釋昇空法話集・第55話

しあわせは

身心一如

(2013年9月23日 永代経法要)
 お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労さまです。

 今年の夏は、「暑い」と言うのもおっくうなほど暑くて、まいりましたが、ようやく秋らしくなってまいりましたね。本日は、お彼岸のお中日ですし、お天気もよろしいので、朝のうちにお墓参りを済ませてこられた方も、おいでだろうと思います。

 紫雲寺では、毎年、この秋のお彼岸のお中日に、永代経法要をお勤めいたしておりますが、ご覧のように、今年から、過去一年間に、この寺でおあずかりしましたお骨を、納骨堂から出して、お内陣にお飾りすることにいたしました。

 と申しましてもね、いつもお話いたしますように、仏教は、もともと、お亡くなりになった方をお祀(まつ)りするための教えではありませんでね。ここにお骨箱を並べておりますのも、お祀りしているわけではありません。

 そうではなくてね、ここにお骨箱を並べましたのは、お亡くなりになった方々が、まさに、私たち残された者の「聞法のご縁」となってくださるようにと、願ってのことでございます。

 私たちは、よく、お亡くなりになった方を「ほとけさま」と呼びますけれど、「ほとけさま」というのは、仏法へのご縁を結んでくださる方のことです。ですからね、私たちが、亡くなった方をご縁として、聞法するようになり、お念仏を称える身になってこそ、「ほとけさま」なのですよ。

 私たち真宗門徒の永代経法要は、もともと、お亡くなりになった方々を「聞法のご縁」として勤める法要なのですが、私たちの目が、亡くなった方のほうを向いているあいだは、なかなか話が自分の問題として聞こえて来ないのですね。で、いきおい、亡くなった方の供養のためにお寺参りをしているように思ってしまいがちです。

 ですがね、ここに並んだお骨箱をご覧になって、これは他人事ではないのだ、「いずれは自分も」と身につまされる思いをなさったとしたら、聞法の姿勢も違ってくるのではないかと思うのですね。

 「死ぬからこそ、本当に生きる道を聞く」。これは金子大栄先生の言葉ですが、この「死ぬからこそ」というところにぶつかりませんとね、なかなか、「では、どう生きるのだ」というところに出てまいりませんね。

   限りある人生だからこそ、「どう生きるか」が問題になる。「どう生きるか」というのは、「どう生きることが、しあわせなのか」、「どう生きれば、しあわせになれるのか」ということでしょう。誰もが、しあわせな人生を願っている。仏教のテーマも、ひとことで言えば、これですよね。

 ただ、仏教でいう「しあわせ」は、私たちの思っている「しあわせ」とは、ちょっと違うのですね。そこで今回は、この「しあわせ」について、ご一緒に考えてみたいと思います。話の題は、そのものずばり、「しあわせは」です。いつもながらの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、「しあわせ」というのは、いつの時代でも、誰もが願うことだろうと思いますが、江戸時代の歌に、こんなのがあります。「しあわせは」という言葉で始まる歌です。お手もとのプリントにも載せておりますので、ご覧ください。ちょっと読んでみますね。

    しあわせは、
    いつも三月、花の頃
    おまえ十八、わしゃはたち
    死なぬ子三人、みな孝行
    つこうて減らぬ金百両
    死んでも命があるように  

 「死なぬ子三人」というのは、江戸時代には、子供の死亡率が高くて、生まれても半分くらいが小さいうちに亡くなったからです。「七歳までは神のうち」と言いましたが、それは、七歳までに亡くなる子供が多かったということでしょうね。

 「七五三」のお祝いというのも、もともとは、「ああ、三歳まで生きてくれた」「ああ、五歳まで生きてくれた」「ああ、七歳まで生きてくれた、もう大丈夫だ」という、お祝いだった。「三人」というのは、おそらく、「一姫二太郎、予備一人」という、親の都合を言ったものでしょうね。

