釋昇空法話集・第63話

ただ念仏して

もとの阿弥陀のいのちに帰せよ

(2016年3月20日 彼岸会法話)
 ようこそのお参りでございます。だんだん暖かくなってまいりまして、桜も咲き始めました。今日は、お彼岸の法要でございます。

 法要といいますのは、どんな法要でもそうですが、仏法を聞くためのご縁でございますね。親鸞聖人がお伝えくださった「浄土の教え」「お念仏の教え」を聞き、深く味わっていくご縁が、法要でございます。

 本日は、ご案内のように、「ただ念仏して」という講題のもとで、しばらく、ご一緒に聞法させて頂きたいと思っております。

 ご承知のように、この言葉は、『歎異抄』(第2条)に出てまいります。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」と。

 何かと理屈を言いたい、また、理屈を聞きたいのが、私たちですけれど、詮ずるところ、「ただ念仏して」以外にないのですね。それで、この御言葉を、今回の講題に頂きました。

 思いつくままの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げておきます。

 さて、桜の季節に、いまさらの話ですが、皆さんは、お正月に初詣においでになりましたか。聞くところによりますと、初詣は、関東ではお寺に行く人が多くて、関西では神社に行く人が多いそうです。関東は武家の文化で、関西は公家の文化ということでしょうかね。

 全国に、神社は、およそ8万8千社、お寺は、およそ7万6千寺あるそうです。コンビニの数は、およそ4万店といいますから、お寺や神社の数というのは大変なものです。で、コンビニは、生活の便利のためにある。では、お寺や神社は何のためにあるのか。

 神社では、「商売繁盛」「無病息災」「家内安全」等々といった、さまざまなお願い事をするでしょう。願いがかなうかどうかは別として、神社は、お願い事をするところ、祈願所です。いわば、「自分の願い」を聞いてもらうところですね。

 では、お寺はどうか。お寺はね、「仏様の願い」を聞かせてもらうところなのですよ。仏様の願いは、「私たちが、お念仏を聞いて、目を覚ますこと」です。仏様のその願いを「本願」と言います。「本願」を聞かせてもらうお寺だから「本願寺」。

 「自分の願い」を大声で叫んでいるあいだは、「仏様の願い」は、聞いても、聞こえてこないかもしれません。ですがね、ちょっと、お考えになってみてください。

 みんな「自分の願い」が大事なのですが、「ああ成りたい、こう成りたい」と言っても、それはみんな、未来のことでしょう。自分に未来があることを前提にしている。ですが、本当は、明日も生きているという補償は無い。「諸行無常」なのです。

 「ああ成りたい、こう成りたい」といっても、それは、岩盤の無いところに、杭を打っているようなものなのですよ。なかなか、気付かないかもしれませんがね。地震が起こるまでは。

 このあいだ、テレビを見ていましたらね、団塊の世代相手の人生相談の番組をやっていました。まあ、団塊の世代だけでなくて、戦後懸命に働いてきた世代の方々が相手のようでしたけれど、仕事を辞めて、何をして暮らしていけばいいのか分からない、という相談が気になりましたね。

 番組の回答者たちも、「いや、実は、自分も今、それを考えているのです。人生これからですよ。社会の役に立つボランティアをするのもいいかもしれませんし、小説を書いておられるのなら、それを自費出版して、お友達に配るというのも、生き甲斐になりますよ」なんてことでね。

 結局は、死ぬまで退屈しないように、趣味や、生き甲斐を持てということではないですか。それで、いいのでしょうかね。なんか、哀しいなと思いました。「暇つぶし以上に、何をしていますか」と歌ったのは、小椋圭でしたかね。

 みんな、足元が揺れ始めているのでしょうね。「後生の一大事」といいますけれど、それは、死んでからのことでなくて、「今、生きていることの一大事」なのですよ。足元が揺れているのは、「それでいいのか、それでいいのか」という、いのちからの問いかけ、聞法へのお催促ですよ。

 いつもお話しいたしますように、「お念仏の教え、浄土の教え」にご縁を頂いている私たちには、お念仏を称え、聞法を重ねる日々の生活が、修行の道場です。日常生活のなかで、自分を深く見つめる。そこに「いのちの真実」への気づきが深まっていく。それが、私たちの生き方ですね。

 実際、聞法すると、自分が見えてきます。蓮如上人のお言葉にも、「ただ仏法は聴聞に極まることなり」(『蓮如上人御一代記聞書』)とありますように、本当に、聞法が大事ですよ。

 以前、こういう話を聞いたことがあります。訓覇信雄(くるべ・しんゆう)先生の話です。学校の先生をしていた人が停年退職して、「どうか余生に仏法を聞かせていただきたい」と言った。そうしたら訓覇先生が、「聞いたら分かるのか?」とおっしゃった。「いや、分からんから聞きたいのです」とこたえると、「だから、聞いたら分かるのかと言うておるんだ!」とおっしゃったそうです。

