釋昇空法話集・第58話

仏事に迷わず

諸行無常ということ

(2014年9月23日 永代経法要)
 お忙しいところを、ようこそお参りくださいました。ご苦労さまです。

 今年の夏は、例年になく暑かったうえに、よく雨が降りましたね。お盆のさなかに台風まで重なりまして、いささか難儀いたしましたが、このところ、ようやく秋らしくなってまいりまして、今日は、お彼岸のお中日でございます。

 紫雲寺では、例年この秋のお彼岸にあわせて、永代経法要を勤めております。今日も沢山のお参りを頂いておりますが、例年、報恩講様より、この永代経の方が、お参りが多いのです。

 思えば、それだけ、身近な人の死は、私たちに改めて人生を考えさせる力があるということでしょうね。

 人が死ぬということは、人生の一大事です。仏教は、その死を、日常の夢から目覚めるための「スプリングボード」として、大事にいたしますが、大切な人を亡くしても、悲しいままに、苦しいままに、走り抜けてしまいましてね、なかなか跳べませんね。

 「亡き人に 迷うなと 拝まれている この私」。かつて難波別院の掲示板に掲げられていた標語です。

 人ごとでなくて、私もそうなのですが、人の死というご縁に触れながらも、亡くなった人の願いを受け止めらずに、あいもかわらず迷っているのです。

 今回は、そんな自戒の思いもこめて、「仏事に迷わず」という題で、お話することにいたしました。話の内容は、「諸行無常」についてです。

 思いつくままの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、何年か前に聞いた話ですが、 NHKのあるアンケート調査によりますと、日本人の約90パーセントが仏教に対して良いイメージを持っているという結果がでたそうです。ところが、寺に対しては20パーセント、坊さんに対して良いイメージを持っている人 にいたっては、わずか10パーセントという結果だったそうです。

 寺が20パーセント、坊さんが10パーセントというのは、まあ、自業自得でしょうが、90パーセントもの人々が仏教に対して良いイメージを持っているというのは、ちょっと驚きましたね。

 たしかに、書店には、仏教書が沢山並んでいますし、全国のカルチャーセンターなどで開かれる仏教講座は、つねに満員状態だと聞きます。まさに「仏教ブーム」と言ってもいい様相ですが、こんな状態になったのは、10年ほど前からです。

 あるいは、それは、団塊の世代の人たちが、停年を数年先に控えて、残された人生を考え始めた時期だったのかもしれませんが、それだけ沢山の人が、仏教に関心をもっておられるというのは、何か仏教に期待するものがあるのでしょうね。

 その期待に水を差すつもりはありませんが、仏教は、学ばないと分からないのでしょうけれど、学んだだけでは分からないものなのです。たとえば、真宗の教えは、「この煩悩の身のままで救われる」という教えなのですが、これは、聞いただけでは、ただの話です。

 「煩悩の身のままで救われる」というのは、この煩悩の身が、一度完全に否定されるところをくぐり抜けてきて、はじめて、「この煩悩の身のまま救われる」というところに、浮かび上がってくるのです。そういう意味では、かなりハードルが高いのです。

 私たちは、たいてい、人生を、仏教に問うているつもりでおります。仏教に、人生の答えを求めている。ですが、本当は、私たちこそ、仏教に問われているのですよ。「答えよ、それでいいのか」と、迫られているのは、私たちなのです。どうぞ、そのおつもりで、仏教を学んで頂けたらと思います。

 仏教というのは、こころの平安をめざす教えです。その教えの基本は、伝統的に、たった三つか四つの言葉で説明されてまいりました。皆さんのお手元にお持ちいただいております資料にあります、「四法印(しほういん)」というのが、それです。

 前のボードにも書き出してあります。ちょっと読んでみます。一番目が「諸行無常」(しょぎょうむじょう)、二番目が「諸法無我」(しょほうむが)、三番目が「一切皆苦」(いっさしかいく)、四番目が「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)です。

