釋昇空法話集・第57話

「もういいかい」

「いま、ここ」にいるのみ

(2014年3月21日 彼岸会)
 お忙しいところを、ようこそお参りいただきました。ご苦労様でございます。

 今日はお彼岸の御中日です。ようやく春めいてまいりまして、桜の便りもちらほら聞こえてくるようになりました。もうこれで、寒さが戻ってくるということはないと思いますが、寒い間は何かと具合が悪いですね。身体が硬くなって、転びやすくなるとか、インフルエンザが流行るとかね。

 どういうわけか、温度が低くて、空気が乾燥していると、インフルエンザ・ウイルスが元気になるそうでして、それで、毎年冬には、インフルエンザが流行るのだそうです。

 今年は、私も、2月に、インフルエンザに罹りまして、一週間ほど寝込みました。その間、お参りに伺えませんで、ご迷惑をおかけいたしましたが、39度8分くらいの熱が出て、起きておれなくなくなりましてね、何も食べずに、一週間、じっと寝ておりました。

 熱が高いのは、身体が健康を取り戻そうと頑張っているということ。食欲がないのは、目下のところ、消化にまわすほどの余力がないということ。まあ、そういうことだと思いまして、何も食べずに、じっと寝ていたわけですが、病気で寝込むというのは、久しぶりでしてね。

 そのおかげで、「いま、ここ」に生かされて生きていることの味わいと申しますかね、改めて、大事なことに気づかせてもらったように思います。

 私たちはよく、「病気になって初めて分かる健康のありがたさ」なんて言いますけれど、何でも「無くさないと、ありがたさに気づけない」というのでは、あまりにも勿体ない。

 何かを無くしてから、過去を悔やみ、未来を憂(うれ)えるような生き方をやめて、「いま、ここ」に与えられているものの尊さに気づいていく。そうなれば、きっと人生の味わいも変わってくるに違いありません。

 本当の人生の味わいは「いま、ここ」にある。今回は、そういうお話をさせて頂こうと思います。どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、今日は、ご案内のように、「もういいかい」という題で、お話させていただきます。「もういいかい」と言いましても、べつに、「かくれんぼ」の話をしようというわけではありません。

 そうではなくて、「もっと豊かに、もっと健康に、もっと幸せに」という具合に、際限なく「もっと、もっと」と頑張っている、そういう私たちの生き方に、「もういいかい」と、声をかけたいと思うのです。

 私たちは、みんな、戦後の経済復興のなかで、「もっと豊かになれば、もっと幸せになれる」と教えられて、「もっと、もっと」と頑張る生き方しか知らずに、今までやってきたのではないでしょうか。

 「もっと豊かになれば、もっと幸せになれる」。実際、だんだん豊かになってきて、買えなかったものが買えるようになり、出来なかったことが出来るようになってきましたね。

 私は戦後の生まれですから、だんだん豊かになってきた流れしか知らないのですけれど、ある日、小学校から帰ってくると、電器洗濯機が届いていました。ゴムローラーの絞り器の付いた、あれですが、なんだか、わくわくしたのを憶えています。

 それから、「おくどさん」がガスレンジになり、電話が付き、テレビが付いた。一番驚いたのは、高校時代に、学校から帰ってきたら、自動車が家の前に止まっていたときです。自動車なんて、タクシーか、大金持ちの自家用車しか、知らなかったもので、びっくりしました。

 「もっと豊かになれば、もっと幸せになれる」。確かに、分かりやすかったといえば、分かりやすかったのですが、難儀なことに、この「もっと、もっと」には終わりがない。「もっと、もっと」という、欲望との追いかけっこで、追いついた人はいないのです。

 「年収300万あればなあ」と思っていた人が、年収300万になったら、次はきっと「年収500万まで頑張ろう」となる。年収500万になったらなったで、今度は「年収1000万あったらなあ」となりますでしょう。

 あるところで、この話をしましてね、「お金は、持って逝けませんよ」と言いましたら、「そらそうですけど、生きている間は、お金が要りますでね」とおっしゃった。「それなら、いくらあればいいですか」といいましたら、「そら、やっぱり、多いほど安心ですね」とおっしゃった。

 そうかと思うと、他の方が、「私らもう、身体も悪いし、貯金と年金で細々暮らしてるだけでして、もっと、もっとなんて思いはありませんわ」とおっしゃった。「それなら、身体が元気で、お金に余裕があったら、どうですか」と言いましたら、「こんなところにくすぶってませんがな」とおっしゃった。

