お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労さまです。 先月はまだ、暑い日もありましたけれど、このところ、ことんと寒くなりまして、そろそろストーブやコタツが恋しくなってまいりましたけれど、皆さんは、いかがでしょうかね。 本日は、親鸞聖人の祥月命日の法要、「報恩講」でございますが、今年は、昨年の6月22日に亡くなりました前住・慈照院釋浄昇の一周忌も、あわせて勤めさせて頂きました。お参りを頂き、有り難うございます。 前住は、大正12年の生まれで、激動の昭和時代をまるごと生き抜いた人でした。もともとは寺の生まれではありませんでしたが、縁あって、戦後、この寺の住職となり、多くの方々のお陰を被りまして、庫裏や本堂も建てることができました。その前住をご縁として、今日も、皆さんとご一緒に聞法させて頂けるわけでして、有り難いことと存じております。 まあ、前住だけでなくてですね、親の世代全体が、だんだん寂しくなってまいりましてね。先月にも、石川県の親戚のお寺のご老僧が亡くなりました。85歳でした。 体調がお悪いということで、お見舞いは遠慮しておりましたのですが、亡くなる何日か前に、「できることなら、もういちど会いたい」とおっしゃってくださいましてね。それで、入院先の病院まで、家内と二人で飛んでいきました。 肺を患っておられて、呼吸が苦しいなか、大きな声で、「いろいろお世話になりまして、ほんとに有り難うございました」と、おっしゃいましてね。お世話になったのは、私たちの方ですのに、勿体ないことです。 それから何日かあとに亡くなられまして、先月の21日がお通夜、22日がお葬式でした。白木の位牌も遺影の写真もない、真宗本来のお葬式でしてね。お坊さんが30人ほど参勤なさって、それはそれは、厳かなものでした。 葬儀の最後に、七条袈裟を掛けた棺(ひつぎ)が、総代さん方にかつがれてね、御御堂から霊柩車まで、ゆっくりと進んで行く。それを家族は、御御堂のなかから、じっと見送っているのですよ。 お見送りのお同行の方々のお念仏が聞こえるなか、薄暗い御御堂から、明るい日差しの境内を通って、古風な装飾で輝く霊柩車へと、棺が進んで行く。まことに厳かで、「ああ、お浄土へ帰られるのだなあ」と、感動いたしました。 そのときに、改めて考えてしまいましてね。「葬式は、人生から、さよならしたときの卒業式です」と、おっしゃった方がおられましたが、私は、この世の縁が尽きたときに、はたして、「人生を卒業した」と言えるような生き方をしてきただろうかとね。 何とも心許ないものがあるのですね。そういう思いもありましてですね、今回は、私たちの人生を、改めて、ご一緒に考えてみたいと思いまして、「何のために生きるのか」という題で、お話させて頂くことにいたしました。 いつもながらの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくの間、お付き合いください。 さて、同じく先月のことですが、漫画家の〈やなせ・たかし〉さんが、亡くなりましたね。94歳でしたかね。あのかたの「アンパンマン」というアニメの主題歌に、こういう言葉が出てきます。「なんのために生まれて、なにをして生きるのか、こたえられないなんて、そんなのはいやだ!」と。 実は、そんな歌があることすら、最近まで知りませんでした。孫が、「アンパンマン、アンパンマン」と言うもので、付き合いで聞いていたら、こんな言葉が出てきましてね。「なんのために生まれて、なにをして生きるのか、こたえられないなんて、そんなのはいやだ!」というのですよ。驚きましたね。 まあ、改めて、「何のために生まれて、何をして生きるのか」と問われると、ほとんどの人は、戸惑ってしまいますね。私たち現代人は、たいてい、「こたえられないなんて、そんなのはいやだ!」というほど、人生の意味を問うこともなく、生きておりますからね。 実際、「何のために生まれて、何をして生きるのですか」とおたずねしますと、「さあ、そんなこと考えたことありませんけど、社会の役に立つ人間になるということとちがいますか」とおっしゃる方が結構多い。 