釋昇空法話集・第62話

門徒春秋

聞こえてくるまで

(2015年11月8日 報恩講法要)
 お忙しいところ、ようこそのお参りです。ご苦労さまです。だんだん寒くなってまいりましたね。今年は、秋の深まりが早いように思います。

 毎年のことですが、お盆が済んで、秋風が吹き始めますと、あとは、お彼岸、報恩講と続きまして、あわただしく一年が終わっていきます。一年は、後半のほうが速く過ぎ去るように思いますが、人生もそうでしょうね。うかうかしておれません。

 で、本日は、その「報恩講」でございます。報恩講というのは、ご承知のように、親鸞聖人の祥月命日の法要です。御開山聖人のご遺徳を讃え、ご恩に感謝する法要でして、わたしたち真宗門徒にとっては、一年のうちで最も大切な仏事です。

 ですが、親鸞聖人のご遺徳を讃え、ご恩に感謝するといわれても、どうもしっくりこない、ぴんとこない、自分はそういう感じではないという方も、おいでではないでしょうか。もし、そうだとしても、それはそれで、いいのです。この報恩講が、そういうご自分と改めて向かい合う機会になれば、親鸞聖人も、きっとお喜びだと思います。

 『浄土和讃』に、「念仏成仏これ真宗」とありますが、そもそも、お念仏が口から出てくるようになるまでが、なかなかでしょう。人ごとではありません。かつて、私は、お念仏どころか、手も合わさりませんでした。

 それが、いろんなご縁を頂いて、気付かせてもらいました。みんな、いのちの奥底に、お念仏を頂いて生まれてきているのです。口を押さえて、出てこないようにしていたのは、「自分」なのです。

 「いずれにも 行くべき道の 絶えたれば 口割り給う 南無阿弥陀仏」。藤原正遠先生の歌です。お念仏が、口割り給うたら、楽になりますよ。

 「念仏者は無碍の一道なり」、「お念仏の教えは易行道だ」と、せっかく教えて頂いているのに、わたしたちは「自分」の納得できる方向にしか進もうとしないものですから、山あり谷ありの「迷い道」となるのでしょうね。

 お念仏の先達のお言葉に支えられて、ようやく立っているような私が、分かったようなことは言えませんが、いろんなご縁を頂いて気付かせてもらったことを、今回は、「門徒春秋」という題で、お話させて頂こうと思います。話の内容は、私たちの「はからいのこころ(分別心)」についてです。

 思いつくままの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、今日も沢山のお参りを頂いております。仏法に関心をお持ち頂いて、ありがたいことですが、ここ十年ほどのあいだに、全国的にみても、仏法に関心をお持ちの方が結構増えているようですね。

 実際、書店には、仏教書が沢山並んでいますし、全国のカルチャーセンターなどで開かれる仏教講座は、つねに満員状態だと聞きます。まさに「仏教ブーム」と言ってもいい様相です。

 仏教書では、『歎異抄』関係の本がベストセラーだそうで、同じような本が、次々に出版されていますが、その割には、お念仏を称える人が増えてきたという話は、聞きませんね。

 私たちは「仏法を聴聞する」といいます。「聴」というのは、聴きに行くということ。「聞」というのは聞こえてくるという意味だそうです。とすると、聞法しても、お念仏が出てこないというのは、「聴きに行くけれど、聞こえてこない」ということではないでしょうかね。

 聴きに行くのは、何か問いがあるからですが、人は、自分の聞きたい答えでないと、聞いても、聞こえてこないのです。そのうえ、気に入らないところは、自分の思いにかなうように聞きますから、難儀です。

 たとえばです、「仏様が救ってくださる」と聞くと、そこに、何か自分に都合の良いことが起こるように思ったりしませんか。

 お金に困っているときや、仕事で悩んでいるとき、病気になったとき、子どもの受験で不安なとき、そんなとき、「どうぞよろしくお願いします」と、お仏壇に手を合わせたりしませんか。「よろしく」というのは、「自分に都合のよいように」ということですよね。そんな私たちが、「ありがとう」なんて言うのは、たいてい、自分にとって都合が良いときだけですよ。