 分からんから聞きたいと言っているのに、「だから、聞いたら分かるのかと言うておるんだ!」と。うーんと、うなりましたね。

 いかがですか、みなさんは。聞いたら分かるはずだと思っていませんか。今はまだ勉強していないし、聞いていないから分からないけれど、聞いていたら、そのうち分かるはずだと思っていませんかね。

 「聞いたら分かる」というのは、分かるはずの「自分」がいるということでしょう。私たちは、仏法が自分の手のひらにのせられると思っているのです。仏法を、手のひらにのせて計れるものだと思っている。

 ところが仏法は、そういう「自分」そのものを問題にしているのです。仏法を聞いたら、「安らかな心になる」といった「心の問題」ではなくて、そんな自分に都合の良い思いを握りしめている「心が問題」だ。それが、仏法なのですよ。

 誰でも「自分が一番大事」なのですが、この「自分(我)」という思いにしがみつき、自分の都合にしがみつくこころを「我執」といいます。そんな我執に縛られている私たちは、仏法を聞いても、自分に都合のよいところだけ、聞いてしまいます。

 たとえば、「私たちはみんな、浄土から生まれてきて、またその浄土に帰るのだ」というような、耳あたりのよいところだけ、聞いてしまうのですね。仏法を聞いても、料理で言えば、柔らかくて美味いところだけつまむことになる。

 もちろん、「浄土は、いのちの故郷だ」というのは、大事な料理です。その柔らかくて美味いところも、味わわねばなりません。けれども、そこだけ食べたら、むしろ害になる。本当に、自分のためになるのは、「我執」が避けて通るような、歯ごたえのあるところなのです。

 私たちは、仏法に人生を問い、人生に自分流の答えを出そうとしますが、答えというのは、人生を終わらせるものです。「人生って、こんなものだ」というのは、不遜でしょう。そうではなくて、どこまでも私を問うてくる仏法に出遇うことが、聞法するということです。

 また、和田稠(わだ・しげし)先生は、こうおっしゃっています。「自分の思いを信頼するのではない。自分がどうあろうと、こうあろうと、どこまでもそれでよいかと問い続けてくる大きなはたらきを信頼する。それを南無阿弥陀仏と言います」と。

 「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏の問いかけです。蓮如上人が、ことのほか大切になさった『安心決定抄』という書物に、こういう言葉が書かれています。

 「『南無』というのは『帰命』という意味です。つまり、『南無・阿弥陀仏』というのは『もとの阿弥陀のいのちに帰れ』(もとの阿弥陀のいのち帰せよ)という意味です」と。お手元の資料には、その原文も載せてありますが、訳文の方を読んでみます。

 「何も知らないで生きているときのいのちも、阿弥陀仏のいのちなのだけれど、幼いときはともかく、ちょっと分別が付いてくると、こざかしくも、『自分のいのち』を生きているように思ってしまうのです。けれども、そういうときに、『もとの阿弥陀のいのちに帰せよ』(もとの阿弥陀のいのちに帰りなさい、南無阿弥陀仏)という仏様の教えに出遇って、『いのちの真実』を見る目が開かれると、『わがいのちすなはち無量寿なり』(自分のいのち、すなわち阿弥陀仏の限りないいのちなのだ)と頷かせてもらえますよ)」(『安心決定抄』)と。

 (資料掲載原文:「しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、『わがいのち』とおもいたらんおり、善知識『もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ』とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、『わがいのちすなわち無量寿なり』と信ずるなり」)

 幼い頃は、みんな「仏のいのち」のままに生きている「仏様」ですよ。赤ん坊を見ていたら、分かりますね。それが、だんだん自分中心の「分別知」がついてきて、「自分のいのち」と思うようになっていく。

 一休禅師に、こんな歌があります。「生まれ子が 次第次第に 知恵つきて 仏に遠く なるぞ悲しき」。物心がついてくるというのは、仏から離れていくことなのですよ。

 「自分のいのち」だと思っていると、おのずと「他の誰よりもわが身がかわいい」というこころが働いて、「損をしたくない、負けたくない、死にたくない」となります。ところが、そうそう思い通りにはなりませんから、苦しくて仕方がない。

 そんな私たちを哀れんで、「そうではないのだ、みんな阿弥陀仏の限りないいのちを生きているのだよ、もとの阿弥陀のいのちに帰りなさい」というのが、南無阿弥陀仏というお念仏の教えなのです。

 お念仏は、称えて聞くものです。耳に聞こえる「ナム・アミダブツ」は、「もとの阿弥陀のいのちに帰りなさい」という、仏様の呼びかけ。口に称える「ナム・アミダブツ」は、「はい、もとの阿弥陀のいのちに帰ります」という、私の応答です。