また、「別に決まった道なんかないでしょう、自分の可能性を試して生きていくだけです」とか、「他人に迷惑をかけないことなら、何でも、やりたいことやったらええんとちがいますか」とかね。なかには、「生まれてきたついでに生きているだけだ」とおっしゃる方もある。 たしかに、人それぞれに、生まれた境遇も違い、能力も興味も違うでしょうから、どう生きるかといっても、人それぞれだと言えば、人それぞれなのでしょうけれどね。 ですがね、「個人個人が、どう生きるか」ということではなくて、「人間として、どう生きるか」というところから見ると、やっぱり、それは違うのではないかと思うのです。 これは松扉哲雄先生の本で知ったことですが、徳川時代の末期までは、「お前さんは何のために人間に生まれてきたのか」と尋ねたら、「このたび、人間に生まれさせてもらったのは、仏の教えを聞いて、仏になるためでございます」と、十歳の子供でも答えたといいます。昔は、それだけ、人生の意味を問う教育がなされていたということでしょうね。 別に、坊さんだから言うわけではありませんけれど、「人間に生まれてきたのは、仏法を聞いて、仏になるためだ」という、これこそ、人間に生まれてきた私たちにとって、生きる本筋ではないかと思いますね。 と言うのはですね、私たちは、今、生きておりますけれど、いずれは死ぬ日がやってくる。皆さんも、よくよくご存じのことと思いますけれど、このように、元気なうちから、「いずれは死ぬ日がやってくる」ことを知っているのは、私たち人間だけなのです。 自分が「死すべきもの」であることを知って、苦しんだり悩んだりしているのは人間だけ。とすればですね、この人間だけの苦しみを乗り越えていく方向にこそ、人間の進むべき道があると思うのですが、いかがですかね。 人間に生まれた幸せは、人間に生まれた悲しみが超えられたところにある。その「悲しみ」を超えて「幸せ」に至る道を説いているのが、「仏教」なのです。そして、その「人間に生まれた幸せ」に至った人のことを、「仏(ほとけ)」というのですよ。 仏教は、お釈迦様が「おさとり」を開かれたところから始まりますが、お釈迦様も、この「死」の問題に直面されて、出家なさったのです。 お釈迦様は、修行のなかで気づかれた。それは、私たちのあらゆる苦しみや悩みの原因は、「煩悩」にあるということです。「煩悩」というのは、「自分」と「他人」を区別して、「他の誰よりも我が身が可愛い」というこころの働きのことですね。 この「煩悩」があるから、私たちは、特別大切な「自分」が損なわれたり無くなったりすること、つまりは「老・病・死」を思って、悩み苦しむことになるのです。 そのことに気づかれたお釈迦様は、瞑想修行のなかで、どんどん「煩悩」を希薄にしていかれた。そうしたら、ついには、「私」も「あなた」もないところに到達したのです。 そこは、「私」も「あなた」もないから、「無我」というのですが、そこには、守るべき「自分」というものは、なかったのです。悩みも苦しみもない、この「無我」こそが、私たちの「いのちの真実」の姿だったのです。 ですが、お釈迦様が歩まれた道、つまりは、私たちの悩みや苦しみの原因である「煩悩」そのものを無くしてしまうという道は、大変難しい道です。 たとえばです、「煩悩」とは、先ほども申しましたように、「他の誰よりも我が身が可愛い」というこころの働きのことですが、それなら、自分より他人のことを大事にしたら、「煩悩」は無くなるかと言えば、そうではありませんね。 このあいだも、北陸から門徒さんが数人訪ねてこられましてね、ちょっと仏法の話などさせて頂いたのですが、最後にね、一人の方が、こうおっしゃった。「いろいろ聞かせて頂きましたので、これからは、他人(ひと)のためになることだけを、やっていきたいと思います」と。 それでね、私は、「それは、おやめになったほうがよろしいでしょう」と申しました。「何でです」と言われたので、「他人のためと思ってやっても、相手から、ありがとうの一言もなかったら、どうですか」と申しましたら、「それは、いやですね」とおっしゃった。