釋昇空法話集・第54話

人間成就

仏法にご縁があってよかったね

(2013年3月20日 彼岸会)
 お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。今日は、お彼岸のお中日ですが、月日が過ぎるのは速いものでしてね。私が、この紫雲寺の住職を継職いたしましてから、今日で、ちょうど20年になります。

 20年といえば、オギャーと生まれた赤ん坊が、成人するまでの年月です。その20年の間に、赤ん坊の住職が、大人の住職に育ったかというと、はなはだ心許ない思いがいたします。仏法にご縁を頂きながらも、明日も明後日も生きているかのごとく、日常に流されて、うかうかと生きている。お恥ずかしい限りです。

 そんな私に問いかけるように、先月の13日に、犬のハナが死にました。12年と6ヶ月。大型犬にしては、結構長く生きてくれました。それだけ長く一緒に暮らすと、もう家族のようなものでしてね。遺骸を洗い、箱に寝かせて、一晩、仏様の前に置きました。

 後ろに掛かっている遺影の総代さんや世話方さんが見ていて下さっているようで、思わず、「ハナが行きました。よろしくお願いします」という言葉が、涙とともにあふれてきました。年のせいですかね。前の犬に死なれたときより、こたえております。

 ハナの死に顔を見ながら、ふと、こんな言葉を思い出しましてね。「人生が本当に始まるのは、子供たちが巣立っていき、飼っていた犬が死んだとき」。それで、はっとしました。「ああ、これはお催促なんだ。しっかりしろよ、ちゃんと生きろよと、お催促を頂いたんだ」と、私なりに、頷くものがありました。

 まあ、そんなわけで、今回は、ご案内いたしておりますように、「人間成就」という題で、お話させて頂くことにいたしました。いつもながらの、いささかまとまりのない話でございますが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、「人間成就」と申しますのは、人間に生まれてきたものが、人間になるということ、人間として完成されるということなのですが、はたして私たちは、そういうことを考えて生きているかといえば、どうでしょうかね。

 「金持ちになる、有名になる、豊かになる、勝ち組になる」という話は、よく聞きますけれど、「人間になる」という話は、まず聞きませんね。

 そんなことを考えておりましたら、農民詩人の村上志染(しせん)という方、こんな詩に出会いました。お手元のプリントにも印刷してありますが、「水馬(ミズスマシ)」という詩です。

     水馬(ミズスマシ)

      濁れる水辺
      方一尺の天地
      水馬
      しきりに円を描ける
      汝
      いずこより来たり
      いずれに旅せんとするか

      ヘイ、いそがしおましてなー

 「方一尺」というのは、30センチ四方ほどの狭いところのことです。せっかく広い世界に生を受けながら、ミズスマシは、その30センチ四方ほどの狭い水面をグルグル走り回っている。「ああ、忙しい、忙しい」とばかりに、あくせくと走り回っているんです。

 「お前さん、そんなところを走り回っているが、いったい、どこから来て、どこへ行こうとしているのかね」とたずねてみても、ミズスマシは、「そんなこと考えている暇なんかありません」とばかりに、忙しそうにグルグル走り回っているだけだった。と、そういう詩です。いかがですか。まさに、このミズスマシは、私たちの姿ではないですかね。

 私たちは、朝から晩まで、自分の関心ごとに追いまくられ、損得のそろばん勘定に振り回されていませんでしょうか。人生の目的だとか、生き甲斐だとかいった思いを握りしめて、本当に大事なことから目を逸らせて生きていませんでしょうかね。

 以前、テレビのワイドショーでしたか、「あなたの人生にとって一番大切なのは何ですか」という質問に対して、一番多かった答えは、「健康と生き甲斐」でした。たしかに、「健康で、生き甲斐がある」ということは、それはそれで、結構なことだと思いますが、それが、人間として生まれてきた私たちの「人生」で、一番大事なものかというと、それは、どうでしょうね。