 このあいだも、聞きました。「おかげさまで家族みんな元気で暮らさせてもろてまして、ありがたいことです。これも仏様を大事にしてるからやと思とります」とね。

 「それは結構ですね」と申しましたが、だれかが病気になったら、何とおっしゃいますかね。「仏様のおかげで」と、おっしゃいますかね。

 私たちにとって、一番大事なのは「自分の都合」であり、「自分の思い」なのですね。何でも、自分の思うようにしたい、自分の思いを実現したい。そんな私たちですから、仏様の話より、願い事をかなえてくださるという神様の話のほうがわかるのでしょう。

 ですが、思いのままに生きている時には、思い以上のことには出会えていないのです。自分の思いに納得しているあいだは、思いを超えた世界はわかりません。

 自分の思いのままに生きている人は、「宗教なんかやるのは心の弱いものだけだ」などと言ったりしますけれど、そうではありません。宗教というのは、人間がいかに自分勝手な考え方をしているかを気付かせるものです。それが仏様の働きなのです。その仏様の働きにあずかることを、「救われる」と言うのです。

 となるとです。次には、「では、どうやったら、その救いにあずかれるのか」ということに、なってくるかと思いますが、実は、私たちにできることは何もないのです。というのは、すでに救いの中にいるからなのです。ただ、気付いていないだけ。そのことを教えてくださっているのが、お念仏の教え、浄土の教えなのです。

 私たちの頂いている、お念仏の教え、浄土真宗というのは、ひとことで言えば、「本願を信じ、念仏を申さば、仏になる」という教えです。これは、『歎異抄』(第12条)に出てくる言葉です。

 「本願を信じ、念仏を申さば、仏になる」。単純明快な言葉ですが、これは、「信心」という種に、「念仏」という水をかけたら、「仏」という花が咲く、という意味ではないと思いますね。

 そうではなくて、むしろ、「信心」=「念仏」=「成仏」なのですよ。この三つは、どれも、私たちの「ああだ、こうだ」と分別する、「はからい」を離れたところに、開かれてくる世界なのです。そういう話に続けます。

 さて、まずは「信心」です。先走ったことを言うようですが、「信心」というのは、「自分」が何かを信ずるということではないのです。私たちが何かを信じるというとき、たいていは、疑いの思いと抱き合わせになっていませんか。

 たとえば、ご主人の携帯に、不審なアドレスを見つけた。そんなときね、「おとうさんを信じていますからね」とおっしゃっても、奥さんのこころのどこかに疑いの思いが残っている。違いますか。

 夜遅くに帰ってきた子どもに、「父さんは、お前を信じているからな」なんて言ってみても、疑っていることが見え見えですよ。

 だいたい、本当に疑いの思いが無かったら、「信じている」なんて言いません。私は家内に、「私は、あなたが女だと信じている」なんて言ったことありません。

 「信じる」という思いには、かならず、信じ切れない思いがくっついてくる。それで、真剣に仏法を求める人ほど、苦しむのです。

 「弥陀の本願を信じている」と言っても、こころのどこかに信じ切れない不安が残っている。はやく本当の信心を得て、この苦しみから逃れたい。誰か教えてくれないものかと、聞法のはしごをしても、なんとも開けてこない。そういう話をよく聞きますが、はたして、信心を得るというのは、どういうことなのでしょうか。

 『歎異抄』の最後のほうに、親鸞聖人が、法然上人のもとにおられたころの逸話がいくつか出てきます。その1つに、「信心一異の諍論」といわれる、有名な話があります。こういう話です。

 親鸞聖人が、自分の信心は法然上人の信心と同じだとおっしゃった。すると、勢観房や念仏房といった先輩の御同行が、「もってのほか」と聞きとがめて、「法然上人のご信心と、お前のような新参者の信心が同じだなんて、どうしたらそんなことが言えるのだ」と叱った。

 それに対して、親鸞聖人は「法然上人の智慧や才覚が自分と同じだというのなら、それはとんでもない心得ちがいですが、こと往生の信心においては、まったく異なることはありません」と言いはなったものですから、「そんなことはあるものか」と、大騒ぎになって、収まりが付かなかった。

 それで結局、法然上人のところに行って判断を仰ごうということになりました。そうすると、法然上人は、「親鸞の信心も法然の信心も、如来よりたまわりたる信心だから、まったく異なることがない。私と違う信心の人は、同じ浄土に行けませんよ」とおっしゃった。こういう話です。