正直な方ですね。 もうお分かりのことと思いますが、「ありがとう」のひとことでも言って、「自分」を立ててくれないと腹が立つというのは、「煩悩」そのものでしてね。そもそも、「他人のため」ということからして、「自分」と「他人」を区別していることですから、最初から「煩悩」のグランドに立っているのですよ。 たとえ、そうでなくてね、「いや、それは違う。他人から感謝されてもされなくても、自分が正しいと思うことをすればよいだけだ」とおっしゃったとしてもです、これもまた、「自分は正しい」というところに立っているわけでして、「煩悩」の思うがままなのですよ。 まあ、私たちは、こころのなかに、煩悩という「自分と他人を区別し、差別する思い」を持っているものですからね、私たちのすることには、なにかにつけ、どこかしら差別のにおいがしますね。自分では、気づいていませんけれどね。 たとえばね、「あそこのおじいちゃん、とうとう歩けんようになったんや。それを思たら、私はまだ、杖ついてでも歩ける。喜ばなあかんなあ」とかね、「子供無くした人のこと思えば、うちのドラ息子でも、いてくれるだけ、喜ばなあかん」なんてね。 いかがですかね。ひょっとすると、「それのどこが問題なんだ」と思われたかもしれませんがね。それくらい、私たちは自分の「煩悩」に気づいていないのですよ。 仏教が問題にしているのは、この、こころの中の「煩悩」なのですが、私たちは、自分が煩悩に支配されていることすら、気づいてもいない。そんな私たちのために説かれてあるのが、「浄土の教え」「お念仏の教え」なのですよ。 「浄土の教え」では、煩悩を無くしていくことではなくて、自分の煩悩が見えてくることが大事です。そのためには、ともかくも、聞法することです。聞法するというのは、仏法に自分自身を聞いていくことなのです。仏法は、自分には見えない自分の姿を、映し出してくれる鏡です。 仏法の話は、面白いかどうかではなくてね、「自分のこととして聞く」。「いま自分のことが話されているのだ」という思いで聞くことが大事です。 以前、聞いた話ですが、ある御法事で、お手継ぎ寺のご院さんが、この「自分のこととして聞く」というお話をなさった。控えの間に戻られたところに、そこの奥さんが、ご挨拶に来られて、こうおっしゃった。「本日は、まことにいいお話を頂き、有り難うございました。さぞかし、嫁は、耳が痛かったことでしょう」と。 入れ替わりに、お嫁さんがお茶とお菓子をもって、ご挨拶にこられた。「本日は、いいお話を聞かせて頂きました。さぞ、義母(はは)は、耳が痛かったことと思います」と。これではね、なんともなりません。大事なのは、「自分はどうなのだ」ということです。 仏法の鏡に映った自分の姿を、何度も何度も見つめているうちに、煩悩に支配されているこころの様子が、だんだんはっきり見えるようになってくる。それが、聞法を重ねるということです。 仏法に自分を聞く、そして自分の姿が見えるところに立たせてもらう。そのことを親鸞聖人は、「深信自身(じんしん・じしん)」(『愚 禿 鈔』)という言葉で示しておられます。これは、「仏法に照らして、自分自身を深く知る」ということ。「仏の光に照らし出された自分自身の姿を、しっかり見る」ということです。 仏法が目指しているのは、自分が見えるようになること、煩悩まみれのお粗末な自分が見えるようになることなのです。ただ、そんな自分の姿が本当に見えたら、煩悩がなくなるのかといえば、そうではありません。 親鸞聖人は、こうおっしゃっています。「凡夫というは、無明煩悩(むみょう・ぼんのう)、われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心、多く、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、止まらず、消えず、絶えず」(『一念多念証文』)と。 「私たち凡夫の心には、苦しみの根源である煩悩が満ちている。