 といいますのはね、私たちは、本当は、明日生きているかどうかも、分からないからです。「諸行無常」です。明日どころか、5分先のことも分かりません。そんな、明日をも知れない私たちだという事実を、真摯に見つめたら、「健康や生き甲斐」よりも、もっと大事なことがあるのではないでしょうか。

 思えば、この、「明日をも知れない自分なのだ」ということを知っているのは、人間だけなのですよ。犬やネコは、そんなこと知らないでしょう。元気なうちから、「いずれ死ぬのだ」ということを知っているのは、人間だけです。ですが、同時に、これを知っていることが、人間の「苦しみ」の根本でもあるのですね。

 私たちは、限りあるいのちを思うと不安になりますし、死ぬことを考えると恐ろしくて仕方がない。ですから、「いずれは死ぬ」ということなど、できるだけ考えないようにして生きています。

 たとえば、「健康が大切、生き甲斐が大事」というのも、それがあれば、「死」を考えないですむからではないですかね。「健康で生き甲斐がある」あいだは、「死ぬ」ことから目を逸らせておけます。

 最初に、ご紹介した、「人生が本当に始まるのは、子供たちが巣立っていき、飼っていた犬が死んだとき」という言葉も、そのあたりのことを言っているのです。

 子供たちの育っていく姿を見る喜びとか、飼っている犬が与えてくれる慰めのようなものがあるあいだは、「死」を見つめなくてすむのです。

 ですが、「生」のない「死」もなければ、「死」のない「生」もありません。「生」と「死」は、人生というコインの裏表なのです。裏はいらないと、裏を削っていけば、ついにはコインそのものが無くなってしまいます。

 ですからね、「生」にしがみついて、「死」から目をそらせて生きているあいだは、本当の意味で、人生は始まっていないのです。人生が本当に始まるのは、「死」を見据えて生きるときです。私たちが人間になっていく道が始まるのは、ここからです。

 実際、私たちは、限りあるいのちを生きているのです。「いずれは死ぬ」という事実。今日かもしれない、明日かもしれない。その事実をしっかり見つめたら、「ヘイ、いそがしおましてなー」なんてことは、言っておれませんでしょう。

 実はね、お釈迦様も、そうだったのです。仏教は、2500年ほど前に、インドのお釈迦様がお悟りを開かれたところから始まるのですが、そのお悟りへの道は、「いずれは死ぬ」という事実を見つめるところから始まったのです。

 お釈迦様は、一国の王子として生まれ、世間的に言えば、何不自由ない暮らしをしておられましたが、あるとき、いずれは、年老いて、病気になって、死んで行くのだと気づかれた。それを思うと、不安で、居ても立ってもおれない。それで、お釈迦様は、王宮での生活を捨てて、出家されたのです。

 そして、6年間の苦行の末、苦行を捨てて、菩提樹の下に静かに座り、瞑想のなかで、お悟りを開かれました。お釈迦様は、何をお悟りになったかと申しますと、それは、私たちが死を思って苦しみ悩むのは、「いのちの真実」を知らないからだ、ということです。

 「いのちの真実」というと、これですね。これは、地蔵盆でね、私たちの「いのちの全体像」を、子どもたちに話したいと思いましてね、作ったものですが、お説法をなさるお釈迦様の頭の中にも、おそらく、これと同じような「いのちの全体像」が浮かんでいたのではないかと、私は思っています。

 以前にも、何度かご覧頂いたかと思いますが、初めてご覧になった方もおられるかもしれませんので、ちょっとご説明いたしますと、これは、海の上に、島が浮かんでいる絵です。丸い島、四角い島、三角の島ですね。

 目に見える世界では、島は、みんな、姿も形も名前も違います。ですが、実際には、海に浮かんでいる島というのは、世界中探しても、どこにもなくて、丸い島も、四角い島も、三角の島も、みんな、目に見えない海の底でつながっていて、「ひとつ」なのです。

 私たちも、これと同じなのです。目に見える世界では、「私」と「あなた」は、別の人間です。姿形も名前も違う。生まれも、年齢も、経験も、出来ることも、好き嫌いも、みんな違います。