 信心は、如来よりたまわるのであって、自分の努力で手に入れるものではないのです。ですが、そう言われても困りますよね。聞法に励んできた私たちには、「努力が足らんのだ」と言われたほうが、まだ分かる。そんな私たちですから、「信心は如来よりたまわる」と聞けば、「では、どうすればたまわることができるのか」と、自力の袋小路から出られないのです。

 ですが、ここで本当に問題になっているのは、智慧や才覚の優れた師匠の信心と弟子の信心ではレベルが違うのだ、優れた師匠の信心は弟子の信心より尊いのだという、勢観房や念仏房の考え方なのです。

 「愚者になって往生する」と、法然上人はおっしゃっています。智慧や才覚は、往生と関係ないのです。それなのに、勢観房や念仏房は、智慧や才覚の優劣によって、信心を考えている。それは、勢観房や念仏房だけの考え方でなくて、私たちの考え方でもありますね。

 私たちは、何でも比べるのですね。比べて序列を付ける。貧しい人より、豊かな人が上。高卒より大卒が上。簡単な作業より、専門的な仕事が上。

 こんなふうに、何でも比べて序列をつけていくのを「比較病」と言った方がありました。たしかに、そういう序列意識でしか世界を見られないというのは、まさに病気ですが、高い低いがあれば、高い方が好いと思ってしまうのです。無意識で、そうなってしまうのですよ。

 たとえば、栄養ドリンクのようなものでも、そうですよ。500円のと1000円のとでは、どちらが効くと思われますか。おそらく、1000円の方と思われたのでないでしょうか。では、安い500円の方を、「はい、あなたはこれ」と渡されたら、どう思いますか。不愉快になりませんかね。

 そんな私たちには、千日回峰行をするような厳しい教えは、本物に見えても、「お念仏ひとつ称えればよい」というよう簡単なのは、おそらく、たいしたものでないように見えているのではないでしょうか。そんなふうに、たいしたものでない、本物でないと思っているような教えに、人生を懸けられますか。

 勢観房や念仏房は、「智慧第一」と言われた法然上人の優れた知恵や才覚にひかれていた。そんな「師匠の信心は上、弟子の信心は下、難しい教えが本物」というような、序列意識から解放されることが、「信心を得る」ということです。

 「もうこれで、自分は大丈夫」なんてのは、信心ではないでしょう。「信心を得る」というのは、「自分」が納得することではなくて、むしろ、そんな「自分」が打ち破られてしまうことなのです。「善だ悪だ、損だ得だ」という自分の分別心が打ち破られたところに現れる、信(まこと)の心が、「信心」です。

 「念仏」も、そうです。お念仏は、ただ称えるだけなのですが、「分かるとか分からないとか、役に立つとか立たないとか」、そういった私たちの「はからい」(分別心)が邪魔をして、「ナムアミダブツ」という、たったこれだけのことが、声にならないのです。

 「山のなかを走り回って、どうなるのだ」とか「滝に打たれて、どうなるのだ」という声は、ほとんど聞きませんが、「念仏なんか称えて、どうなるのだ」というのは、よく聞きます。まあ、おそらく、はじめはみんな、そう思うのですよ。

 藤場俊基という真宗教学の先生がおられますが、その先生も、ご自分の原体験として、同じようなことをおっしゃっています。

 先生は、真宗の教えには強く惹かれるものを感じたそうですが、どうしても「南無阿弥陀仏」と口にだして言う気にならなかった。だれでもできることをしろと言われると、ばかにされたような気分になった。それでね、母親に、「真似をするつもりでいいから、合掌してナンマンダブツと言ってみなさい」と言われたときには、ものすごく腹が立って、持っていた数珠を放り投げて出ていったということです。

 お数珠を放り投げて出ていったという経験はありませんが、分からんでもありませんね。難しいことをしろと言われると、自分が認められたような気になり、簡単なことをしろと言われるとバカにされたような気になる。ですが、お念仏の教えでは、そういう「はからいのこころ」(分別心)こそが、問われているのですよ。

 お念仏は、救われるとか、救われないとかいった「はからい」を離れて、ただ称えるもの。お念仏は、こころを込めてとか、感謝のこころをもってとか、いろいろ考えないで、ただ称えればよいのです。むしろ、自分勝手なこころの込もらない、空念仏(からねんぶつ)でいいのですよ。