 「つこうて減らぬ金百両」ですが、だいたい、一両あったら、長屋住まいの家族4人が、一ヶ月間、楽に暮らせたそうですから、百両は大金です。それが、「つこうて減らぬ」というのですから、そんなお宝があったら、私も欲しい。

 言いたい放題といいますか、まあ、かなわぬ願いを並べてみた、というところでしょうけれど、もしも、こういう願いが満たされるのが「しあわせ」になる条件だとしたら、一生しあわせにはなれませんよね。なにしろ、「死んでも命があるように」、ですからね。

 お笑いになっていますがね、考えてみれば、私たちが願っていることも、これと五十歩百歩ではないでしょうかね。

 「つこうて減らぬ金百両」ではないですが、私たちは、いつも、自分にとって都合の良いことが起こることばかり願っていませんかね。そして、思い通りに、自分にとって都合の良いことが起こったら、「しあわせだ、しあわせだ」と言っている。

 それは、たとえば、「もっと豊かになりたい」「もっと上の地位に就きたい」「もっと健康になりたい」「もっと褒めてほしい」「もっと私の言うことをきいてほしい」というようなことですね。

 ですが、そういう思いがかなったとしてもです、この「もっと、もっと」という思いがあるかぎり、「もう充分、もうこれで満足」という、究極の「しあわせ」には到達できませんよ。

 難儀なことに、私たちの社会は、経済発展がなにより大事という社会です。そして、だれもが、「もっと豊かになれば、もっと幸せになれる」と考えている。そういう上昇志向の強い経済最優先の社会で、「しあわせ」を願って努力するというのは、「もっと、もっと」の果てしない坂を登り続けているようなものです。

 もちろん、そういう社会でも、たとえば、鞄であれ、宝石であれ、車であれ、欲しかった物を手に入れたときには、「しあわせ」を感じるでしょう。ですが、それは、束の間の「しあわせ」です。というのは、それは、結局のところ、果てしない上り坂の途中にある通過点にすぎませんからね。

 ある宝石会社の調査によると、宝石は、持てば持つほど欲しくなるそうですが、宝石だけではありませんね。着物でも洋服でもハンドバックでも靴でも、持てば持つほど欲しくなる。それは、おそらく、品物が欲しいといいうより、欲しいと思ったものが手に入ったときの、一瞬舞い上がる気分が欲しいのではないでしょうかね。つまりは、刺激中毒ですよ。

 それは、興奮ホルモンのアドレナリンがあふれて、一瞬舞い上がっただけ。そういう経験は、「しあわせ」というより、刹那的な刺激でしかありませんね。

 別に高価な買い物だけではありません。百円ショップを見つけると、何か買わないとおさまらない、なんてのも、立派な刺激中毒ですけれどね。

 そんなふうに、どこまで行っても「もうこれで満足」というところに到達しないというのは、慢性的な欲求不満の状態ですよね。それって、決して、「しあわせ」ではないと思うのですが、いかがですか。お考え頂きたいところですね。

 さて、本当はね、「こうなったら、しあわせ」「ああなったら、しあわせ」と、「しあわせ」に条件を付けて考えているあいだは、なかなか「しあわせ」にはなれません。

 「しあわせ」というものは、もともと、考えるものでなくて、感じるものなのですよ。それを私たちは、こうなったら「しあわせ」、ああなったら「しあわせ」と、考えすぎるのです。

 私たちの頭脳は、解剖学的には「左脳」と「右脳」に別れていて、「左脳」で考え、「右脳」で感じるのだそうですが、「からだとこころ」というように、大きく二つに分けて考える場合は、「考える働き」と「感じる働き」をあわせて「こころ」といいますね。

 仏教では、「身心一如」といいまして、「からだとこころ」は分けられない、「からだとこころ」がひとつに合わさっているのが、「本来の自分」だと説かれています。

 いつもお話いたしますように、私たちの「こころ」は、すぐに「からだ」から離れて、どこかへさまよっていきます。けれど、そんなふうに、「からだ」と「こころ」が離ればなれになっている、「こころ、ここにあらず」というのは、本来の自分の姿ではない。