 ですが、目に見えない「いのち」の奥底では、みんな、つながっていて「ひとつ」なのです。私たちは、大きなひとつの「いのち」を生きているのです。お釈迦様が、瞑想のなかで、たどりつかれたのも、ここです。ここにたどりつかれて、「いのちの真実」に目覚められたのです。

 ここには、「私」も「あなた」もなく、時間も空間もなく、悩みも苦しみもない、宇宙のすべてと「ひとつ」となった至福の光しかなかった。つまりは、「涅槃寂静」が、自分のいのちの真実だった。これは、お釈迦様だけのことではなく、私たちみんなの「いのちの真実」なのです。

 その「いのちの真実」を、私たちに伝えてくださっているのが、「浄土の教え」なのですよ。浄土の教えでは、こう説かれています。

 私たちの「いのち」の奥底には、「仏の世界」がある。「浄土」がある。私たちはみんな、その浄土から生まれてきて、またその浄土へと帰っていくのだ、と。

 「汝、いずこより来たり、いずれに旅せんとするか」と言えば、私たちはみんな、浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰っていくのです。

 浄土は、私たちの「いのちの故郷」なのです。死ぬというのは、その「いのちの故郷」へ帰っていくことなのです。

 これが、浄土の教えに説かれている、私たちの「いのちの真実」です。この「いのちの真実」を知っているということが、私たちにとって、生きていくうえでも、死んでいくうえでも、とっても大事なことなのです。

 帰っていくところが定まっていないと、こころ安らかに人生の旅路をたどることができませんからね。それでね、仏さまは、私たちが、苦しいにつけ悲しいにつけ、帰っていく「いのちの故郷」を思い出すことを願って、「お念仏」を称えるように勧めてくださったのです。

 「浄土」は「涅槃寂静」の世界です。お釈迦様は、この世界に触れて、「いのちの真実」に目覚められた。私たちは、その世界へ帰っていく旅をしているのです。その旅を支えてくれる杖が、「お念仏」ですね。

 昔は、人間が本当の人間になる、人間完成の極北は、悟りを開いて仏になることだと真剣に考えられていました。ですが、私たち現代人は、たいてい、こういう絵を見ることもなく、こういう話を聞くこともなく生きてきますからね、目に見えない世界のことは、ご存じない。つまりは、目に見える、この水平線から上の世界が全てだと思っている。

 目に見える世界が全てだとすれば、「私」というのは、この目に見える身体のことだということになる。この身体が「私」の全てだとすると、当然、死ねば終わりです。

 また、目に見える世界だけで言えば、「あなた」と「私」は別の人間です。となると、「他の誰よりもわが身がかわいい」という心が働いて、おのずと損得勘定に走ることになりますよね。

 かくして、私たちは、死ぬことから目を逸らせて、ひたすら「損得勘定」で生きているうちに、一生が終わってしまうのです。「方一尺の天地」を泳ぎ回る水馬(ミズスマシ)のようにです。それでは、あまりにも人生が勿体ないと思われませんかね。

 そうではなくて、仏法が教えているのは、この絵でいえば、半分に折りたたんだ「目に見える世界」だけで生きるのではなく、全部開けて、「目に見えない世界」をも含めた、フルサイズの世界で生きるということです。

 「目に見えない世界」には、「仏のいのち」がある。「浄土」がある。私たちはみんな、浄土から生まれてきて、またその浄土へと帰っていく、「仏の子」です。みんな、「仏のいのち」を生きている「いのちのなかま」なのです。それが、私たちの「いのちの真実」です。

 「目に見える世界」にとらわれている私たちは、なかなか、この「いのちの真実」に気づけませんけれど、お念仏とともにある日常生活のなかで、この「いのちの真実」への気づきを深めていくこと、それこそが、人間として成長していくということではありませんかね。

 ところで、私たち人間は、生物学上、「ホモサピエンス」と呼ばれています。人間というのは、「考える生き物」だという意味です。考えることによって、私たちの文明は、ここまで発達してきました。