 おそらく、皆さんも、お聞きになったことがおありの言葉ばかりではないかと思いますが、この四つが仏法の旗印だということで、「四法印」と呼ばれています。ここから三番目の「一切皆苦」をはずしたものを「三法印」と言います。

 これは、ごくごく簡単に申しますと、私たちの生きているこの「諸行無常」の世界は、迷いのない無我のこころで見れば、「涅槃寂静」(つまり、こころ安らかな世界)であり、我執に迷うこころで見れば、「一切皆苦」(つまり、思い通りにならない苦しい世界)である、ということなのです。

 「諸行無常」という言葉は、よくご存じのことと思いますが、仏教というと、まず「諸行無常」です。私たちは、圧倒的な、この世の「諸行無常」に押しつぶされそうになって、初めて、日常の夢から覚める。どうやら、そういうもののようですね。

 「諸行無常」というのは、「あらゆる現象は変化してやまない」という意味です。昇った日は沈む。咲いた花は枯れる。生まれた人は死ぬ。それが「諸行無常」です。

 鎌倉時代の鴨長明の書いた『方丈記』に、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉があります。「諸行無常」を、河の流れにたとえた、有名な言葉です。

 「あらゆるものは、つねに変化していて、永久不変なものはない」。この「諸行無常」こそが、この世の「あるがまま」の姿だと、お釈迦様は、お説きになった。

 思いますに、「諸行無常」などということは、お釈迦様がお説きにならなくとも、おそらくは誰でも知っていたことでしょうね。ですが、その、誰でも知っていることが、我が身のこととなると、欲がからんで、分からなくなってしまいます。

 たとえばです、生まれた子どもが成長して、大人になり、だんだん年を取って、シワが増え、腰が曲がり、病気がちになり、死んでいく。「諸行無常」というのは、こういうことなのですが、ご自分のこととして、いかがですか。

 「年を取りたくない、病気になりたくない、死にたくない」と思いますでしょう。ですが、そんな願いは叶いませんよね。それでも人は、「年を取りたくない、病気になりたくない、死にたくない」と思う。いくら思っても、思い通りにはなりませんから、苦しくて仕方がない。

 お釈迦様が、誰もが知っているはずの、「諸行無常」という言葉でお諭しになったのは、おそらく、そんなときだったのでしょうね。

 ちなみに、お釈迦様のころのインドの古い言葉で、「無常」を「アニッチャ」といいます。聞くところによると、仏教国のタイでは今でも、お坊さんたちは、ハエの死骸を見ても、大声で「アニッチャ!(無常)」と叫ぶのだそうです。

 「諸行無常」というのは、死ぬことを忘れて欲望を追いかけている私たちに、「年を取りたくない、死にたくない」という欲望にとりつかれて迷っている私たちに、「目を覚ませ!」と諭す言葉なのです。

 その「諸行無常」のお諭しを、私たちは、目覚めのご縁として、両手を合わせて受け止めていかねばなりません。ところが、私たちには、なかなか、それができないのです。「諸行無常」を受け止められない「自分」がいる。そういう話に続けます。

 さて、物思う秋といいますけれど、限りあるいのちを思うと、残された時間の大切さが身に染みます。そんな人生の終わりを思うときほど、「諸行無常」を考えるときはありません。

 かけがえのない大切な人を亡くしたときも、そうです。おそらく、皆さんにも、ご経験がおありのことと思います。

 お葬式にお参りしますとね、遺影が飾ってあります。あの写真を見るたびに、思うのです。「ああ、この人にも、子供のときがあったのだ、…この人にも、若い時があったのだ」とね。

 ひとごとではないのです。いつの日か、死の床から、家族を見上げるときが来る。いとしい人々を、下から見上げる日がやって来るのですよ。それを思うたびに、「大丈夫か、それでいいのか」という声が、聞こえてくるような気がします。「諸行無常を忘れていないか」と。皆さんは、いかがですか。

