お父さんのようになりたい、お母さんのようになりたいという、「いのち」の後継者は育ってきませんよ。それでは、あまりに哀しいとは思われませんか。

 このあいだ、ある小説を読んでいたら、こんな文章に出会いました。「人間の指は五本あるよな。そのうち三つは悪いもので出来ている。貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)だ」。

 貪(トン)、瞋(ジン)、痴(チ)というのは、煩悩のことです。「損得」で言えば、得を追いかけ回すのが「貪(トン/むさぼり)」、損をかぶると腹が立つというのが「瞋(シン/いかり)、そして、その損得勘定しかできないのが「痴(チ/おろかさ)です。その小説の文章は、こう続きます。

 「人間というのは存外悪い生き物なんだ。残りの二つは智慧と慈悲だ。悪い人間だからさ、この残りの二つが肝要なんだ。ちなみに、魔物の指はたいてい三本しかない」と。皆さんは、この話、どんなふうにお聞きになりますでしょうかね。

 さて、そろそろ店じまいにかかります。

 最後になって難しいことを言うようですが、「自未得度、先度他(じ・みとくど、せんど・た)」という言葉があります。この意味は、「自らが救われる前に、まず他人を救って、幸せにしようと願うこと」です。これが大乗仏教の精神だと、よく言われます。

 なるほど、崇高な精神ではありますけれど、これは、あまり固く考えない方がよろしいでしょう。と言いますのは、「自分の救い」だとか「他人の救い」だとか言って、自他を区別するところに、本当の救いはないからです。

 本当の「救い」に、「私の救い」も「あなたの救い」もありません。本当の「救い」は、自他の区別のない「仏の世界」にしかない。さきほどの『歎異抄』で、親鸞聖人が、「念仏によって、すみやかに浄土に生まれ、仏になって」とおっしゃっているのは、そのためです。

 「仏のいのち」に触れて「救われた」人には、なにか他の人にはない「明るいもの」があるのですね。「浄土の慈悲」の光ですよ。そういう人が、家庭のなかに一人でもいたら、きっと、家族みんなが、幸せでしょうね。そういう、おじいちゃん、おばあちゃんに、なれたらいいですよ、ね。

 このあいだ、インターネットで、人工衛星から撮影した地球の写真をみつけました。お手もとにお配りしております写真がそれです。左の写真では、地球の表面を覆うように、淡い青色の膜のようなものがかかっていますね。右の写真では淡い緑色に写っていますが、これは地球を覆う空気の層です。

 この、薄皮饅頭の皮より薄いような空気の層のなかで、「いのち」が生まれ、人類が生まれたのですね。地球も、この空気の層も、いずれは無くなるでしょう。永遠に続くものはありません。人類も、いずれは消えていきます。諸行無常です。

 この薄い空気の層を見ていると、「いのち」のはかなさ、もろさを感じて、恐ろしくなりますが、それと同時に、この薄い空気の層に、「いのちの真実」への気づきを育む力が働いているのだと思うと、なにか荘厳な気持ちがいたします。

 この限りある「いのち」は、「いのちの真実」への気づきを得て、永遠の世界へと羽ばたいたのです。その「いのちの真実」への気づきという、宇宙の宝物が、「念仏の教え」となって、今、私たちの前にある。これを無駄にしては勿体ないですよ。

 聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、「いのちの真実」への気づきが深まっていきます。ですがね、「聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで」と、さらりと言っただけでは、こころに残らないかもしれませんので、もういちど、念のために申します。

 どうぞ、聞法なさってください。どうぞ、お念仏を称えてください。きっと、生活のなかで、ふと気づくことが増えて、人生の見え方が違ってくると思いますよ。

 では、本日は、ここまでにいたしましょう。まとまりのない話に、長い時間お付き合いくたさり、有り難うございました。次回は、11月11日の報恩講でございます。また、皆さんとご一緒に聞法させて頂けるよう、願っております。本日は、有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ… 



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