 みなさんは、いかがですか。お金のことだけではありませんけれど、私たちは、たいてい、「もっと何かがあれば、もっと幸せになれる」という方向でしか、考えられなくなっている。違いますかね。

 しかし、「もっと、もっと」と言っても、人生は短いですよ。このあいだ寝込んでいたときにも、そのことを考えていました。

 自分のことばかり言うのもなんですが、さきのインフルエンザは孫からもらいましてね。孫は2歳です。成人するまで、あと18年です。もしもですよ、私が、この孫が成人するまで生きていたとしたら、私はそのとき82歳ですよ。

 孫が成人するまで生きていたい、ということではありません。そうではなくて、こんなことを申しますのは、何でも我が身に引き寄せて考えないと、実感が湧かないからなのです。

 皆さんにもご経験がおありでしょうけれど、子供が生まれてから成人するまでの年月というのは、過ぎてしまえば、あっという間ですよね。私に残された時間というのは、その、あっという間だけなのです。それを思うと、一日一日が、本当に大事だなあと思うのです。

 この話をしますとね、ときどき、お尋ねをいただくのです。「私も、一日一日が大事だなあと思いますけれど、一日を大事にするって、どうすることなのでしょうか」と。みなさんは、どうですか。一日一日を大事にするというのは、どうすることだと思われますか。

 一日のなかに、仕事や、趣味、運動、家庭奉仕、ボランティア活動といった具合に、あれもこれも詰め込んで、24時間を、ぎりぎりいっぱいまで使い切ることでしょうか。

 もしそうなら、「もっと、もっと」と、寝る時間もけずって仕事をしている人が、いちばん一日を大事にしているということになりませんかね。身体が不自由になって、何もできなくなったら、一日を大事にすることは、できないのでしょうか。いかがですか。

 「一日を大事にする」と聞けば、私たちは、「もっと何かをする、もっと何かを手に入れる」という方向で考えてしまいがちですけれど、先ほども申しましたように、この「もっと、もっと」には終わりがないのです。

 「今日を大事に生きる」ということは、「この一日をもっと頑張って、もっと幸せになるぞ」ということではないのですよ。

 そうではなくて、「今日を大事に生きる」ということは、「もっと、もっと」と外へ広がっていこうとするこころを鎮めて、「いま、ここ」に生きている「あるがまま」の自分に戻っていくことなのです。私の現実は、「いま、ここ」にしかないからです。

 「いま、ここ」に生きている「あるがまま」の自分にもどって、はじめて気づくのですよ。生かされて生きている自分の「幸せ」にです。そういう方向に、話を進めてまいります。

 さて、みなさん。いつもお話することですが、私たちは、一日の大半を、頭の中で暮らしていますね。一日中、いろんなことを考えているということです。

 たとえば、子供が勉強もせずに、遊んでばかりいることを思って、いらいらしている。嫁の言葉遣いが気に入らなくて、腹が立つ。身体が思うように動かなくなってきて、先行きのことが不安になる。いつまで運転できるかとか、年金はどうなるかとか、体調が悪いのは何か大きな病気ではなかろうかとか、じっとしていても、頭の中は、大騒ぎです。

 どうですか、みなさん。そんなふうに、頭のなかで、もうどうしようもない過去と、まだどうなるか分からない未来とを、ウロウロしているものですから、こころがいつまでも温まらないのですよ。

 ですがね、そんなふうに過去や未来をウロウロしていると、「いま、ここ」にある自分のことには、気づかないことがいっぱいあるのですよ。自分は「いま、ここ」に生きている。その本来の姿に戻ることが大事です。仏教が教えているのも、そのことです。

 「いま、ここ」に向かってこころを開いていると、大事なことに気づいてくる。それはです、この世に「あたりまえ」のことなどひとつもなくて、すべてが尊いことだったということです。なかなか気づけないことですけどね。

 たとえば、「いま生きている」ということがそうですよ。みなさん、いかがですか。今朝目覚めたときに、「ああ素晴らしい、今日も生きている、有り難いなあ」と思われた方はおられますか。どこでお聞きしても、なかなかないのですね、これが。生きていることが「あたりまえ」になっているからでしょうね。私たちは、みんな、そうではないですか。

 誰でも、「あたりまえ」のことには、感謝できません。ですが、本当は、この世に「あたりまえ」のことなど、ひとつもないのですよ。私たちは、そのことに気づいていないだけなのです。そのことに気づくと、世界は輝いてくるのですがね。

 こんな詩があります。31歳でガンで亡くなった、井村和清(いむら・かずきよ)というお医者さんが、亡くなる20日前に書き残された詩です。お手元の資料にも挙げておきました。「あたりまえ」という題の、こんな詩です。ちょっと読んでみますね。