 亡き人が身をもって示してくださっていることを、自分へのお諭しとして、両手を合わせて受け止めること。大切な人を亡くしたときに、私たちが、願われていることは、そのことですよ。

 私たちは、よく、お亡くなりになった方を「ほとけさま」と呼びますけれど、「ほとけさま」というのは、私たちを「いのちの真実」へと導いてくださる方のことです。

 ですから、私たちが、亡くなった方の「お諭し」をご縁として、聞法するようになり、お念仏を称える身になってこそ、お亡くなりになった方は、「ほとけさま」なのですよ。

 ご縁を頂くごとに、「亡き人の願い、仏様の願いを、両手を合わせて受け止めていく」という、この話をいたしますけれど、なかなか、私たちの両手は合わさりませんね。体の両手は合わさるのですが、こころの両手が、なかなか合わさらないのです。こころの両手は握りしめたまま。

 たとえば、右手には「損得勘定のソロバン」を握りしめている。こんなふうにね。地蔵盆で子どもさんに話すための小道具ですが、目に見えた方が分かりやすいでしょう。

 私たちが、お寺や神社に行って手を合わせるときには、たいてい、何か願い事があるのですね。全国の初詣で調べた人によりますとね、その願い事のトップスリーは、「無病息災(病気平癒)、商売繁盛、家内安全」だったそうです。

 「万事よろしく」なんて横着な人もいるようですが、「病気が治りますように」であれ、「お金が儲かりますように」であれ、「家の中がうまくいきますように」であれ、これ、みんな、自分に都合の良いことが起こるように願っているだけですよね。

 神様・仏様に手を合わせていても、神様・仏様を大事にしているわけではない。こころのなかでは、神様・仏様より「オレ様」が大事で、「オレ様」の都合のために、神様・仏様を使おうとしているのです。この「オレ様」大事な「損得勘定のソロバン」を、グッと握りしめたまま。

 そして、左手には、「善悪のモノサシ」を握りしめている。こんなふうにです。「善悪のモノサシ」と言っても、「善」はいつも自分にある。「悪」は、いつの自分の外にあるのですね。社会が悪い、政治が悪い、学校が悪い、親が悪い、あいつが悪い、こいつが悪い、というわけで、自分が悪いとは、まず言いませんね。いかがですか。

 こんなふうに両手を握りしめていたら、とても手を合わせることなどできません。

 で、この話を、ご法事でしておりましたらね、お参りになっていた、おばあさんが、こうおっしゃった。

 「そうですね、ご院さん。仏さんには、願い事をするものでない、感謝するものやと、昔から聞いております。私は、毎日、ひたすら感謝して、お仏壇に手を合わせております」と。それでね、「どんなふうに感謝なっさっているのですか」とお尋ねしましたら、こうおっしゃった。

 「この年になっても、元気で暮らさせてもらって、自分のことは何でもできますしね、食事も美味しいし、おじいさんの残してくれたお金で、そんなに不自由もないんで、本当に有り難いことと感謝してます」と。

 「そんなら、いのちにかかわるほどの病気になられたら、どうですかね」とお尋ねしましたらね、一瞬、ウッとつまってから、お仏壇に向かって、こうおっしゃった。「おじいさん、迎えに来るのは、まだ早いよ」。

 自分に都合の良いことが起こっているときには、誰でも「感謝」できるのですよ。

 マイスター・エックハルトという、キリスト教の神学者も、こういう言葉を残しております。

 「喜びに照らされた瞬間にだけ神を認めようとする人がいる。だが、彼らが見ているのは喜びや輝きだけであって、神ではない」。「じっさい人は、暗闇のなかにいるときこそ、光を見出すものだ。それゆえ悲しみの底に沈んでいるとき、私たちは光のもっとも近くにいるのである」と。

 本当はね、私たちは、「なにが起こるか分からない世界で、いつ終わるかわからないいのちを生きている」のですよ。交通事故や災害のことを、ちょっとお考えになるだけでも、お分かりになりますでしょう。