 そうではなくて、「からだ」と「こころ」が、「今、ここ」に重なっている。それが、「本来の自分」の姿です。実は、仏教が説いているのは、この「本来の自分」に戻って、かけがえのない「自分の人生」を生きるところに、人間の「しあわせ」があるということなのです。

 そのお話をするために、こんなものを作ってみました。「生活」と「人生」。「生活」で大事なことは、ここに書いてありますように、「日常茶飯事」です。日々の生活で大事なことは、お茶を飲むときには、お茶を飲む、ご飯を食べるときには、ご飯を食べる、ということなのです。

 私たちは、どうか、と言うと、たいていは、そうではありませんね。お茶を飲みながら、オシャベリをしていたり、ご飯を食べながら、テレビを見ていたり、って、どうですか。

 お茶を飲むときには、お茶を飲む。「茶の湯」で習うのも、もともとは、そういうことではないでしょうかね。お湯の沸く音を聞き、お茶碗の手触りや、お茶の温もりを感じ、お茶の香り、味わい、のどごしを楽しむ。

 どこかにさまよい出ていこうとする「こころ」を、五感を総動員して引き留め、「今、ここ」にある「からだ」のうえに重ねる。「茶の湯」を習う目的は、お作法を習い、お免状をもらうことではなくて、「今、ここ」に「こころ」と「からだ」の重なった、「本来の自分」に戻っていくことではないですかね。

 禅宗の有名な公案に、「喫茶去(きっさこ)」というのがあります。「まあ、お茶でも一服」という意味です。中国の唐の時代に、趙州(じょうしゅう)という有名な和尚さんがおられましてね、訪れた雲水さんには、誰彼無く、「喫茶去」(まあ、お茶でも一服)とおっしゃったそうです。

 お茶を飲むという、ごくありふれた日常の行為、そういった日常茶飯事の中にこそ、本当に大事なことがある。「本来の自分」に戻っていく道、「いのちの真実」へと続く道がある。そういう日常的なことをないがしろにして、「こうなったら、ああなったら」と、いくら考えても、もうこれで満足という日は、やってこないのですね。

 それは、「人生」でも、同じです。いつも申しますように、人生の背骨は、「生・老・病・死」です。生まれてきたこと、年老いていくこと、病気になること、死ぬこと。仏教では、この「生・老・病・死」を「四苦」と言います。「苦」というのは、思い通りにはならないという意味です。

 ものごころ付いたときには、すでに生まれていたのです。ですから、もっと美人に生まれたかったとか、もっと才能豊かに生まれたかったとか、もっと金持ちの家に生まれたかったとか、あるいは、日本でなくてアメリカに生まれたかったとか思ったとしても、いまさら、どうしようもない。

 年老いていくというのも、そうです。この世に生まれて、運良く長生きしたら、おのずと年を取るものです。人生、若いうちが花や、いつまでも若くありたいと思ったとしても、そうはいきませんね。

 病気も、そうです。病気になりたくてなる人はないでしょう。けれども、どんなに健康的な生活をしていても、病気になるときは、なるものです。死ぬことも、そう。死にたい人などいないですよ。自殺した人でも、本当は生きたかったに違いない。誰も、死にたくなどない。それなのに、みんな、いずれは死ぬのです。

 「人生はチャレンジだ、努力すれば何でもできる」と考えている人には、受け入れにくいことかもしれませんが、人生は、基本的に、自分の思い通りには成らないものなのです。「生・老・病・死」は、与えられるもの。人生の基本は「受け身」なのですよ。

 とすればです、私たちにとって大事なことは、人生をきちんと受け止められること、人生の確かな受け皿となることではないでしょうかね。それは、さきほどからお話しております、「からだ」と「こころ」が重なって「本来の自分」に戻っていくということと、別のことではないのです。

 恵まれた境遇の人をねたみ、若者をうらやみ、病にうろたえ、死から目をそむける。それが私たちの姿かもしれませんが、そんなとき、私たちの「こころ」は、「からだ」の現実とは別のところにありますよね。