その煩悩は、常に動き続け、死ぬまで無くならない」ということです。つまり、煩悩に支配されている自分の姿が見えても、煩悩は無くならないということです。 それなら、そんな自分の姿が見えることに、どんな意味があるのか。それはですね、そんな自分の姿が見えているのはなぜかと考えてみると、分かります。 たとえば、煩悩まみれで真っ黒になった、お粗末な自分の姿が、この黒い丸だとしますとね。この黒い丸は、こんなふうに、ホワイトボードを背景にして、はじめてはっきり見えるようになるでしょう。 煩悩まみれの真っ黒な自分の姿が見えるのは、煩悩のない真っ白な世界があるからです。煩悩のない世界というのは、仏の世界ですね。 つまり、煩悩まみれの、お粗末な自分の姿が見えるということは、とりもなおさず、自分が仏の手のひらにいることに気づくということです。 自分自身への気づきが深まっていくと、ついには、仏の手のひらの上にいることに気づく。煩悩の身のままで、仏に包み込まれていることに気づくのですね。「煩悩即菩提(ぼんのう・そく・ ぼだい)」です。煩悩が見えるということは、すごいことなのです。煩悩が見えるということは、広い世界に立たせてもらうことですよ。 これが、私たちの「いのちの真実」です。仏教は、この「いのちの真実」に気づいて、こころ安らかに生きよと教えているのですが、それには、なによりも、自分のなかにうごめいている煩悩に気づくことが大事なのですね。 以前、こんな話を聞いたことがあります。ある中学三年生の書いた「元服」という題の作文に出てくる話だそうです。 A君、B君という二人の成績優秀な中学生が、担任の先生からすすめられて、ある有名高校の入学試験を受けた。先生から、「君たちだったら絶対大丈夫」と言われて受験したのだけれど、実力テストでいつも一番だったA君が落ちて、B君だけが受かった。 A君は、自分がみじめで、恥ずかしくって、情けなくって、腹が立ってしかたがない。二階の自分の部屋で布団をかぶって泣いていたら、お母さんが入ってきて、「B君が、きてくださったよ」と言った。 A君は、お母さんに、「今世界中で一番会いたくない奴だと分かっているだろう、帰ってもらってくれ」と言ったのだけど、B君の二階へ上がってくる足音が聞こえたので、布団にもぐっているのも、あまりにみじめだと思って起き上がった。そこに入ってきたB君は、「ぼくだけ受かって、ごめんな」と、やっとそれだけ言うと、ポロポロ涙をこぼしながら、逃げるように帰って行った。 A君は、こう書いています。「ぼくは恥ずかしさでいっぱいになった。B君を見下して、思い上がっていた自分に気づいた。反対の立場だったら、ぼくはB君をたずねて、泣いて慰めに行っただろうか。きっと、余計に思い上がったに違いない。落ちてよかった。 本当の人間にするために、天がぼくを落としてくれたんだ、と思うと、かなしいけれども、このかなしみを大切に出直そうと、決意みたいなものが湧いてくるのを感じた。 ぼくは、今まで、思うようになることだけが幸福だと考えてきたが、B君のおかげで。思うようにならないことの方が、人生にとって、もっと大事なことなんだということを知った。昔の人は十五歳で元服したという。ぼくも入試に落ちたおかげで、元服できた気がする」と。そういう話です。 私たちの悩みや苦しみの原因は、自分の煩悩にある。そのことに本当に気づいたら、悲しみは、悲しみとして、そんな自分をそのままに支えてくれている、大きな明るい世界が開かれてくるのですね。自分の「煩悩」に気づくということは、すごいことなのですよ。人生が明るく開けてくるのです。 「元服」という題の作文ですけれど、いまどきの「成人式」と較べるのも申し訳ないほど、気づきのレベルが深いですね。大人になるというのは、こんなふうに、自分を深く知って成長することなのですよ。 今や、いい大人が冷蔵庫の中に寝そべって写真を撮って恥ずかしくもない、というほど、自分が見えなくなっている。大変ですよ、これは。 実際、「煩悩」が見えていない私たちの社会は、大変ですよね。