 「空念仏」というと、こんな話を聞いたことがあります。かなりまえのことですが、藤原正遠先生とご縁のあった、佐々真利子という方の話です。真利子さんは、小さいときから、小児麻痺と脊椎カリエスで、ほとんど寝たきりの生活でした。

 そんな真利子さんが、お母さんの熱心なお寺参りがご縁となって、藤原正遠先生と出遇われたのです。真利子さんは、「病気で寝たままになって、何のために生きているのか分からない、はやく死にたい」とうったえた。

 そうしたら、藤原先生は、こうおっしゃった。「それは比較病と言うんだよ。自分と人を比較するところに病気が生まれるのだよ。どうにもならないときには、ナムアミダブツと、お念仏しなさい。あなた、お念仏は出ますか」と。

 「出ません」。「それなら練習しましょう」。ということで、先生が、「私の真似をなさい」と、五十遍お念仏をお称えになった。真利子さんは、先生の真剣にお念仏される姿がおかしかったそうですが、「真似をしよう」とおっしゃるものですから、こころで笑いながらも、お念仏をなさった。

 それがご縁で、いろんな問題が起こったときに、ほっと、お念仏が出るようになった。真似の念仏をしているあいだに、いつのまにか、お念仏が出てくださるようになったのです。そして、「死にたい、死にたい」と思っていたのが、「死にたくない、生きたい」と思うようになった。それを聞いて、藤原先生は、「本来の人間になったのでしょう」とおっしゃったそうです。

 その藤原正遠先生には、「空念仏」という言葉で始まる、こんな歌があります。

    空(から)念仏
    まことによろし
    いつの日か
    空(から)は棄(す)たれて
    まことは残る
             (藤原正遠『大悲のなかに 念仏のうた』)

 空念仏でも、称え称えしているうちに、いつの日か、「こんなことして何になるんだ」という「分別心」が壊れ落ちていって、いのちの奥底にある「まことのこころ」(無分別智)が働き出てくださる。それが、口割り給う「ナムアミダブツ」です。

 金子大榮先生は、「念仏申さんと思い立つ心のおこるとき、すなわち人間の生活が始まる」とおっしゃいました。

 これをご縁に、一度ご一緒に、お念仏を称えてみましょう。練習です。50回とは言いません。5回だけです。小さな声でも結構です。「ナムアミダブツ」でなくて、いつもの「ナマンダブ」でいきましょう。では、どうぞ、ご一緒に。「ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ」。できましたね。

 この「ナムアミダブツ」(ナマンダブ)というお念仏を、親から子へと代々相続してきたのが、私たち真宗門徒なのです。私たちも、次の世代に伝えていくことが大事ですよ。

 そこで、ひとつ、皆さんに、お尋ねいたします。皆さんにとって、家のなかで一番大事なものは何でしょうか。… ヒントを言うと、答えが分かってしまうのですが、家のなかには、手を合わせて頭を下げる場所が一カ所だけありますね。そう、お仏壇です。

 箪笥や下駄箱に、頭を下げることはないですよね。手を合わせて頭を下げるのは、お仏壇だけ。とすると、お仏壇が一番大事、ということになりませんかね。

 ご家庭のお仏壇を「お内仏」といいますが、伝統的に、私たち真宗門徒は、お内仏中心の生活をしてきました。といいますのは、そこにあるご本尊、「南無阿弥陀仏」が、私たちの人生(生死)の依りどころだからです。

 「家のなかで一番大事なものは何か」と問われて、「お内仏(お仏壇)」と答えられる人は、少なくなりましたね。最近では、「家のなかで一番大事なものは、非常持ち出し袋」、なんてね。さびしいですね。

 それで思い出したのですが、昭和23年に起こった福井震災のときのことです。ある村のおばあさんが、グラッときたとき、無我夢中で庭に走り出た。ふと気がついたら、お仏壇をかかえていた。かつげるはずもない大きな仏壇だった、と、そういう話を聞いたことがありますね。

 かつて、真宗門徒は、朝起きると、家族揃って、まずお内仏に向かい、輪灯に火をともし、お香をたいて、『正信偈』をお勤めしました。それから、ご飯を炊いて、仏様に御仏供(おぶく)をお上げしました。