 たとえば、生まれた境遇を嫌って、「こんなのはいやだ、あんなのがいい」と思っているあいだは、「からだ」と「こころ」が離れている。歳を取って、「人生、若いうちが花や」と思っているときには、「からだ」と「こころ」が離れている。「からだ」と「こころ」が離れているあいだは、「しあわせ」ではないですね。

 そうではなくて、境遇であれ、年齢であれ、病気であれ、そして、死であれ、この身の現実を受け入れる。「からだ」の事実を「こころ」が受け入れる。それが、「からだ」と「こころ」が重なるということです。「からだ」と「こころ」が重なったとき、「本来の自分」がそこにいる。

 生まれてきた境遇についても、歳を感じたときにも、病気になったときにも、死の床にあるときも、「こうだったら、ああだったら」という願望でなく、こころ安らかに、この身の事実を生きる。それこそが、かけがえのない「自分の人生」を生きるということではないでしょうかね。

 このあいだ、ある新刊書の帯に「悲劇なんかじゃない これがわたしの人生」という言葉が書かれていました。本の内容は知りませんけれど、この言葉を目にしたときには、思わずうなずきましてね。

 何が起こっても、合わせる両手のなかに、「これが私の人生だ」と受け止めていける。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、そういう「こころ」と「からだ」が育ってくる。「仏法にお育てを頂く」というのは、そのことですね。

 右手が「からだ」、左手が「こころ」。その「からだ」と「こころ」を重ねるところに、「本来の自分」が戻ってくる。「いただきます」「ごちそうさま」。そういう、日常茶飯のことだけでなくて、手を合わせる生活のなかに、人生の全てを受け止めていく。そこにこそ、かけがえのない「自分の人生」を生きる「しあわせ」がある。

 仏教に言う「しあわせ」は、将来に期待されるものではなくて、「今、ここ」に、感じるものなのです。そういう仏法の「しあわせ」に、多くの方が、こころひかれるかどうか分かりませんけれど、私は、今の時代にこそ大事ではないかと思いますね。

 ちょっと横道にそれるようですが、ある研究によると、熱心な信者かどうかは別にして、98%は生まれた環境の宗教の信徒となるそうです。また、2010年に、福井新聞が行った「宗教に関する県民意識調査」によると、「信仰心を持つきっかけは何ですか」という問いには、71.7%の人が「家族の影響」と応えています。

 まあ、こんなふうに、これまで仏法は、「家の宗教」とか、「家族のつながり」のなかで、伝えられてきたわけですが、いまや、全国的に核家族化が進んで、その肝心要の「家族」がバラバラになってきております。

 漫画の世界でも、現実にあわせて、核家族化が進んでいますね。戦後まもなくの「サザエさん」は、大家族でしたが、その後の「ちびまる子ちゃん」や「クレヨンしんちゃん」は、核家族でしたね。

 お葬式でも、「家族葬」や「直葬」が増えました。東京では3割が「直葬」だそうです。さらには、全国で、年間32000人もの方が、無縁死。引き取り手のない遺体が、1年間に、それだけあるということですね。

 核家族化が進めば、「夫婦と子供」世帯が、いずれは「一人暮らし世帯」になっていく。そして、ついには、絶えていく家も多くなりまして、今や、年間数千の無縁墓地ができるそうです。NHK によると、ここ10年のあいだに、全国で41000のお墓が無縁化したといいます。

 書店に並んだ本にも、「おひとりさま」のなんとか、という題名のものが増えました。独身の若者の一人暮らしよりも、高齢者の一人暮らしが、どんどん増えてきている。高齢化が進むと、かならず、そうなっていきます。そして、孤独ということが、大きな問題になってきている。

 現在、100歳以上の老人が、5万人を超えている。その9割が女性だそうですが、100歳以上の8割が寝たきりだそうです。

 ですが、そんな時代だからこそ、「本来の自分」とか「自分の人生」というものが、これまで以上に、クローズアップされてくるのではないでしょうかね。

 何が起こっても、合わせる両手のなかに、「これが私の人生だ」と受け止めていける。両手を合わせる生活のなかに、人生の全てを受け止めていく。そこにこそ、かけがえのない「自分の人生」を生きる「しあわせ」がある。と思うのですが、いかがですかね。