ちょっと余談のようですが、今年で、終戦から68年、団塊の世代と呼ばれる「戦争を知らない子供たち」も、ほとんどが停年退職となりました。あれから戦争も無く、ここまできたことは、まことに結構なことだと思っておりましたが、どうも、このごろ、雲行きが怪しい。 安倍首相は、しきりと「意志の力」なんて言っていますけれど、危ないですね。そんなふうに、自分の思い、自分の都合にしがみつくこころの働きを、仏教では「我執(がしゅう)」と言います。今の言葉でいえば、「エゴ」のこと、つまりは「煩悩」のことですね。 「自分の都合」というのは、たいていは損得勘定から生まれる都合のことですが、国家のあいだで「我執」がぶつかり合うと、ついには戦争になる。戦争は政治の一手段だと、気楽に言われていますけれど、実際に戦争が起これば、この世は地獄です。 戦争は、人のこころのなかから生まれて、この世に地獄を生みだします。地獄というのは、決して、死後の世界のことではないのです。この世を地獄にしないためにも、私たちは、自分自身の「煩悩」から目を離してはいけないのです。 「地獄」というと、最近、『地獄』という絵本がブームになっているそうです。この本がそれですが、仏教の地獄絵から、いくつかの場面を載せたもので、子供のしつけに役立つということで、よく売れているそうです。本の帯にも、「うちの子は、この本のおかげで、悪さをしなくなりました」と書いてあります。 中を見ますと、実におぞましい残酷な絵が出てきます。これは想像から生まれたものではなくて、実際に人間が、戦争や刑罰のなかで繰り広げてきたことに違いないのですが、こういう絵を幼い子供に見せて、「うそをついたら地獄に落ちるよ」というようなことは、やめたほうがいいと、私は思います。 言うことを聞かせようとしたら、おどすのが一番簡単ですがね。おどしたり、怖がらせたりして、お手軽に子供を自分の都合にあわせて育てたいというのは、親のエゴですよ。残酷な絵を見せると、子供のこころが冷えて堅くなる。親は、自分の煩悩が見えていないからこそ、そういうことが平気でできるのです。 それに、いまどき、地獄なんて、親自身が信じていないでしょう。この本の「かまゆで地獄」というところには、「うそをついたり、やくそくをやぶったものは、この、かまゆで地獄で、くりかえしくりかえしにられるのじゃ」と書いてある。子供より、親が読んで考えるべき言葉ですよ。 大人が地獄など信じていないことは、テレビの国会中継を見ていたら分かりますね。それとも、国会中継は、「18禁」の成人向け番組ということにでもしますかね。 もうひとつ、教育の話ですが、最近は、「いのちの教育」が大事だということで、自分たちが育てたニワトリを殺して食べる、ということをやっている小学校があるそうです。とても理解できませんね。それでは、いのちについて学ぶどころか、子供のこころに大きなキズを残しますよ。 昔は、ボーイスカウトでも、生きたニワトリを殺して食べるということが行われていたようですが、それは、サバイバル技術を学ぶためだったと聞いています。ニワトリを殺して食べても、いのちの大切さが分かるわけではありません。生き延びるためなら平気で殺せるようになるだけです。 現在、地球上の人口は急激に増加していて、今世紀中に100億人を越えると言われています。近い将来、食糧や水が不足して、大問題になることは、目に見えています。 『世界がもし100億人になったら』という本の最後に、こんな話がのっていました。著者が同僚の若い科学者に、「わたしたちが今直面している状況に対して、何かひとつだけしなければならないとしたら、何をするか」と問いかけた。すると、その若い科学者は、こう答えた。「息子に銃の撃ち方を教えます」と。 あなたにとっても、人生は、サバイバルでしょうか。煩悩はサバイバルを目指しますが、仏教は、長く生きることではなく、深く生きることを大切にします。「みんな、いのちの仲間なんだ」という「いのちの真実」への気づきが深まっていくところにしか、本当に「私」と「あなた」がつながる世界はないからです。 「平和は、一人ひとりの心のなかから生まれる」と言った人がおられました。