 あたりまえ

   あたりまえ
   こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
   あたりまえであることを
   お父さんがいる
   お母さんがいる
   手が二本あって、足が二本ある
   行きたいところへ自分で歩いてゆける
   手をのばせばなんでもとれる
   音がきこえて声がでる
   こんなしあわせはあるでしょうか
   しかし、だれもそれをよろこばない
   あたりまえだ、と笑ってすます
   食事がたべられる
   夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
   空気をむねいっぱいにすえる
   笑える、泣ける、叫ぶこともできる
   走りまわれる
   みんなあたりまえのこと
   こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
   そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ

    なぜでしょう
    あたりまえ

             (井村和清『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』)

 いかがですか、皆さん。私たちは、家に帰れば、夫が居るのがあたりまえ、妻がいるのがあたりまえ、子どもがいるのがあたりまえだと思っていませんでしょうか。本当は「あたりまえ」のことなんか、ひとつもないのですよ。そのことに気づくのは、いつでしょうか。大切な人を亡くしたときでしょうか。

 目が見えること、耳が聞こえること、呼吸ができること、食べられること、自分の足で歩けること、手で物がとれること、話ができること。みんなすばらしいことなのに、「そのありがたさを知っているのは、それを失した人たちだけ」。

 念仏詩人の浅田正作さんの詩にも、こういうのがあります。「幸せ」という詩です。

 幸せ

   生きている
   このなんでもないことに
   躓(つまづ)かねば
   幸せなんて
   わからないんだ

                 (浅田正作、念仏詩集『続・骨道を行く』)

 「病気になって初めて分かる健康のありがたさ」と、よく言われますけれど、健康だけでなくて、私たちは、なんでも、「いま、ここ」に持っているもののありがたさには、なかなか気づけないですね。

 こころが「いま、ここ」になくて、前の方や後ろの方ばかり見つめている私たちには、足元は見えないですよ。そのために、「いま、ここ」にある、何でもない日常の、ただごとでない尊さに、気づけないのです。

 ですがね、私たちにとって確かなことは、「いま、ここ」に生きているということだけなのです。その唯一確かな「いま、ここ」に帰ってこいと呼びかけているのが、「南無阿弥陀仏」という、お念仏なのです。

 「いま、ここ」に帰ってきて、この「いのち」の輝きに気づきなさい、と教えているのが、お念仏の教えなのです。

 私たちは、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、お念仏を称えますね。この「阿弥陀(あみだ)」というのは、仏様のお名前です。「阿弥陀」という言葉には、「無量寿」という意味と、「無量光」という、二つの意味があります。

 「無量」というのは「量ることができない」という意味です。「寿」(寿命)というのは長さのある「時間」のこと。「光」(光明)というのは光の広がる「空間」のことです。それが「量れない」というのが「阿弥陀」という仏様のお名前の意味です。

 「量れない時間」というのは、過去も未来もない「いま」のこと。「量れない空間」というのは、あっちもこっちもない「ここ」のことです。つまりは、その「いま、ここ」に帰ってこいという、呼びかけが、「南無阿弥陀仏」というお念仏なのですよ。

 さきほどご一緒にお勤めいたしました『正信偈』の最初に、「帰命・無量寿・如来」「南無・不可思議光」とありますが、それはこの「無量寿に帰依し、無量光に南無する」ということです。

 「『いま、ここ』に帰ってこい」という仏様の呼びかけに、「はい、帰ります」と応える。それがね、「帰命・無量寿・如来」「南無・不可思議光」なのです。

 お念仏が大事ですよ。こころが、「もっともっと」と、過去へ未来へさまよっていくとき、「『いま、ここ』に帰れ」と呼びかけてくださる。それが、「南無阿弥陀仏」です。その呼びかけに、「はい、帰ります」と応えるのが、「南無阿弥陀仏」です。お念仏は、「称えて、聞く」(「称名・聞名」)ものなのですよ。

 「お念仏を称えたら、煩悩が無くなるのか」とおっしゃる方もありますが、死ぬまで、煩悩は無くなりませんね。むしろ、煩悩に対して、何にもできないから、お念仏を称えるのです。

 こころだけを変えようとしても、駄目ですね。話を聞いて、「そうだなあ」と思っても、一週間もすれば忘れていますよ。何度も何度も聞法する。聞法を重ねるということが大事です。