 ですが、「考える」というのは、諸刃の剣です。というのは、私たちの悩みや苦しみのほとんどは、この「考える」ことから生まれているからです。

 たとえばです、「この間から、どうも胃の具合が悪い」というような場合ですね、そこそこの年齢になっていると、「ひょっとすると、胃がんではないか」などと、考えてしまいませんか。そう考え始めると、実際には「食べ過ぎかなあ」という程度の不快感でも、ついには、耐え難い苦しみにまでふくれあがってしまいます。

 「父親もガンで亡くなったし、ガンの家系かもしれない。そういえば、この間の検診のとき、私を見る医者の顔つきがおかしかったな。もし、ガンだったら、どうしようか。入院ということにでもなれば、仕事はどうなるんだ。家の借金は残っているし、子供の教育もある。さあ、困った」といった具合にです。

 あるいは、昔の不愉快な出来事を思い出して、いろいろ考えているうちに、無性に腹が立ってくるとか、老後のことを思って、お金の事を考えていると、ドンドン不安になってくる。そういうご経験は、おありではないでしょうか。

 「考える」というのは、頭の中でオシャベリをすることです。その頭の中のオシャベリのせいで、私たちは、過去や未来から、悩みの種を拾い集めてきては、苦しんでいるのですよ。「死の苦しみ」というのも、そのほとんどは、「死を考える苦しみ」です。

 お釈迦様は、瞑想によって、この頭の中のオシャベリを鎮めることで、苦しみの世界から離れていかれたのです。そして、ついに、「いのち」の奥底にまで到達されて、「あなたも私もない、みんな、ひとつ」という、「いのちの真実」を、お悟りになったのです。

 そのとき、お釈迦様は、仏陀となられました。仏陀というのは、「目覚めた人」という意味です。この、「目覚めた」というところが大事なのですよ。

 皆さんも、眠りから目覚めたときに、「ああ、あれは夢だったのか」というご経験をなさったことが、おありでしょう。では、夢と、現実とは、どう違うかというと、現実の方が、ずっとリアルだということではないですかね。

 お釈迦様は、「あなたも私もない、みんな、ひとつ」という世界に触れて、「目覚めた」とおっしゃっているのです。つまり、「あなたと私は別の人間だ」という世界は、夢だったと気づくほど、「あなたも私もない、みんな、ひとつ」という世界は、リアルだったということです。

 私たちが、「お浄土」と呼んでいるのは、そのリアルな世界のことですよ。「お浄土」は、夢の世界ではないのです。私たちが、帰っていく世界、「お浄土」こそ、真実の世界なのですよ。

 さて、このあたりで、少し、まとめておきましょうか。

 私たち真宗門徒は、かつて世間から、「門徒もの知らず」と言われたことがあります。門徒にとっては、仏法が第一で、世間のことは二の次でしたから、世間並みのことをしない物知らずだと思われたのでしょう。

 世間より仏法を第一にしたのは、仏法は、私たち人間の根本的な問題に、光をもたらす教えだからです。私たちの根本的な問題というのは、「限りあるいのちを生きていることへの不安、死ぬことへの恐れ」です。

 「死ぬからこそ、本当に生きる道を聞く」。これは、金子大栄先生の言葉です。

 最初に、皆さんとご一緒に唱和しました「三帰依文」に、「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」とありましたね。あれはね、「人間に生まれて苦しんだおかげで、仏法にご縁があって、よかった」ということだと思いますね。

 寺島富郷(てらしま・とみさと)という方の、こういう詩があります。「人間」という詩です。プリントにも載せておきました。ちょっと、読んでみますね。

   人間

  木の葉もいい
  小鳥も 犬も
  牛もいいし
  何になるのも
  結構なことだが
  しかし
  自分のからだの死ぬことを知り
  ひるとよる 夏と冬とを
  ふまえて立つ
  人間に
  一ぺん ならしてもらえて
  ほんに一番有難い