 ですが、そんなことが自分の身に降りかかってこないうちは、生きているのが、あたりまえになっている。そのうえ、人生が、自分の思い通りになっていたりしますとね、「諸行無常」など、聞く耳を持たないですよ。

 「順境は仏からはなれやすく、逆境は仏に近づきやすい」。これは、佐々木蓮麿先生の言葉です。

 そのとおりですけれど、仏の近くにいても、仏に出遭えるとは限りませんね。それは、ご縁次第です。

 実際、望まなくとも、人生には、いろんな問題が起こってきます。とくに、連れ合いだとか、子供だとか、そういった大切な人を亡くしたりしますとね、それまでの人生がひっくり返るような大問題です。ですが、それでも、縁がなければ、目が覚めない。私たちの眠りは、それほど深いのです。

 このあいだ、本屋さんで立ち読みしていて、こんな川柳に出会いました。「形見分け、残った母を、ゆずりあい」。いや、私も笑いましたがね、「自分の都合」でしか考えられなくなっている私たちには、なかなか、気づけないのですよ。そこから目覚めることを説いているのが、仏教なのです。

 ところで、その「自分の都合」なのですが、生まれてきたときには、私たちの「こころ」には、「自分の都合」は、ありませんでした。私たちの「こころ」は、たとえて言えば、静かに凪いだ水面のようなものでした。

 ところが、この世界で、世間の風に吹かれているうちに、水面が波立つようになってきて、自分と他人を区別する「自我意識」が生まれます。その「自我意識」が、「自分の都合」を言うのです。それは、おなじみの言葉で言えば、「煩悩」ですね。

 「物心がつく」というのは、「自我意識」が生まれたということです。以前、こんな話を聞いたことがあります。幼い子どもに、たとえば、饅頭が一つのった皿と、二つのった皿を見せて、「どっちがいい?」とたずねたときに、迷わず二つのほうに手を出したら、「この子は物心がついた」というのだそうです。

 そんな私たちは「自分の都合」がなにより大事ですから、「諸行無常」というような、都合の悪いことは、受け容れられません。

 私たちのこころは、「自分の都合」という煩悩で波立っているのです。その煩悩の波が鎮まったとき、「こころ」の水面に映っているもの。それが、この世の「あるがまま」の姿です。

 そのとき「こころ」に映った「諸行無常」の世界を、念仏詩人の木村無相さんは、こんなふうに詠んでおられます。「無常」という詩です。

   無常

    無常というは
    うつくしいーー 

    無常というは
    ありがたいーー

                 (木村無相『念仏詩抄』)

 「諸行無常」の世界を、感動と感謝の思いをもって、受け止められること。「あるがまま」の世界を、「あるがまま」に受け取れること。「諸行無常」を「一切皆苦」と受け止めている私たちにとって、これ以上の幸せはありません。

 握りしめている、この手がほどけたら、「あるがまま」の世界が現れるのです。その、波立っている「こころ」を鎮め、握りしめている、この手をほどいてくれるものこそ、「お念仏」なのですよ。

 お念仏は、称えて、聞くものです。お念仏を聞く。お念仏だけを聞く。そのとき、「自分の都合」を握りしめている、この手が、ほどけてくる。この手が「ほどけ」たら、「ほとけ」ですよ。

 おそらく、私たちのこころの手が、完全にほどけてしまうことは、ないでしょうけれど、たとえ一瞬でも、ほどけると、そのとき、こころは仏のこころと等しくなっている。お念仏のなかで、仏さまとわたしは、互いに心が通じあっている。

 本当に両手が合わさったら、「あるがまま」の世界が開かれてくる。念仏詩人の榎本栄一さんに、その「あるがまま」という詩があります。こういう詩です。

   あるがまま

    ぐるりのひとやものを
    ひそかにおがんでいたら

    みなしずかにひかり
    なにもいうことがなくなり

                  (榎本栄一『念仏のうた 常照我』)