仏教は、社会の繁栄のためにあるわけでも、世界平和のためにあるわけでもありませんけれど、自分の煩悩が見えないところから、いろいろ深刻な問題が起こってきますので、そういう意味でも、仏法にご縁を頂くということは大事なことだと思います。 さて、そろそろ、まとめてまいりましょう。 「死ぬからこそ、本当に生きる道を聞く」。これは、何度もご紹介いたしました、金子大栄先生の言葉ですが、「生と死」は一枚の紙の裏表です。「死」はいらないのだと、裏をどんどん削っていくと、ついには、紙そのものが無くなってしまいます。 そうではなくて、裏打ちをして「裏」がしっかりすると、「表」もピンと張る。「裏」の不安を無くすことが、「表」のためになる。つまりは、「死」の問題を解消することが、「本当に生きる道」をはっきりさせるのですね。 親鸞聖人は、「後世のたすかる縁」を求めてご苦労なさった、と伝えられています。「後世のたすかる縁」とは、「死」の問題を解消する教えのことです。そして、親鸞聖人は、法然上人のもとで、ついに、その「後世のたすかる縁」に出会われた。それが、「浄土の教え」です。 「浄土の教え」というのは、「あの世のこと」を知るための教えではありません。そうではなくて、「浄土の教え」は、「我が身の現実」と「いのちの真実」を知るための教えなのです。 「我が身の現実」というのは、私たちのこころが「煩悩」に支配されているということです。そして、「いのちの真実」というのは、私たちは、その「煩悩」の身のままで、「仏のいのち」に支えられているということです。 親鸞聖人は、「我が身の現実」をじっと見つめ続けて、ついに、「いのちの真実」に深く頷かれました。 さきほど見て頂いた「たとえ」のようにですね、真っ黒の「煩悩」が本当に見えてきたとき、その背後にある、白いホワイトボード、つまりは「煩悩」のない「仏のいのち」も見えてきた、ということです。 「浄土」というのも、「無我」というのも、「仏の世界、さとりの世界」というのも、みな、この真っ白な「仏のいのち」のことです。 この世の縁が尽きると、体とともに「煩悩」も消えて、「仏のいのち」だけが残る。私たちは、ついには、「浄土」に帰るのです。親鸞聖人は、この帰る場所をみつけだすことにおいて死を越えられたのです。 私たちは、まだ自分の「煩悩」がほとんど見えておりませんけれど、聞法を重ね、お念仏を称える生活の中で、少しずつ、自分の心のなかにある「煩悩」の動きに気づくようになっていきます。 気づくだけでいいのですよ。反省するのではないのです。反省というのは、頭で考えることです。頭で考えることには、どうしても「煩悩」がからみついています。考えずに、ただただ気づくことが大事。 といっても、考えないことなどできませんから、お念仏を称えるのです。すぐに考えようとする「煩悩」の働きを鎮めるのが、お念仏なのです。 なにかが起こって腹が立ったときなどに、「あ、いけない」と反省するのではなくて、「あ、動いた」と、「煩悩」の動きに気づくことです。気づいたら、反省が始まるまえに、お念仏。それだけで、「煩悩」の働きは鎮まっていきます。 ただ、「煩悩」は、鎮まっても、無くなりませんね。ちょっと目を離すと、またぞろ動き始めます。ですが、そんな「煩悩」の動きに気づくのが、だんだん速くなりますよ。 私たちにできることは、「煩悩」に気づくことだけ。反省するのではないのです。反省ばかりしているから、気づきが深まらないのです。 「煩悩」のままに「生かされて生きている」、「煩悩即菩提」というのは、その気づきが深まっていく果てに、行きつく境地のことです。 私たちは、たいてい、「私が、私が」と「我」を張って生きておりますけれど、「生かされている」という気づきの境地には、その「私が」という「我」が無いですね。「我」が無いというのは、「無我」です。 つまりは、お釈迦様の「悟り」というのも、私たち門徒の「安心(あんじん)」というのも、「生かされて生きている」という気づきの境地のことなのです。