               (寺島富郷詩集『天人と菩薩』)

 「木の葉であれ、小鳥であれ、犬であれ、牛であれ、〈いのち〉あるものはみんな〈生〉に輝いている。何になるのも、結構なことだ。だけど、それは、〈死〉を知らない〈生〉の輝きなんだ。

 人間は、〈死〉を知っているために、苦しんでいるのだが、このたびは、縁あって、死ぬのは〈からだ〉だけだと知らせてもらった。

 おかげで、〈限りあるからだ〉と〈限り無いいのち〉の両方を踏まえて、自覚的に「生」を喜ぶ人間に成らせてもらった。ほんとうに、こんなに有り難いことはない」。そういう詩だと思います。

 「ひるとよる、夏と冬とを、ふまえて立つ」というのは、「明るい生」と「暗い死」とを踏まえて立つ、つまり、「〈限り無いいのち〉と〈限りあるからだ〉の両方を踏まえて立つ」ということでしょう。それは、つまり、この「いのちの全体像」を、フルサイズに広げて生きることですよ。

 「いずれは死ぬ」ことを知っているのは、人間だけです。ですが、「いずれは死ぬ」ということを知っているだけなら、苦しいだけです。「いのちの真実」を説いている仏法にご縁があると、「死」を背景にして、いっそう「生」が輝くのですね。こんなふうにです。

 最後に、もうひとつだけ、詩をご紹介いたします。杉山平一という方の、「生」という詩です。

   生

      ものをとりに部屋へ入って
      何をとりにきたか忘れて
      もどることがある
      もどる途中でハタと
      思い出すことがあるが
      そのときはすばらしい

      身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである
      その用事は何であったのか
      いつの日か思い当たるときのある人は
      幸福である

      思い出せぬマゝ
      僕はすごすごあの世へもどる

                                           (杉山平一詩集『ぜぴゅろす』)

 「あの世へもどる」と、おそらく誰もが思い出すのでしょうね。「いのちの真実」を。「いのちの真実」というのは、仏法にご縁があろうとなかろうと、誰にとっても「真実」だからです。ですが、仏法のもたらしてくれる光は、この世の暗闇のなかでこそ、大切なのですよ。

 「ものをとりに部屋へ入って、何をとりにきたか忘れて、もどることがある」。そこそこの年齢になれば、誰もが経験することではないかと思いますが、それはね、そういう年齢になったら、仏法を真剣に聞きなさいという、仏さまからのお催促ですよ。

 聞法は大事ですよ。聞法というのは、仏教の知識を頭に蓄えていくことではありません。知識が増えれば、迷いも増える。そうではなくて、聞法というのは、自分自身を聞かせてもらうことなのです。

 聞法を重ねるなかで、いつの日か「思い当たること」と出会えた人は幸せ。自分自身を言い当てられた言葉と出会えた人は幸福です。「大事なことは、耳鳴りがするほど、聞け」。澤木興道禅師の言葉です。

 蓮如上人は、「ただ仏法は聴聞にきわまることなり」とお示しくださいました。ですが、聞法だけでは、ややもすれば、理屈に流れます。とくに、私たち現代人にとっては、そうです。

 私たちは、考える人です。よくいえば、賢いのです。ですが、法然上人は、「愚者になりて往生する」と、おっしゃっています。浄土への道は、頭の中のオシャベリが鎮まったときに、開かれてくるのです。

 その、過去へ未来へと、さまよい出ていこうとする、頭の中のオシャベリを鎮めてくれるもの、それが、仏の智慧、「お念仏」なのですよ。お念仏は、お浄土への旅を支えてくれる「杖」です。

 親鸞聖人は、最晩年にお書きになった『正像末和讃』のなかで、こう詠っておられます。

   弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな
   ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとのうべし

   信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
   如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

 「ねてもさめても…とのうべし」、「称名念仏はげむべし」ですよ。

 聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、「いのちの真実」への気づきが深まっていく。そこに見えてくる、浄土への「ひとすじの道」こそ、人間に生まれたものが、本当の人間に成っていく道、「人間成就」への大道なのですよ。