 ですがね、こんなふうに聞いて、何となく有り難い夢を見ていると、つまずきますよ。「もとの阿弥陀のいのちに帰せよ」というのは、「私たちが、本来のいのちの方向を向いていない」ということを言っているのですよ。

 私たちが、悩んだり苦しんだりしているとき、「それは我執だよ、それでいいのか」というのが、「もとの阿弥陀のいのちに帰せよ」なのですよ。いわば、「そっちの水は苦いぞ」と教えてくれているのです。それを、我執の耳は、「こっちの水が甘いぞ」と、都合良く聞いてしまうものですから、難儀です。

 今も昔も変わりませんね。蓮如上人の、こんな言葉が伝わっています。「極楽は楽しいところだと聞いて、そんなとこなら往生したいなどという人は、往生にも成仏にも縁がありません」(原文:極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願いのぞむ人は仏に成らず)(『蓮如上人御一代記聞書』)と。いかがですか、思い当たりませんか。

 「仏のいのち」に背を向けて、「自分が、自分が」という「我執」に悩み苦しんでいる。そんな私たちを哀れんで、「もとの阿弥陀のいのちに帰れ」と呼びかけているのが、南無阿弥陀仏というお念仏の教えなのです。

 お念仏は、称えて聞くものです。耳に聞こえる「ナム・アミダブツ」は、「それは我執だよ、それでいいのか」という、仏様の呼びかけ。口に称える「ナム・アミダブツ」は、「ああ、そうでした、お念仏を聞いて、我執に気付きました」という、私の応答です。

 ここに掛けておきましたが、真宗教団連合のカレンダーの先月のページにも、「生きとしいくる ものすべて このみひかりの うちにあり」(『正信偈』「一切群生蒙光照」の和訳)とあります。

 私たちはみんな、「阿弥陀仏の限りないひかり」のなかにいるのです。ですが、私たちの目には、「浄土のひかり」は見えません。私たちに見えるのは、「仏のひかり」に照らされて浮かび上がる「我執の影」だけです。

 「ナム・アミダブツ」(それは我執だよ、それでいいのか)と聞いて、「ナム・アミダブツ」(ああ、そうでした、お念仏を聞いて、我執に気付きました)と応える。私たちが、我執に気付けるようになるのは、この応答をによってだけなのです。

 「ただ念仏して」というのは、「ひたすら念仏して」ということではありません。そうではなくて、「ナムアミダブツ」という「念仏でしか」、この「阿弥陀仏のひかり」に目覚めることはできない、ということなのです。「念仏する」というのは、この目に見えない「ひかり」を聞くことなのですよ。

 私たちが頂いているのは、そういう「お念仏を称える教え」なのです。「浄土真宗の教えというのは、ひとことで言えば、どんな教えですか」と聞かれたら、「お念仏を称えなさいという教えです」と、お応えになってくださいね。それ以上説明する必要はありません。

 その「お念仏ひとつでいい」というのは、どういうことなのか。それを聞いていくのが聞法です。そこから先に関心のある方は、聞法してもらうしかありません。

 「お念仏の道は一筋の道」だと言いますけれど、とても、一筋縄ではいきません。はじめは誰でも、「聞いたら分かるだろう」と、聞き始めるのです。ですが、「どうも、聞いても聞いても、分かったような分からないような」、となってくる。

 そのうち、だんだん苦しくなってきて、「ああ、こんなに苦しいのなら、仏法なんか聞かなければよかった」というところで、あるとき、ズボッと抜けるのです。そういう人の話を聞けると、いいのですがね。

 さきほどの訓覇信雄先生は、よく、こんな話をなさったそうです。ご自身のお若いころのことです。伊勢のご自坊の、檀家さんのおじいさんが、青年時代の訓覇先生に、「若さん、他力の信心というのはな、にぎって、はなして、むこうから、ということやぞ」と。にぎって、はなしてと、身振りを交えて、教えてくれた。

 それが始めは何のことやら判らなかったが、仏法をわが身に即して学ぶにつれて、深く頷けてきた、ということです。

 こういう話を聞かせてくれる人は、少なくなりましたね。まあ、それはともかく、始めはみんな、握り込もうとするのです。「聞いたら分かる」というのも、そうです。

 「聞いたら分かる」というのは、人間の知恵で、仏の智慧を、握り込めるということです。ですが、もしそうなら、仏の智慧は、人間の知恵より小さいということになりませんかね。このちっぽけな自分の頭を、過大評価しているのですよ。そんな私たちが、聞法して「仏の智慧」を聞いても、小さく握り込んで「知識」にしてしまうだけです。

 私たちは、自分の経験や知識や実績といったものも、自分の力だ、自分の甲斐性だ、自分の手柄だと、何かにつけ握り込むのです。何でも自分中心なのです。そんな私たちですから、この「自分」が仏に近づいていくのが仏道だと思ってしまうのです。ですが、それは違うのです。