 では、このあたりで、まとめておきましょう。

 「死ぬからこそ、本当に生きる道を聞く」。これは、最初にご紹介いたしました、金子大栄先生の言葉ですが、元気なうちから、「いずれは死ぬ日がやってくる」ことを知っているのは、私たち人間だけなのです。

 死を思って、悩み苦しむのは、人間だけ。ですから、私たちは、できるだけ、そんなことは考えないようにして暮らしていますけれど、私たちが本当に生きる道は、この、人間にだけ与えられた問題に真剣に向き合って、この問題を解消していくところにあるのではないでしょうかね。

 そこにはじめて、人間に生まれてきてよかったという、本当の「しあわせな」人生が開かれてくる。仏道を歩むというのは、そういう道を歩むことですよ。

 ところが、私たちは、「もっと豊かになれば、もっと幸せになれる」と考えているのですね。ですが、それは、限りある人生のうえに、限りない欲望をのせようとしているのでして、「もうこれで満足」という究極の「しあわせ」には、決して到達しません。

 それが分からないものですからね、「もっと、もっと」と、地震列島に平気で原発を並べるようなことにもなるわけですが、それでは、煩悩の思うがままです。

 「もっと豊かになれば、もっと幸せになれる」。そんな世間の価値観にどっぷり浸かっていたら、結局は、「目標達成」という束の間の興奮を求め続ける「刺激中毒」のなかで、慢性的な欲求不満に陥ったまま、人生が終わってしまいます。

 「もっと、もっと」という煩悩から生まれてくるのは、果てしのない、苦しみのサイクルです。仏教は、この苦しみのサイクルを鎮めていく教えです。

 私たちは、「もっと豊かになれば、もっと幸せになれる」と考えていますけれど、「しあわせ」は、考えるものでなくて、感じるものなのです。

 「ああなったら、こうなったら」と、「しあわせ」を求めてさまよい出ている「こころ」を、「今、ここ」にある「からだ」のうえに引き戻す。その、「からだ」と「こころ」がひとつに重なった「身心一如」こそが、あるがままの「本来の自分」の姿です。

 あるがままの自分に戻ったとき、「こころ」が「からだ」の現実をきちんと受け止めたとき、そのとき、「からだ」には、アドレナリンではなく、セロトニンが流れ、「こころ」には、束の間の興奮ではなく、穏やかな平安が訪れます。

 ただ、そういう穏やかな平安というものは、世間でいう「しあわせ」のように、努力して、追い求めて、手に入れられるものではないのです。「こころの平安」が欲しいという方向には、「こころの平安」はない。仏教が分かりにくいのは、ここですね。

 先ほどからお話してきましたように、何かを努力して手に入れようとするところには、慢性的な欲求不満しかない。そうではなくて、その「何かが欲しい」という思いが解消されていくところにこそ、「こころの平安」がある。

 「お茶を飲むときには、お茶を飲む」といっても、あれこれ雑念ばかり湧いてきて、お茶一杯まともに飲めない自分がいる。人生を両手で受け止めるといっても、人生には、私の両手では受け止めきれないことが、いろいろ起こってきますね。それは、努力ではなんともなりません。

 そうではなくて、雑念が湧いてくるままに、人生を受け止められないままに、聞法を重ね、お念仏を称える生活を続けていく、ということが大事なのです。

 何が起こっても、合わせる両手のなかに、「これが私の人生だ」と受け止めていける。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、そういう「こころ」と「からだ」が、おのずと育ってくる。「仏法にお育てを頂く」というのは、そのことですね。

 法然上人は、お弟子さんから、「お念仏を称えていても、雑念ばかりわいてきます、どうしたものでしょう」と問われて、「雑念のままに称えなさい、私たち凡夫から、雑念のなくなることなどありません」とお応えになったそうです。