 信仰の「生活」と言いますでしょう。仏教は、学問ではなくて、生活なのですよ。生活というのは、理屈ではありません。日常的な習慣として、身体に覚えさせることが大事です。お念仏は、声に出して称えること。そして、自分の耳で聞くことです。

 「信なくば、つとめてみ名を称ふべし、み名より開く、信心の華」という道歌があります。聞法を重ね、お念仏を称えては聞き、称えては聞きする生活のなかで、「いま、ここ」に帰る道は、自ずと、向こうから開かれてくるのです。

 その喜びを読んだ詩を、ひとつご紹介します。念仏者で、教育界の国宝といわれた東井義雄(とうい・よしお)先生の、「支えられてわたしが」という詩です。

     支えられてわたしが

        ざしきに上がればざしきが
        ろうかに出ればろうかが
        便所に行けば便所のゆかが
        どこへ行ってもどこへ行っても
        わたしを支えてくれているものがある

        そればかりではない
        妻も子どもも孫も
        有縁無縁の人々も
        生きとし生けるもののいのちたちも
        石も土も空気も
        わたしを支えておってくださる

        ああそればかりじゃない
        忘れづめのわたしを支えづめに
        久遠(くおん)の願いがわたしを
        支えていてくださる

  (東井義雄『いのちとのふれあい』より)

 東井先生は、深く頷かれた。ああ、足元に気づいていなかった。あたりまえのことではなかった。ただごとでない尊いことに恵まれていたのだ。あらゆるものに、あらゆるいのちに、支えられて、わたしは生きている、いや、生かされているのだ。

 ああ、それだけではない。聞いても聞いても忘れてしまう私を支えて、気づけよ、気づけよと、「いま、ここ」に帰ってこいよと、どこまでも願いつづけてくださっている、ありがたい「いのち」だった、と。

 「いま、ここ」に生きるというのは、「いま」という時間、「ここ」という場所にしがみつくことではありません。そうではなくて、「いま、ここ」に生きるというのは、「いま、ここ」に恵まれている「いのちの真実」への気づきを、深めていくことなのです。

 「南無阿弥陀仏」というお名号に込められている真実は、「いま、ここ」しかないということです。仏の世界は「いま、ここ」にある。私たちも、その「いま、ここ」にいるのですけれど、私たちは、なかなか、そのことに気づけない。勿体ないですね。

 私たちは「もっともっと頑張る」という生き方しか知らずにきましたが、「がんばる」というのは「我を張る」という意味です。「我を張る」というのは、煩悩の火が燃え盛っていることですよ。

 何かを求めて頑張るのをやめて、確かなものは「いま、ここ」しかないのだという「あたりまえ」のところに帰ってくれば、すでに「いま、ここ」に恵まれている幸せに気づくのではないでしょうかね。

 たとえば、両手いっぱいにアメ玉を握りしめたまま、「もっと欲しい、もっと欲しい」と走り回っているのが私たちですが、走り回るのをやめて、立ち止まり、手に持っているアメ玉をひとつぶ食べる。「いま、ここ」に恵まれている幸せに気づくというのは、まずは、そういうことなのですよ。

 私たちは、まだ自分の「煩悩」がほとんど見えておりませんけれど、聞法を重ね、お念仏を称える生活の中で、少しずつ、自分のこころのなかにある「煩悩」に気づくようになっていきます。

 これが大事なのです。私のこころの目に、「煩悩」の姿が見えるということは、とりもなおさず、私は「煩悩」ではないということです。

 私の目に「あなた」が見えるのは、私が「あなた」でないからですね。「煩悩」が見えたときには、私は煩悩ではない。煩悩と一体化しないために、見えるということが大事なのですよ。

 「救い」というのは、「いのちの真実」に気づくこと。「私は煩悩で苦しんでいる。しかし、私は煩悩ではなくて、世界とひとつだった」と気づくこと、「私は仏の手のひらの上にいたのだ」と気づくことなのですよ。

 「救い」とは、すでに救われていることに気づくこと。このあいだ、しばらく寝込んでおりましたときに、そんな光に、ふと触れたような気がいたしました。

 いささか雑談めいてきますけれど、インフルエンザで寝込んでいますとね、いろんな想いが頭に浮かんでくるのですよ。それをぼんやりと見ている自分がいる。ちょっと不思議な気分でした。

 まあ、体温が39度を超えると、ほとんど何も考えられなくなりましたけれど、それが38度台に下がってくると、今度は、次から次へと、思い出したくもないことを思い出してくるのですよ。