親鸞聖人が、「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ」(浄土和讃)とおっしゃっているのは、そのことですね。 「何のために生きるのか」、「このたび、人間に生まれさせてもらったのは、仏の教えを聞いて、仏になるためでございます」。そこから始まった今日の話は、「仏になる」とは、「煩悩の身のままで、生かされて生きている」という「いのちの真実」に深く頷くこと、というところにたどりつきました。 思いますに、こころのなかに、ふと湧いてくる、「何のために生きるのか」という問いかけこそ、聞法へのお催促ではないですかね。 「ままならぬ ままならぬまま み手の中」。「煩悩」の身のままで、仏に包み込まれているということ。「仏のいのち」に、生かされて生きているということ。それは、話で聞くことではなく、聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、体得されることなのです。「いのちの真実」が、この身のうえに、実現されるということです。 それは、ただの言葉ではないのです。皆さんのお爺さんやお婆さんのなかにも、そういう人がおられたはずです。だからこそ、「浄土の教え」が、今まで伝わっているのですよ。 「生かされている」というのは、何もしないということではありません。「生かされている」ということは、「私」をとおして、「仏のいのち」が働き出ることです。 「生かされているということは、結論ではなく、出発点である」。池田勇諦先生の言葉です。また、「仕事というものは、生かされているお礼にするものだ」。これは暁烏敏先生の言葉です。 「生かされている」という気づきには、光があります。「仏のいのち」に触れた人からは、ほのかに光が放たれている。「仏のいのち」と出遭って、一隅を照らす光となる。煩悩の支配する暗闇の世界で、ほのかに光る人となる。それこそが、人間として生まれてきたものの、生きる意味ではないでしょうかね。 仏教詩人の坂村真民さんに、「光」という詩があります。こんな詩です。 光
体の中に 今は、歳をとっても、損得の物差しを握りしめたままでいるのが、ほとんどではないですか。「仏のいのち」に触れると、その握りしめている手が、だんだんほどけてきます。それが、ほとけになっていくということでしょう。 家の中に一人でも、こころがほどけて、ほのかに光を放っている人がいる、ということが大事です。 聞法を重ね、お念仏を称える身となって、煩悩の暗闇の支配する世界の中で、私たち一人ひとりが、ほのかに光を放つことができたら、いいですね。 では、このあたりで、店じまいといたします。 最後に、もうひとつ詩をご紹介します。念仏詩人の榎本栄一さんの、「かすかな余韻」(『常照我』)という詩です。 かすかな余韻
あの人も逝き ひととしして、こういう詩が、こころにしみるようになりました。お催促を頂いているのですね。あの人にも、この人にも。 「死ぬことを 忘れていても みんな死に」という川柳がありますが、死ぬことを忘れて生きているあいだは、人生は始まっていないのではないでしょうかね。 毎田周一先生は、何か書いてほしいと、揮毫を頼まれるたびに、「お前も死ぬぞ」とお書きになったそうです。「お前の人生は始まっているのか」という問いかけでしょう。はたして、私たちの人生は始まっているのでしょうかね。いちどじっくりと、お考え頂きたいところです。 では、本日は、ここまでにさせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。 前住の一周忌の記念に差し上げましたのは、『書いて学ぶ親鸞のことば・正信偈』という本です。薄く印刷されたお手本の上をなぞって、書きながら正信偈を学べるようになっております。お使い頂けると有り難く存じます。 本日は、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……。
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