 どうぞ、皆さん、聞法なさってくださいね。お念仏を称えてくださいね。「生まれてきてよかった、仏法にご縁があって、よかったね」という旅を、ご一緒に、させて頂きましょう。

 では、店じまいにいたします。

 今年はまた、年始早々、二日の夜に電話がありましてね。三重県の親戚寺院の前坊守さんが、元旦の夜に亡くなったという知らせでした。

 三日にお通夜、四日にお葬式、ということでしたが、正直申しましてね、この電話をもらいましたときには、心が重かった。お亡くなりになったのは、今のご住職のお母さんでして、102歳でした。お歳から言えば大往生ですが、やっぱり、こういうことは、ないほうが有り難い。

 後で聞いた話ですが、本当にお元気な方で、昨年の11月には、白内障の手術までなさったそうです。元旦は、朝食も夕食も、ご家族とともになさったあと、「ちょっとしんどいわ」と横になられて、それが最後だった、ということです。

 そのお寺は、転輪山・明行寺と申しましてね、そこに祖父の写真が掛かっておりますが、その祖父の母親が、そのお寺の出でした。つまりは、私の大ばあさんの生まれた里です。そういうご縁で、祖父のお墓が、その明行寺さんにございます。

 ちなみに、この明行寺さんの近くに、もう一軒、親戚寺院がございまして、そのお寺は、紫雲山・林証寺と申します。私どもの寺の「紫雲寺」という名前は、その「紫雲山」という山号から頂いたものでして、この紫雲寺のご本尊、阿弥陀如来像も、縁あって、その林証寺さんからお越しになったものだと聞いております。

 まあ、それはともかく、そのあたりは、三重県の北方の山里で、今でこそ、広域農道が整備されまして、車では比較的便利な場所になりましたが、冬には雪の多いところでしてね。

 四日は、名神の途中で、前が見えないほど吹雪いておりまして、どうなるかと思いましたが、明行寺さんに着いてみると、小高い丘の上にあるお寺までの参道が、きれいに除雪してありました。

 前日の三日は大雪だったそうですが、近在三か村のお同行が、総出で雪かきをなさったそうです。当日は、公民館を借り切って、炊き出しが行われておりました。

 「昔ながらのいいお葬式やなあ」と思ってお参りしておりましら、斎場にお供しまして、お骨とともに、お寺に帰って来たときのことです。先頭の車が参道口に着いて、お骨を抱かれたご住職が車から降りられたら、サッと大きな朱傘が差し掛けられましてね、驚きました。

 辺り一面、真っ白な雪景色のなか、朱傘を差し掛けられた、黒い衣のご住職が、お骨を抱いて、静かに参道を登って行かれる。その後に、黒い衣の寺族、法中寺院の方々、黒い礼服姿のお同行の方々が、一列に続きましてね。先頭の朱傘が、境内に入ると、お寺の鐘がゴーンと鳴りました。

 感動しましてね、涙があふれました。このとき、みんなでお迎えしたのは、〈おばあさん〉のお骨ではなくて、お骨となって帰ってこられた〈おばあさん〉だった。それは、まさに、お浄土から帰ってこられた仏様でした。

 お浄土に帰るということは、お浄土から帰ってくることだった。「おばあさん、もう大丈夫です、ご苦労さまでした」という思いが、涙と共にこみ上げてきましてね。仏法にご縁を頂いて、人間として完成されるということは、こういうことなのだと思いました。

 「これが死ぬということなら、死ぬのも悪くないか」なんて、少々横着なことを思ったりもいたしましたが、今年は、年の初めから、有り難いご縁にあわせて頂きました。さまざまなご縁を頂いて、今年も、また一歩です。

 では、門口での立ち話が長いのも、なんですから、本日は、これで終わることにいたします。

 まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁が有りますよう、念じております。本日は、有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…。有り難うございました。



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