 辛かったことや、悲しかったこと、恥ずかしかったこと、情けなかったこと、悔しかったことと、まあ、物心ついてからの、言うに言われぬ事々ですよ。

 「思い出す、8割までは、嫌なこと」なんて言いますけれど、もう忘れたはずの、こんなことまで覚えていたのかと驚くほど、次から次へと湧いてくる。

 そのヘドロのような息苦しい記憶の洪水を、しばらく見つめているうちに、ふと、「ああ、そうだったのか」と思いあたりましてね。おそらく、身体のつらさに引きずられて、つらかった「こころ」の記憶が浮かび上がってきたのでしょうね。

 つらかった「こころ」の記憶。それはね、きっと、「他の誰よりも可愛い自分」を守ろうとして、傷だらけになった「エゴ」の記憶なのでしょう。

 「エゴ」というのは、「煩悩」のことです。「煩悩」というのは、「他の誰よりも我が身が可愛い」という、こころの働きのことですね。

 私たちのあらゆる苦しみや悩みの根本は、この「エゴ」にあるわけですが、「エゴ」は、この「私」のことが大事で大事で仕方がないのですよ。それでも守りきれずに、プライドとコンプレックスにまみれて、傷だらけになっている。

 そんな「エゴ」の姿を、ぼんやり見ているうちに、なんだか、「エゴ」が可愛そうになってきましてね。思わず、「もういいかい」とつぶやいて、「エゴ」のために泣きました。「エゴ」というのは、ことさら否定もせず、切り捨てもせずに、ただ解放してやればいいのですよ。

 「煩悩」もいのちの働きです。思えば、「浄土往生」を願うのも、煩悩あればこそ。そんな煩悩に手を合わせつつ、煩悩と一体化しないように、こころに「南無阿弥陀仏」の灯火(ともしび)を掲げて歩む。それが「お念仏の道」ではないでしょうか。

 最後に、念仏詩人の木村無相さんの詩を、ご紹介いたします。「火を」という詩です。

  火を

     火を
     火を
     ひとびとの
     むねに
     火を ーー

     ねんぶつの
     火を ーー

       (木村無相『念仏詩抄』)

 まだ先があると思っているのは「煩悩」です。私は、「いま、ここ」にいるのみ。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、何度も何度も「いま、ここ」にいる自分に気づかせてもらう。その気づきは、降りていく螺旋階段のように、少し づつ深まっていくものなのです。

 確かなものは「いま、ここ」しかない。過去のことは、どう思ってみても、それはも う過ぎ去ってしまって、どうしようもない。明日や、未来というものも、そうですね。

 あのね、希望が無くては生きられないとおっしゃる方は、沢山あります。お参りに伺ってもね、「ごえんさん、私ら年とってしもうて、もう未来に希望がのうて、生きていても詮ないですわ」とね。

 未来に希望。いかがですかね。希望があるから生きられる。希望というのはね、明日がある、明後日があるということを、前提にしているのですよ。あるかないか分からないものを前提にして、ー所懸命になっている。それを生き甲斐といつているのは、いかがなものですかね。

 ですから、もし明日が無いということになったら、大きな希望を持っている人ほど、絶望が激しい。希望も絶望も、同じ煩悩の枝に咲く「あだばな」です。大きな希望を持っている人ほど、絶望も大きい。それは、そこまで行ければ結構ですけれと、希望が無いと生きられないというのですから、いずれどこかで絶望することになる。

そうではないのですね、皆さん。この世でー番いのちいっばいに、エネルギーいっばいに生きているというのは、赤ちゃんでしょう。赤ちゃんを見たらね、生きるエネルギーのかたまりですよ。その赤ちゃんはね、将来の希望なんて、持つていませんよ。

 「将来に希望がないと生きられない」なんて、そんなことはありませんよ。私たちは、「もっと、もっと」という生き方をしてきたから、「将来に希望が無いと生きられない」と、思い込んでいるだけ。

 確かなものは「いま、ここ」しかない。その「いま、ここ」は、輝いていますよ。「南無阿弥陀仏」の呼びかけに応えて、「いま、ここ」に立たせてもらいましょう。私たちの胸に、煩悩の火でなく、念仏の火をともしましょう、ね。

 聞法を重ねることでしか、煩悩に気づけないのですよ。自分の煩悩にだまされたいのが私たち。また、常にだまされていくのが私たちです。そんな私たちが、煩悩に気づくというのは、聞法のおかげですよ。

 そして、その煩悩と一体化しないでおれるのは、お念仏あれぱこそ。お念仏を称えては聞き、祢えては聞きするということは、そういうことなのです。

 では、本日は、これで終わらせて頂きます。まとまりのない話に、長い時間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますように、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ.......



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