 お念仏のなかに、縁あって開かれてくる「いのち真実」がある。ですが、そこにたどりつくには、「自分の都合」が完全に打ち壊されるような、ひととおりではない、苦しみを通り抜けてくるものなのです。最後に、少し、その話をいたします。

 以前、高光一也先生の『これでよかった』というご本で、こんな文章に出遭いました。ちょっと長いのですが、読んでみます。お手元の資料に載せておりますので、ご覧になりながら、お聞き下さい。

 「仏の大慈悲心というと、人の頭をなでてくださるようなやさしい心のことのように思う人もあるようだが、なかなかそうはいかないようだ。ひるがえって自分の心を考えておるにそんな仏にやさしくされてよい自分だろうか。現に親を失い妻子を失うようなむごたらしい現実に出会ってやっと、無常を知るような無智な自分であってみれば、ひととおりやふたとおりの言葉では容易にものを考えようともしないであろう。
 そういう意昧において考えると、仏のお慈悲というものはむしろ私どもにはむごたらしいものではないだろうか」。

 こういう文章を読むと、思わず背筋が伸びますが、以前、福井の義父から、こんな話を聞いたことを、思い出しました。

 あるお婆さんが、連れ合いと、息子と、孫を、立て続けに亡くされた。義父は、お婆さんに、なんと声をかけたものかと、悩みながらお通夜に行ったそうです。

 すると、そのお婆さんは、涙をボロボロこぼしながら、にっこりと微笑んで、こう言われた。「ご院さま。阿弥陀様のお慈悲は、底無しでござんすの。亭主と息子を亡くしても、まだ分からんかと、孫までつこうて、教えてくださいましたぞ」と。

 眠りこけている人を、たたき起こすような、むごい出来事も、目覚めてみれば、崖っぷちで眠っていた私だった。ああ、これがお慈悲であったと、思わず知らず、手が合わさった。

 こういうことは、本当にご縁がないと、起こらないことでしょうが、そのお婆さんを、両手を合わせて、拝んだという、義父にも、頭が下がりました。

 もうひとつ、お話いたします。今年の7月に、岡崎別院の暁天講座で、北海道の真宗寺のご住職、畠山明光先生から、こんなお話をうかがいました。畠山先生ご自身のお話です。

 先生のお嬢さんに、赤ちゃんがお生まれになった。先生にとっては、お孫さんですね。ところが、その赤ちゃんは、生まれつき身体に問題があって、生まれては来たが、とても生きられそうになかった。先生は、そのときのことを、こうお話しになりました。

 娘がね、ぼくに、こう言うんですよ。
 「お父さん、阿弥陀様の救いって何ですか」と。
 … ぼくは、それにこたえられなかった。

 生まれて13日のいのちでした。
 娘は、ぼくに、こう言うんです。
 「お父さん、この子はお浄土へ行きましたよね」と。
 … ぼくは、それにもこたえられなかった。

 そしたら、娘がね、
 「お父さんは、お坊さんでしょう。
 どうしてこたえてくれないんですか。
 お父さん、この子はお浄土へ行きましたよね」と。
 … ぼくは、なにもこたえられなかった。

 そのお話は、それでお終いでした。先生は、それ以上、なにもおっしゃいませんでしたので、本当は、どういうことがおっしゃりたかったのか、分からないのですが、私はね、「すごい人がいるんだなあ」と驚きました。

 いやねえ、皆さん。生まれてきた子供が死にそうだというとき、「お父さん、阿弥陀様の救いって何ですか」とたずねているのですよ。どんな答えが聞きたいのか、分かるじゃないですか。残酷な言い方かもしれませんが、自分にとって都合の良い答えが聞きたいのでしょう。