 「聴聞を続けてゆけば みほとけに 遇えると思う ことは妄念」。これは、藤原正遠先生の歌です。「自分」が悟るということはありません。悟るというのは、「自分、自分」といっている、その「自分」が無くなることなのです。

 そういう私たちも、いずれは、自分の力の限界に気付いてきて、「結局、他力なのだ、阿弥陀様におまかせなんだ」と、握っていたものを「はなす」のです。ですが、「にぎる」も「はなす」も、自分の力でしていることに、気がつかない。

 こんどは、「阿弥陀様におまかせした」ことに執着する。結局は、右手に握っていたものを、左手に持ちかえただけです。

 そうではないのですよ。「おまかせする」というのは、「仏様の願い」のままになるということです。「仏様の願い」は、私たちが、「ただ念仏すること」です。お念仏を称え、お念仏を聞く。そこに、おのずと「いのちの真実」への道が、向こうから開いてくるのです。

 これです。「生きとしいくる ものすべて このみひかりの うちにあり」です。私たちには、その「阿弥陀仏のひかり」は見えませんが、自分の我執の影、煩悩の影が見えることで、その「ひかり」に照らされていることを知るのですね。

 私たちは、我執の影、煩悩の影によって、「阿弥陀仏の、限りないひかりと、いのち」に包まれていることを知るのです。思えば、煩悩の影でしか、「ひかり」を知ることができない私たちには、煩悩が無くならないことが救いへの道なのです。煩悩熾盛のわれらこそ、阿弥陀仏のお正客だというのは、このことなのです。

 仏教詩人、 榎本栄一さんの詩に、こういうのがあります。「求道」という詩です。

    求道

     もてあます煩悩も
     照らされつつ
     逃げず 追わなければ
     わが影と気づき
     いつか求道の伴侶となり

                  (榎本栄一『光明土』)

 煩悩という自分の影に気づくとき、まさに「ひかり」に照らされているのですよ。何でも自分の思いどおりになっているあいだは、気づけませんね。

 こんな話を聞いたことがあります。聞法を熱心に続けてこられた方が、息子さんをガンで亡くされた。その方が、お葬式に来られたお手次のご院さんに、こんなことをおっしゃったそうです。

 「あかんものですなあ、いくら仏教のお話しを聞いていても、さっぱり身についていないことを思い知らされました。仏様にはお願い事をするものでないと常々聞いてきたのに、いざわが子が末期ガンだとわかると、とたんに『どうぞお助けください』って、毎日お願いしていました。……いくら聞いても、本当にはわかっていないんですよ。それを実感しました」と。

 それを聞かれたご院さんは、「とてもこころを打たれた」とおしゃっています。「あかんもんやなあ」と、自分の本当の姿が見えたのも、聞法してこられたからこそなのだ、と。

 さきほどの榎本栄一さんの詩に、「シャバの開眼(かいげん)」という詩があります。こういう詩です。

   シャバの開眼

     私を彼土(かのど)へはこぶ車は
     ここでゴトゴトゆれ
     迷妄ふかい私は
     このゴトゴトで眼をひらく

                 (榎本栄一『念仏のうた 常照我』)

 娑婆には、自分の思いどおりにならないことが、いろいろ起こってくる。自分が仏法を握っていたことに気づくのは、そんなときだ、という意味でしょう。

 何か意にそぐわぬことが起こっているとき、私たちは、問われているのですよ。「ナム・アミダブツ」(「それは我執だよ、それでいいのか」)と。

 さて、このあたりで、今日は、店じまいにいたします。

 「聞法してきたけれど、なかなか、お念仏は称えられません」という話を、よく聞きます。それはね、聞法した「仏の智慧」を、小さく握って「知識」にしているからですよ。

 「分かっている、知っている」というのが、知識です。その握りしめている手を開いてお念仏する。それが、「ただ念仏して」ということです。

 「子供は大人になるけれど、大人は何になるんですか」。そんな質問をした子供がいたそうです。何とお応えになりますか。これは仏様からの問いかけですよ。

 「自分が、自分が」と、握りしめて年を取ると、老人になるだけ。それでは哀しいでしょう。そうではなくて、「もとの阿弥陀のいのちに帰せよ」という、仏様の呼びかけに、「ナム・アミダブツ(南無阿弥陀仏)」と応えていくのが、お念仏の道、「いのちの故郷」へと帰って行く道なのです。

 団塊の世代の人たちも、これからは「余生」でなくて「与生」ですよ。「余ったいのち」ではなくて、「与えてもらったいのち」に目覚めるときです。どうぞ、ご一緒に、聞法とお念仏のなかに開いてくる「与生」を味わってまいりましょう。

 では、本日は、ここまでにさせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……



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