 もっと、おおらかにいきましょう。まずは、雑念にはこだわらず、こころ穏やかなときには、「私は、今、ここにいます」、こころ騒ぐときには、「私は、今、ここにいるでしょうか」。両手を合わせて、お念仏を称えるときに、そんなふうに、つぶやいてみるとどうでしょうかね。

 お茶を飲むときには、お茶を飲む。ご飯を食べるときには、ご飯を食べる。といっても、人と飲食するときは、そうはいきません。オシャベリを楽しむことも、結構なことです。ですが、ひとりになったときには、日常茶飯事そのものを味わうことができるでしょう。

 「茶の湯」でも、ひとりで立てて味わう「独服の茶」をすすめています。それは、ゆるゆると流れる時間のなかで、「本来の自分」に帰っていくひとときです。

 ある研究によると、生活のスピードをゆるめるだけで、満足度が高まるそうです。仕事に追われて慌ただしく暮らしていたときには、できなかったことでも、定年後なら、できるでしょう。一瞬一瞬、「自分の人生」を味わいながら、丁寧に生きる。「しあわせ」なことではないでしょうかね。

 仏教詩人の榎本栄一さんに、こういう詩があります。「帰家穏座(きかおんざ)」という詩です。

   帰家穏座(きかおんざ)

     なにかを
     求めあるくこころ
     いつしか失せ
     よくみれば
     ここには
     萌えいずる草の芽

             (榎本栄一)

 「帰家穏座(きかおんざ)」というのは、長らく放浪していた者が、故郷の自分の家に帰って身も心も落ち着くことを表した言葉です。そこから、仏教では、人間が本来自分に備わっている仏性に立ち帰って安住することをいいます。

 若いときには、「あれが欲しい、こう成りたい」という野心があるものです。ですが、いつまでも若くはない。いずれは人生の峠を越えて、「これでよかったのだろうか」と、立ち止まる日が来るのではないでしょうか。そんな日のために、こういう世界があることを、帰って行ける世界があることを、伝えていきたいと思いますね。

 さて、そろそろ、店じまいにいたしましょう。

 子どもたちが巣立っていき、連れ合いにも先立たれ、ひとりになる。いずれ、そういう日が来るかもしれません。ですが、お念仏とともにある生活は、きっと、孤独ではありませんよ。

 親鸞聖人は、「あなたがお念仏を称えて喜んでいるときは、かならず私(親鸞)も、そばで一緒にお念仏を称えて喜んでいると思ってください」と、遺言なさいました。お念仏を称えるところには、親鸞さまも、お越しになる。私たちは、決して、ひとりではないのです。

 念仏詩人の木村無相さんにも、こんな詩があります。「ひとりのとき」という詩です。以前にもご紹介いたしましたが、ちょっと読んでみます。

    ひとりのとき

      だあれもいない
      ひとりのとき
      おねんぶつさまが
      こうささやく

      ひとりぢゃあ
      ないんだよ
      ひとりぢゃあーー

           (木村無相『念仏詩抄』)

 「ひとりぢゃない」。これはね、お念仏を称えているだけでは、気づけないのですね。称えているお念仏が、自分の耳に聞こえて来たときに、はじめて感じることなのですよ。

 拙いものですが、そんなときに作った、私の詩をひとつ。

       自由であって、退屈しない
       無為であって、手持ち無沙汰でない
       ひとり居て、賑やかな
       そんな自分でありたい

 ずいぶん前の詩ですが、今も、そう願っています。

 仏法は、ままならぬ人生を、こころ安らかに生きる智慧です。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、死ぬまで、お育てを頂いていく。それが、お念仏の教えを頂いた私たちの、生き方です。どうぞ、皆さん、ご一緒に、お念仏を称えてまいりましょう。

 次回は、11月10日の「報恩講」でございますが、そのおりには、昨年の6月22日に亡くなりました前住の一周忌も、あわせて勤めさせて頂こうと思っております。どうぞ、また、お参りください。

 本日は、ながい時間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…



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