 ですがね、自分にとって都合の良い答えを求めているのは、「迷い」なんですよ。

 死んだ子どもを抱きしめてね、「お父さん、この子はお浄土へ行きましたよね」とたずねているのも、そうですよ。お分かりになるでしょう。どんな答えが聞きたいのか。

 娘さんはね、人生の崖っぷちで、「諸行無常」と顔を突き合わせて、迷っているんですよ。ここで迷わせてはならん。お坊さんとしての畠山先生には、その状況が、よくよく見えておられたに違いないのです。

 父親としての畠山先生は、おそらく、娘と一緒に泣くしかなかったのでしょう。お嬢さんもね、いつの日か、何も言わなかったお父さんでなく、何も言えなかったお父さんに、気づいて、こころの手が合わさるのではないでしょうかね。

 この畠山先生のお話をうかがいましてね、つくづく思いました。仏法が分かったような気になってないで、聞法しないといかんなあと。阿弥陀様の救いがどうの、浄土往生がどうのと、自分に都合の良い話を聞きたがっているのは、みんな「迷い」なんです。

 妙好人、赤尾の道宗が、「うち破れ、うち破れ、破ったと思う心を、もういちど破れ」と言っているとおり、ひとかわも、ふたかわも剥けていかねばなりません。本当に、聞法が大事、お念仏が大事です。

 榎本栄一さんの詩に、「シャバの開眼(かいげん)」という詩があります。こういう詩です。

   シャバの開眼

     私を彼土(かのど)へはこぶ車は
     ここでゴトゴトゆれ
     迷妄ふかい私は
     このゴトゴトで眼をひらく

                    (榎本栄一『念仏のうた 常照我』)

 娑婆には、いろいろ起こってきます。『歎異抄』に、「念仏者は無碍の一道なり」とありますが、それはね、念仏の行者には、何も問題が起こってこないということではなくてね、どんな問題が起こってきても、それが妨げにならず、歩み続けることができるということですよ。

 「からだ」は揺れ動く娑婆にあっても、「こころ」は静かな浄土にある。悲しいことや、苦しいことがあって、立ち止まっても、ひとつ頷いて、また歩み続けられる。それが私たち、念仏者の生きる姿です。大事なことですよ。次の世代に伝えていかねばなりません。

 今や、核家族化が進んで、お仏壇のない家、ご先祖のない人が、増えました。それは、信仰の上で、受け継いでいくものがない、願われている世界がないということでしょう。私たちは、大事なことを無くそうとしているのではないでしょうかね。

 若いときには、生活に手一杯ということもあるでしょうけれど、どうぞ仏法を聞いてくださいね。ひと年取って人生の峠を越えた方々には、言うまでもありません。仏法を聞くことが大事ですよ。娑婆の一隅を照らす光となるために。

 団塊の世代も、これからが大事です。自分自身のためにも、親の背中を見つめて付いてくる、次の世代のためにもね。しっかりしないと、妙な方向へ連れて行くことになりますよ。

 さて、店じまいにいたしましょう。

 このあいだ読んだ全日本仏教会のパンフレットに、こんな記事がありました。日蓮宗で「地域社会のためのお寺の活用アイデア」を募集したところ、応募作が全国から400点以上も寄せられて、ユニークなアイデアがいくつもあったけれど、信仰からアプローチするというものは、極端に少なかったそうです。

 どうしたものかと思いますが、これは、日蓮宗だけの問題ではなくて、真宗でも、禅宗でも、おそらく同じような結果になるのではないかと思いますね。

 お寺は、演芸館でも、公民館でも、カルチャーセンターでもないのですから、そういうところで出来ることは、お寺でする必要はないのですよ。

 「地域社会のためのお寺の活用」なんかどうでもよい、と腹をくくって、お寺は信仰の場であることが大事だと思いますね。真宗のお寺は、聞法の道場です。またご一緒に聞法させて頂けるよう、願っております。

 次回は、11月9日の「報恩講」でございますが、そのおりには、平成24年に亡くなりました前住職の3回忌と、昭和63年に亡くなりました前々坊守の27回忌も、あわせて勤めさせて頂こうと思っております。どうぞ、また、お参りください。

 本日は、ながい時間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ



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