 御仏供は、昼までにお下げして、家族で分けて頂きました。戒律によると、出家修行者は、食事を一日一回だけ、午前中にすることになっています。朝にお上げして、昼までにお下げするのは、その形をとっているのですが、仏様にお食事をさしあげるというのではなくて、仏様から、今日一日の糧(かて)を頂くという「こころ」が大事なのです。

 到来物のお菓子なども、そうですが、給料袋も、合格通知も、なにもかも、まずお内仏にお供えして、改めて仏様から頂きました。それはです、「私が働いて稼いだ給料だ」とか、「私が努力したから合格したんだ」というような、「私が、私が」という思いを手放して、改めて仏様からの「お与え」として頂くということだったのです。

 同じように、腹が立つときも、悲しいときも、苦しいときも、お内仏に向かいました。お内仏の前に座って、なにもかも仏様からの「お与え」と頂いたら、「あいつが悪い、こいつのせいだ」はひとまずおいて、少しは冷静になれるでしょうし、仏様からの「問いかけ」として受け止められるかもしれません。

 かくして、おじいちゃんも、おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも、みんな、お内仏に手を合わせる、そういう空気のなかで、自ずと、仏様に手を合わせる子どもたちが育っていく。それが、お内仏中心の生活でした。

 お内仏に手を合わせるということもそうですが、「三つ子の魂百まで」と言いますように、幼い頃の教育は大事ですね。逆に言えば、信仰にとって、一番問題なのは、幼いころに間違った宗教教育を受けることです。

 たとえば、幼い子どもが、机に当たって痛い痛いと泣いている。そんなとき、「この机か、悪いのは。お母さんが、ペンペンしといたげる」と言うのと、「痛かったね、机さんも痛かったやろ、ごんめんなさい、しようね」と言うのとでは、それを聞いた子どもの一生が違うと思いますね。

 もっとも、子どもに伝えようと思えば、まず親が聞法することが大事です。聞法すれば、どうなるのか。安田理深先生は、こうおっしゃっています。「教えをいただくと人間はどうなるかというと、そこに健全な常識をもった人間というものが誕生してくる」と。

 聞法によって育つ「健全な常識」とは何か。それは、いつもお話いたしますように、私たちはみんな、仏のいのちを生きている「いのちの仲間」だということです。私たちはみんな「仏の子」なのです。

 仏教の言葉で言えば、「一切衆生・悉有仏性(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)」、「山川草木・悉皆成仏(さんせんそうもく・しっかいじょうぶつ)」です。人や動物だけでなく、草や木も、さらには、山や川も、なにもかも、仏のいのちを生きている「いのちの仲間」だということですね。

 本来、あらゆるものは平等なのですよ。これが「健全な常識」です。ですが、人は平等を望まない。私たちは、「損だ得だ、善だ悪だ、上だ下だ」と、序列を付けずにはおれないのです。私たちは、「比較病」にかかっているのです。

 最近は、子どもを教育する場で、「スクールカースト」とか「ママカースト」とかいうような言葉まで聞きます。序列競争の学校に、「健全な常識」は育たないようで、悲しいことです。

 私たちは、人も動物も、草も木も、山も川も、あらゆるものが「成仏」する世界に住んでいるのです。つまりは、すでに「浄土」に居るということです。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、そのことへの気付きを深めていくのが、私たち真宗門徒の生き方なのですよ。

 「よろず生きとしいけるもの、山河草木ふく風たつ浪の音まで、念仏ならずということなし」。これは時宗の一遍上人の言葉です。

 「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息をひきとる」。これは禅宗の朝比奈宗源老師が、常に、おっしゃっていた言葉です。

 道は違っても、気付きは同じ。その同じ世界に生きることを、「成仏」すると言うのでしょうね。

 「大いなる ものにいだかれ あることを けさふく風の すずしさに知る」。これは山田無文老師の歌です。

 「気付き」というのは、手に入れるものではなくて、ふと、気付かせてもらうものなのです。仏様の方を向いて歩いていたら、気付きはむこうからやってくる。最後に少し、その話をして、終わりにしますね。

 『阿弥陀経』に、「ここから西の方に、十万億の仏土を過ぎたところに、極楽浄土がある」と記されています。「十万億」というのは、どのくらいの数なのか分かりませんが、ともかく、数え切れないほど大きな数のことです。つまりは無数の仏様の世界の彼方に、極楽浄土があるということです。

 このお経様の言葉を、私は、仏様のお悟りの境地というのは、私たち凡夫のこころと、それほどかけ離れたものなのだということを言っているのだと理解していました。

 ところがです、さきほどご紹介いたしました藤場俊基先生のご本だったと思いますが、こういう意味のことが書かれていました。

 「私たちの世界とお浄土との間には、無数の仏様の世界があるということなのだ。つまりは、お浄土の方に向かって歩き始めたら、無数の仏様に出遇うということなのだ」と。

 驚きましたね。お経を読むというのは、こういう読み方をすることなのかと、驚きました。本当にそうですね。藤場先生のご本との出会いも、そうだったと思いますが、浄土に向かって歩み出すと、私を導いてくださる無数の諸仏に出遇うのです。

 以前、仏法が、なんとなく腹に落ちたような横着な気持ちになっていたときには、訓覇信雄先生のご本のなかで、こんな話に出遇いました。

 訓覇先生の御法話をお聞きになった方が、こうおっしゃった。「今まで、どうもすっきりしませんでしたが、先生の今日のお話をうかがって、ようやく腹に落ちました」と。そうしたら、先生は、こうおっしゃった。「なに、腹に落ちた? そんなものが何になる。その腹が落ちんかい!」と。

 ガツンとこたえましたね。自分が信じているとか、自分が分かったとか思っているあいだは、ダメなのです。その自分勝手な思いが、すべての過ちの元なのです。そんな自分の「はからい」(分別心)を打ち壊していくのが、仏法なのですよ。

 以前聞いた話ですが、あるお寺で日曜学校を開いていて、子供たちと『正信偈』のお勤めをなさった。かなり調子外れなお勤めだったので、ご院さんは、思わず、「今日のお勤めは60点やな」とおっしゃった。そうしたら一人の男の子が、「なんや、お寺でも点数か」と言ったそうです。ご院さんは、「あれには、教えられました」ということでした。

 「分別」という心の病、人と比べる「比較病」というのは、なかなか治りませんね。ですが、人は変われないものだと本当にわかれば、もっと謙虚になるでしょう。謙虚になれば、聞こえてくるのではないでしょうか。

 「ありがとうと言うとき、いつも自分にとって都合がいいことが多い。こんな自分でしかないことが恥ずかしい」。これは野田風雪という方の言葉です。

 「私たちは都合のいいことだけに感謝している」と聞いて、「なるほど、そうだな」と頷いているのは、聞いているだけで、聞こえていない。「そんな自分が恥ずかしい」と、わが身に受け止められたとき、聞こえたというのです。

 このあいだ、ある御同行からメールを頂きました。そのメールにこんなことが書かれていました。「母は『安心、信心関係なし。弥陀が助けるというから信じるだけ。私のすること何にもなし』と常々言っていました」と。

 懐かしい言葉です。この方のお母さんのことは、以前にもご紹介したことがありますが、信心を頂くまで、たいへんなご苦労をなさって、聞法を重ねられた方でした。そんな、「聞こえるまで聞いていこう」という人々の伝統のなかに、私たちはいるのです。

 日常の生活を通して念仏がしみついた人たちがいた。そして、「嫁ぐ子に 忘れずもたす 数珠ひとつ」(詠人不知)と、念仏申す生き方が相続されてきたのです。どうか、この、お念仏とともにある生活を、私たちも相続し、次の世代に手渡していけますよう、念じております。

 では、店じまいにいたします。

 平成26年度の内閣府の世論調査によれば、自分自身の生活程度は、上流・中流・下流で言えば「中流」に当てはまると答えた人が、90%を超えていました。つまりは、ほとんどの人が、「まあ、人生、こんなもんだ」と思っている、ということです。

 また、同じく平成26年度の政府の国民性調査によると、日本人の83%が、「生まれ変わるなら日本に生まれ変わりたい」と考えているそうです。とても、「浄土往生を願う」というような時代ではありませんね。

 そんな時代に、聞法のご縁があるというのは、すごいことなんですよ。「聞いても聞いても、ザルで水をすくうようなもので、何にも残りません」とおっしゃる方もありますが、蓮如上人は、こうおっしゃっています。「それなら、ザルを水に浸けておけ」と。いかがですか、今日は、何か、聞こえましたでしょうかね。

 では、本日は、ここまでにさせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……



次の法話へ


紫雲寺HPへ